(43)NO? -第2章-

~チャンミン~

 

私を抱いてください私を抱いてください私を抱いてください私を抱いてください私を抱いてください私を抱いてください私を抱いてください...。

終業までのわずか1時間で、何度心の中で連呼しただろう。

キーボードを叩く指が止まるたび、隣席の後輩Sから「先輩!」とデスクをノックされた。

ついには「今夜、新しい彼女といいコトでもする予定なんすか?」と冷やかされ、「そんなところ」と正直に答えてしまった。

 

「うっわ~。

はあ...そうっすか

そりゃ頑張ってくださいね」

「うん...頑張る」

「明日は会議ですから、加減してきてくださいよ」

「ああ」

「先輩はもう、若くないんすからね」

「そうだね」

「彼女は若いんすか?」

「うん、ちょっとだけ」

 

素直に回答する僕を面白がって、Sの軽口もエスカレートした。

 

「可愛いっすか?」

「うん。

可愛い」

「うっわ~」

 

民ちゃんのメールで頭がおかしくなってしまった僕は、TPOを無視して凄い惚気を聞かせてしまっていることに気づいていなかった。

Sはぽわんと上の空な僕に呆れて、相手にするのを諦めたようだった。

 

「そんじゃ、楽しんできてください。

俺は資料まとめたら帰りますんで」

 

Sの方を見もせずに、僕は「お疲れさん」と言った。

僕の指はキーボードの上で浮いている。

 

『抱いてください』

 

民ちゃんの中で、心境の変化を起こさせるような出来事があったのだ。

ユンにおかしなことをされた可能性が思いつき、ムラムラと腹が立ってきた。

僕は男で、アレは初めてではないから、心の準備も身体の準備(?)も必要ない。

気を配らないといけないのは、民ちゃんが処女だということだ。

今の時代、童貞も処女も珍しい存在ではないらしいから、民ちゃんを天然記念物扱いをしたらいけない。

 

(恋愛自体が面倒で、自己処理で十分なのだそう)

 

けれども、お相手が普通の(という言い方は、民ちゃんに失礼だな、ははは)女性だった場合は、こうも身構えていなかった。

さて、経験のない民ちゃんにどう触れてあげればよいのやら。

 

(この言い方はいやらしいなぁ)

 

経験豊富なおっさんが、「優しく抱くから」と囁いて安心させる。

 

(いやらし過ぎて、とても口にできない)

...というほど、僕は経験豊富じゃない。

 

僕と言う男は、中の下くらいのテクニックで(多分)、絶倫でも性欲が薄いわけでもない。

アレすることは好きだけど、どちらかと言うと好きな人と一緒に過ごす時間を重要視するタイプだ。

究極を言えば、一緒に暮らしたい。

先に眠った彼女に毛布をかけてやり、先に目覚めた僕が彼女の髪を撫ぜる。

スーパーを一緒に買い物をしたり、彼女の洗濯物を畳み、深夜のコンビニエンスストアへ手を繋いで行く。

それから、遠く離れていても彼女の存在を意識している感じが夢だ。

リアの時は...そんな僕を本気で鬱陶しがったため、いわゆる家庭的な自分を封印するしかなかった...前の恋愛話はよそう。

今は恋愛の理想像を語る時ではない。

勢いと雰囲気に任せればいいものを、はっきりと「抱いてください」と頼まれると、身構えてしまうし、滅茶苦茶照れてしまう。

と、僕の心理状況をぐだぐだと説明してきた。

 

『19:00に僕の部屋でどう?

民ちゃんの家まで迎えにいくよ』とメールした。

 

『私の部屋でするんですか?

敷き布団ですよ?

膝が痛くなりませんか?』

 

「ぶはっ!」

 

民ちゃんの回答は無邪気なゆえに、あけすけだ。

 

『集合場所が民ちゃんのアパートっていう意味だよ。

何時がいい?』

『20:00でいいですか?』

『OK』と絵文字を送る。

 

『やっぱり、22:00にしていいですか』

『遅くない?』

『私も女ですもの。

女には、お風呂入ったり、その他いろいろと準備があるのです』

 

「......」

 

民ちゃんの意気込みが伝わってきて、僕の責任重大度が一段階アップした。

 

『お風呂はうちで入ったら?

