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(53 最終話)チャンミンせんせ!
「はあはあはあはあ...」
ユノはペダルを漕いでいた。
卒業検定があった日の夜だった。
ペダルを漕ぎ続けてた。
会いたい人がいた。
コツコツ貯めたバイト代で購入した自慢の愛車は、ロードバイク型で長距離走行も疲れにくい。
それでも、初めての夜道を走るのは、緊張を強いられ消耗した。
(昨夜は大雨だったから、晴れて助かったよ)
この自転車で、チャンミンが住む茶色いタイルのマンションへ何度通っただろう。
何度、その建物を見上げただろう。
(いい加減、キツくなってきた)
途中、何度も水分補給と手洗いがてらコンビニエンスストアで休憩した。
パンパンに張ったふくらはぎを揉んだ。
・
検定後、Kからチャンミンの電話番号が書かれたメモを渡された。
「あいつを励ましてやってくれ。
ユノ君の顔を見たら、即効元気になるよ」
講習会場の住所を尋ねるユノに、「あそこは遠いからなぁ」と言いながら、メモにしてくれた。
Kの表情は、「どんなに遠くたって、会いにいくんだろ?」と言っていた。
(やっぱ、俺の気持ち...それからせんせの気持ち、バレバレだったじゃん)
・
(車があれば、楽勝なのになぁ)
数日後に免許を取得できたとしても、ユノはまだ学生で、仕送りとバイト代で暮らしをたてている身分でいる間は、車を所有できるのは先の先。
(このチャリンコが俺の愛車だ)
ユノはスマートフォンで現在地を確認すると、再び自転車にまたがった。
目的地まであと10キロだ。
22:30。
何台もの大型トラックが轟音をあげながら、ユノのすれすれを走り抜ける。
・
ユノが無茶をしたのには、理由があった。
チャンミンがいる試験会場と最寄り駅の間の交通手段はタクシーしかないのだ。
タクシーを使おうにも、その駅が終点であるバスの最終便が18:30発で、バイトが19:00終わりのユノが間に合うはずがなかった。
さらに、その駅発のバスは全て、試験会場とは全く別方向の便ばかりだった。
(どんだけ僻地なんだよ!)
試験会場は一般の者たちが利用するところではない為、致し方ないのだが。
そこで、シフトを代わってもらう交渉をしようと、バイト仲間に電話をかけようとしたその時、タイミングが悪いことが起こった。
「この前はごめんなさい」とQから電話があったのだ。
ぐずぐず泣いて、話を切り上げさせてくれない。
(こういう時に強く断れないところが、ユノの欠点かもしれない)
結果、代打を探す時間がなくなり、人手不足に悩まされているバイト先に迷惑をかけるわけにはいかず、シフト通りに働いたのだった。
・
(俺は絶対に、今すぐ、せんせに会いたい!)
予定変更無し、決行だ。
今夜中にチャンミンに会うためには、自転車を使うしかなかったのである。
残りの数キロは幹線道路から1本反れた道で、延々と続く上り坂だった。
ユノはヘッドライトがアスファルトを照らす、黄色い光輪を追いかけた。
進んでも進んでも、その光の円は逃げ続ける。
「はあはあ...きっつ」
ライトを消したら、真っ黒な世界だ。
周囲の音は、リンリンと鳴く虫の声と、自身の荒い呼吸音だけだ。
額の汗をTシャツの袖で拭い、しばらくは自転車を引いて歩いた。
体力が回復した頃合いに、再び自転車にまたがった。
ユノはひと漕ぎひと漕ぎ、腹筋に力を入れた。
「...っく...っ...」
好きな人に会いたい一心で、自転車を走らせている。
「はあはあはあはあ」
距離も時間帯も常識はずれで、しかしユノは、馬鹿みたいだ...と一切思わなかった。
(びっくりするかなぁ。
するよなぁ)
リュックサックが密着した背中は、湯気が出そうに蒸れていた。
(好きって言ってもらえるかなぁ?)
