【56】NO?-君とキスしたい-

 

~民~

 

チャンミンさんは、リアさんの「本当のこと」を知らない様子だった。

 

リアさんに部屋まで来るように誘われて、そこで聞いた「本当のこと」。

 

身体のラインが丸分かりの、スリムなワンピースを着ていたリアさん。

 

真っ先に、お腹に視線を向けた私に気付いて、リアさんは自嘲気味に言った。

 

「妊娠なんてしていないわよ」って。

 

あの夜、聞いてしまったチャンミンさんとリアさんとの会話は、とても深刻そうだったから、

「赤ちゃん、残念でしたね」としか言えなくて。

 

そうしたら、

「そもそも妊娠なんてしていないの」って言い出すんだから。

 

ぽかんと口を開けた私。

 

「驚く顔もチャンミンにそっくりね。

ところで、チャンミンは元気そう?」

 

尋ねられて、「元気そうです」と答えた。

 

「あの...。

よく分からないのですが、『妊娠していない』って、どういうことですか?」

 

リアさんが手にしていたグラスの中身は、ジュースじゃなくてお酒で、「あなたも飲む?」と勧められたけど、断った。

 

「もう知ってると思うけど、浮気してたのよ、私」

 

「ええええーーー!!!」

 

「チャンミンから聞いていないの?」

 

大きく頷く私に、リアさんは「チャンミンらしいわね」と苦笑した。

 

「妊娠を疑っていたのは本当。

検査薬の箱を、たまたまチャンミンが見つけて。

その結果が、あの騒動よ。

最初は、自分が父親だと思い込んだみたい。

すぐに気付いたみたいだけどね。

だって、アレをしていないのに、出来るわけないじゃないの、ね?」

 

リアさんは可笑しそうにクスクス笑った。

 

慌てふためくチャンミンさんの姿が思い浮かんだけど、そんなチャンミンさんを笑って欲しくなかった。

 

「チャンミンの反応を見てみたかったのよねぇ...。

どれだけ慌てるか。

騎士道精神を発揮して、『僕が責任をとる』とか言い出しそうだし。

浮気相手の子を妊娠してると思い込んだまま、チャンミンは出て行ったわ。

私にべた惚れだったチャンミンが、まさか本当に出て行くとは思わなかった」

 

ムッとした顔の私に気付いて、「怒らないで」と言ったリアさんの美しい顔。

 

胸も大きくて、女の人そのもののカーブを描いた、華奢な身体。

 

華やかで、赤い口紅が似合って、長い髪の毛、高い声。

 

リアさんは私にはないものを全部持っている。

 

この綺麗な女の人を、かつてのチャンミンさんは抱きしめたり、キスをしたり、「好きだよ」って言ったり...してたんだ。

 

よじれるくらいに胸が痛くて、苦しくなった。

 

これは嫉妬だ。

 

涙がこみあげてきたのを、ぐっと堪えた。

 

「チャンミンは、『例の彼女』とうまくいってるの?」

 

「例の彼女?」

 

全くの初耳ネタで、きょとんとしてしまった。

 

「チャンミンが私と別れた理由。

あなたは聞いていないの?」

 

私が知っている範囲では、すれ違い生活に耐えられなかった云々、だったから。

 

「チャンミンったら、好きな子ができたんだって。

だから、私をフッたの。

どんな子かしら。

どうせ、大人しくてか弱い、守ってやりたくなるような子なんでしょうね」

 

チャンミンさんの好きな人。

 

 

それは、私のことだ。

 

すぐに分かった。

 

「己惚れるのも甚だしい、自分の成りを見てみろ」と、以前の自分だったらそう思った。

 

チャンミンさんの好きな人は、私だ。

 

ふらふらとマンションを出た。

 

鼓動が早く、幸せと苦しさが混じったみたいな、変な気分だった。

 

駅まで着いたとき、チャンミンさんに電話をかけなくっちゃと思い至った。

 

新しい住所を教えてくれなかったチャンミンさんを、叱りつけないと(メッセージを無視し続けていた私が、言える立場じゃないんだけどね。)。

 

と、バッグの中で携帯電話が発信音を鳴らしだした。

 

空のタッパーが邪魔をして、電話に出るまでに時間がかかってしまった。

 

ディスプレイに表示された名前に、「さすが私たち。以心伝心」と得意な気持ちになった。

 

その後はもう...呑気そうなチャンミンさんに、腹がたってきて「馬鹿!」って怒鳴ってしまった。

 

 

 

チャンミンさんには、言えない。

 

チャンミンさんの慌てる姿を見たくて、お芝居をしたリアさんの話は言えない。

 

リアさんのことで身動きがとれずにいたチャンミンさんを、私は責めた。

 