そうすれば、集合時間を早められるよ?』

 

送信ボタンを押した直後、大胆なメール内容に赤面した。

 

(僕の部屋でお風呂って...)

 

民ちゃんからの返信がない。

デスクに携帯電話を置き、着信を待った。

 

15分後。

 

(きた!)

 

『わかりました。

チャンミンさんのお部屋でお風呂を借ります。

20:00に会いましょう』

 

終業チャイムが鳴る前にPCの電源を落とし、荷物を持って通用口で待機していた。

チャイムが鳴るなり退勤処理をした僕は、会社を飛び出した。

「急ぎの用でも?」と、誰かに尋ねられたら、「今夜は彼女とアレするんで!」と、正直に答えてしまいそうな自分が怖い。

 

 

民ちゃんとの集合時間は20:00。

場所は僕の部屋。

僕が帰宅できたのは18:45。

 

僕は几帳面な方だから、部屋は片付いている。

民ちゃんが僕の部屋に来るのは初めてなのだ。

民ちゃんの部屋でもよかったのだけど、余裕をもって進めたいから、僕のテリトリーが望ましい。

室内干しした洗濯物はクローゼットの中に放り込んだ。

シーツを交換し、風呂場の掃除をした。

タオルは十分あるし、古びたパンツを誤って穿かないよう、おろして間もない下着を用意した。

 

「え~っと、次は...」

 

洗面所の棚から例のBOXを取り、封を切った。

千切ったそれを、2個ほど枕の下に忍ばせ...。

 

(駄目だ!

その気まんまん過ぎる!

自分で自分に引く)

 

準備万端過ぎて、『チャンミンさんったら、えっちがしたくてしたくてしたくてたまらなかったのですね』と民ちゃんに突っ込まれるのだけは避けたい。

迷った末、TVキャビネットの引き出しに入れておくことにした。

 

(疲れた...)

 

僕は昂る気持ちだけで疲弊してしまい、クールダウンしようとベッドに腰掛け、そのまま後ろに倒れ込んだ。

その時、視界をかすめた掛け時計の指す時間に、飛び起きた。

 

19:55!!

 

まずい、遅刻してしまう。

 

僕はコートを羽織る間もなく、部屋を飛び出した。

 

(つづく)

 

(42)NO? -第2章-

~民~

 

マンションを出た私は、大股の早歩きで大通りを歩いていた。

 

(許せない許せない...!)

 

これほど腹をたてたのは初めてかもしれない。

感情の制御がうまくできない幼稚な私は、拗ねたりムッとすることはしょっちゅうだけれど、今日のはいつもの何百倍だ。

リアさんの発言をうけて、はらわたが煮えくり返っていた。

 

(好き勝手なこと言って!

私だったら...私だったらチャンミンさんを泣かせたりしない。

 

...ん?

 

泣かせたことはあったけど、あれはうれし泣きだったからセーフだ)

暑くなってきた私は、脱いだブルゾンを片腕にひっかけた。

それは数年愛用してきたものだったから、だいぶ着くたびれてきており、そろそろ買い替えどきだった。

 

「......」

 

リアさんの部屋に溢れていた洋服を思い出す。

ブランドものばかり。

それから立ち止まり、自分の足元を見下ろした。

シンプルな黒のスニーカー、サイズはチャンミンさんと同じ。

リアさんとMさんのパンプスが思い浮かんだ。

 

「...ふんだ」

 

私が女だと知った時の、リアさんの『信じられない!』な表情を思い出すと、ムカムカ感が復活してくる。

絶対に絶対に、Mさんっていう女の人も私を男だと思っている...現にチャンミンさんに激似な私を兄弟だと思い込んでいる風だった。

 

「ふん、だ」

 

「私は女です!」とリアさんに怒鳴った自分にびっくりだ。

これまでの私は女らしくあることをずっと諦めていて、性別を間違えられても否定はせず笑ってその場から逃げていたのだ。

それなのに、女扱いされなかったことにムカついている...大きな変化が私に表れている。

それなのに、チャンミンさんの隣にいるうちに、彼を喜ばせたくて、セクシーランジェリーを買ってみたりと、私なりに変化が訪れていた。

 

恋って凄い!

