~ユノ~
「アポイントが11時に前倒しになりました」
「はあ!?」
翌号カタログの校正を行っていた俺は、後輩Sの報告に壁時計を確認した。
「あと1時間もないじゃないか!?」
「今からなら、ぎりぎり間に合いますよ。
おおまかな年間のスケジュールはまとめておきました」
「できる後輩を持った俺は幸せだよ」
「やっとわかってくれましたか?」
俺とSは、早歩きで中央エントランスを目指す。
「先輩!
足早いっす!
僕の脚の長さのことを、もっと考慮して下さいよ」
「悪い」
エントランス横の立体駐車場から、社用車が吐き出されるのをじりじりと待つ。
「どうして、あんな面倒くさそうな人に頼むことになったんですか?」
「イメージを変えるためだろうね。
ここ2年は女性モデルを使ってたから」
「その前は『世界の街並み』でしたっけ?
いいなぁ、その時の担当になりたかったっす。
海外へ行き放題だったんだろうなぁ」
「馬鹿だなぁ。
海外に行き放題だったのはカメラマンだけだ。
おい、車が来たぞ」
「僕が運転しますよ」と、後輩が買って出た。
・
俺が勤めるのは、中堅どころの健康食品会社だ。
インターネット注文が主流のこの世の中にあっても、未だに紙ベースのカタログ注文は根強い人気だ。
俺はカタログ製作部に所属している。
隔月に発行されるカタログ『へるし』は、美しいグラビア写真に加え読み応えのある記事も満載で、ちょっとした雑誌レベルだと、毎号好評なのだ。
俺は表紙と巻頭ページ制作のセッティングを担当している。
カメラマンやイラストレーター、ライターと、紙面制作部署との橋渡し的業務という、神経を使う仕事内容だ。
・
一昨年、1年間の表紙モデルに起用されたのがBで、撮影現場での初顔合わせでBに一目惚れをしたのだった。
当時の俺は文字通り、Bに「メロメロ」だった。
猛烈なアタックの末、残すところあと1号分の撮影が行われる頃になって、首を縦に振ってもらえた。
それまでの俺にしてはあり得ないほど、のめり込んだ恋だったのだ。
今となっては、遠い過去の話。
・
来年度からは、がらりと趣を変えたものになるという。
取締役の一人が海外の美術展である一作品を目にした瞬間、稲妻に打たれたのだとか。
そこで、そのアーティストの作品を年間6号分の表紙に採用することになった。
「芸術家ってやっぱり、気分屋で気難しい人なんすかねぇ?」
「芸術家に限らず、写真家であっても、イラストレーターであっても、誰でも気難しいもんだよ」
助手席の俺は、校正の続きをしながら答えた。
「さすが年長者の言葉は、重みが違いますねぇ。
先輩...もうすぐ着きますよ」
「10時45分。
間に合ってよかった」
俺と後輩Sの乗った社用車は、地下駐車場への急なスロープを下りて行った。
・
このビルは6階まではテナントが入っており、7階から10階までは居住スペースになっている。
俺たちは、守衛室の脇にあるエレベータで6階まで上昇した。
開いた扉の真正面がデンタルクリニックで、右手の奥まったところに指定されたオフィスがある。
「金持ちが通いそうな歯医者っすね」
Sはゴールド縁の自動ドアの向こうを興味津々にのぞき込んでいる。
俺は腕時計で、約束の時刻の5分前なのを確認する。
目立たないよう、廊下から1歩引っ込んだ位置にあるドアのインターホンを鳴らした。
『はい』と男性の声が応答した。
「お待ちしておりました」
ドアを開けたのは年齢は30代半ば、浅黒い肌、均整のとれた長身、そして目鼻立ちのくっきりとした美形の男性だった。
第3ボタンまで開けた麻の白シャツから、日に灼けた逞しい胸元が見え隠れしている。
(胸をはだけすぎだろ。
誰アピールだよ。
キザったらしい奴だなぁ)
背中まである長い髪を後ろでひとつに束ねている。
その男性はビジネスライクな笑顔を浮かべると、俺たちを中に招き入れた。
・
オフィスは仕切りのないワンルームで、そちこちに置かれた観葉植物と壁一面の窓ガラスにかけられた木製ブラインドが、ナチュラルな雰囲気を作っている。
(中央に螺旋階段があるから、アトリエと繋がっているのだろうか)
「時間を早めてしまい申し訳ありませんでした。
日にちをあらためようかと思いましたが、これまでに何度もこちらの都合で延期していますからね」
本来の打ち合わせの日時は一週間前だったが、度重なる予定変更に俺たちは振り回されていたのだ。
「飲み物をご用意しましょう。
アシスタントが不在ですので、私が淹れることになります。
アイスコーヒーでよろしいですか?」
「お構いなく」と頭を下げた。
俺たちは立ったまま、さりげなく目隠しされたミニキッチンに向かう男性の背中を見送る。
広い背中で揺れるその髪は、つやがあって手入れが行き届いているのが分かった。
(自身にお金をふんだんにかけるタイプと見た)
ラフなファッションだったが、上質で高価そうに見えた。
「先輩。
想像と全然違いますね」
Sのひそひそ声に、俺は頷く。
アーティストというから、痩せこけてボサボサ頭のトリッキーな服を着た奴を想像していたのだ。
「芸術家って儲かるものなんすか?」
恐らく計算のもと絶妙な位置に配置された家具も、量販店や通販で揃えたものには見えない。
座るよう促された透明アクリルチェアも、俺でさえ知っているブランド家具だ。
「1作品、何十万も何百万もするんですかね」
オフィスを見回しても不思議なことに、彼の作品らしきものは置かれていない。
飲み物を乗せたトレーを持った男性が戻ってきたため、俺はSの脇をつついて黙らせた。
Sはあたふたと名刺入れを取り出した。
名刺交換の際、ぐっと見据える彼の眼力に一瞬ひるむ。
上質な白い名刺には肩書がなく、彼の名前『YUN』とあるだけだ。
二人の名刺を受けとったYUNは、顔と名前を確認するかのように「ユノさんと、こちらがSさんですね」ともう一度、眼光鋭いまなざしで俺たちを見た。
Sがユンの胸元に視線をくぎ付けにしていることに気付き、慌ててSの背中を叩いた。
「それでは、始めましょうか」
各々の挨拶を終えた3人はテーブルにつき、打ち合わせが開始された。
(つづく)