チャンミンさんを振り切るようにあの部屋を出て、届くメールを無視し続けた。

 

いっこうに会いにこないチャンミンさんを、責めていた。

 

チャンミンさん、ありがとう。

 

美味しいご飯で釣るなんて、私のことをよく分かってますね。

 

チャンミンさんらしいです。

 

チャンミンさんの馬鹿。

 

私も馬鹿。

 

何やってんだろ、私たち。

 

照れ屋過ぎますよ、私たち。

 

 

私たちは、身体のサイズがほぼ同じ。

 

私の背に回されたチャンミンさんの腕が力強くて、「そっか、男の人だったんだ」と妙に感動してしまった。

 

私のおでこがチャンミンさんの胸のあたりにきたら、理想的なんだけどなぁ。

 

私を抱きしめる理由は、ちゃんと分かってる?

 

分かってる。

 

抱きしめられて震えるくらいに嬉しい理由は、ちゃんと分かってる?

 

分かってる。

 

私のほっぺにチャンミンさんのほっぺがくっついている。

 

チャンミンさん...苦しいです。

 

力いっぱい抱きしめ過ぎです。

 

思わず喘いでしまったら、チャンミンさんの腕がびくっと震えた。

 

 


 

 

~チャンミン~

 

 

「チャンミンさん...苦しいです」

 

そう言った民ちゃんの、吐息混じりの喘ぎが僕の耳にかかる。

 

鳥肌が背中まで走った。

 

民ちゃん...声が色っぽいよ。

 

民ちゃんを深く抱き直した僕は、甘い香りを胸いっぱいに吸い込んだ。

 

苦しがっても、今夜の僕は民ちゃんを離す気持ちはないんだ。

 

ずっと、こうしたかった。

 

女の人を抱きしめる経験なんて初めてじゃないくせに、じわじわと幸福感が沁みてくるこの感じは...生まれて初めてだ。

 

僕が女の人を抱きしめる時、頭の中でエロいことが70%は占めている。

 

民ちゃんを愛おしむ気持ちでいっぱいだったから、今のハグに不純なものは何も混じっていない。

 

「...チャンミンさん...人が来ます...」

 

背後から咳払いがした。

 

「あ...」

 

慌てて振り向いたらアパートの住民らしい男性が、塀すれすれに僕らを避けて通り過ぎ、何度か振り向きながら階段を上がっていった。

 

公衆の場で抱き合う僕らは非常識極まりないけど、常識的な僕なのに、抱く腕は緩めない。

 

「...チャンミン、さん?」

 

無言でいる僕に不安を感じた民ちゃんが、身をよじって僕を覗き込んでいた。

 

「どうしましたか?

顔が...怖いですよ」

 

民ちゃんとハグが出来たことの感動を噛みしめていて、大事なことを忘れていた。

 

「え...っと」

 

「ここじゃ寒いですし、外ですし。

部屋に上がりますか?」

 

「え?」

 

僕の腕の中からするりと抜け出た民ちゃんは、僕の手を握った。

 

「手が冷たいです。

ストーブで温まりましょうよ」

 

「待って、民ちゃん!」

 

「待つ、って何をですか?」

 

じとっと睨む民ちゃんの三白眼、暗がりの中でも白目が際立っている。

 

「待ちくたびれました。

私はもう、待ちたくありません。

ほら!

チャンミンさん、行きますよ」

 

力いっぱい引きずられる。

 

こんなシーン、前にもあった。

 

ラブホテルに引きずり連れられた日があったな、そういえば。

 

「懐かしいな」と緩めた口元を、目ざとい民ちゃんに目撃されてしまい、

 

「チャンミンさん...顔がエロいですよ。

今すぐエッチをしよう、って言ってるんじゃないんですからね。

勘違いしないで下さいね」

 

「民ちゃん!」

 

慌てる僕に民ちゃんは、「あははは」と大きな口を開けて笑った。

 

僕に先立ち階段を上る民ちゃんを追いかける。

 

「!!」

 

突然立ち止まった民ちゃんの背中に、鼻をぶつけてしまった。

 

「どうした?」

 

くるりと振り返った民ちゃんが、ニヤニヤ笑っていた。

 

どうせ『エッチなことで頭がいっぱいなんでしょう?』とかなんとか、言うのかなと思った。

 

「チャンミンさんは、動かないで下さいね」

 

「?」

 

民ちゃんは僕を通り過ぎると、僕の立つ2段下で立ち止まった。

 

「民ちゃん?」

 

「チャンミンさん、ハグしてください」

 

「いいよ」と返事をする前に、僕の胸に民ちゃんの頭がとんと押しつけられた。

 

