(57)オトコの娘LOVEストーリー

 

~ユノ~

 

ドアの前にたたずんで、俺はチャンミンがシャワーを浴びる音をしばらくの間聞いていた。

ドア越しに声をかけようとしたが、言葉が見つからなかった。

このシチュエーションは覗きに近いと気付いた俺は、仕方なくリビングに戻った。

そこは無人で寝室をそっと覗くと、身体を丸めたリアがベッドで横になっている。

罪悪感が俺を襲う。

彼女のプライドをざっくりと傷つけてしまった。

「抱いて」の言葉に応えたところ、彼女の豊満な身体を前にしても俺の方は萎えたままだった。

別れを決心したくせに、彼女のことを可哀想だと思って、一瞬でも抱こうとした自分に嫌気がさした。

自身の喉元に刃物を向けた彼女の姿が、頭に焼き付いている。

ここまで彼女を追い込んでしまった自分の不甲斐なさにも嫌気がさした。

 

「はあ...」

 

俺はソファに寝っ転がって、広い天井に並ぶダウンライトを見上げた。

この部屋には、俺と男ひとりと女ひとり。

2人の間で右往左往している俺だったが、決して二人に振り回されているとは思わなかった。

その場限りの優し気な言葉を吐いていた結果がこうだ。

俺との別れを拒絶するのなら、リアを置いてこの部屋をさっさと出て行けばいいことだ。

けれども、それにストップをかける。

彼女を「捨てる」みたいじゃないかって。

ここを出るのなら、彼女には俺たちの別れに納得してもらいたいし、彼女の今後の生活のことも心配だった。

無責任なことはしたくないし、無責任な男だと思われたくなかった。

 

「そういうことか...」

 

どう思われたっていいじゃないか。

穏やかで寛大な男に見られたかっただけじゃないか。

本音に従って行動すればいいことなのに。

チャンミンのことを想う。

もし今、俺の想いをぶつけたら、彼は困るだろう。

特別に可愛らしいワンピースを着るくらいだ。

お洒落した姿を見てもらいたかったんだろう。

あんなに綺麗で可愛いワンピース姿を見せられたら、『例の彼』もぐらっときただろう。

彼の恋が順調そうな時に身勝手なタイミングで想いを告げたりなんかしたら、彼は悩むだろう。

彼とどうこうなる可能性が低くなったからといって、リアと別れることを思いとどまることは決してない。

俺は恋人が欲しいわけじゃないんだ。

 

「はあ」

 

ふわっとシャンプーのよい香りが漂ってきた。

湯上りチャンミンは、ソファの背もたれのこちら側に居る俺に気付かず通り過ぎると、6畳間に入っていった。

ゆったりしたワンピース姿を目にして、「いつものチャンミンに戻った」とホッとした。

綺麗に着飾った彼を見ると、胸がザワザワした。

なぜって、綺麗になるのは俺のためじゃなくて、『例の彼』のためのものだろうから。

おい、思い出せ!

リアと抱き合っているところを見られてしまったんだぞ?

床を這いつくばって彼女とコンタクトレンズを探していた、なんて感じじゃなかったんだぞ。

誤解を解きたかったが、うまい言いわけを思いつかない。

別れの条件を果たすために彼女と抱き合っていた、なんて言えるわけがない。

 

「はぁ...」

 

俺は立ち上がってキッチンへ向かった。

床に転がったカップケーキをひとつひとつ拾い上げた。

情けなく、そして泣きたくなるほど寂しい気持ちで。

「このカップケーキはね、豆腐や大豆粉で作られてるんだよ。

イソフラボンが含まれているから、チャンミンちゃんのお胸が大きくなるかもよ」

「ひどいですー!」

と、俺を睨んで頬を膨らませながらも、「でも食べまーす」って大きな口でパクパク食べるんだ。

「俺にも1個頂戴」っておねだりしたら、「1個だけですよ」って言いながらも、3個も5個も俺の手に乗せてくれるんだ。

彼はきっと、独り占めしない子だろうから。

俺たちは深夜のティータイムを楽しむはずだったのに。

 


