(10)チャンミンせんせ!

 

 

「チャンミン!」

 

背中を丸めてとぼとぼと教習車へと向かうチャンミンに、同僚Kが声をかけた。

 

「まだ2時限なのに、ずいぶん疲れた顔をしてるんだな」

 

「そう見える?」

 

Kの指摘通り、チャンミンはげっそり疲れていた。

 

必要事項を全て押さえ時間ぴったりに終わらせた、自己採点80点だったのものに関わらず。

 

いつものチャンミンならば、教習生たちが全員はけてから教室を出るようにしているのに、今日はチャイムが鳴るなり逃げるように教室を出た。

 

赤くなった耳がバレなければいいのだけど...と心配しながら。

 

(いたたまれない時に、頬と耳が真っ赤になってしまうことがチャンミンのコンプレックスだった)

 

ユノの熱線視線にタジタジとしていたチャンミンだったが、実のところ悪い気はしていなかったのだ。

 

(あの子は僕の好みどストライクな顔をしている。

......。

...駄目だって!

彼は教習生で僕は指導員。

さらに、彼女がいるノンケだ。

おいチャンミン...前の男と別れたからといって、ユノとの恋愛を妄想するとは!)

 

「!」

 

もっと大事なことに気づいたのだ。

 

(ユノと顔を合わせたのはあの学科教習の時が初めてだ。

会って直ぐに、あそこまで分かりやすく見つめてくるものなのだろうか。

ひとめ惚れした?と自惚れてしまったけれど、冷静に考えると僕はひとめ惚れされるほどの者じゃない。

...となると、ひとめ惚れ説は却下だ。

他人との距離の取り方が0ミリの子なのか、僕を困らせて内心せせら笑っているんだ)

 

階段を降りる間、そのようなことを考えていると、背後から...。

 

「チャンミンせんせ~~~~!」

「!!!」

 

周囲の者たちがぎょぎょっとする大声量だ。

 

(この声は絶対に、ユノだ)

 

チャンミンはそろりと振り向いた。

 

キラッキラに目を輝かせ、明るく人懐っこい笑顔はチャンミンだけに向けられている。

 

ユノは階段をだだだっと駆け下りると、チャンミンの隣に立った。

 

「せ~んせ」

 

「...はい」

 

「ユノ、と言います」

 

ユノはペコリ、と頭を下げた。

 

「知ってます」と答えたチャンミン。

 

「俺、せんせの生徒です。

ひとこと挨拶しておこうと思いまして」

 

「は、はい。

こちらこそよろしく」

 

身長がほぼ同じ二人は、真正面から見つめ合う恰好となった。

 

ニコニコ顔のユノに対して、全身からどっと汗が吹き出したチャンミン。

 

「......」

「......」

 

立ち止まる長身の二人は、階段を上り下りする人の流れの邪魔をしている。

 

『ユノさんはどうして...僕を見るのですか?

僕の顔に何か付いてますか?』と追及しようか、ギリギリまで迷った結果、スルーすることにした。

 

気づいてないフリ、知らんぷりを貫こうと決めたのだ。

 

ところがその姿勢は、教習を重ねるごとに溶解していった。

 

ユノが勇気を振り絞って「連絡先を教えてくれ」とお願いした日に、チャンミンは降参した。

 

知らんぷりはもう無理だ、と。

 

己の気持ちに正直でいようと、恋には情熱的になるチャンミンのハートに火がついた。

 

そこに至るまでの、彼らの焦れったいやり取りは微笑ましいものなので、いくつか紹介しよう。

 

「ユノ~!」

 

ユノを呼んだのはQだった。

 

チャンミンはユノを追ってきた女子学生を目にして、我に返った。

 

(若く、いい香りがして、柔らかそうで...まさしく女子)

 

「帰ろうよ」

 

Qはユノの腕を引っ張った。

 

「せんせ、実習、明日ですね!」

 

Qに引っ張られながら、ユノは手を振った。

 

それに応えて、チャンミンは頷いてみせた。

 

チャンミンは思う。

 

(ユノ...変な子だ。

もし僕がそっち系じゃなかったらどうするつもりなんだろう。

ガン見されたら普通、気持ち悪がられるって、分かんないのかなぁ

...まさか!?