チャンミンからの手紙は、リュックサックの中にちゃんと入っている。
(せんせといろんな所に行ってみたい。
もうすぐ夏だなぁ...海に行きたいなぁ。
ってことは、泊りがけじゃん!
水着を買わないと)
チャンミンとこれから経験するだろうあれこれを想像することで、自分を鼓舞した。
「せんせ、せんせ...チャンミンせんせ」
最後の数百メートルは、チャンミンの名前をずっと唱えていた。
(俺が合格したこと、知ってるよな。
K先生が教えていそうだ。
せんせ、喜んでくれたよな...絶対に喜んだはずだ!)
遠くの前方に灯りが見えた。
(ど叱られるだろうなぁ)
そこは既に照明は落とされ、暗闇に沈んでいた。
通っていた自動車学校のものよりも広大な場内コースが、2棟ある建物の脇に広がっている。
片方の建物には、何か所か照明がついているため、ここがチャンミンの宿泊している所らしい。
(ということは、ここのどこかにせんせの部屋があるはずだ)
「うわっ」
またがっていた自転車から下りた時、地面に着いた足がよろけそうになったが、ギリギリのところで堪えた。
(あっぶねー)
膝がガクガクで力が入らなかったのだ。
灯りが消された正面玄関は真っ暗で、ドアに手をかけてみると、やはり施錠されていて中に入ることはできない。
ユノは建物全体を見渡せる駐車場まで移動した。
(せんせの車だ!)
駐車場唯一の外灯の側に、チャンミンの青色の車が駐車されていた。
ユノはスマートフォンを取り出し、既に登録済のチャンミンの番号を呼び出した。
「どうか出てくれ」と祈りながら、呼び出し音に耳をすました。
発信音が切れた。
『はい』
チャンミンの声。
電話越しだと、少し違って聞こえる。
ユノはチャンミンの名前を呼んだ。
すっ、と息を飲む音がした。
すぐに知らせてしまったら勿体ない。
「会いたいですか?」
「今すぐ会いたいですか?」
「今夜会いたいですか?」
沢山驚かせたくて、何重にもラッピングされたプレゼントの箱を渡すかのようだった。
「せんせに会いに来たんすよ。
外、見てください」
「えええぇっ!」
チャンミンの驚き声に、ユノはクスクス笑いが止まらない。
窓が開いた。
灯りを背に、見慣れたチャンミンのシルエットが浮かび上がった。
ひょろりとした体型に、あの頭の形。
ユノはもう、止められなかった。
「チャンミンせんせ!」
その大きな呼び声は、宿泊棟のコンクリート壁に反響した。
疲労でフラフラなところを悟られないよう、1歩1歩、チャンミンの元へ近づいた。
ハンドルを握っていないと、足がもつれてしまいそうだった。
「チャンミンせんせ!
来ちゃいました」
チャンミンは目を丸くしている。
ユノの胸が苦しかった。
「チャンミンせんせ、嬉しいですか?」
チャンミンは何か言っているようだったが、嗚咽混じりでユノには聞き取れなかった。
「せんせ?」
チャンミンの目からぽたぽたと、涙がこぼれ落ちた。
「チャンミンせんせ。
俺に会えて嬉しいですか?」
チャンミンはこくこくと、何度も頷いた。
「俺もすげぇ、嬉しいっす」
(おしまい)
(52)チャンミンせんせ!
チャンミンのプラン通りに帰路につくことにした。
数キロごとに設定した待ち合わせ場所...コンビニエンスストア...で、2人は合流する。
先に到着したチャンミンは、自転車のユノが到着するまで待った。
曇り空ならよかったのだが、強い日差しがユノの体力を奪っていった。
チャンミンは早々と車から降りて、道路の向こうに目をこらし、ユノの姿が現れるのを今か今かと待ち続けた。
その姿は、初めてのおつかいに出掛けた我が子を、自宅前で待ち構える親のようだった。
(来た!)