 

~チャンミン~

 

ベランダの手すりにもたれて、夜景を眺めていた。

雨は上がっていて、雨上がりの涼しい風が湯上りの火照った顔や首を、ちょうどよく冷やしてくれた。

頭の中を整理しようと熱めのシャワーを浴び過ぎたみたいだ。

 

「はあ...」

 

今日はイベント盛りだくさんだった。

YUNさんに美味しいものをご馳走になったことだけでも嬉しすぎるイベントなのに、キスされちゃった。

「あー」っと声を出して、額を手すりに押し付けた。

YUNさんとのキスを、どう処理したらいいのか分からない。

嬉しいんだけど、素直に喜べない。

僕にキスした理由が分からない。

深い意味はなかったんだよね、うん、きっと。

だって、YUNさんには恋人がいるだろうから。

もうひとつの処理できない気持ち。

ユノさんがリアさんと抱き合っていた。

2人とも床に座っていて、リアさんの髪もユノさんの髪もぐちゃぐちゃに乱れていた。

2人とも赤い顔をして汗をかいていて...何をしようとしていたのか、僕だって想像がつく。

リアさんとやり直すつもりなんだね。

「リアとは別れる」って宣言してたのに、気が変わっちゃったの?

「別れたい」ってホテルで泣いてたけど、彼の本心はリアさんと別れたくなかったんだね。

ユノさんの...バカ。

心配したんだから。

リアさんと別れた彼を元気づける方法を、いっぱい考えたんだから。

ここは彼とリアさんのおうちだから、いつでもどこでもいちゃいちゃしてても、僕には文句は言えない。

でも...リアさんを抱きしめてる彼を見て、もの凄く動揺した。

「ラブシーンを見てしまった―!」っていう赤面ドキドキ動揺じゃないんだ。

呼吸が苦しくなる感じ、嫌な感じ。

この感情をひとことで言い表せる言葉を見つけた!

 

『面白くない』

 

彼とリアさんがいちゃいちゃしているところを見たくない。

彼には、リアさんといちゃいちゃして欲しくない。

でも...彼を責める資格は私には、ない。

彼はお兄ちゃんのお友達に過ぎないし、彼には恋人「リアさん」がいる。

それに。

僕はYUNさんのことが好きで、キスされて嬉しくて、でも彼には恋人がいて...。

どーしよー、頭がパンクしそう!

手すりにゴンゴンと頭を打ち付けた。

 

「!!」

 

後頭部に何かが触れた。

 

(つづく)

 

(56)オトコの娘LOVEストーリー

 

~ユノ~

 

リアのキスを受け止めた俺は、やけくそだった。

「抱かないのなら死んでやる」の言葉に、俺の心臓が凍り付いた。

単なる脅しだったのだとしても、ここまで捨て身になったリアが哀れで、同時に怖かった。

最後に1度セックスをすればリアが納得するのなら、抱いてやろうと思った。

本心は、嫌でたまらなかった。

リアの激しくて濃密なキスに引きそうになったが、ここで彼女を拒否したりなんかしたら、次も自分を傷つけそうだ。

リアは俺の首に巻き付けた腕に体重をかけるから、俺は仰向けになった彼女を組み敷く格好となった。

俺の心はしんと冷えていた。

リアがからめてくる舌に機械的に応えながら、チャンミンのことが頭をよぎった。

「リアと別れたい」と彼の肩で涙を流した夜を思い出した。

俺を慰めてくれたチャンミン。

優しい子だ。

あの夜の出来事が遠い。

 

「!」

 

リアの手がTシャツの下から忍びこんできた。

俺の胸の先端を、指先でいじりだした。

 

「リアっ...」

 

彼女が指摘したように、俺はここに弱い。

 

「待てっ!