僕が男が好きだとバレてるとか...あり得ない)

 

バレているのですけどね。

 

 

2時限目前の休憩時間に戻ろう。

 

「今日は練習するか?

車も空いてるし、俺も付き合えるぞ?」

 

チャンミンは新たな免許取得のため、終業後に大型自動車の運転練習をしていた。

 

大型自動車指導員資格を持っているKを助手席に座らせ、アドバイスを貰っていた。

 

「うーん...今日は止めておく。

ありがとう」

 

失恋の痛手を引きずり、プラス挙動不審の教習生(ユノ)の件で、チャンミンの心はキャパオーバーだ。

 

 

 

ユノの恋愛を振り返ってみる...どちらかというと淡泊かもしれない。

 

彼女と言える存在がいた時期はあったけれど、交際具合はやはり淡泊で、水草のように彼女に身をゆだねていた。

 

女子は好きだし、性欲もちゃんとある。

 

いつか運命の人と出逢えるなんて一切信じていない、恋愛への期待度が低い男だった。

 

そのため、彼女選びに苦労しないルックスと嫌味ではない爽やかさ、馬鹿っぽくない明るさ、適度なポジティブさ...が宝の持ち腐れとなっていた。

 

人付き合いはいい方だが、心を許して語れるのは親友のまるちゃんだけだった。

 

のめり込む趣味がないからと言って、ユノの暮らしは無味乾燥なものだと言い切れない。

 

単にのほほんとした性格の持ち主なだけの話だ。

 

(ここまでの話では、陽と陰の組み合わせに見えるユノとチャンミンは、似た者同士なのかもしれない)

 

マイペースに彼なりの日々を楽しんでいたところ、チャンミンという雷が落ちた。

 

異常事態、緊急事態だ。

 

 

 

入校式のその夜、興奮冷めやらぬユノはまるちゃん宅に押し掛けることにした。

 

恋の相談に乗ってもらおうと思ったのだ。

 

特に今回の恋は、相手は『男』ということもあり、是非ともまるちゃんの意見が聞きたかった。

 

相談料としてコンビニエンスストアで飲み物と弁当を買い、途中、チャンミンのマンションの前を通ってゆく。

 

遠回りであっても寄ってゆく。

 

5階か6階あたりを見上げることも忘れない。

 

(チャンミンせんせ...お仕事終わりましたか?)

 

帰宅したマンションの住人が、立ち尽くすユノをチラチラ見てゆく。

 

ユノは不審者になりかけていることに気づいて、その場を立ち去った。

 

20:00の夜の街、幹線道から外れてはいるが車通りはまだ多い。

 

街灯と車のヘッドライト、それからマンションのエントランスの照明もあって、顔の判別が可能なくらいには明るかった。

 

危なかった。

 

チャンミンが帰宅してすぐにユノが現れ、ユノが立ち去ってすぐに、チャンミンはバルコニーに干していた洗濯物を取り込んだのだ。

 

ばったり会うなり、通りを見下ろすなりして、ぽぉっとしたユノと顔を合わせてしまう。

 

初対面の人物が、家の前に張っていたら...相当怖い。

 

しどろもどろになったユノはうまい言い訳ができないどころか、『せんせに会いたかったんです』と正直な気持ちを吐いてしまい、さらにチャンミンをひかせてしまったかもしれない。

 

現在のところ、ユノは明らかに不審者だ。

 

今日は1日目。

 

チャンミンのユノに対する態度と評価がどう変化してゆくのか見守りたい。

 

 

(つづく)

 

[maxbutton id=”23″ ]

(9)チャンミンせんせ!

 

 

ユノはチャンミンの背中...ホワイトボードにイラストを描いて、「車とは何か?」の説明をしている...をぽぉっと見惚れていた。

 

見惚れる程の筋骨逞しい素晴らしいものとは言えず、長身痩躯の男の背中に過ぎない。

 

この頃のユノが抱く恋心とは、チャンミンをフッたあの男と重ね合わせたものだった。

 

(あのムカつく野郎は、チャンミンせんせを...せんせを抱いたことがあるのか。

せんせはあのムカつく男とエッチしてたのか)

 

ユノの頭にポワンと、チャンミンせんせの裸体の想像図が浮かぶ。

 

(う~む)

 

5日前に受けた男同士で恋ができる事実の衝撃を、ユノは未だ引きずっていた。

 

その衝撃のひとつは、その気になればチャンミンと恋ができる可能性が差し出されたことだ。

 

(俺も...チャンミンせんせと...恋ができるのか...!)