「せんせっ...はあはあ...お待たせです」
待ち合わせの回を重ねるごとに、ペダルを漕ぐユノの脚が緩慢になってきたのがよく分かる。
「お疲れです。
チョコレートで糖分補給しましょう」
「せんせぇ。
俺、アイスクリームの気分っす」
「今買ってきます!」
チャンミンは、マラソン選手の給水場になっていた。
ユノはチャンミンの車の中で、エアコンの冷たい風で熱い身体をクールダウンする。
その間、15分程とりとめのない会話を交わすのだ。
「せんせ、今のお気持ちは?」
「実感がないですね」
「それって、受かって当然って思ってた証拠っすよ。
『緊張する~』『僕、駄目かも~』って、不安なこと言ってたけど、内心自信があったんです。
だから俺が思うに、せんせが不安がったり、心配しまくるのは単なる趣味じゃないっすかね。
全部が全部、ホントの感情じゃないっていうのかなぁ...?
どう思います?」
「そう...なのかな」
チャンミンは、ユノの言うことが少しは理解できた。
(そうかもしれない。
僕はいたずらに、不安を育てることが得意過ぎる。
これがこの先、僕らの仲を壊す原因になるだろう。
これから、気をつけないと!)
「せんせ。
おめでとうございます。
俺なんて、あんなデカい車動かせないっすよ」
ユノはこれで何度目かのお祝いの言葉を口にした。
「どういたしまして」
実際終わってみると、この試験とは大して恐れるものではなかった。
そう。
チャンミンは、大型自動車教習指導員試験に合格していた。
滞りなくコースを走り終えた時点で、検定員は合格を告げてくれる。
(ここが、一般の者が受ける卒業検定と違う点だ)
・
日が沈むと、随分楽になった。
休憩時間を頻繁にとっていたため、2人が街に帰りついたのは21時過ぎになっていた。
2人はユノのアパート前にいた。
「ユノさんちはここなんですね」
チャンミンは、ベージュ色のモルタル塗りの2階建てのアパートを見上げた。
「いい感じのところですね。
ユノさんの部屋は?」
ユノは、「2階のあそこです」と指さすと、バルコニーで揺れる洗濯物を発見してしまった。
「しまった!
干しっぱなしだった!」
チャンミンは、「ユノさんらしいですね」と笑った。
「一昨日は着替えを取りに帰るのがやっとだったんすよ」
膨れたユノの表情が、隣のチャンミンを振り向いた時には真顔に変わっていた。
「ねえ、せんせ」
「はい」
「夢みたい...」
満面の笑顔になったユノにつられて、チャンミンも微笑んだ。
「そうですね」
「せんせとこんな風になれて。
マヂ、嬉しい...です」
「ユノさん...」
チャンミンは自転車のハンドルを握ったユノの手に、自身の手を重ねた。
「僕はユノさんのこと、真剣に考えています」
「知ってます」
ユノの答えに、チャンミンは目を丸くした。
「ふっ。
せんせの真似をしてみました」
チャンミンはユノから手を離せず、ユノはいつまでも手を離さないチャンミンを、ニヤニヤしながらからかった。
「名残惜しいのなら、俺んちに泊まります?」
「!」
「ジョークです。
今の俺、フラフラなんで、後日に回しましょう。
『そういうこと』はおいおいです。
ね?」
「じゃあ。
おやすみなさい」
「おやすみなさい」
踵を返す直前、チャンミンはユノの肩を引き寄せた。
ユノとチャンミンの頬はくっ付き合った。
ユノの頬は汗ばんでいて、その男らしい汗の匂いにチャンミンはクラクラした。
「学科試験は?」
「明後日です」
「会場まで僕が送ってゆきます」
「ええっ!
俺、子供じゃないっすよ」
「明日明後日は休日です」
「俺を甘やかしますなぁ」
チャンミンは頬と頬を離す瞬間、ユノの額に口づけた。
「チュッ」と音をたてた、可愛らしいキスだ。
「その夜に、ご飯を食べに行きましょう」
「はい」
2人は手を振り合い、チャンミンは愛車に乗り込んだ。
...と思わせて、チャンミンは車から降り、ユノの部屋の照明が点くまで見守った。
ストッパーが外れたチャンミンは、やっぱり溺愛タイプの男だった。
(つづく)
(51)チャンミンせんせ!
