~くすぐったい~
「いらっしゃらなかったので...。
14時じゃありませんでしたか?」
壁の時計を見上げるユンに、チャンミンはムッとした表情になってしまうのを堪えた。
「いいえ。
メールで連絡した通り、15時でした」
チャンミンは失礼にならない程度に、きっぱりと言い切った。
「申し訳ない。
アシスタントが間違えて伝えたようですね」
事務所に通されたチャンミンは愛想笑いを浮かべ、いつもの打ち合わせテーブルについた。
(民ちゃんのせいにするなんて...。
本当に失念していたのか、わざとなのか...)
チャンミンの気持ちを読みとったのか、ユンはしれっと「私が勘違いしていたかもしれませんね」と言った。
ユンはテーブル隅に置かれた電話の受話器を取ると、「お客さんだ」とアシスタント(民ちゃん)に指示をする。
「民」の言葉ひとつで、ムカムカとしていたチャンミンの心は平和を取り戻すのだった。
「では、見せていただけますか?」
チャンミンはクリアファイルごとユンに渡す自分に、「大人げないな」と少しだけ反省する。
「説明文の表現もライターさんに修正してもらいました。
『インスピレーション』がありきたりだと仰るので、このように...」
身をのり出して、とんとんと修正箇所を指さした。
(ここまで感情的になるなんて、僕らしくない。
やっぱり、ユンに対して僕のパトライトが点滅している証拠だ)
ユンの後ろのパーテーション向こうに、意識が向いてしまいそうになるのを抑える。
「う~ん...イマイチですねぇ。
『突き動かされる直感を従って』なんて...ありきたりです」
ユンに校正用紙を押し返され、チャンミンの片眉がピクリ、と震えた。
と、パーテーションの曇りガラスをコツコツとノックする音が。
「...失礼します」
「あ...」とチャンミンは心の中で、驚きの声をあげる。
コーヒーを乗せたトレーを持って現れた女性...民の姿に、チャンミンの心がキュッとしなった。
なぜなら、よそ行きの顔をした民を目にするのは初めてだったから。
「あ...」と民も声をあげそうになるのを我慢した。
(チャチャチャンミンさん!?)
ぐんぐん頬が熱くなるのが分かる。
(どうして前もって教えてくれないんですか!)
どっきんどっきん鼓動が早くなり、手が震え、カップとソーサーがカタカタ音を立てた。
真っ赤に染まった民の両耳に、チャンミンは心の中でほほ笑んだ。
民への想いがだだ洩れの表情をユンに見せてたまるか、と警戒したからだ。
同様に、民も仕事中のチャンミンの姿を目にするのは初めて、「チャンミンさん...か、かっこいい...」と感動していた。
(おかしいな...。
スーツ姿のチャンミンさんなんて、一緒に暮らしていた時にいっぱい見ていたのに。
...私はチャンミンさんのことが好きなんだ。
ドキドキするー!
そっか...この前...この前、私たち!
きゃーーーー!)
ところがユンは、民を見上げるチャンミンの優しい眼差しを見逃さなかった。
手が震えるあまり、ソーサーからスプーンがすべり落ち、それはガラス製のテーブルにぶつかり派手な音を立てた。
「す、すみません!」
おろおろする民に、チャンミンは「僕はブラックだから構わないよ」と気遣った。
「いえ、そういうわけには...。
か、代わりのものを持ってきます」
「民くん」
ユンは振り向きざまに、きびすを返した民の手首をつかんだ。
「!!」
当然のことながら、チャンミンの表情は険しくなる。
民から手を離したユンが姿勢を戻す間際に、チャンミンは表情を戻した。
(民ちゃんに触るな)
「でも...」
民がユンにつかまれた手首をさすっていると、ユンは、
「民くんもここに座りなさい」と、椅子の一つの座面を叩いた。
「?」
「?」
ユンの発言に、チャンミンも民も同時にユンに注目した。
「お二人が揃ってちょうどよかった。
あなたたちに頼みたいことがありましてね」
頼み事の見当がつかず、民とチャンミンは顔を見合わせた。
「なんでしょう?」
「その前に見てもらいたいものがあります」
ユンはそう言って立ち上がると、その何かを取りに、パーテーションの向こうに消えた。
ユンのアトリエは広々としており、木製ブラインドから午後の陽光がふんだんに注ぎ込んでいた。
ボリュームを絞ったクラシック音楽がかけられている。
(悔しいけれど、ここがリラックスできる空間だと認めざるを得ない)
チャンミンは自身のマンションの部屋を思い浮かべ、がっかりしてしまうのだった。
(つづく)
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