 

ユノはさらに、貧弱な知識を総動員させて、アレのシーンを思い浮かべてみた。

 

(恋人なんだからヤって当たり前だよな...あり得ないよな...あり得なかったのに、あり得るかもしれない。

チャンミンせんせとならあり得る!!

俺、チャンミンせんせなら抱ける!)

 

「ここ試験に出ます」の言葉に、ユノはその一文に蛍光マークをひいた。

 

(何考えてんだ、俺?

せんせを犯すような考えを持ったらいけない!)

 

ユノはチャンミンを抱けるか抱けないかの問答で忙しかったのである。

 

(ユノは20歳平均男子並みの性欲を持っています)

 

「...ひとことに『車』と『車両』は違います」と言いながらチャンミンは振り返り、バチっとユノと目が合った。

 

(ヤバっ...)

(ヤベっ!)

 

不意打ちで、ユノもチャンミンも目を反らす隙がなかった。

 

ユノは誤魔化そうと、首をかしげて舌ペロした。

 

「!」

 

男性にしては紅い唇からのぞく、紅い舌...「可愛い...」と思ってしまったチャンミンだった。

 

無言の間を埋めたくても、ユノは真面目に蛍光マーカーペンを手に教則本を広げており、注意をする隙無しだ。

 

(なんだこの子は。

僕のことを見過ぎだよ。

...変わり者だ。

綺麗な子だから、ギリギリセーフだけど...やっぱり怖い)

 

「......」

 

ユノのキラキラな目で見つめられ、チャンミンがタジタジとなっている間、ユノの妄想は加速していた。

 

(...せんせの背中を抱きしめたら...どうかな?

せんせは大きいなぁ、しがみつくみたいになっちゃうよな。

恋人と別れて辛い時で、仕事中は強がってるんだろうな。

せんせ、俺が笑わせてあげるからな!)

 

「え~っと、Qさん」

 

苦し紛れにチャンミンは、ユノの隣席の女子(カノジョだと見なしている)を当てて、問題を出すことにした。

 

「馬車は何に当たる?」

 

突然指名され、即答できないQは教則本のページをパラパラとめくった。

 

チャンミンは回答を急かさないよう、穏やかな表情でQを見守った。

 

少しでも頭を動かすと、ユノがビシビシと送る視線とぶつかってしまいそうだった。

 

(最前列に席をとり、ガン見してくる教習生はたまにいるけれど、それは勉強熱心だったり、目が悪かったりする人たちだ。

でも、ユノはそれとは違う。

教習内容ではなくて...僕に興味を持っている目だ!)

 

教習指導員にとっての教習生とは、『お客様』

 

具体的かつ実害を伴ったハラスメントでない限り、教習生を遠ざけることはできないのだ。

 

変わり者だということで、ユノを無視したり、担当を外れることは絶対にできない。

 

ユノに関しては、引いている面もあったが、ユノに見つめられて全身が熱っぽくなるような、鼓動が早くなるような、そんな感覚をいずれ感じ始めることになる。

 

答えられずにいるQのために、「馬車は...自転車と同じくくりです」と、チャンミンはヒントを出した。

 

Qはユノのパーカーを引っ張った。

 

「ユノ」

 

女子と親し気なところを、チャンミンに見せたくないユノだ。

 

ムッとした表情になりそうなのをグッと堪え、「軽車両」と小声で答えを教えてあげたのである。

 

「えっ?」

 

一度で聞き取れず顔を近づけるQに、ユノは再度教えてやった。

 

「軽車両」

 

「何?」

 

「軽車両」

 

「ゆっくり言ってよ」

 

「けい、しゃりょう!」

 

最後は、ノートの隅に答えを書いてもらったことで、Qは回答することができた。

 

ここまでのラリーを見守っていたチャンミンに、クスリと笑みが漏れた。

 

「はい、Qさん正解です。

ユノさんが答えたようなものですけどね、あはは」

 

チャンミンのからかいに、教室内で笑いがあがった。

 

ここは「えへへ」と照れ笑いするところだったが、ユノは喜びのビッグウェーブで放心していた。

 

(『ユノさん』!!

せんせから、初めて名前を呼ばれた!!