 

車を置いてきたので、ユンさんのビルに戻るには地下鉄を使う必要があった。

 

(チャンミンさん、メールを読んでくれましたよね。

ユンさんに暴露してないですよね。

もともと私は世間知らずな人間だから、自身の恋愛事情を上司にオープンにすることに何も抵抗がなかったのです。

悪い男であるユンさんは、上司の立場をはるかに超えて接近し過ぎています。

チャンミンさんを悲しませたくないから、ユンさんのお触りにはビシッと断りますからね!

今週末のモデルのバイトも、チャンミンさんも一緒だから安心です)

 

電車に揺られながら、真っ暗に塗りつぶされた車窓に映る私の顔。

 

(疲れた顔をしている)

 

チャンミンさんがお弁当を届けてくれた日からずっと、私は興奮のしっぱなしで、感情も目まぐるしい。

とろんとしたまぶたをぱっちり見開くと、くっきり二重になった。

「悪くないじゃない...」とつぶやいた。

そこまで卑下しなくても、私はまあまあな線じゃないの。

チャンミンさんにそっくりなんだもの、もっと自信を持つべきだ。

目的駅に到着し電車を降りた私は、地上への地下鉄の階段を駆け上がった。

今夜、チャンミンさんと会う約束になっている。

(Mさんに嫉妬して、ムッとした私のご機嫌とりのための約束だったとしても)

 

「そのままの民ちゃんがいい」とチャンミンさんは言ってくれているのだ、それを穿った意味で捉えがちな女は可愛くない。

リアさんに「チャンミンさんを大事にしない人は嫌いです」なんて怒鳴っておいて、自分を卑下してばかりいる私こそ自分を大事にしていないではないですか。

私のことを好きだと言ってくれているチャンミンさんの為に、せめて自分のルックスだけ好きにならないと!

 

(...と言葉ではきれいごとを言えるんだけどなぁ...)

 

ユンさんのビルまでの100mを、ゆっくりゆっくり歩く。

 

(リアさんがオフィスに帰ってきていたら嫌だなぁ...)

 

ふと、自信を取り戻すためのグッドアイデアを思いついた。

 

...決意、に近いだろうか。

 

一気に気持ちが晴れて、ユンさんのビルの隣のカフェでホットミルクティを買った。

 


 

~チャンミン~

 

(疲れた...)

 

車のエンジンをかける前、僕はハンドルに身を伏せて高揚した気持ちを落ち着かせた。

ユンの思うペースにのせられてしまったが、僕らの交際宣言について、敢えて話題に出す必要なくなって助かった。

よって僕は、今回のユンとの会談結果に概ね満足していた。

あれが牽制になるかどうかは自信はないが...。

これから帰社しても退勤まで1時間そこそこ。

要領よくサボれない僕は真っ直ぐ帰社することにした。

地下駐車場から地上へとスロープを上がり、歩道前で一時停止させた時、僕の車の前を通り過ぎた人物に、思わず大きな声を上げてしまった。

 

「民ちゃん!」

 

窓を閉め切った車内から呼んでも聞こえるはずがなく、民ちゃんは僕に気づかずスタスタと通り過ぎてしまった。

民ちゃんを追いかけたいが、僕も彼女も仕事中、車も邪魔だ。

 

(残念...)

 

大通りに出ようと歩道に前進した時、僕に手を振る人物が視界に入った。

 

「民ちゃん!」

「チャンミンさん」

 

民ちゃんはホットドリンクのカップを手にしていた。

 

「会社に戻るんですか?」

「うん。

民ちゃんは?」

「私もです」

 

気がすすまないのを現わしたかったのか、民ちゃんは眉を八の字にして正面のビルを見上げた(嬉しかったりして)

 

「ちょうどよかった、チャンミンさんにメールをしようと思っていました」

 

メール、の言葉に、民ちゃんからお願いされていた件について報告しなければならないことを思い出した。

ただ、今は立ち話をする状況ではないため、仕事終わりのデートの際にしようと思った。

 

「びっくりするかもしれませんが、チャンミンさんが大喜びする内容ですよ.。

「大喜び?」

「はい。

チャンミンさんが待ち望んでいたことです。

あら...チャンミンさんの車、歩道を塞いでますよ」

「ホントだ。

じゃあ...また後でね」

 

僕らは手を振って、それぞれの仕事場へと戻ったのだった。

携帯電話がメールの着信...この着信音は民ちゃんからだ...を知らせた。

これがさっき民ちゃんが意味ありげに言っていたメールのことだな。

信号待ちのタイミングで、メッセージを開いてみると...。

 

みみみみみみみ民ちゃん!!!!!