ここでするのか?」

「うんっ...ここで抱いて。

お願い...激しくして」

 

俺の首筋にリアが吸い付く。

リアは俺の手を取ると、自身の豊かな胸に添えさせる。

手の平の下に、リアの柔らかくて弾力に富んだ胸を感じているけれど、これっぽちも欲情が湧いてこない。

チャンミンには好きな人がいる。

片想いだと言っていた。

『例の彼』に人を見る目が備わっている男ならば、女の子みたいな彼が無意識のうちに放つ、性差を超えた妖しい魅力に気づくだろう。

彼のユニーク過ぎる性格や性根の優しさに気づくだろう。

彼の透明で澄み切った瞳に映るのは、自分だけなんだと独占してしまいたくなるだろう。

例えば、俺のように。

チャンミンの想いが『例の彼』に伝わらなければいいのに。

『例の彼』が、彼の美しさに気づかなければいいのに。

 

「!!」

 

リアの片手が俺の胸から腹、腰へと下りていった。

他の誰がのことを考えながらリアを抱くなんて。

リアにすごく失礼だ。

何よりも、チャンミンへの裏切りだ。

 

「リア...!

...ダメだ」

 

俺のパンツのウエストゴムにかかった彼女の手をつかんだ。

 

「こんなの...よくない」

 

「放して!」と、俺の手を払いのける。

リアの顔が遠い他人に見えた。

 

「!!」

 

俺の股間を確認したリアの手が、ぱたりと床に落ちた。

 

「リア、ごめん」

 

わっとリアが声を上げて泣き出した。

リアを抱き起した俺は、背中を叩いてやった。

ごめん、リア。

他に好きな人が出来た俺が悪いんだ。

今の俺は君を愛していない。

 

「ごめん」

 

俺はリアの頭を贖罪の気持ちを込めて撫ぜた。

かちゃりと鍵を開ける音がした。

 

「!!!!」

「ただいまでーす...。

お~っと...皆さまはもうお休みのようですね」

 

小声の主は...チャンミンだ!!

電子レンジのデジタル時計を確認すると、23時45分。

ふんふんと調子っぱずれの鼻唄を歌っている。

よかった、帰ってきた。

キッチンの床に座り込んだ俺は、立ち上がってチャンミンの元へ駆け寄ろうとした。

ところがリアが放してくれない。

舌打ちしたい気持ちを抑える。

リビングに現れた彼は、ワンピースを着ていた。

昨日はちらっとしか見られなかった。

黒地に白い小花が散ったミニ丈のワンピースは、ほっそりとした身体のラインを控えめにひろいながら広がっている。

ウエストがきゅっと細かった。

襟ぐりが広く開いていて、白いデコルテとそこから繋がる長い首が華奢なイメージを醸し出していた。

アシメトリーに分けた白い前髪が、青い髪飾りで留められている。

ヤバい...可愛い。

リアと抱き合っていることを弁解することも忘れて、彼の姿に見惚れてしまって口もきけない。

女装している男には全然、見えなかった。

俺の目というバイアスがかかっていたとしても、彼は綺麗だった。

そっか...。

今夜、帰りが遅かった理由は...『例の彼』と会っていたんだ。

胸がきゅっと痛くなった。

俺たちの気配に気づいて、彼はパッと振り向いた。

 

「チャンミン...ちゃん」

「ユノさん、こんば...」

 

彼の目がまん丸に見開かれた。

 

「...リアさん」

 

続いて、俺の腕の中のリアにも気づくと口もポカンと開いている。

 

「ごめんなさい!」

 

彼は目を伏せると、180度身体を回転させた。

 

「びっくりしました...。

僕は、何にも見てませんからね。

...お風呂をお借りしますね。

ではでは、ごゆっくり...」

 

