<アルファ君も大変ですの巻>
危機意識の低いチャンミンの無防備さに、ユノは始終ヒヤヒヤドキドキしている。
今朝のように、抑制剤の飲み忘れなどもってのほかだ。
(ったく、あの馬鹿!)
ユノはカリカリしながらレモンを齧っていた。
(可愛すぎるんだよ、こんちくしょー)
チャンミンから愛らしい笑顔を見せられると、ふにゃりと顔が緩み、甘々になってしまうのだ。
ユノは3個分のレモン果汁を吸い尽くすと、カラカラになった皮をゴミ箱に投げ捨てた。
吐き気がおさまった後、ユノにはやるべきことがあった。
トイレの個室に籠ると、三つ折りポーチを水洗タンクの上に広げた。
ポーチにはペン型の注入器とカートリッジが収められており、ユノはその二つをセットした。
シャツの裾をたくしあげると、露わになった引き締まった腹に注入器の針を突き立てた。
「...っ」
カートリッジの中身を注入し終えると、使用済みの針とカートリッジをジッパー付きのビニール袋にまとめた。
職場の他、職員寮のゴミ箱に捨てるわけにはいかないので、後でしかるべき場所にまとめて廃棄する。
ユノが体内に取り込んだ薬剤は、ざっくり言うとアルファのオーラを消す効果があるもの。
まだ治験段階のものだが、これまでアルファだと見破られていないから、ある程度の効果があると言っていいだろう。
ユノもユノなりに、ベータ社会に生き抜くために、苦労を味わっているのだ。
(いつまでこれを続ければいいのだろう)
ユノの頭に『番(つがい)』の文字が浮かんだ。
(チャンミンと番になってしまえば話は早い。
俺と番契約を結べば、チャンミンがアルファに襲われる危険性も減る。
しかし、安全と安心の引き換えに、失うものも多い。
オメガであると公になった途端、チャンミンは世間から隔絶された生活を送らなければならない)
ベータ属よりも身体的能力に劣るだけでなく、自己制御のできない発情期に襲われるオメガ属は『性欲に支配された劣った者』と見なされ、世間的に冷遇されてきた。
ところが昨今、オメガだけが持ち得る特殊能力が珍重されるようになり、オメガと聞くと、人々は目の色を変える(その理由は後述する)
ユノにとってアルファ属性とは不要なもので、なれるものならベータに戻りたかった。
(俺だけがチャンミンを守れる。
ベータだったら守り切れないだろう)
チャンミンを想うと、アルファ属でよかったと思い直すのだった。
・
ユノとチャンミンはお隣同士で幼馴染だ。
ユノが7歳の時、父親の転勤に伴い一家全員渡航したため、2人は一度離れ離れになった。
10年後、父親の任期終了に伴い、ユノ一家はかつての街に戻ってきた。
ユノとチャンミンは10年ぶりの再会を果たした。
驚くことに、高校生だった当時、2人はれっきとしたベータ属だったのだ。
誕生時と、10歳(初潮と精通を迎える)、15歳(アソコに毛が生えはじめる)の節目に実施される遺伝子検査が、義務付けられている。
生まれ持った属性が成長に伴い変わる者がごく稀にいるためだ。
特に、15歳の検査結果が自身の属性が進路を決める指針になる。
言い換えると、アルファはアルファらしく、ベータはベータらしく...オメガはオメガの運命を受け入れた人生を歩め、という意味だ。
そのいずれの検査でも、2人はれっきとしたベータ属だったのだ。
ところがある日突然、ユノがアルファ、チャンミンがオメガにと変性した。
滅多の滅多に起こらない現象が、ユノとチャンミンには起きたのだ(その経緯についても後述する)
・
チャンミンがオメガだと分かった時の、2人のエピソードをひとつ紹介する。
彼らが高校生だった頃の話。
チャンミンは、遅かれ早かれにバレるだろうけど、オメガになった事実を可能な限り、周囲に隠し通すつもりでいた。
しかし、早い段階で家族にだけ真実を...「僕はオメガになってしまいました」と打ち明けるしかないと考えをあらためた。
ひとつ屋根の下で暮らしている以上、隠し切れないと観念したのだ。
隠しきれないものとは、女性なら当たり前に経験する生理現象。
生理が始まったのだ。
よりによって、学校で。
チャンミンは前夜から腹痛を覚えていて、2時限目の休憩時間になるやいなや、トイレの個室に駆けこんだ。
(昨夜、食べ過ぎたのかな...?)