せんせ、笑った!

笑顔が...可愛い!!)

 

ユノは皆が笑っている理由が分からずにポカンとしていた。

 

無垢で幼いその表情に、チャンミンはもう一度、ユノを可愛いと思った。

 

「続きに戻りますよ」

 

担当教習生にプライベートを知られているとは露知らず、チャンミンせんせはさくさく授業を進めてゆくのだった。

 

 

(つづく)

 

[maxbutton id=”23″ ]

(8)チャンミンせんせ!

 

 

ユノがチャンミンを尾行した5日後、麗らかなる初春の晴れ。

 

この日は入校式。

 

チャンミンが勤める自動車学校では、週に2度行われる。

 

朝礼後、チャンミンは割り振られた担当教習生の一覧に目を通していた。

 

(50代のご婦人...旦那さんが亡くなって移動手段に困ったため、オートマ限定。

20歳大学生の男子、マニュアル車、原付・二輪共に免許なし

男子の方はスムーズだろうけど、ご婦人の方は手こずるかもしれない...)

 

入校生たちは学費の支払い、視力検査、写真撮影を済ませると、ひとつの教室に集められる。

 

ここで彼らは、卒業までの流れや校内ルール、予約の取り方などの説明を受け、最後に教習簿を手渡されるのだ。

 

学科教習の必要のない教習生たちが、受付カウンター前にぞろぞろと集まってきた。

 

ライダースジャケットを着た若者たちや、建設会社の制服を着た中年男性を指導員たちは出迎えた。

 

チャンミンの同僚や先輩指導員は普通免許の他に、二輪や大型免許の教習生も併せて担当する。

 

車庫の脇に駐車したトラックとローダー、400ccバイクの方へ向かう彼らの後ろ姿を見送りながら、チャンミンはそっとため息をついた。

 

悲しい、寂しい、怒り、情けない...失恋生活5日目のチャンミンだった。

 

「チャンミンさん、1時限目始まりますよ」

 

事務兼受付のEさんから声をかけられた。

(すべての教習生の顔と名前を一致させている凄い人)

 

「すみません!」と教則本を手に、チャンミンは学科教室へと走った。

 

本日の第1時限目の学科教習は、チャンミンせんせだ。

 

 

進学に便利な近場の自動車学校は他にもあるにも関わらず、ユノはアパートとも大学とも遠いこの学校を選択した。

 

チャンミンにお近づきになりたい一心のユノにとって、距離など問題にならない。

 

計算外だったのは、同じバイト先の後輩女子Qがくっ付いてきたことだ。

 

「離れろよ」

 

今も隣の席にちょこんと座り、ユノの身体にくっついてくるのを、乱暴にならないよう押しのけた。

 

「だってぇ~」

 

口を尖らせて拗ねてみせるQに、ユノは「これでも飲んでろ」とバッグからペットボトルのジュースを出して手渡した。

 

Qのご機嫌取りに長けたユノだったが、彼女は“彼女”ではない。

 

ユノは、Qが“彼女”になりたがっていることに気づかない程の鈍感男ではない。

 

気づいてはいるが、それを突っぱねたり受け入れるだけの強い動機がないというだけ。

 

この曖昧さがのちに衝突の種にならなければいいのだが。

 

この学校では指導員が担当制だと入校式で初めて知り、ユノは緊張していた。

 

入学しさえすれば、フラれ男(つまりチャンミン)の教習を受けられるものだと思い込んでいた。

 

(違う先生だったらどうしよう...。

その時は、ごねて指導員の変更をしてもらおう。

そのための口実を考えておかなければ)

 

さきほど配られた用紙に担当教習指導員の名前が記載されており、『チャンミン』とあった。

 

(チャンミン先生か...。

どうか、レンタルビデオ店でフラれたあの人でありますように!

男の先生はいっぱいいたからなぁ...難しいかなぁ)

 

ユノは彼との再会を控え、美容院へゆき、買ったばかりのパーカーを着ていた。

 

(第一印象は大事だ。

“いい感じの子だな”と思われたい。

...ああ、俺って、あの人にマヂになってるみたいだ。

今日やっとであの人の顔を見られる、あの日は暗くてよく見えなかったから)

 

隣のQはバイト先で遭遇した迷惑な客についてぺちゃくちゃと喋っているが、当然、ユノの耳は素通りだ。

 

がらり、と戸が開いた。

 

ドア枠をくぐる際、長身あるある、頭をかがめて入室してきた指導員。

 

紺色のブレザーとグリーンのネクタイ、濃いグレーのスラックスを身に付けている。

 

(若い指導員たちの間ではダサいと不評)

 

(あ゛あ゛~~~~~!!)