 

そっか、そういうことか...。

 

「...憧れだったんです」

 

「うん」

 

「もうちょっと、こうさせてください」

 

「いくらでも、どうぞ」

 

民ちゃんの柔らかい髪をすく。

 

怪我をした箇所も、言われなければ分からない。

 

よかった。

 

「へへへ。

何だか...照れますね」

 

「うん」

 

民ちゃんの頭が、僕より低い位置にあって新鮮だったけど、なんだか慣れない。

 

「胸がドキドキしてますよ。

興奮してますね」

 

「き、緊張だよっ...」

 

「......」

 

「民ちゃん?」

 

「...私」

 

民ちゃんは階段を1段上がり、彼女の顔が1段近くなった。

 

濃い影で民ちゃんの表情は細かいところまで確認できない。

 

見えなくたって、大丈夫。

 

僕とおんなじ顔をしてるんだから。

 

民ちゃんは僕の肩に顔を埋めている。

 

「こんなところで話すことじゃないって、分かってます。

...でも、今言います!

私...」

 

「民ちゃん...待った!」

 

民ちゃんの口を覆った手の平に、彼女の温かく湿った息と柔らかな唇を感じる。

 

そのまま僕の額と民ちゃんの額をくっ付けた。

 

僕の周囲から一切の音が消えてしまう。

 

全神経を集中させるあまり、民ちゃんの羽のようなまつ毛がパサパサとまばたく音まで聴こえてきそうだった。

 

ふぅっと呼吸を整える。

 

覆っていた手を離す。

 

民ちゃんの瞳に外灯のオレンジ色の光が映り込んで、つやつやと光っている。

 

傾けた頬をそうっと寄せる。

 

一瞬だけ目を合わす。

 

触れた瞬間、民ちゃんの頬がぴくりと震え、僕は彼女のあごに指を添えた。

 

ずくんと腰の奥が痺れた。

 

僕は今、民ちゃんとキスをしている。

 

ふかふかに柔らかい、マシュマロよりもっと柔らかい、民ちゃんの唇に集中する。

 

触れていただけの唇をほんの数ミリ離して、今度は押しあてるものに。

 

次は、食むようにして柔らかさを味わった。

 

痛いくらいに心臓は早く打っている。

 

民ちゃんは息を止めているようだ。

 

直立不動、カチカチに硬直している姿が、可愛らしくてたまらない。

 

僕は唇を離して、民ちゃんの頬を両手で包んだ。

 

宝物を扱うように、そっと優しく。

 

ふぅっと民ちゃんは息を吐く。

 

民ちゃんが息を吸うのを確かめて、僕はもう一度唇を塞いだ。

 

身体が沸騰しそうに熱かった。

 

舌を入れるのは未だ早いよな...でも、やっぱり入れたいよな、とかなんとか。

 

頬を包む手の薬指が、民ちゃんの耳の下の早い脈拍を感じとっている。

 

ねえ、民ちゃん。

 

ずっとキスしたかった。

 

夢みたいだ。

 

「んっ...」

 

僕の胸の上で、民ちゃんの指がもぞもぞと動いている。

 

「チャ...ン...ミンさん」

 

塞がれた下で、民ちゃんが喘ぐ。

 

「嫌?」

 

唇を重ねたまま問う。

 

民ちゃんはふるふると首を横に振った。

 

「くる...苦しいです」

 

「深呼吸しよっか?」

 

民ちゃんの背を撫ぜてやる。

 

「ごめんなさい...」

 

ヤバい。

 

民ちゃんが可愛い。

 

キスに慣れていない民ちゃんが、可愛らしくてたまらない。

 

「私...あの...!」

 

「しーっ。

民ちゃん、よく聞いて」

 

民ちゃんの顔を覗き込んだ。

 

 

 

「好きだ」

 

「!」

 

「民ちゃんのことが、好きだよ」

 

「!」

 

「大好きだ」

 

民ちゃんは僕の胸に顔を埋めてしまった。

 

民ちゃんは照れている。

 

真っ赤な顔をして、ぴんと立った両耳も火照っているはずだ。

 

「好き」の一言だけじゃ、言い表せないくらい好きなんだけどね。

 

全部ぶちまけたらきっと、民ちゃんを驚かせてしまうだろうな。

 

「...チャンミンさん...」

 

「ん?」

 

「私...」

 

顔を押しつけたままもごもご言うから、くぐもった声が聞きとりにくい。

 

 

「...好き...です」

 

背筋に電流が流れたかのようだった。

 

 

「チャンミンさん...好き...です」

 

 

ぶわっと涙が膨らんだ。

 

(つづく)

 

 

僕の名前で君を呼ぶ

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