ズボンとパンツを下ろし、便座に腰掛けようとしたその瞬間。
パンツの有様を見た直後。
(あ゛あ゛~~~~!!!)
チャンミンは絶叫しそうになった口を押さえた。
心臓がバクバク、痛いくらいに拍動している。
チャンミンはスマホを取り出すと、震える指でユノへメッセージを送った。
『緊急事態発生。
3階トイレ、左手の一番奥にいます』
30秒もしないうちに、バタバタと足音がした。
ユノだ。
数学が苦手なチャンミンの代わりに宿題を仕上げていたところ、チャンミンからのメーデーに、ユノの顔色が変わった。
(オメガになったばかりのチャンミンが心配で、ユノの過保護っぷりが加速し始めた頃だ)
ユノはがやがやと生徒たちがうろつく廊下を、1人とも接触せずジグザグに駆け抜けた(さすがアルファ)
「チャンミン!」
ユノがチャンミンが籠っている個室のドアをノックすると、カチャリと鍵が外れた。
用足し中の生徒たちは皆、こちらに神経を払っていないようだ。
ユノは個室へと身を滑り込ませた。
「ユノぉ...どうしよう?」
便座に腰掛けたチャンミンは、半べそ状態だった。
「何があった?」
ユノの視線はチャンミンが指さす先...足元に落とされた。
チャンミンのパンツとズボンは、足首まで落とされている。
「!!!」
パンツの有様にユノは絶句した。
「......」
「...どうしよう...。
痔じゃないよね?
痔だったらいいんだけど...違うよね」
「これは~...アレだ。
アレだよ。
女の子の日だ」
いつか来るだろうと覚悟していても、汚れたパンツを目にしてしまったショックは大きい。
「僕は女の子じゃない!」
ムキなったチャンミンの声は大きくなり、慌てたユノの手で塞がれた。
「そうだよ、チャンミンは男だ。
ただ、オメガになったんだ、いつ始まってもおかしくない」
「やだよ...こんなの」
「仕方ないよ」
「やだよ」
「そうだよな。
分かった。
俺が何とかしてやる」
ユノはチャンミンの肩を叩いた。
「...どうやって?」
「生理については、後で話し合おう。
今はお前のパンツを何とかしないと!」
「そうだね。
このままにしておけない」
「俺はコンビニまで走るから、チャンミンはここで待ってろ」
「これから生理用ナプキンと下着を買ってくる」とユノは言っているのだ。
購買部にも販売されているし、保健室へ行けば貰うこともできるが、男のユノが校内でできるはずがない。
「え~、ここで?」
チャンミンはぷぅ、と膨れる。
「そうするしかないだろう?
パンツ汚しちゃったんだし」
「でも...トイレだし、ずっと出てこないのを怪しまれて、上から覗かれるかもだし。
授業をサボったって、先生がドアを蹴るかもだし。
ユノはいないし、不安だよぉ」
「う~ん」
「ユノと一緒にコンビニに行く!」
「パンツは?」
「脱ぐ」
「で、直接ズボンを穿くのか?」
「うん」
「脱いだパンツは?」
「トイレに流す」
「詰まるだろ!」
「じゃあ、ポケットに入れてく」
ユノは駄々をこね始めたチャンミンに、「ふぅ」とため息をついた。
(しょーがねーな)
ユノはトイレットペーパーをくるくる手に巻き始めた。
「何してんの?」
ユノはポケットから出したハンカチで、何層にも重ねたトイレットペーパーをくるんだ。
「即席ナプキンだ」
「......マジですか」
「マジに決まってんだろ。
ほれ、股に挟め」
「股じゃないよ。
お尻だよ」
「引っかかるとこはそこかよ?」
「僕はね、現実を受け入れようと必死なの」
「エライぞ、チャンミン」
・
2人は学校裏口からこっそりと抜け出ると、コンビニへと急いだ。
道中、お尻がゴワゴワするだの、ハンカチがずれるだのと文句たらたらなチャンミンを、ユノは「はいはい」と聞き流していた。
(つづく?)
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