 

ユノは心の中で叫んだ。

 

(この人、この人、この人だよ...。

フラれた人だ!

俺が尾行した人!)

 

ついでに、ユノのつむじに3つ目の稲妻が落ちた。

 

(グッジョブ、俺!

苦しい...胸が苦しい)

 

感動のあまり、ユノは涙がにじんだ目をそっと、人差し指でぬぐった。

 

(よかった...よかった...!

再会できた!)

 

チャンミンがユノに対して初めて抱いた印象が、「熱心な子」だった。

 

今回の普通免許入校生はわずか10名ほどで、最前列の席につき、チャンミンを注視するユノは大いに目立った。

 

(やっぱり綺麗な人だ。

顔色があまりよくないな...寝不足なのかな。

だよな、彼氏と別れたばかりだから)

 

チャンミンの胸につけた名札に、ユノは心の中で大絶叫した。

 

(なんだってぇ――――――!?)

 

ビンゴだ。

 

(ああ...神様、ありがとうございます)

 

ユノの担当教習指導員は、チャンミンだったのだ。

 

「1時限目は僕が担当します。

皆さんは学科教習を通して道路交通法を学び、仮運転免許試験合格を目指します。

試験範囲に今日の1時限目の内容も含まれます」

 

チャンミンの言葉に、教習生たちの背筋は伸びた。

 

「それでは~、5ページを開いてください」

 

そう言いながらチャンミンは、こちらの方を熱っぽく見つめてくるユノに気を遣っていた。

 

目を反らし過ぎても、目が合い過ぎても不自然だ。

 

(僕の新しい教習生は...隅の席にいるご婦人Nさんと、ど真ん中にいる男の子...ユノ。

隣にいる子は、ユノの彼女だろうな)

 

教則本を読み上げながら、チャンミンはユノをさりげなく観察していた。

 

(...このユノという子。

入学早々、勉強熱心というか、ヤル気に満ちているというか。

見た目は今どきなのに、ちょっと変わった子だな)

 

チャンミンは落ち着かない。

 

(...この眼。

僕のことが気になっているのかな)

 

チャンミンが自惚れてしまっても仕方がない。

 

(男が好きな子だったりして。

...まさかね、ははは)

 

キュッと目尻が切れ上がった黒々としたユノの眼光が凄かった。

 

宝石のようにキラキラと輝いていた。

 

 

長くなってしまったが、以上がユノとチャンミンの出会いの経緯だ。

 

 

(つづく)

 

[maxbutton id=”23″ ]

 

(7)チャンミンせんせ!

 

 

(他の男と寝ていた...!

僕は...フラれた!)

 

浮気をされたのは今回が初めてではない。

 

惚れたのはチャンミンが先だったこともあり、見てみぬふりをしてきたが、いい加減我慢の限界を超えて浮気を責めたところ、あっさりとフラれてしまった。

 

足元に突如出現した大きな穴に、すとんと落下した感覚。

 

その穴は深く真っ暗で、マイナスな感情だけが渦巻いている失恋の穴だ。

 

強引な彼に惹かれて付き合い始め、2年後の今は半同棲の関係だった。

 

失恋気分に浸る以前に、チャンミンは別の理由でパニック状態だった。

 

(これからの僕はどうしたらいいのだろう。

心の支えを失ってしまった僕は、どう生きていったらいいのだろう)

 

近年のチャンミンは、仕事へのやりがいを見失い気味だった。

 

人間としての成長も感じられずにいるフラストレーションを、恋愛で埋め合わせていたのかもしれない。

 

チャンミンの職業は自動車学校の教習指導員だ。

 

入社して1年間は、車両管理や教習生の送迎車の運転、その合間に二輪をはじめとする複数の免許を取得し、運転テクニックを磨き、道路交通法を頭に叩き込んだ。

 

その後1カ月間の缶詰講習と年に1度だけの試験をパス(実技、学科、模擬授業)して、ようやく取得した資格だ。

 