彼は顔を背けた状態で浴室の方へ消えた。

キッチンカウンターの下に、紙袋が横倒しになっている。

リアともみ合いになった時、手足が当たったのだろう。

カップケーキがいくつも床に転がっている。

「チャンミンちゃんのために貰ってきたんだ。全部食べてもいいからね」って、勧められなくなったカップケーキ。

誰かと会っていたチャンミン。

俺とリアは復縁したのだと誤解したに違いない。

ワンピースを着たチャンミンが綺麗で。

彼が遠くなっていく。

 

「チャンミンちゃん...!」

 

俺は引きはがすようにリアの身体から離れると、立ち上がった。

 

「ユノ!」

 

リアの不服そうな声を無視する。

浴室からシャワーの音が聞こえる。

シャワーを浴びる彼の元へ乱入して、抱きしめて誤解を解きたかった。

けれども、俺は彼の兄の友人に過ぎない。

俺にはリアとのことを弁解する義務もないし、彼の恋に口出す資格もない。

リアと別れるために、リアとディープなキスをしたし、リアを抱こうとしていた。

途中で止めたからセーフだなんて、言いわけにもならない。

だから、俺は閉ざされたドアを開けることができない。

 

(つづく)

(55)オトコの娘LOVEストーリー

 

~リア~

 

ユノに罪悪感を植え付けようと訴えたのに、通じなかった。

ユノは本気なんだ。

私のプライドはズタズタだった。

許せない。

本当に許せない!

モデルの仕事が激減した今は、この部屋を私一人で維持はできない。

ここを出なくちゃいけなくなるのは困る。

”あの人”のところへ転がり込もうか?

捨て身でいけば何とかなるかもしれない。

ユノの方も、良心と罪悪感をもっと刺激してやれば、折れるかもしれない。

ユノが私から離れられないように、引き留める何かとは...?

これしか、ない。

抱き着いたユノの耳元に囁いた。

 

「最後に1回だけ私を抱いて」

「え!?」

 

私の背中に回ったユノの腕がビクリとした。

私の流す涙がユノの肩に落ちる。

あなたのせいで泣いているのよ、って。

自分が可哀そう過ぎて、いくらでも泣けそうだった。

 

「1度だけ抱いてくれたら、ユノと別れてあげる」

「......」

「私のことを可哀そうだと思って...最後に...」

「...できない」

「ユノに断られたら、私...っく...っく...。

女としての自信を失っちゃう...」

「リアは自信を持っていいんだよ」

 

あと少しだ。

ユノの肩にもたせかけていた頭を起こし、間近から彼の顔を見る。

ユノも泣いているじゃない。

それにしたって...整った顔をしている。

私がユノと付き合ったのは、彼の顔とスタイルが理由なんだもの。

滅多にいない「いい男」だったから。

ユノには内緒。

私が「浮気」をしていることも、内緒。

もっと近づいて、ユノに口づける。

ユノは、唇を堅く引き結んだままだ。

 

「私とはキスもしたくないのね。

もう私は終わりなんだわ!

生きている価値なんてないんだわ!」

「リア!

落ち着けって!」

 

ごうごうと泣きわめく私を、ユノはきつく抱きしめる。

あと少し。

 

「死んでやる!

ユノと別れるくらいなら、私...死んでやるから!」

「リア!!」

 

この後の展開にふさわしい策がひらめいた。

ユノの腕の中から抜け出して、キッチンカウンター上のラックから包丁を抜く。

 

「リア!

よせ!」

 

私の手から包丁をもぎとろうとユノが手を伸ばすから、刃先を自分の方に向ける。

 

「死んでやる!

