~キスの意味~
「笑わないでくださいね」
もじもじする民のお願いが何なのか、チャンミンにはさっぱり分からない。
「チャンミンさんにしかお願いできないんです」
「遠慮なく言いなよ」
「トイレに...ついてきてください」
「へ?」
「いつも困ってるんです。
昼間だし、人もいっぱいいるし...。
ほら、私はこんな見た目ですから」
そこまで聞くと、チャンミンは民の言いたいことが理解できた。
「いいよ。
僕が見張っててあげるから」
「ありがとうございます」
チャンミンはずんずんと大股で先を歩く民の背中を追う。
(我慢してたんだ)
「身障者のところは故障中だったんです。
お兄ちゃんは戻ってこないし、違う階まで走ればいいんですけどね」
「中に誰もいないか、見てくるから」
「漏れそうですから、急いでください」
チャンミンは男子トイレを覗くと、廊下で待たせていた民に頷いてみせる。
「OK」
民は小走りで個室に駆け込み、鍵を下ろす。
チャンミンもついでだからと、用を足すことにした。
「チャンミンさん...」
「ん?」
「耳をすましたら駄目ですよ?」
「しないって」
「おっきい方じゃないですからね!
勘違いしないでくださいね!」
「しないって」
「おならが出ちゃったら聞いてないふりしてくださいよ」
「OK」
「チャンミンさん」
「ん?」
「これって痴漢行為ですよね。
女の私が男子トイレを使うことって。
でも、仕方がないんです。
女子トイレに入れないんです。
通報されちゃいます」
「仕方がないさ」
「ですよね」
「!!!」
他の利用者が入室してきたため、チャンミンは民のいる個室のドアを鋭くノックした。
「......」
「......」
「民ちゃん、大丈夫、出ておいで」
民は眉を下げ、ほとほと困ったといった表情でチャンミンを見た。
「自分が嫌になっちゃいます...」
「民ちゃん...」
「髪を伸ばせばいいんでしょうかねぇ」
民の視線が自分の後ろに注がれているのに気づいて、チャンミンは振り返った。
洗面台の上に取り付けられた鏡に2人が映っていた。
短い黒髪のスーツ姿と、脱色した髪のTシャツ姿の2人の青年が。
2人は同じ顔をして、互いの目と目が合っていた。
「......」
鏡の中の民の顔がゆがんできたのを見るや否や、チャンミンは思わず民の肩を抱きよせた。
その理由は、民を哀れに思ったからじゃない。
公衆の場で目にする民が綺麗で可愛らしいと、チャンミンはあらためて実感したからだった。
「チャンミン...さん?」
チャンミンの行動に驚いて、民はしばらく身じろぎもせずにいたのち、チャンミンの肩にあごを乗せた。
どぎまぎしていた民は、チャンミンの首筋に貼られた絆創膏に気付かない。
チャンミンの片手が民のウエストに回ったその時、
「おっ!」
「!!」
用を足しに来た中年男性の声に、2人は弾かれるように身体を離した。
その男性は踵を返して行ってしまう。
「......」
(男子トイレで、男同士が抱き合っていたら驚くよな、そりゃ。
民ちゃんは男じゃないけどさ)
「はあ...」
チャンミンはシンクの縁に両手を突くと項垂れて、ため息をついた。
「あああーーー!!!」
「!!!!」
(ミミミミミミミンちゃん!!
いきなりの大声、驚くから!)
「チャンミンさん!!!」
民はチャンミンの両肩をがしっとつかむと、前後に振った。
「何!?
どうした、民ちゃん!?」
「忘れてました!
うっかり八兵衛です!」
「うっかり八兵衛って...何?
知らないよ、なんとか八兵衛なんて...」
「チャンミンさんにお願いがあります!」
「今度は何?」
「チャンミンさんだからこそ、できるお願いです!」
「僕?」
「そうです!
チャンミンさん『しか』できません!」
「よく分かんないけど...。
どうすればいいの?」
(渋々っぽく言ってるけど、そうじゃないんだ。
僕は君のお願いなら何でもきくよ。
だって、僕は君に夢中なんだから)
最後のお客を見送った後、他スタッフと共にAは店内の清掃にとりかかった。
Aはこのサロンにアシスタントとして勤めだして2年目。
目標はもちろん、少しでも早くスタイリストになること。
当サロンで1,2を争う人気スタイリストであるKは憧れの存在だった。
そんなKとコンビを組んでカットコンテストに挑戦するのは、今回で3度目だ。
イメージそのまま表現するために、カラーリング、スタイリング、衣裳をどうすればいいのか?を目を輝かせて語るKと共に、「作品」として作り上げていくのは心躍る。
コンテスト出場を嫌うスタッフも多い中、Kは積極的に挑戦していた。
サロンワークでは実現できないカットやカラーを思いのままに発揮できるコンテストの魅力にKはとりつかれていた。
コンテストが近づき、衣裳作りとウィッグを使ったカラーリングテスト、自分の顔を使ってのメイクの研究にと、Kと共に自宅に帰れない日が続いていた。
大手コスメブランドが主催の今回の大会は、優勝すれば世界大会への出場権を得られる。
出場条件が「スタイリスト5年目まで」の若いスタイリストを対象としているため、Kにとって今回の出場がラストチャンスだった。
衣装作りも佳境を迎えていて、モデルの民に当初着せる予定だったスカートを、ショートパンツに変更することになった。
身体のラインがでる スポーツレギンスを足の付け根ギリギリまでカットし、シルバー色のスプレーで色付けした。
今夜はモデルの民に試着してもらい、3日後の大会までに微調整を行わなければならない。
スケジュール的にギリギリだった。
2日帰宅していなかったKは、シャワーを浴びに近所の自宅まで帰宅している。
照明が落とされた店内では、もう1組の出場チームがモデルの髪のブリーチの真っ最中だ。
民を初めて見て、Aは感動した。
こんなに綺麗な人がいるなんて、と。
コンテストに男性モデルを使うのは珍しかったため、民と顔合わせの時、思わずKに問うような表情を向けた。
男性だと思い込んでいたから、Kに女性だと教えられて2度驚いた。
(来た!)
エントランスのドアから、背が高い民が会釈をしながら現れた。
「民さーん、お待ちしていました!」
キャップを後ろ前にかぶった小さな顔や、彫刻のように整った造作、長い手足が、素晴らしい作品に仕上がる予感がAの心は満ちる。
(本人は自分がどれだけキレイなのか、全然気付いていないんだもの...)
今夜の民は、Tシャツにダークグレーのハーフパンツ姿といったラフ過ぎる恰好だった。
「ほぼ完成したので、試着してください!」
Aは民の手をひいて、奥のカーテンに仕切られたVIPルームへ案内する。
「そこにおいてある銀色のがそうです。
改造するのに苦労しました。
ストレッチがきいてるから、ミシンかけが難しかったです。
着替え終わったら、出てきてくださいね」
そう言ってAはカーテンを閉めた。
(つづく)
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