~民~
チャンミンさんは、リアさんの「本当のこと」を知らない様子だった。
リアさんに部屋まで来るように誘われて、そこで聞いた「本当のこと」
身体のラインが丸分かりの、スリムなワンピースを着ていたリアさん。
真っ先にお腹に視線を向けた私に気付いて、リアさんは自嘲気味に言った。
「赤ちゃんはいないわ」って。
あの夜、聞いてしまったチャンミンさんとリアさんとの会話は、とても深刻そうだったから、
「赤ちゃん、残念でしたね」としか言えなくて。
そうしたら、
「そもそも妊娠なんてしていないの」って言い出すんだから。
ぽかんと口を開けた私。
「驚く顔もチャンミンにそっくりね。
ところで、チャンミンは元気そう?」
尋ねられて、「元気そうです」と答えた。
「あの...。
よく分からないのですが、『妊娠していない』って、どういうことですか?」
リアさんが手にしていたグラスの中身は、ジュースじゃなくてお酒で、「あなたも飲む?」と勧められたけど、断った。
「もう知ってると思うけど...。
浮気してたのよ、私」
「ええええーーー!!!」
「チャンミンから聞いていないの?」
大きく頷く私に、リアさんは「チャンミンらしいわね」と苦笑した。
「妊娠を疑っていたのは本当。
検査薬の箱を、たまたまチャンミンが見つけて。
その結果が、あの騒動よ。
最初は、自分が父親だと思い込んだみたい。
すぐに気付いたみたいだけどね。
だって、アレをしていないのに、出来るわけないじゃないの、ね?」
リアさんは可笑しそうにクスクス笑った。
慌てふためくチャンミンさんの姿が思い浮かんだけど、そんなチャンミンさんを笑って欲しくなかった。
「チャンミンの反応を見てみたかったのよねぇ...。
どれだけ慌てるか。
騎士道精神を発揮して、『僕が責任をとる』とか言い出しそうだし。
浮気相手の子を妊娠してると思い込んだまま、チャンミンは出て行ったわ。
私にべた惚れだったチャンミンが、まさか本当に出て行くとは思わなかった」
ムッとした顔の私に気付いて、「怒らないで」と言ったリアさんの美しい顔。
胸も大きくて、女の人そのもののカーブを描いた、華奢な身体。
華やかで、赤い口紅が似合って、長い髪の毛、高い声。
リアさんは私にはないものを全部持っている。
この綺麗な女の人を、かつてのチャンミンさんは抱きしめたり、キスをしたり、「好きだよ」って言ったり...してたんだ。
よじれるくらいに胸が痛くて、苦しくなった。
これは嫉妬だ。
涙がこみあげてきたのを、ぐっと堪えた。
「チャンミンは、『例の彼女』とうまくいってるの?」
「例の彼女?」
全くの初耳ネタで、きょとんとしてしまった。
「チャンミンが私と別れた理由。
あなたは聞いていないの?」
私が知っている範囲では、すれ違い生活に耐えられなかった云々、だったから。
「チャンミンったら、好きな子ができたんだって。
だから、私をフッたの。
どんな子かしら。
どうせ、大人しくてか弱い、守ってやりたくなるような子なんでしょうね」
チャンミンさんの好きな人。
それは、私のことだ。
すぐに分かった。
「己惚れるのも甚だしい、自分の成りを見てみろ」と、以前の自分だったらそう思った。
チャンミンさんの好きな人は、私だ。
ふらふらとマンションを出た。
鼓動が早く、幸せと苦しさが混じったみたいな、変な気分だった。
駅まで着いたとき、チャンミンさんに電話をかけなくっちゃと思い至った。
新しい住所を教えてくれなかったチャンミンさんを、叱りつけないと!