全部ユノのせいよ!」

 

死ぬ気なんて、さらさらなかった。

隙を狙ったユノが、私を羽交い絞めにする。

ユノは私の指を1本1本はがすようにして包丁を取り上げて、カウンター上に置いた。

 

「分かった、分かったから」

 

背後からきつく私を抱きしめた。

 

「死ぬとか、終わりとか、よしてくれ」

 

抱きしめられた私は、振り向いて片手をユノの頬に添えた。

充血した目で、苦しそうな顔をしている。

そうよ。

ユノが悪いのよ。

抵抗しないことに心中ほくそ笑んだ私は、ユノと深いキスを交わしたのだった。

 


 

~チャンミン~

 

「今夜はごちそうさまでした」

 

YUNさんはふっと笑みを浮かべると、「遅くまで悪かったね」と言って、マンションを見上げた。

 

「お友達は心配しているだろうね」

 

YUNさんとのキスで頭がパンクしそうになっていた僕は、ユノさんの部屋に住んでいる事情を端的に説明できなくて、「もう寝ちゃってると思うので、大丈夫です」と答えた。

食事の後、僕とYUNさんは雰囲気のいいカフェに入って2時間ほど過ごした。

レストランでお腹いっぱいに食べたくせに、甘いものは別腹みたいで、YUNさんに勧められるままケーキをオーダーした。

何を話したらいいのかわからなくて、食べることと飲むことに専念した。

ケーキを3個も食べる私を、YUNさんは穏やかな優しい眼で見ていた。

 

「チャンミンは美味しそうに食べるね」って。

 

キュンとする(それでも、ケーキは食べられるんだ。食い意地が張ってるんだ)

YUNさんが右を見る度、赤い跡が見え隠れするから、そこへ視線をやらないように意識していた。

恋人がいるんですよね?

さっきのキスなんて、YUNさんにしてみたら「軽い」ことなんだよね、きっと。

期待しちゃいけない。

YUNさんは遠い憧れの人なんだから。

 

「また明日」

「はい」

 

YUNさんは僕の顎に指の背で軽く触れると、車に乗り込んだ。

助手席に乗せてもらったのは。今夜で2度目。

大きくてかっこいい黒い車。

YUNさんの車が交差点を曲がって見えなくなるまで見送った。

 

「はぁ...」

 

僕は5分位、マンションのエントランス前で呆けていた。

ユノさん、心配しているだろうなぁ。

でも...。

ユノさんを見ると、正体の分からない理由で心がモヤっとする。

ユノさんのお部屋が、ちょっとだけ居心地悪くなってきたの。

ユノさんとリアさんが解散して、あの部屋を引き払うことになるのかどうかは僕には分からない。

今すべきことは、新しい住まいを探すことだ。

「よし!」と声に出すと、僕はエントランスドアを開錠したのだった。

 

(つづく)

(54)オトコの娘LOVEストーリー

 

~ユノ~

 

「最低!

あなたはクズよ!

最低!

浮気者!」

 

リアの振り回す腕が、俺の顔や頭を打ち付ける。

 

「まるで私だけが悪いみたいに責めるなんて卑怯者!

好きな女がいるのなら、はっきりそう言えばいいじゃないの!」

 

リアの言う通りだったから、俺は叩かれるままでいたけれど、さすがに...痛い。

リアの手首を持って動きを封じたら、彼女は崩れるように床に座り込んでしまった。

 

「どんな子?

私の知っている子?」

 

俺はリアの質問に答えず、彼女の手を引っ張って立ち上がらせようとした。

と突然、リアが俺の首にかじりついてきた。

リアの肩を抱くべきか、彼女の腕を振りほどくべきか悩んでいた。

「好きな女がいるんでしょ?」の台詞で、視界が開けたような気がしたんだ。

リアには悪いけれど。

リアとの関係を清算しようと決意した理由。

リアとの生活がむなしくて、彼女への興味が薄れてしまったのは常日頃感じていたことで、「別れた方がいいのでは?」の気持ちは湧いては打ち消していた。

気持ちを打ち消していた理由は、変化を恐れていたこと。

過去に交際してきた女性たちとの間で経験した、辛かった時期を思い起こす。

関係を清算する際に発生する事柄...。

例えば...別れ話中のすったもんだ、引っ越し手続きと持ち物の線引き、友人たちへの説明...そして、心を襲う寂しく悲しい想い。

リアの反応が怖かった。

そんな中、優柔不断な俺の前に“あの子”が現れた。

その日の夜に、俺はリアとの別れを決意した。

好きな人ができたから、リアと別れようと決意したんだった。

俺の気持ちが、ここで初めて明確になったのだった。

 