 

『今夜、私を抱いてください』

 

ぶったまげた。

 

(つづく)


(41)NO? -第2章-

 

~民~

 

私はフリーリングの床の上に正座をして、リアさんの用事が終わるのを待っていた。

チャンミンさんとリアさんが暮らしていた2LDKは現在、がらんとしている。

リアさんは洗面所の扉を開け閉めしたり、化粧品らしい物ががちゃがちゃいう音をたてている。

数日前、私がチャンミンさんとお付き合いすることになった夜、リアさんに誘われたけれどこの部屋に上がらなかったから、こうも殺風景になっているとはと驚いた。

大型家具や家電はあるけれど、日用品や装飾品の多くが床に下ろされ、蓋のあいた段ボール箱があちこちに置かれてあった。

リアさんは引っ越し準備途中のようだ。

開け放たれた寝室からは、クローゼットから洋服と靴箱が雪崩を起こしている。

ほこりがふわふわ舞っているし、キッチンカウンターに空き缶や汚れたグラスが置きっぱなしになっている。

私が引っ越して行った頃と比較して、酷い有様だ。

チャンミンさんもいなくなり、ユンさんとうまくいかなかったりして、荒れてるのかなぁ...。

 

「飲む?」

 

紙袋を下げたリアさんが、私に差し出していたのはミネラルウォーターのペットボトルだった。

喉は乾いていなかったけれど、礼を言って素直に受け取った。

 

「必要なものはありましたか?」

「ええ。

スキンケア用品と服をいろいろ。

ユンの家には最低限なものしか持って行ってなかったから」

 

リアさんはソファにどすんと腰掛け、長く形のよい脚を組んだ。

チャンミンさんはこの脚を目にし、「綺麗だ」と思って触ったのかな...。

 

イヤだ...すごく嫌だ。

 

いけないいけない。

Mさんといいリアさんといい、私は自分で自分の嫉妬心を煽ることばかり考えている。

片想いだったのが...私の場合は、恋心に確信を持てずにいただけだけど...両想いになった以降、恋心を曇らせる感情の存在を知った。

それは嫉妬心だ。

チャンミンさんなら大丈夫だと信じていれば、嫉妬心なんて湧いてくるはずはないんだろうな。

信じる気持ちが弱いのかな。

心が狭くていやになるな。

えっちをすれば、一体感が生まれて 嫉妬心に苦しむことはなくなるのかな。

女の子らしく生まれたかったな。

 

「民さん」

 

切なくなっていたところ、リアさんに声をかけられたおかげで自身を卑下する考えの暴走をストップさせることができた。

 

「ユンと私のこと...何も質問しないのね?」

 

ユンさんはリアさんのことをよい風には言っていなかった。

 

「びっくりしましたけれど、妊娠はお芝居だったと教えてもらった時に、そのぅ...チャンミンさんの他に付き合っている人がいたってリアさんは言ってて...もごもごもご」

「はっきり言っていいわよ。

そうよ。

チャンミンとユンと同時進行だったわ」

 

悪びれないリアさんに、腹がたつよりも呆れる気持ちの方が強かった。

 

「どちらが先でしたか?

チャンミンさんと、ユンさんと...?」

「チャンミンよ」

 

リアさんの言葉にホッとした。

でも、『チャンミンさんとユンさんと、どちらが本気だったのか?』とは、怖くて訊けなかった。

チャンミンさんと私は半年も共に過ごしていないけれど、彼の性格はそれとなくは分かってきたつもりだ。

きっとチャンミンさんのことだ。

一生懸命に、かつ楽しんでこの部屋を整えたんだろうなぁと、その姿を容易に想像できたから。

チャンミンさんを大事にしなかったリアさんが許せなかった。

 

「モデル以外でしていた仕事があって、そこでユンと知り合ったのよ。

モデルに誘われて、週2ペースで通っているうちに、そういう関係になったの。

チャンミンは鈍いから、全然気づかなかったわ」

「もう止めてください」

私を耳を両手で覆った。

「どうして私に教えてくれるんですか?

