(50)あなたのものになりたい

 

 

~チャンミン~

 

今日やるべきことを全て済ませた僕は、例の場所に寄ってみることにした。

 

解体した店の敷地がどうなっているのか、目にしてみたくなったんだ。

 

後になって思うと、何かしらの危機を察していたのかもしれない。

 

一度お兄さんと訪れたあの店の場所は、よく覚えている。

 

大きな雨粒がぼたぼたと傘を打ち、取っ手にその振動が伝わってくる。

 

水が沁みて濡れた革靴の指先が、凍り付きそうだった。

 

繁華街は多くの店が営業時間外のため、人通りは少ない。

 

「...!?」

 

僕は立ち止まった。

 

それは怒鳴り声だった。

 

トラブルに巻き込まれたくない通行人は足早に、うつむき加減で声がする辺りを通り過ぎていた。

 

けれども僕は、無視するわけにはいけない。

 

ガシャンと物が倒れる音もした。

 

その音はラブホテルと居酒屋のあたりからで、そこは裏通りに繋がる細路地がある場所なのだ。

 

この細路地を通らないと、あの店があった裏路地へはたどり着けない。

 

少なくとも3人の声がするし、この近辺は治安がよいとは言えないから、喧嘩だろう。

 

困ったなぁ、と思った。

 

細路地を塞いでもらったら困るなぁと思いながら、彼らに気づかれないよう、そうっと覗いてみた。

 

 

「...!」

 

2人の男が、うずくまった男を蹴り飛ばしていた。

 

乱暴している者たちは意外にもチンピラ風ではなく、黒いコートを着たスーツ姿、もう片方は小洒落た恰好をした若い男だった。

 

「てめぇのせいなんだよ」

「ざけんな」

と怒鳴っている。

 

僕は迷った。

 

仲裁に入るか入らざるべきか。

 

ついに横たわってしまった男は頭を守り、蹴られるがままでいる。

 

どうしよう...僕は弱い。

 

でも、あんなに蹴られたら、あの人は死んでしまう!

 

「......!」

 

男の1人が、壁際に捨て置かれたサラダ油の一斗缶を掴んだ。

 

あれで殴ろうとしているんだ!

 

覗き見で済ませられなくなったその時。

 

心臓が握りつぶされたような...氷水に突き落とされたようなショックに襲われた。

 

 

「やめろー!」

 

 

2人は僕の叫び声にハッとし、一斗缶を振りかざした腕が一時停止した。

 

僕は突っ立った男を押しのけ突きとばし、お兄さんの元に駆け寄った。

 

お兄さんの顔は血で汚れていて、両目をきゅっと閉じていた。

 

僕は膝まずき、お兄さんの頭をかき抱いた。

 

「お兄さん、お兄さん?」

 

お兄さんの頭を支えた僕の手が、血で濡れた。

 

雨粒が血を洗い流し、お兄さんの真っ白な肌が現れ、額から流れ落ちる血ですぐに白い肌は赤く汚れた。

 

お兄さんの白くしなやかな手は力なく、汚い地面に落とされている。

 

どうしよう...。

 

突如乱入してきた僕に、男たちはあっけにとられていたが、すぐに我に返ったようだった。

 

「なんだ、てめぇ?」

「おらぁ?」

 

次のターゲットは僕に移った。

 

こぶしを振り上げ僕を威嚇する彼らを睨みつけた。

 

緊迫したこの時、僕は彼らを観察していた。

 

...なるほど、同類はすぐに分かる。

 

醜く顔を歪ませた彼らは痩せた体形で、整った顔立ちをしていた。

 

でも、どこか荒んだ雰囲気を漂わせていた。

 

刃物は持っていない。

 

お兄さんは彼らにやられっぱなしで、手をあげていなかった証拠に、彼らの顔は傷一つなかった。

 

彼らも人を殴ることに慣れていないようだ。

 