「別れる前に、ひとつだけお願いを聞いてくれる?」

「ああ」

 

リアと別れられるのなら、何でもしてやろうと思った。

最後のお願いを叶えてやろうと思った。

この時の俺のずるい考えが、その後の物事を複雑にしてしまったのだ。

 

(つづく)

(53)オトコの娘LOVEストーリー

 

~ユノ~

 

残業でくたびれた身体を引きずるようにして帰宅した。

今日はカタログに載せる健康レシピを監修する料理家の元へ出向いていた。

俺もエプロンをつけて、調理を手伝ったのだ。

片手に下げた紙袋の中に、沢山のカップケーキが詰まっている。

生地が大豆粉とお豆腐で出来ているからヘルシー、なんだそうだ。

彼に食べさせようと、全部もらってきた。

彼の大きな口の中に、すいすいと消えていくんだろうな。

「ユノさん、美味しいですー」って。

思わず、ふふふっと笑いがこぼれた。

リビングが明るかったからチャンミンがいるんだろうと、元気よく「ただいま」と言った。

 

「ユノ...?」

 

キャミソールに短パン姿のリアが、ソファで膝を抱えていた。

ローテーブルの上にスナック菓子と菓子パンの袋が散らかっていた。

彼女は1.5リットルのコーラのペットボトルをラッパ飲みすると、フライドチキンにかぶりついた。

 

「珍しく遅いのね」

 

スタイルを死守するために食へのルールが多かった彼女らしくない。

「食べ過ぎじゃないのか?」なんて、口が裂けても言えない。

どんな内容であれ彼女に向けるふさわしい言葉が、今は見つからない。

昨夜に引き続き、彼女が今夜も部屋にいること自体も、今までと違っていた。

分かっているのは、著しく機嫌が悪いということだ。

キッチンに紙袋を置いて、「チャンミンちゃんは?」と彼女に尋ねた。

 

「さあ。

帰ってきてないと思う」

 

チャンミンの部屋を何度かノックしたのちドアを開けたが、三つ折りにした布団が見えるだけで無人だった。

まだ帰ってきてないのか?

今夜はカットモデルのバイトではないはずだ。

23時。

チャンミンはまだ帰ってこない。

 

 

スマートフォンのディスプレイを何度も確かめていた。

落ち着かなくて、立ったり座ったり、冷蔵庫の扉を開けたり閉めたり、飲みたくもない珈琲を淹れたり。

これまで3回電話をかけたが、マナーモードにしてあるのかチャンミンは電話に出ない。

今朝、出勤前の玄関先で、「今夜は帰りが遅くなります」と彼は言っていた。

昨日に引き続き、彼の態度がどこなくそっけなかったような気がした。

だから余計に俺は心配だった。

 

「未成年じゃあるまいし。

夜遊びしているだけだって」

チャンミンのことを男だと思い込んでいるリアが、投げやりに言う(その通りなんだが)

 

夜遊び、の言葉に俺の心がヒヤリとした。

今夜はカットモデルのバイトはないはずだ。

友達と遊びに行っているのだろうか?

それとも...『例の彼』と...?

 

「ユノ!」

 

騒々しい音を立てていたTVを消すと、リアは怖い目をして俺を見た。

 

「私たちのこと...まだ気持ちは変わらないの?」

「...変わっていない」

 

俺はゆっくりと首を振った。

 

「私は...別れたくない」

「リア...」

「ユノに捨てられたら、私はどうすればいいのよ?