私にはわかりません」

「そうねぇ。

チャンミンは出て行ったし、ユンも私と別れたがっているし...話を聞いて欲しかったんでしょうね」

 

「別れたがってる...?

ユンさんが?」

初耳のフリをして尋ねてみた。

 

「飽きたんだそうよ。

モデルとして使いつぶした挙句、不要になったのよ。

酷い男ね」

 

プライベートのユンさんは、悪い男のようだ。

私を手の平でコロコロ転がすのは、赤子の手をひねるかのようだっただろう。

チャンミンさんが私に怒っても当然だ(ごめんなさい、チャンミンさん)

「さっき久しぶりにチャンミンに会って驚いたわ。

おどおどしていたのが、明るく可愛らしい表情になっていたわね。

失って初めて分かったわ、いかにチャンミンがいい人だったか」

 

(そうよそうよ!

チャンミンさんはと~ってもいい人なのよ)

 

「民さん」

「はい」

「今さら遅いでしょうけど、チャンミンとやり直せると思う?」

「...は...?」

「この部屋も出なきゃいけないし、ユンのところもいつ追い出されるか分からないし...チャンミンのところに住めないかな...なあんて」

「!!」

 

リアさんのびっくり発言に、私の口はあんぐりだ。

リアさんはソファから下りると正座し、私の手を握った。

 

「!!」

「あなた、彼の兄弟でしょ?

それとなく、訊いてみてくれないかしら?

私はチャンミンじゃないと駄目みたいだって。

住むところが無くなりそうで、とても困っているって。

伝えてくれないかしら?」

 

煮えたぎった怒りの油が、私の足から頭のてっぺんまでぐんぐん上昇していった。

両耳の穴から蒸気が吹き出した。

 

「わ、私はっ!

チャンミンさんの兄弟じゃないです!」

 

私の突然の大声に、リアさんは目を丸くしている。

 

「男じゃないし、女です!

こんなですけど、女です!」

「嘘でしょ...」

「嘘じゃないです!

それからですね、それからですね!

私はチャンミンさんの『彼女』です!

お付き合いしてます!」

「えっ!?」

「笑いたければ笑って結構です。

私の『彼氏』はチャンミンさんです!

ラブラブなんです!!」

「......」

私はすくっと立ち上がった。

「チャンミンさんを大事にしてくれない人は、私っ、嫌いです!

大嫌いです!!」

私はポケットから出した車のキーをリアさんへと投げた。

 

「ひとりで帰ってください!」

「なんですって!?」

「私はとても怒っています!

私は歩いて帰ります!」

私は唖然としたリアさんを残してずんずん足音荒く、部屋を出て行った。

 

(つづく)

(40)NO? -第2章-

 

(この場を取り繕うには、何でもいい!

相談ごと相談ごと...どんなことでもいい、相談ごとに相応しい内容を!)

 

チャンミンはコーヒーカップに口を付けただけで中身を飲みもせず、視線はカップを通り越したテーブルの上。

考え事をしているらしいチャンミンを、ユンは興味深げに見守っていた。

書類や筆記用具はバッグの中に収納され、テーブルの上には何もない。

 

(私的なことなんだろうか?)

 

ユンはあご髭を撫ぜながら、正面に座るチャンミンの伏せたまつ毛の長さや高い鼻梁に感心していた。

 

(チャンミン君は、多少は気づいているかもしれないが、それほど優れた容姿に到着している風には見えない...勿体ない。

ルックスはいいが、抜けているところと隙が多そうなところが、愛すべきキャラクターに仕上げているんだろう。

民とは似た者同士だな。

俺の手にかかれば、綺麗なむき身にしてやるよ。

こうして肌のきめ細かさから見ると、民の方が年下だな。

民...ねぇ。

民の交際相手はチャンミン君だな。

あの時の民の電話内容といい、当たりだったな。

この二人はつくづく分かりやすい。

週末が楽しみだ...)