メッセージを無視し続けていた私が、言える立場じゃないんだけどね。
と、バッグの中で携帯電話が発信音を鳴らしだした。
空のタッパーが邪魔をして、電話に出るまでに時間がかかってしまった。
ディスプレイに表示された名前に、「さすが私たち。以心伝心」と得意な気持ちになった。
ところが...呑気そうなチャンミンさんに、腹がたってきて「馬鹿!」って怒鳴ってしまった。
・
チャンミンさんには、言えない。
チャンミンさんの慌てる姿を見たくて、お芝居をしたリアさんの話は言えない。
リアさんのことで身動きがとれずにいたチャンミンさんを、私は責めた。
チャンミンさんを振り切るようにあの部屋を出て、届くメールを無視し続けた。
いっこうに会いにこないチャンミンさんを、責めていた。
チャンミンさん、ありがとう。
美味しいご飯で釣るなんて、私のことをよく分かってますね。
チャンミンさんらしいです。
チャンミンさんの馬鹿。
私も馬鹿。
何やってんだろ、私たち。
照れ屋過ぎますよ、私たち。
・
私たちは、身体のサイズがほぼ同じ。
私の背に回されたチャンミンさんの腕が力強くて、「そっか、男の人だったんだ」と妙に感動してしまった。
私のおでこがチャンミンさんの胸のあたりにきたら、理想的なんだけどなぁ。
私を抱きしめる理由は、ちゃんと分かってる?
分かってる。
抱きしめられて震えるくらいに嬉しい理由は、ちゃんと分かってる?
分かってる。
私のほっぺにチャンミンさんのほっぺがくっついている。
チャンミンさん...苦しいです。
力いっぱい抱きしめ過ぎです。
思わず喘いでしまったら、チャンミンさんの腕がびくっと震えた。
~チャンミン~
「チャンミンさん...っ苦しいです」
そう言った民ちゃんの、吐息混じりの喘ぎが僕の耳にかかる。
鳥肌が背中まで走った。
民ちゃん...声が色っぽいよ。
民ちゃんを深く抱き直した僕は、甘い香りを胸いっぱいに吸い込んだ。
苦しがっても、今夜の僕は民ちゃんを離す気持ちはないんだ。
ずっと、こうしたかった。
女の人を抱きしめる経験なんて初めてじゃないくせに、じわじわと幸福感が沁みてくるこの感じは...生まれて初めてだ。
僕が女の人を抱きしめる時、頭の中でエロいことが70%は占めている。
民ちゃんを愛おしむ気持ちでいっぱいだったから、今のハグに不純なものは何も混じっていない。
「...チャンミンさん...人が来ます...」
背後から咳払いがした。
「あ...」
慌てて振り向いたらアパートの住民らしい男性が、塀すれすれに僕らを避けて通り過ぎ、何度か振り向きながら階段を上がっていった。
公衆の場で抱き合う僕らは非常識極まりないけど、常識的な僕なのに、抱く腕は緩めない。
「...チャンミン、さん?」
無言でいる僕に不安を感じた民ちゃんが、身をよじって僕を覗き込んでいた。
「どうしましたか?
顔が...怖いですよ」
民ちゃんとハグが出来たことの感動を噛みしめていて、大事なことを忘れていた。
「え...っと」
「ここじゃ寒いですし、外ですし。
部屋に上がりますか?」
「え?」
僕の腕の中からするりと抜け出た民ちゃんは、僕の手を握った。
「手が冷たいです。
ストーブで温まりましょうよ」
「待って、民ちゃん!」
「待つ、って何をですか?」
じとっと睨む民ちゃんの三白眼、暗がりの中でも白目が際立っている。
「待ちくたびれました。
私はもう、待ちたくありません。
ほら!
チャンミンさん、行きますよ」
力いっぱい引きずられる。
こんなシーン、前にもあった。
ラブホテルに引きずり連れられた日があったな、そういえば。
「懐かしいな」と緩めた口元を、目ざとい民ちゃんに目撃されてしまい、
「チャンミンさん...顔がエロいですよ。
今からエッチをしよう、って言ってるんじゃないんですからね。
勘違いしないで下さいね」
「民ちゃん!」
慌てる僕に民ちゃんは、「あははは」と大きな口を開けて笑った。
僕に先立ち階段を上る民ちゃんを追いかける。
「!!」
突然立ち止まった民ちゃんの背中に、鼻をぶつけてしまった。
「どうした?」
くるりと振り返った民ちゃんが、ニヤニヤ笑っていた。
どうせ『エッチなことで頭がいっぱいなんでしょう?』とかなんとか、言うのかなと思った。
(つづく)
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