この部屋を出て行かなくちゃならなくなるのよ。

モデルの仕事なんて...この半年間はほとんど無かったのよ。

知らなかったでしょう?」

「え...!」

 

驚いた。

 

「忙しい忙しいって...帰りも遅かったよな?」

「呑気な人ね。

モデルの仕事がなくなったら、どこで稼いでると思う?

コンビニやファストフードの店員をやってるって?

私にできるわけないでしょう?

夜の仕事に決まっているじゃない!」

「......」

 

モデルのことも夜の仕事のことも、初耳だった俺は絶句した。

 

「初めて聞く話でしょう?

驚いたでしょう?

毎晩帰りが遅い理由を聞かなかったユノが悪いのよ」

「夜の仕事っていうと...ホステスとか、キャバ嬢のことか?」

「そうでもしないと、生活費はどうするのよ?」

「どうしてもっと早く教えてくれなかったんだ?

相談にのってやれたし、違う部屋に引っ越すことだってできたんだぞ?」

「モデルの仕事が少なくなったなんて言えるわけないじゃないの。

ユノは『モデルのリア』が好きなんでしょ?

理想を壊したくなかったのよ」

「リア...」

 

彼女は話したいことしか話さない。

俺が質問したとしても、詮索していると捉えて機嫌を悪くする。

仕事の後、遊びにでも行っているのだろうと思い込んでいた。

好き勝手に暮らしている彼女に嫌気がさしていた自分が恥ずかしくなってきた。

彼女には彼女なりの事情があったのだ。

不満があったのならそれを言葉で伝えたり、帰りの遅い理由を問いたださなかった俺が悪かった。

彼女の言う通り、俺は『モデルのリア』に惚れた。

でもそれは好きになったきっかけに過ぎず、俺が求めていたのは「好きな人と共に過ごす時間」と互いを想い合う感情だ。

楽しく笑い合うだけじゃなく、衝突し合ったり、胸を痛めることもあったりして、共に経験する時間が欲しかった。

俺をほったらかしにしているくせに、スマートフォンを盗み見る彼女が嫌だった。

 

「じゃあ、泊りで何日もいなかった時は?

その時は、撮影だったのか?」

 

彼女の表情が一瞬強張った。

 

「今さら、あれこれ聞くのはやめてよ。

私のことなんか興味なかったくせに!」

 

「そんなこと...」

...「なくはない」と思った。

 

彼女の不在に不貞腐れているうち、不在が当たり前になってきて、稀に彼女が部屋にいる日があると、くつろげず緊張している自分がいた。

 

「ユノは...私を...捨てるの?」

「そんな言い方はよせよ」

 

彼女の口は歪み、大きな目に涙が膨らんでいる。

また泣かせてしまった。

 

「私のことが嫌いになったの?」

「嫌いになったわけじゃない」

「じゃあどうして、別れたいのよ?」

「君と恋人関係を続けるのに疲れたんだ」

 

俺の目にも涙が浮かんできた。

交際期間たった1年で俺は根を上げた。

 

「早く帰るから。

料理もするし、デートもする。

ユノの好きなことを一緒にするから。

ユノのファッションに口出ししないし...そうだ!

旅行しようよ。

今まで行ったことなかったでしょう?

私、変わるから!」

 

俺の腕をぎゅっとつかんだリアが、俺を見上げている。

彼女の必死な姿は初めて見る。

 

「もう遅いよ」

俺はゆっくりと首を横に振った。

「気持ちがなくなったんだ」

「大嘘つき!

私のことを好きだの、最高だの言ってたくせに!」

「ごめん」

 

当時の気持ちは本物だったと断言できる。

 

「分かった!

他に好きな女がいるんでしょ!」

「!?」

 

瞬時にチャンミンの顔が浮かんだ。

パチンと音がして、頬がカッと熱くなった。

俺の表情のわずかな変化を見て取った彼女が平手打ちをしたのだ。

 

(つづく)