ユノが宿泊するビジネスホテルまで、2人の話題はあっちこっちに飛びながらの道のりだった。
ユノは自転車をひいていた。
「ユノさんの自転車はとても高いのでしょう?」
「高いっすよ。
予約待ちで半年、バイトしまくってやっと手に入れたチャリンコです」
その金額に、チャンミンはひゅっと息を飲んだ。
「理解できないっしょ?」
「ユノさんとは趣味が違いますからね。
僕が最後に自転車に乗ったのは...10年...学校を卒業して以来だから...ですかね。
10年か...すごいな」
22歳だったチャンミンは、確実に遠ざかっていきつつあった。
ユノとの12歳差を、こういった会話のやりとりから思い知らされるのだ。
(卑屈になったらいけない。
年上の男の良さをユノに教えられるくらいじゃないと!)
「このチャリンコは宝物ですよ。
今回も頑張ってくれましたし。
ママチャリだったら、あの距離はきつかったと思います」
ユノは、チャンミンに会うため、ペダルを漕ぎ続けた数十キロを思い出してそう言った。
前方に、ビジネスホテルの看板照明が見えてきた。
「せんせって凄いっすね」
「何がです?」
「精力剤飲んだのに、昨夜眠れたんでしょ?
多分、俺だったら興奮して眠れませんよ」
「...飲んだことあるの!?」
これまで何度も盗み見したユノのアソコを思い浮かべて、「ごくり」と唾を飲みこんだ。
(ユノのアレがアレした時、どれくらいのアレになるんだ...!?)
ユノはチャンミンのエロい妄想など露知らず、「興味はあったけど、俺には必要ないモノなんで」と、さも当然のごとく言った。
「必要ないでしょうね」と、チャンミンは心の中でつぶやいた。
(商品名通り、『夜獣』になるだろうな。
ユノは若いし、大きいし。
僕はどうなってしまうんだ!)
「せんせこそ、頼ったことあるんすか?」
「あ、あるわけないでしょう!!」
「そっかぁ。
せんせは挿れられる側って言ってましたよね。
ってことは、サイズは気にしなくてもいいですよね。
あ...やっぱ、イキってた方がお互い盛り上がるんですかね?」
「はあ...ユノさん。
勘弁して」
と、悪気も下心も無しの無邪気さで、チャンミンを動揺させるユノだった。
自動販売機でジュースを買って、それを飲みながら残りわずかの距離を、カメのスピードで歩いた。
「俺、実は寂しいんす」
「寂しい?」
「早く卒業したくてたまらなかったのに、いざ卒業してしまったら、すげぇ寂しくって。
せんせの教習車に乗っていた時間を思い出すと、光って見えるんす。
なかなか上達しなくて泣いてしまった時もあるけれど、やっぱり、光ってるんす。
全部が眩しい。
今の俺の宝物は、チャリンコなんかじゃなくて、自動車学校通いの思い出っすね」
「ありがとう」
他の誰かが相手だったらとても恥ずかしくて口にできない台詞でも、チャンミンならば茶化すことなく、まともに受け取ってくれる。
(チャンミンがどんな反応を見せてくれるかも楽しみのひとつだが...)
「僕も喜ばしいことなのに...寂しいです。
ユノさんがどんどん上手くなっていくから、嬉しいのに寂しかったです」
「なあんだ。
せんせも俺とおんなじことを考えてたじゃん」
「ユノさんは卒業してしまったけれど、こうやって会えるようになったのですよ」
「へへっ。
そうっすね~」
2人は既に、ホテルのエントランス前に到着していた。
離れがたくてだらだらと、話を長引かせていた。
「じゃ、俺。
チェックインします」
「はい。
ゆっくりしてくださいね」
「せんせ、一人で帰れますか?」
「帰れますよ」
「怖くないですか?