人に何かを教えること自体自分には向いておらず、苦労してとった資格をうまく活かしきれていないのではと疑問を抱くようになったのだ。

 

小さな不満を抱えながら、日々を投げやりに惰性的に生きてきた(と、チャンミンはとらえている)

 

となると、どうしても恋愛や恋人に依存しがちになってしまうのだ。

 

 

恋人に捨て置かれたチャンミンは、歩いて帰宅するしかなかった。

 

気温は低く、冷たい雨粒をまともにかぶる頭皮はじんじんと痛い。

 

濡れた衣服が体温を奪っていった。

 

今の自分の心情と立場にぴったりだと、チャンミンは情けない姿の自分に酔っていたりもした。

 

「......」

 

チャンミンは気づいていた。

 

自分の後を付いてきている人物がいる。

 

(僕の後ろをずっとついてくる人がいる)

 

信号待ちの時、疑念は確信に変わった。

 

(不審者だ!

チンピラだ!)

 

立ち止まった時、背後の者の足音が数歩遅れで止み、距離を詰めてくることはない。

 

恐ろしくて振り向けない。

 

ドッキンドッキン。

 

危険を察したチャンミンの身体は、体温を上げることで緊急事態に対応する用意を始めた。

 

(誰だ!?

どうして!?)

 

ざーざー降りの雨音で足音も息づかいも聞こえてこず、気配だけがびんびんに伝わってくる。

 

恐ろしくて振り向けない。

 

胸が破裂しそうだった。

 

走り出したくなるのを、ぐっと堪えた。

 

運動が苦手なチャンミンは、走りに自信がない。

 

あっという間に追いつかれて、後ろからタックルされて、固い地面に叩きつけられるのだ。

 

冷たい雨と失恋の涙が似合い過ぎて、そんな自分に浸っていられたのに...。

 

こぶしで涙を拭うついでにさりげなく、背後を窺った。

 

(いる!!)

 

男だ。

 

(怖い!)

 

シルエットから判断すると、若い男。

 

背は高い。

 

逃げたらきっと、追いかけてくる。

 

「いくら持っていたっけ?」と、財布の中身を思い浮かべた。

 

(カツアゲされたら、どうしよう。

お金...彼氏に渡したばかりだから、ほとんどない。

お金が無いと分かって、殴られたり蹴られたりするかもしれない!)

 

チャンミンは歩幅を変えず気づかないふりをして、自宅マンションまでの道のりを黙々と歩いた。

 

茶色いタイルの建物と、エントランスの灯りが視界に入った時には、腰が抜けそうだった。

 

チャンミンの背後で、自動ドアが閉まった。

 

腰が抜けた。

 

 

摂氏43度のシャワーを頭からかぶり、凍えた身体を温めた。

 

(僕はフラれた)

 

頭の中ではっきりと発音して、現実を突きつけるというどMな行為だ。

 

チャンミンにM傾向があるのかどうかは...ここでは脇に置いておく。

 

(『別れたい』って言われた。

『ウザい』って言われた)

 

失恋の激痛をまともに受け止めた。

 

(僕はフラれた。

彼は僕から離れていってしまった)

 

チャンミンの肩や腕は真っ赤だ。

 

(人生で何度目かの失恋...はあ...慣れない)

 

物静かな雰囲気の持ち主だが、恋に関してはどん欲な男なのだ。

 

愛したい6割、愛されたい4割。

 

大好きな人から「大好き」と伝えられ、これほど自信に満ちることはない。

 

風呂から上がっても、涙は止まらない。

 

明日は休みだから、目が腫れていても問題はないけれど、腫れあがった不細工な顔は情けない。

 

湿ったバスタオルを洗濯機に放り込む際、そこに引っかけたTシャツが目に入り、失恋のナイフが胸に刺さった。

 

「飲んでやるぞ」

 

チャンミンは、パジャマ(マーガレット柄)のボタンを喉元まできっちり閉めた。

 

シンク下から焼酎の瓶を取り出し、グラスになみなみと注いだ。

 

「いっぱい飲んでやる」

 

グラスの中身をぐいっとあおった。

 

「ういぃぃ」

 

飲み干して、追加のアルコールを注いだ。

 

胃の腑の辺りがかあっと熱くなり、指先がほかほかと温もってきた。

 

ほろ酔いのチャンミンの背筋が突然、ぶるるっと震え、どっと心拍数が早くなってきた。

 

帰宅してからは失恋気分に浸っていた。

 

次は保留にしておいた件について、考えることにした。

 

(僕の後をついてきた男...目的は何だろう?

