~チャンミン~
お兄さんについて知らないことばかりだ。
自ら教えてくれるのを待たずに、僕から尋ねてみればよいのかな。
この前、お店を訪れ『犬』を買った理由について教えてもらった。
苦しそうな表情で語るお兄さんは、罪の意識にサイナまれている。
それを和らげてあげるには、僕は何をすればいいのかだろうか。
お兄さんのことをもっと沢山、知ってあげることがそのひとつなのかなぁと、僕は考えたんだけど、間違っているのかな。
僕はお兄さんの「今」しか知らないし、これからもずっと「今」が続けばいいと願っている。
お兄さんの身体はすみずみまで知っている。
僕が知らないのは、お兄さんの「過去」だ。
お兄さんを苦しめているものは、「過去」なんだ。
過去のことは尋ねない...その訳は語りたがらない相手を想ってのことだったり、自分たちには「過去」など必要ないからだったり...。
でも僕は、そんな大人っぽい考え方は知ってはいるけれど、実行は出来ない。
教えてもらうには、僕の方からも教えてあげればいいんだ。
僕には過去なんてないようなものだったし、敢えてお兄さんに知らせる必要はないと思っていた。
知らせることでお兄さんにショックを与えてしまうのなら、知らせないでいたい。
でも、そういうわけにはいかなくなったんだ。
僕にとって都合の悪い情報であっても、お兄さんのことを知りたい。
だって、僕はお兄さんの恋人なんだから。
あの店で『犬』...僕を買った理由を教えてもらった時、僕は全然平気だった。
だからどんな内容でも、僕はヘイゼンとしていられると思う。
・
お兄さんに買ってもらったニットは肌触りが最高で、素肌に着てもチクチクしない。
暖炉を模した暖房器具の、揺らめく偽物の炎を飽きもせず眺めていた。
しばらくそうしていた後ハッとして、問題集に目を落とした。
近頃は計算問題に夢中になっていた。
お兄さんは何かを作っているようで、台所からスパイスの香りが漂ってくる。
ペンケースの隣にことりと、ガラス製のマグカップが置かれた。
深い赤色の液体が満たされ、何か実のようなものが浮いていた。
幸せだなぁ。
お兄さんの家に来てしばらくは、心地よい温かさで心を満たす感覚に慣れなかった。
その感覚とは幸福感で、僕みたいな人間が受け取る資格があるのかなと、戸惑う僕の表情に、お兄さんは「それでいいんだよ」と頷いてみせた。
今の僕はこの幸福感を、当たり前のように受け取り、味わっている。
いいのかなぁ、と不安になる。
お兄さんに買われたことで、無感動に生きる『犬』の人生は終わった。
イヤなことはずーっと続かないことを知った。
...ということは、その逆も有り得るんだ。
「熱いうちが美味しいよ」
お兄さんに促されて、カップに口をつけた。
「いい香りですね」
ホットワインが滑り落ちてすぐ、喉とお腹がかぁっと熱くなった。
「甘くて美味しいです、身体が温まります」
お兄さんはニコニコしながら、僕を見守ってくれる。
・
つい先ほどまで、僕は屋上庭園の草木が落とした落ち葉をかき集めていた。
風は冷たく乾燥していて、僕はマフラーを巻き直した。
肌で感じる季節感のうち、夏と秋は経験済で次は冬だ。
夏の暑さは新鮮だった。
冷暖房完備の環境で暮らしてきた僕は、全身を包み込む湿度高い空気、じっとしているだけで汗が吹き出し、眩しすぎて目を開けていられない空...庭園の植物たちは横へ上へと葉を伸ばしていて...夏とは生命の季節だと知った。
この頃からだったっけ。
チョーカーに汗じみを付けたくなくて、外す機会が多くなったのは。
この前お兄さんにそう指摘されて、僕は慌てて汚れた首を隠した。
「いや...隠さなくていいよ、そのままでいい」
お兄さんは僕の手を優しくほどいて、指と指とを絡め合わせた。
「しないで済む方が、俺は嬉しい」
「ホントですか?」
「ああ」
「嬉しい、です」
付けていない方が楽だって、僕も考えていたんだ。
~ユノ~
リサーチや雑務一般を依頼しているアシスタントの女性が我が家を訪れた。
彼女は俺の元所有者の時代から勤めているため、全てを知り尽くしており、信頼できる人物だ。
ただ、彼女の訪問日は、嫉妬心を一切隠さないチャンミンに、ヒヤヒヤすることになる。
今日は調査依頼していた件の結果報告の為の訪問だった。
彼女を伴ってリビングを通る際、チャンミンに声をかけたが、ゲーム中の彼はちらとも振り向かない。
今日は完全無視作戦か...。
俺は彼女に対して、信頼はしているがやましい感情は一切抱いていない。
そのことは口が酸っぱくなるほど言い聞かせたのに...仕方がない奴だ。
彼女に苦笑してみせると、彼女は「嫌われたままですね」と肩をすくめた。
・
一通りの報告を受けた頃、俺の感情は乱れていた。
胸がつまる、というか、いたたまれない、というか。
ポーカーフェイスを保っていられなくて動揺する俺を、彼女は見守っていた。
こんこん、とノックの音に、返事をする前にドアが開いた。
チャンミンだった。
トレーに乗せたカップと菓子を載せた皿がカチャカチャと、音をたててうるさかった。
リビングでじっと待っていられなくて、俺たちの偵察に来たのだろう。
カップを置く手が震えている。
コーヒーは薄過ぎるし、ソーサーになみなみとコーヒーがこぼれていた。
ミルクと砂糖は用意されていたが、スプーンがなかった。
皿に乗せられたドーナツは、先ほどチャンミンが食べていたものと同じだった。
「失礼しました」
チャンミンは会釈すると、ドアノブに手をかけるまで振り向いては、俺を上目遣いで睨んでいた。
「もうすぐ終わるよ」となだめたけれど、聞こえないフリをしてそのままドアを閉めてしまった。
子供っぽく正直で、賢くて優しいチャンミンが可愛くて仕方がない。
先ほど知った情報のこともあり、チャンミンなりに一生懸命な姿に胸をつかれた。
(つづく)
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