あそこまでの道、真っ暗で~す~よぉ」
おどろおどろしいユノの声音。
「運転していたら、ぼうっと白い着物の女が...。
後ろの席に気配がします。
バッグミラーに映っていたものとは...」
ユノは隣を歩くチャンミンを見た。
そして。
「ぎゃぁぁぁぁあ!!!」
「きゃあぁぁぁあ!!」
突然のユノの叫び声に、チャンミンも女子のように悲鳴をあげて、ユノの腕にしがみついた。
通行人たちは何事かと、2人に注目している。
「び、びっくりするじゃあないですか!?
子供みたいなことしないでくださいよ!」
「あはははは!
せんせこそ、今のでちびりそうになったくせにぃ」
互いを子供扱いすることが、今だけのブームに終わるのか、2人のじゃれ合いのひとつになってゆくのか。
「どうします?
せんせもホテルに泊まります?」
ユノの質問は予想通りだった。
あらかじめチャンミンの答えが分かっていたうえでの質問だ。
「いえ。
集中したいので、今夜は宿舎で寝ます」
「分かりました。
明日、応援に行きますからね」
ユノは試験開始時間を確認すると、「おやすみなさい」とだけ、あっさりチャンミンを解放した。
エントランスの自動ドアが閉まった後も、チャンミンの片手はずっと、胸の位置に持ち上げられたままだった。
フロントまで行ったユノが突然、外で立ち尽くすチャンミンの元まで引き返してきた。
(そんな気がしたんだ。
『あの』ユノが、大人しくバイバイするわけないもの)
ユノはチャンミンの腕をつかむと、引き寄せた。
そして、チャンミンの右頬に...耳の前あたりに、唇を押し当てた。
たった1秒足らずのキスだった。
「せんせにキスしちゃった」
チャンミンの右手は空に浮いたままで、キスをされた頬に触れられずにいた。
触れてしまったら、感触を消してしまいそうで。
それくらい控え目で、頬を羽で撫ぜられただけのようなキスだった。
「せんせが本番前に読めるよう、手紙を書きたいんすけど。
せんせみたいにうまく書けないから、今夜のうちにエールを送っときます。
聞いてください。
せんせなら受かりますよ。
なんせ、教え子の俺が合格したんすから。
その師匠は受かって当然っすよ」
「ありがとう」
「仮免に落ちたのに、卒検に一発合格した俺が言うんです。
せんせのアドバイス通りに運転したら、合格したんすよ?
『夜獣』を飲んで、テンションあげあげで本番に挑んで下さい」
「はい」
「俺、横断幕作って応援しますから」
「それは止めてください!」
ユノは呆れた風に、「冗談に決まってるでしょう?」と呆れたのだった。
(つづく)
(50)チャンミンせんせ!
卒業検定日の朝、ユノの様子を覗いてみよう。
ユノはまるちゃん宅のコタツで目覚めた。
「起きたか?」
昼夜逆転しているまるちゃんは、セクシーボイス総集編の編集中だった。
(ハイスペックPCに音声動画編集ソフトと本格的だ)
ユノは「...いてて、腰が痛い」と、顔をしかめて腰をとんとん叩いた。
「朝めしは適当に食えよ」
「いつも悪いな」
勝手知ったる他人の家。
ユノはボウルに入れたコーンフレークを、台所で立ったまま食べ始めた。
「茶を淹れてやるよ。
検定だからな」
まるちゃんも台所に立ち、紅茶の用意を始めた。
「砂糖?
ジャム?」
「ジャム」
まるちゃんは、イチゴジャムをたっぷり落とした紅茶のカップをユノに手渡した。
「昨夜のこと...平気か?」
ユノは熱々のジャムをすくったスプーンを咥え、「うーん」と唸った。
「どうだろ。
あんま平気じゃないけど、俺はどうすればいいのか答えが見つかった気がするから、諦めずに頑張ってみるつもりだ」
「それなら、よかった」
「まるちゃんには世話になった。
俺ひとりじゃ暴走して、せんせから嫌われてたかもしれない」
「そんなことないと思うけど?」
「嫌われたさ。
だってさ~、よく考えたらせんせってゲイなんだぜ」
『ゲイ』の言葉が生々しく聞こえてしまう自分の耳が嫌になる。
「『そんなの全く気にしねぇ』とまでは、言いきれない自分が嫌だ」
「分かってるじゃん。
悩み多き恋になるのは織り込み済みなんだ。
昨夜みたいなことはきっと、これからも有り得るぞ~。
頑張れ~」
「頑張るさ」
「俺のアドバイスのおかげで、ユノはちょっと物分かりが良すぎる奴になってしまった。
理解あるノンケって感じに?」
「それって悪いことか?
