【68】

 

 

~民~

 

ユンさんは小部屋に姿を消すと、私のタンクトップを持って戻って来た。

 

「骨格をデッサンしたいんだ。

それを羽織っていたら見えないだろう?

これを着なさい」

 

「はい...」

 

私はユンさんに背を向けて、受け取ったタンクトップに素早く腕を通す。

 

ユンさんも真向いのスツールに腰掛けて、膝に置いたスケッチブックを広げた。

 

「姿勢を正してまっすぐこっちを向いて」

 

ユンさん視線は、私の頭のてっぺんから肩、腕、腰に視点を置くように何度も往復して、鉛筆を持った右手が迷いなく動いている。

 

ユンさんがスケッチブックに視線を落としているわずかな時間に、彼の濃い眉毛や伏せたまつ毛、通った鼻筋に見惚れたりして。

 

ユンさんが顔をあげたら、ついと目を反らす。

 

そんな私の様子は、とっくの前にユンさんにはお見通しだったみたいで、まれに視線がぶつかると、彼の口の両端がくいっと持ち上がった。

 

恥ずかしくてたまらない私は、寒いくらい涼しいアトリエにいるのに、顔も首も熱くて、多分脇の下は汗びっしょりだ。

 

さらさらと鉛筆が紙を滑る音。

 

スケッチブックと私の間を、ユンさんの情熱的な眼が行ったり来たりする。

 

私は息をするのも忘れて、ユンさんと視線がぶつからないよう意識して、螺旋階段の手すりを見ていた。

 

「次は斜めを向いて...」

 

「はい」

 

「腰は真っ直ぐのまま、身体だけひねるんだ」

 

緊張のあまりコチコチになった私は、ぎくしゃくとロボットのような動きになってしまう。

 

ふっと口元を緩めてほほ笑んだユンさんは席を立って、私の両肩に手を添える。

 

「こう。

そのまま、じっとしていて」

 

顔の距離が近くなって、ユンさんのいい香りがふわっと漂ってきて、私の緊張度が高まった。

 

「うん、いいね」

 

大股で自分のスツールに戻ったユンさんの背中で、一つに結わえた長い黒髪が揺れていた。

 

つかれたように鉛筆を動かすユンさんの姿に、「手の届かない人」だとあらためて思った。

 

これまで、ユンさんから駄々洩れの余裕ある大人の空気にあてられ、成功した経営者という立場にあるユンさんを、見上げるように見ていた。

 

それに加えて今日、次元の違う世界を見ているに違いない鋭い眼を持つ人だから、私みたいな凡人が相手にできる人じゃない、って。

 

いいのかな。

 

ユンさんみたいな凄い人に描いてもらったりなんかして。

 

私はあのスケッチブックのページに写し取られているんだ。

 

再び鉛筆を動かし始めたユンさんの、表情を引き締めた真剣な顔。

 

私は単純だからこんな姿を見せられたら、いい香りを嗅がされたりしたら、ドキドキしてしまう。

 

でも、なぜだろう。

 

ちくりと胸が痛んだ。

 

ユンさんの元で働くことに露骨に嫌な顔をしたチャンミンさんが浮かんだ。

 

「チャンミンさん、ごめんなさい」と心の中でつぶやくだなんて、タンクトップ姿をユンさんに見せてる私は、チャンミンさんに対して悪いことをしているみたいな気がしたのだ。

 

 


 

 

~チャンミン~

 

「飲みに行きましょうよ」と誘う後輩Sの誘いを断って、僕は家に直行する。

 

賃貸情報サイトを見ていた僕の手元を、後輩Sに覗き込まれてしまった。

 

彼からの呼びかけに気付かなかったらしい。

 

「引っ越しするんすか?

あれ?先輩って彼女と住んでるんでしたよね。

...ってことは、別れるんすか?」

 

「えっ...あー...いろいろあって...」

 

あからさまに慌てる僕に、彼は「そうっすか...大変っすね」と労わるように言った。

 

帰宅途中、スーパーに寄って大量の食材を買い込んだ。

 

平日の夜だから手の込んだものは無理だけど、栄養たっぷりな美味しいものを作ろうと思ったのだ。

 

リアとしたかった「生活」の相手を、リアの代わりとして民ちゃんにさせようっていうつもりじゃない。

 

もうすぐ僕と民ちゃんは別々になってしまうから、残り少ない時間を惜しんでいた。

 

帰宅した僕は、キッチンカウンターに袋を置き、さて着がえようかとネクタイを緩めた時、

 

「私はいらない」

 

突然の声に驚いて振り向くと、ソファに横になっていたリアの存在に気付いた。

 

いつもなら、この時間はリアは出勤後で留守のはずだった。

 

「あ、ああ」

 

今夜はカレーにする予定で、脂っこいものは口にしないリアのことなんか念頭になかった。

 

肉も野菜も大食いの民ちゃんのために、普段の2倍の量を用意していた。

 

美味しいものを民ちゃんに食べさせてやりたかったんだ。

 

餌付け?

 

食べ物で釣る?

 

まさか。

 

「美味しいですー。お代わりしていいですか?」の民ちゃんの笑顔が見たいだけ(我ながら、僕は末期症状だ)

 

キッチンカウンターに置かれた包丁ホルダーを目にするたび、胸がズキリとする。

 

僕と別れまいとしたリアは、包丁を自身の喉元につきつけたんだ。

 

「わかってるよ」

 

リアから目を反らした僕は、洗面所へ向かおうと背中をむけた。

 

「気分が悪いの...」

 

リアのつぶやきに僕は、再び振り向いた。

 

「大丈夫なのか?」

 

「...分からない...最近、調子が悪くって...」

 

「風邪か何かか?」

 

「どうだろ...」

 

寝そべるリアの側に近づいて、その額に手を当てようとしかけて寸前で思いとどまる。

 

優しげな行動は、僕らの別れに納得したのかどうか未だ曖昧な状況では、避けるべきだ。

 

リアが困らないよう、翌月分の家賃を振り込んだり、僕の優しさには一貫性がない。

 

「風邪薬ならストックがあったはず。

持ってくるよ」

 

収納棚の観音扉を開けて、ビタミン剤や常備剤を並べた棚の辺りを探る。

 

そういえば、民ちゃんにこっぱずかしいものを発見されてしまったんだった。

 

「おかしいなぁ...ない」

 

思い切りのよい民ちゃんが全部捨ててしまったのかな...まさか、民ちゃんはそんなことしない子だし。

 

と考えながら扉を閉め、洗面台下の引き出しに手をかけた時、

 

「ん?」

 

洗面ボウルの脇に薬箱のような紙箱に気付く。

 

薬の箱にしては細長いな、と持ち上げたそれの印刷された文字を見て...。

 

「!!!!!」

 

妊娠...検査薬!?

 

言葉なく、手にした箱に書かれた説明文を一文字一文字、何度も読み返して、状況を把握しようとする。

 

妊娠...!?

 

民ちゃん!!

 

民ちゃん...いつの間に...!!

 

 

(つづく)

 

彼女とのHeaven's Day