たまたま目についた僕をカツアゲしようとしたにしては、いつまでも行動に移さなかった。

知らないうちに、恨みを買っていたのだろうか?

過去に担当した教習生かな?

もしそうなら...怖い。

玄関に張っているかもしれないから、外出の際は気を付けねば)

 

...チャンミンにとって、ユノは不審者そのものだった。

 

 

翌日...。

 

チャンミンに怒りの炎がついた。

 

チャンミンの部屋に置きっぱなしだった男の私物(コンドームや男同士の性行為で使用するアイテムもすべて)を段ボール箱に全て詰めた。

 

シーツや布団カバーはどうしようか、と一瞬迷った。

 

(あいつの匂いが染みついているものなんて...!)

 

ぞっとしたチャンミン、寝具は全部剥がしてゴミ袋に突っ込んだ。

 

男のTシャツは焼き捨ててやりたいくらいだったが、ベランダで火を熾すことはできない。

 

それならば、河原のバーベキュー会場で燃やしてやろうかと、焚火台をネット通販するところだった。

 

失恋真っ只中の人間の思考は極端で、忘れるために思いつく手段は、ユーモアにあふれていたりする。

 

 

ちょうどその頃、20歳の男子大学生が風邪と恋煩いの熱にうなされていたのである。

 

二人が接触するまであとわずか。

 

(つづく)

 

[maxbutton id=”23″ ]

(6)チャンミンせんせ!

 

 

男同士でも恋愛ができるんだ...。

 

衝撃だった。

 

ユノのつむじに稲妻が落ちた。

 

知識として知ってはいたが、身近に存在しないこともあり遠い存在だった。

 

今回、生身の同性カップルを目の前にし、それはもう愛憎みだれるやりとりを聞いて、ユノの初心なハートは揺さぶられた。

 

ユノは20歳そこそこの若造で、別れる別れない、嫉妬と恨み、泣いて殴って浮気して...と、ディープなやりとりの経験がなかったこともあるが...。

 

ユノはフラれ男...チャンミンを放っておけなかった。

 

(見た目大人しそうな人なのに、恋をするとああも激しくなれる人なんだな。

滅茶苦茶泣いてるじゃん。

あ~あ、突き飛ばされて、手が濡れたじゃん。

可愛い顔をしているなぁ...。

傘...持っていないよな、貸してあげようかな)

 

店先に居る間に声をかければよかったのだが、迷っているうちにチャンミンは通りへと歩き出していってしまった。

 

ユノは自転車にひっかけていた傘だけとって、チャンミンの後を追った。

 

追いついた後どうするつもりなのかはノープラン。

 

追わずにはいられなかった。

 

(可哀想に、浮気男に捨てられて。

俺よりずっと年上なのに、顔をぐちゃぐちゃにさせて泣きじゃくってさ。

よっぽど好きだったんだなぁ...相手は男だけど)

 

ユノはチャンミンの10メートル後ろをついていった。

 

チャンミンはうつむき加減でとぼとぼと、雨に濡れるにまかせている。

 

(びしょびしょじゃん。

ま、俺も似たようなものだけどさ)

 

背後を歩くユノに、チャンミンは気付いていないように見えた。

 

ときおり立ち止まっては、髪からつたう雨と涙が一緒になった雫をこぶしで目を拭っていた。

(傘をさしかけて、『濡れますよ』って声をかけたら、びっくりさせてしまうかな。

『もう濡れてますけど?』って返されたりして...ははは。

傘は1本きりだから、『あなたも濡れますよ?』となる。

『それならば、自宅まで一緒に行きましょう?』と提案してみるのは?

...変だよな)

 

迷い過ぎて声をかけるタイミングと勇気を失ってしまったユノは、チャンミンの後ろ姿を追うしかない。

 

(脚、ほっそ。

顔を見たいけど、追い越さないと無理だ。

声をかけたいけど、時間が時間だけにカツアゲだと誤解されてしまう。

『怪しい者じゃありません』と最初に断っておく必要があるな)

 

チャンミンは律義に信号を守るタイプらしい、無人の交差点を青になるまで待っている。

 

(俺だったら無視するんだけどなぁ...。

おっと!