そうありたい、っていう理想像だよ」
「悪くないさ。
先生に対して冷静でいられたのはよかったけど、ユノ本来の猪突猛進、勘違いしまくりなところもお前の魅力だからな。
俺のアドバイスがなくても、先生の気持ちはちゃんとつかめてたんじゃないかな。
俺が思うに、こじらせていたのは先生の方だと思う。
お前の方が冷静だよ」
まるちゃんもボウルに入れたコーンフレークに牛乳を注ぎ、ユノの隣に立った。
「......」
ザクザクいう咀嚼音。
「ああいう心配性な男には、ユノみたいに思ったことをストレートに伝えてくれる奴が傍に居た方上手くいく」
ユノはカラになったボウルに、牛乳を注ぎ足した。
「会ったこともないのに、せんせのことをよく分かってるじゃん」
「会った」
「は?」
「ユノの『せんせ』とやらに会った」
「はあ?
嘘はやめろよ」
「嘘じゃねぇ」
まるちゃんもコーンフレークを食べ終え、紅茶のカップを持ってPCの前に戻った。
「いつ?」
ユノはまるちゃんの後を追った。
「昨日」
「昨日だって!?」
「ああ。
昨日、『せんせ』に会った」
「初耳だぞ」
「そりゃそうさ。
今初めて言ったんだ」
「どうして教えてくれなかったんだよ!」
(『せんせ』と同じことを言うんだなぁ)
「ユノは寝てたじゃん」
「どうして起こしてくれなかったんだよ!」
声を荒げるユノにまるちゃんは顔をしかめた。
「起こそうとしたさ。
お前に電話をかけて寄こしたのは、先生本人だぞ?」
「嘘!?
電話!?」
ユノはコタツ布団をひっぺ返し、通知ランプを点滅させたスマートフォンを探し出した。
「着信あり...」
「だろ?」
「でも、これ...?」
数件あった着信は、いずれもまるちゃんからのものだった。
(ちなみに、まるちゃんのスマートフォンには、実家とユノの電話番号、レンタルDVDショップのものしか登録されていない)
「せんせと会った話、実は嘘だろ?」
まるちゃんはじろり、とユノを睨みつけた。
美形なだけに凄みが違う。
「ユノを喜ばせようと、『せんせ』と会って伝言を預かった...んな面倒くさい嘘を、お前のためにつくわけないだろう?」
「確かに...そんなサービス精神はまるちゃんにはない」と、まるちゃんの性格を思い出した。
「つまりだな、こういうことだ」
チャンミンがまるちゃんの顔を知っていた理由、昨夜レンタルビデオ店に出没していた理由を説明した。
「ユノのバッグを渡したくて、お前を探してたらしいぞ」
(『馬鹿野郎』なんて言われたのに、俺が困っていないか心配したんだ。
せんせって、優しいなぁ...)
「ユノの電話番号を教えろ、って言ってきたけど、断った。
んなもん、ユノから直接教えてもらえよ。
もったいぶって、電話番号ひとつ教えてくれなかった『せんせ』が悪い」
いかにもまるちゃんらしい対応だったため、ユノは怒る気に全くならない。
それよりも、チャンミンと会話したまるちゃんに、「いいなぁ」と本気で羨ましがっていた。
「『せんせ』の泣きそうな顔といったら。
さすがに気の毒だったから、俺のスマホから電話しろ、って貸してやったわけ。
何度かけても、ユノは出ないしさ、とうとう『せんせ』は諦めたよ」
「あ゛~。
どうして、起きられなかったんだろう!」
ユノはバリバリ、頭をかきむしった。
「でも、それでよかったんじゃね?
俺からの電話かと思って出たら、相手はなんと愛しの『せんせ』なんだぞ?