力仕事も日焼けも知らない白いこぶしは擦り剝け、血が滲んでいた。

 

彼らがお兄さんに怒りをぶつけたワケが分かった。

 

自由になったことを喜ばない『犬』たちがいるだろうと、かつてお兄さんは話していた。

 

「どけよ!」

 

僕は蹴られた。

 

脇腹に激痛が走り、歯を食いしばって耐えた。

 

「おらぁ?」

 

次は背中を蹴られた。

 

お兄さんをかき抱いた両腕に力をこめ、地面につき倒されないよう耐えた。

 

「離せよ。

俺らはこいつに用があるんだ」

 

「お兄さんに触るな!」

 

僕は叫んだ。

 

「なんだてめぇ。

こいつの仲間か?」

 

一斗缶を放り捨てた男が、僕とお兄さんを引き離そうとした。

 

「うるさい!

お兄さんに触るな!」

 

僕は喧嘩の仕方を知らない。

 

叫び、お兄さんの盾になることしかできない。

 

「あっち行け!

お兄さんに触るな!」

 

身体を丸め、三打目の蹴りを背中に受け止めながら、この危機をどう抜け出せるか頭を巡らせた。

 

繁華街の通りまでは何メートルもあり、通行人は見て見ぬふりをしている。

 

でも、一か八か...。

 

僕はお兄さんを地面に寝かせた。

 

バネのように立ち上がり、通りに向かって走り出し、男たちに突進し、突き飛ばした。

 

「助けて!

助けて!」

 

通りに飛び出した僕は叫んだ。

 

通行人たちは足を止めた。

 

「警察!

警察、警察!」

 

通行人たちは僕に注目し、そのうち何人かが駆け寄ってきた。

 

「助けて!」

 

あんなに大きな声で怒鳴ったのは生まれて初めてだったと思う。

 

カッコ悪い突破方法だったと思われるかもしれない。

 

お兄さんをボコボコにした仕返しに、彼らを殴るべきだった、と。

 

僕はそれができない。

 

喧嘩の経験がなく、弱すぎて、こぶしはかすりもせず空振りし、倍返しでボコボコにされてしまうだろう。

 

結局、喧嘩に慣れていない彼らはぶっ倒れた僕に怖気づいて、逃げだしてしまうだろう。

 

今回のことでよく分かったのは、僕とお兄さんはいかに平和な...暴力とは無縁の...世界に生きているか、ということだ。

 

これって、感謝すべきことだと思った。

 

 

ふり返ったら、細路地の男たちは消えていた。

 

僕はお兄さんの元に駆け戻った。

 

「お兄さん、お兄さん!」

 

頭を揺すったらいけないと思い、お兄さんの手を握ったり擦ったりした。

 

「お兄さん!」

 

「...っ」

 

お兄さんの目がうっすらと開いた。

 

「...チャンミン?」

 

屋外で、お兄さんの顔をこんなに間近で見下ろしたことはなかった。

 

雨降りだけど屋外は室内よりも明るい。

 

雨粒をはじくお兄さんのきめの細かい肌、漆黒の短いまつ毛、そして眼は潤んでいて光を宿していて...ああ、よかった、と安心して力が抜けた。

 

「お兄さん、大丈夫ですから。

全部、終わらせましたから」

 

「...チャンミン?」

 

よかった...お兄さんが無事で本当によかった。

 

「全部終わりましたよ」

 

「終わったって、どういうこと?

教えてくれる?」

 

お兄さんの声を聞いたら、身体の力が抜けた。

 

「お兄さ~ん...怖かった。

怖かったよ~」

 

「...そうだね。

俺も怖かった」

 

首筋に鼻をこすりつけた。

 

お兄さんの片手が持ち上がり、僕の後頭部を撫ぜた。

 

お兄さんから借りたコートもスーツもドロドロでびちょびちょで...お兄さんはもっと酷い有様...僕らはお互いの無事を確かめあった。

 

 

(つづく)

 

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