危ない危ない。

バレるところだった)

 

立ち止まったチャンミンに接近しないよう看板や街路樹の陰に隠れるユノは、まるで尾行中の刑事か、ストーカーのようだった。

 

(この人が無事、家にたどり着けるまで見守ろう)

 

チャンミンを見ていると、守ってあげたくなるのだ。

 

ユノのハートがボッと、ピンク色の炎をあげた。

 

(男同士でも恋愛ができるのか!

そうか!

俺もこの人と恋愛できるんだ...!

俺だったら浮気なんて絶対にしないし、どついたりもしないし、大事にするのに)

 

大発見に、ユノの思考と感情は飛躍した。

 

チャンミンの姿は茶色いタイルのマンションの中へと吸い込まれていった。

 

オートロック式で、ユノは建物内には入れない。

 

ユノは灯りがともる部屋はどこか、建物を見上げて待っていたが、途中、マルちゃんからの電話で目を離したせいで、分からなくなった。

 

(今も泣いているんだろうなぁ。

可哀想だなぁ。

赤の他人の俺はどうにもしてやれないし...。

あったかくして、風邪をひかなければいいのだけど...大丈夫かなぁ)

 

ぶるるっと寒気が走った。

 

「さむ...」

 

もともと濡れねずみだった上に、いつまでも寒空をほっつき歩いていたせいだ。

 

「へっくしゅん」

 

案の定、その日ユノは風邪をひいた。

 

 

以上のような出来事がきっかけで、ユノはチャンミンに興味を持ったのだった。

 

その時は恋心とまでは言えず、チャンミンが美形の青年であること、浮気をした恋人を強い口調で責めていたこと、同性の恋人にフラれたこと、泣きじゃくっていたこと...つまり強烈な衝撃を与えた人物であること。

 

それから、守ってあげたいと思ったこと、可愛いと思ったこと、自分だったらいい恋人になるのにと思ったこと。

 

では、どうやってユノとチャンミンは自動車学校で再会できたのだろうか?

 

ユノはチャンミンを知っているが、チャンミンはユノを知らない。

 

ラブコメといえば...『運命の再会』である。

熱が下がった日、ユノは再びチャンミンのマンションへ赴いた。

 

皇帝ペンギンのDVDの返却(号泣した)ついでに寄っただけだと言い訳しながら。

 

(自宅は分かった。

では次にどうすればいい?)

 

マンションの前に張ってチャンミンが出てくるのを待ち、DVDでも落として声をかけてもらうとか、マンション前にぶっ倒れて、チャンミンに助けてもらう...とか。

 

(俺はアホか。

人と人が知り合うとは、なんと難しいのだろう。

気になるこの人とお近づきになるいい方法はないだろうか)

 

勇気を出して声をかけるべきだったと、熱が下がった3日後の今日、烈しく後悔したのだった。

 

「いかにも、怪しい人になっているなぁ」

 

かれこれ10分以上、マンション前でうろつくユノは明らかに不審者だった。

 

ユノは諦めてマンションを後にすることにし、通り向こうに渡るため車の切れ目を見計らった。

 

1台の車がユノの前を通り過ぎ、離れたところで停車した。

 

「...!」

 

ユノの切れ長の目が、カッと見開かれた。

 

行燈が屋根にあったせいでタクシーかと思ったが、それは自動車学校の教習車だった。

 

(もしかして!)

 

ユノは助手席に座っている者の顔を確認しようと、ペダルを踏みその車の前に出た。

 

(やっぱり...!)

 

レンタルビデオ店のフラれ男だった。

 

(運命だ...)

 

ユノのつむじに2度目の稲妻が落ちた。

 

フラれ男は身振り手振り熱心に、運転席のおばあさんに話をしていて、前方でぽおっとなっている男子大学生に全く気付いていない。

 

それはそうだ、向こうはユノを知らないのだから。

 

ところがユノは有頂天だった。

 

フラれ男(チャンミン)との繋がり方が見つかったのだ。

 

教習車にプリントされた学校名とフリーダイヤル。

 

5秒後にはユノは電話をかけていた。

 

「入学したいのですが...」

 

 

(つづく)

 

[maxbutton id=”23″ ]