パニクるだろ?
『馬鹿野郎』って罵ったばかりだしな。
何て言ったらいいかわかんないだろ?
気持ちが盛り上がって、店まで走って行ったかもよ?
検定前日なのに」
「俺なら有り得る。
で...俺のバッグは?
預かってくれたんだろ?」
「俺はそんな親切するいい奴じゃない」
「だろうね」
「俺を仲介しなくても、直接渡せばいいじゃん。
そう思って、俺んちに来ないか、って提案した」
「マジっすか!?
で、『せんせ』は何て?」
「遠慮しとくってさ。
『せんせ』もアタフタしてたし、ユノは検定前だし、こういう時は、ひと晩置いた方がいい。
...っていうのは、俺の見解。
ユノのバッグは、学校で渡してもらえるんじゃね?」
「せんせは他に何か言ってなかった?」
「言ってた」
「何て?」
「ユノに伝えたいことはないか?って、サービスして訊いてやった」
「それで?」
まるちゃんは、わくわくと身を乗り出したユノをしっしっと追い払った。
「悪い、忘れた」
「おい!」
「『せんせ』に直接聞くんだな」
「ちっ」
膨れたユノに、まるちゃんは「怒るな怒るな」となだめたが、PCディスプレイに視線は釘付けなままだったため、どこまで悪いと思っていたかどうか。
「今夜は家に帰れるな。
よかったな」
「ああ」
人嫌いのまるちゃんにしたら、相当頑張ってくれたのだ。
(まるちゃん...俺のために、ありがとう)
じんと感動しているユノをよそに、まるちゃんはヘッドホンを装着すると、セクシーボイス総集編の編集に戻ってしまった。
「じゃあ、行ってくる」
自転車を学校に置きっぱなしだったため、検定開始時間まで2時間以上あったが、学校に向かうことにした。
昨夜、チャンミンの車に乗るために、自転車を学校に置きっぱなしだったからだ。
「検定頑張れよ」
「ああ」
「で、『せんせ』に会いにいけよ」
「合格してからの話だ」
ユノは闘いに向かう戦士の気分で、まるちゃん宅を出たのだった。
・
当校してすぐに、ユノはKに呼び止められた。
Kと話しをするのはこれが初めてだったユノは、何事かと警戒していたところ、「チャンミン先生から預かっているよ」とバッグを渡された。
「これ...?」
チャンミンの車の中に置き忘れたバッグだ。
まるちゃんが言った通り、ユノのバッグは学校に届けられていた。
「チャンミン先生は今日から講習を受けにいってるんだ。
ユノ君も知ってるよね」
「はい...」
「今朝、彼は俺の家に寄ってくれて、ユノ君に渡してくれって。
困ってるだろうからって」
「ありがとう...ございます」
ユノはピン、ときていた。
(K先生...俺がせんせのことを好きだってこと、知ってる。
俺は「せんせ大好き」駄々洩れだったから、無理もないかぁ)
休憩時間にチャンミンとKが一緒にいるところをよく見かけていた。
(もしかしたら、俺の話題が出ていたかもしれない)
「今日は卒検だね」
「はい」
「緊張してる?」
「はい。
K先生もご存知でしょう、俺の運転を?」
ユノの問いに、「知ってる」とKは否定しなかった。
「でも、チャンミン先生の指導を受けたのだから、ユノ君は大丈夫さ」
「そうですかねぇ...正直、全然自信ありません」
まるちゃん宅を出る時は、威勢いい気持ちでいたのに、学校に近づくにつれしゅるしゅると自信が失われていったのだった。
あやふやに笑うユノの目の前に、目に眩しい真っ白なものが差し出された。
「?」
「チャンミン先生からこれも預かってきた」
「手紙...ですか」
ユノは、宛名に『ユノさんへ』とある封筒をひっくり返すと、裏面に『チャンミン』とサインがあった。
(せんせが俺に手紙?
なんで!?)
