~チャンミン~
深夜過ぎ、僕は喉の渇きで目を覚ました。
フローリングに直接敷いた布団のせいで、少し腰が痛かったこともある。
音を立てないよう引き戸を開けて、リビングをつま先立ちで通り抜けた。
就寝前、優しいユノさんは「何でも自由に使っていいよ」と声をかけてくれたのだ。
冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを取り出すと、流しに伏せてあったグラスに注いだ。
ユノさんの家は、全てのものがあるべきところにあってきちんとしている。
お風呂を使わせてもらったときも、僕のために新品のボディタオルが用意されていた。
大雑把で声が大きくて、ごついお兄ちゃんの友達だと信じられない。
僕は冷たい水を飲みながら、キッチンカウンターの上に整然と置かれた電化製品をひとつひとつ見ていく。
ピカピカに磨き上げられたそれらには、ご飯粒ひとつコーヒーのシミひとつない。
使ったグラスをきれいに洗って、食器かごに伏せておいた。
(さて、寝直そう)
ボトルを元に戻そうと冷蔵庫の扉を思いきり開いた瞬間のことだ。
ガツンと取っ手に衝撃が走り、同時に悲鳴が上がった。
「いでっ!」
扉の後ろで、ユノさんが鼻を押さえてうずくまっていたのだ。
~ユノ~
火花が散った。
自分の身の上に何が起こったのか、直ぐには分からなかった。
衝撃で背後によろめき、床にへたりこんだ。
遅れて激痛が鼻に走った。
「まあ!
ごめんなさい!」
声の主はチャンミンだった。
「まさかそこにいらっしゃるとは気づかなくて!」
彼女は俺の傍らにしゃがむと、苦痛に歪む俺の顔を覗き込んだ。
彼女が勢いよく開けた冷蔵庫の扉が、俺の鼻に直撃したらしい。
「鼻血出ましたか!?」
「どう...かな...」
「何か...何かないかしら」
彼女はカウンター周りを見回し、目についたものを俺に手渡した。
「これで押さえててください!」
「だ、だいじょうぶ...だから」
「僕ったら...どうしましょう」
手渡された布状のもので鼻を覆い、痛みが引くのを待った。
「どうしましょう。
どうしましょう」
おろおろする彼女があまりに可哀そうで、ひらひら手を振って問題ないことをアピールした(実際はめちゃくちゃ痛い)
「ユノさんの高いお鼻が折れたらどうしましょう!」
「大丈夫。
折れてたら、もっと痛いと思う」
つむっていた目を片方開けてみると、間近に彼女の顔があった。
今にも泣き出しそうな表情をしている。
彼女の吐息が頬に感じられるほどの近さに、鼓動が早くなった気がした。
「血、出てませんよね?」
鼻に押し当てていた布を見せた。
「ほら、鼻血は...出てないよ」
「よかったぁ」
彼女はよろめきながら立ち上がる俺の腕を支えた。
「くくくく」
彼女がとっさに渡したものがオーブンミトンであることが分かり、可笑しくてたまらなかった。
「何が面白いんですか?」
「いや...可愛くってさ。
これ...鍋つかみだよ。
くくくく」
「必死だったんです。
それしか見つからなくて」
「ありがとう」
俺たちはキッチンカウンターに並んで立った。
「チャンミンちゃんは、身長はいくつあるの?」と訊ねると、身長に触れられることが嫌なのだろう、彼女は鼻にシワをよせ消え入りそうな声で答えた。
「185か6センチです...多分」
「高いね」
「でか過ぎですよね。
コンプレックスなんです。
ドレスが似合うようになりたいのですが」
「いいんじゃない?
そのままで」
「ホントですか!
ユノさんにそう言ってもらえると、嬉しいです」
ほっそりとした指で前髪を耳にかける仕草に色気を感じた。
彼女は俺の食い入るような視線に気づくと、「どうしました?」と小首をかしげた。
「い、いや、なんでもない...」
「痛いんですよね?」
「いや...そうじゃなくて」
「見せてください」
「いやいや、大丈夫だ」
顔を近づける彼女から逃れようとしたところ、
「逃げないでください!」
彼女に手首をつかまれ、有無を言わさず俺の両手は脇へと下ろされた。
抵抗したくとも、彼女の腕力は凄まじかった。
その男並みの馬鹿力に驚く間もなく、彼女の視線が真正面からぶつかった驚きで、まぶたを閉じることになる。
彼女は指先で俺の眉間に触れた。
「...っ!」
鏡で見ていないから分からないが、赤く腫れているかもしれない。
どれどれと、鼻先が触れ合わんばかりに近づけるものだから、数センチ身動きしたらキスできるほどだった。
俺と同じシャンプーの香りを吸い込み、妙な気持ちになった。
(つづく)