「検定の前に必ず読んで欲しいそうだ」
ユノの固い表情がふわりと緩んだ。
「あと30分で説明会が始まるよ。
早く読んだ方がいいよ」
「はい!」
ユノはKに頭を下げた。
Kは走り去っていくユノの後ろ姿を見送りながら、苦笑した。
(可愛いなぁ。
あんなイケメンで素直な子に好かれて...チャンミンは幸せ者だよ)
・
受検者たちはひとつの教室に集められ、受検番号や進行内容、受検する上での注意点などの説明を受けた。
ユノは配布された自身の教習簿を...スタンプ押印欄が足りなくなって紙を追加されている...開き、チャンミンが押したスタンプや彼の文字をひとつずつ指でなぞった。
スタンプ1個に1時限、数えてみたら12時限オーバーしたことになる。
(俺ってすげぇなぁ...。
よくめげずにやってこられたなぁ)
ユノはバッグから取り出した手紙を教習簿に挟み、胸に押し当てた。
この手紙を手渡されてからの30分、ユノは何度も何度も読み返して、空で読み上げることができるほどだった。
(頑張ったなぁ、俺。
まさしくせんせと二人三脚)
チャンミンの温もりが、胸にしみこんでいくイメージを浮かべた。
(やべ~。
手紙の中身を思い出すだけで、泣いてしまう)
受検者は場内コースへ移動するようアナウンスがあった。
(せんせ、俺、安全確認100%、丁寧な運転を心がけて運転します!)
...以降、受検中のユノの様子はどうだったかは、前述の通りだ。
講習後、街に出た2人は、ラーメン屋で夕食を摂ることにした。
ラーメンをすすり、餃子をつつきながらの話題は、「帰り道はどうしようか?」だった。
ここは全国チェーン店で、黙食を強要する頑固なオヤジはいない。
「今さら気付いたんすけど、俺、帰りもチャリンコなんですよね...。
せんせの車に乗りそうにないし...」
熱くて脂っこいものを食べ終えた2人の顔は、つやつやと血色がよかった。
「う~ん」
チャンミンは腕組して唸った。
一般的に、自動車学校指導員とは運転テクニックが素晴らしく、かつ愛車にはこだわりがある者が選ぶ職業だというイメージがある。
ところがチャンミンの愛車は、走行距離15万キロ越えのハッチバック型の国産車だった。
「助手席を倒してしまえば、ぎりぎり乗せられるでしょうが...そうしたら、ユノさんが乗るスペースが無くなりますね」
「俺、ひとりで帰れるから、大丈夫っす」
「心配です!
何しろ距離があります。
試験の後ですから、向こうに着くのは夜ですよ?」
「休み休み、のんびり帰りますよ」
「僕だけ先になんて帰れませんよ」
「だからって、俺のチャリに並走していくわけにはいきませんって」
「いいことを考えつきました!」と、チャンミンはポンと手を叩いた。
「僕は先に行きますが、休憩ポイントごとに...例えばコンビニとかでユノさんが追い付くのを待つのはどうでしょう?」
「あのー、せんせ」
ユノは胸の位置で小さく手をあげた。
「はい、ユノさん。
何ですか?」
「俺のこと、『ユノ』って呼んでくれないんすか?」
「え゛」
「俺たち、彼氏と彼氏になったんすから、敬語も変じゃないっすかね。
やっぱ、『チャンミン』と『ユノ』と呼び合わないと。
俺はよくても、せんせこそため口してくださいよ」
「なんだか...恥ずかしいですね。
そういうユノさんこそ、今も『せんせ』になってますよ。
『チャンミン』って呼んでください」
「せんせも敬語のままっすよ」
「せーの、で新しい呼び方で言いましょうか?
いきますよ...せーの」
「チャンミン...せんせ」
「ユノ...さん」
互いの呼び名を聞いて、2人は吹き出した。
「急には無理ですね」
「俺たちには時間はたっぷりあるから、慌てなくていっか。
俺にとって、せんせの名前は『チャンミンせんせ』なんだよなぁ...。
さん付けすると、チャンミンせんせさん、になる感じ。
分かってくれますか?」
「分かります」
顔を見合わせた2人はもちろん、笑顔だ。
(つづく)