 

ユンの思いなど露知らず、チャンミンの頭上に電球がぴかっと光った。

 

「相談ごとっ...ですが」

「はい、なんでしょう。

私でお力になれることでしたら」

身を乗り出したユンのきりりと真剣な表情に、チャンミンは愛想笑いしながら、

「わざとらしい...。

お前の助けなどいらないよ」

と心の中でつぶやいていた。

 

「今週末のモデルの件です。

僕で果たして務まるのか、少々心配になりまして...。

素人ですし...」

 

(ああ...わざわざ相談するに値しない内容だ)

 

語尾が消えてしまったチャンミンの言葉に、ユンはからからと笑った。

 

「何を自信のないことを。

チャンミンさんを見て、次の作品のインスピレーションが湧いたのです。

貴方だからお声をかけたのですよ」

「いや...でも、僕はよくても、民がですね」

「ほう、民くんが?」

 

ユンの目がぎらっと光ったように、チャンミンの目に映った。

 

(やっぱり...民ちゃんの名前を出した途端、この厭らしい目!

民ちゃんが僕に何とかしてくれと、頼みごとをしてきたワケが分かったよ)

 

「はい。

あの子はあがり症でして。

誰かに見られていると意識すると、動悸が酷くなり過呼吸になってしまう恐れがあるのです。

ですので、民にはモデルは相応しくないと僕は思うのです」

「え?

そうなんですか?

おかしいなぁ...」

 

ユンは背もたれに身を預け、足を組みなおすと、「おかしいなぁ」と繰り返しながら首を振った。

 

「おかしい...とは?」

「民くんにはこれまで何度もモデルになってもらっているのですが、体調が悪くなるとかはないようですよ。

最初のうちは恥ずかしがっていました。

でも最近は、すすんでモデルを応じてくれます」

「!」

「シャツを脱ぐくらいなら抵抗はないようです」

「!!」

「全裸はさすがに断られましたけどね。

ははははは」

 

(全裸!?)

 

チャンミンは身を乗り出してユンの襟元を絞め上げたい衝動を、ぐぐっと堪えた。

ユンはチャンミンを労わる目になり、「チャンミンさんは民くんのことが心配なんですね」と言った。

「それは...民は世間知らずなところが多いもので」

 

チャンミンの頭の中は、ユンの言葉の処理が追いつけずにいた。

 

(全裸は断られた、ということは、半裸は大ありってことか!?)

チャンミンの顔色がさあぁぁっと青ざめた。

 

(民ちゃんから何も聞いていないぞ!?

やっぱり民ちゃんは肝心なことを僕に教えてくれない)

 

「優しいお兄さんを持って民くんは幸せですね」

「僕らは兄妹じゃないんです。

とても似ているので、兄妹じゃないかとよく言われるんですけど。

違うのです」

 

半裸の民がユンの前でポーズをとっているイメージに脳内を支配されていて、ユンの言葉をさらりと否定したチャンミンだった。

 

(ユンの奴。

ポーズをとらせるために、民ちゃんの肩や腰に腕をまわすとか...!)

 

「へぇぇ、それは驚きですねぇ」

「ですよね」

 

目を丸くして驚いたフリをするユンもスルーしていた。

チャンミンは気づいていない。

民との交際宣言をしてユンを牽制する作戦が、極めて自然な流れで実行されていることを。

ただし、ユン主導で。

 

「それじゃあ...。

チャンミンさんの恋人は民くんですか?」

「はい?」

さすがに『恋人』ワードに、チャンミンは反応した。

 

「仲睦まじいところを、お見かけしてしまいましたしね。

ひょっとして...と思ったわけです。

おふたりは交際されている...とか?」

 

(かあぁぁぁぁぁぁ)

 

テーブル向こうのチャンミンの顔色が、青くなったり赤くなったりするのを、ユンは内心可笑しくて仕方がない。

 

「やっぱり、そうでしたか」

「......」

「どれくらいの露出度でポーズをとっていたのか気になっていらっしゃるのでしょう?

大丈夫ですよ。

私はアーティストの目で民くんを見ていますから」

「......」

「恋人同士にあるお二人を作品にできるのですね。

ますます創作意欲が湧きましたよ。

素晴らしい作品に仕上がるよう、全力を尽くします」

 

(ユンに既にバレていたとは...)

 

ユンが差し出した右手を、チャンミンは力なく握った。

 

(チャンミン君も民も、極めて分かりやすい。

こういう隙だらけなところが、彼らの魅力なんだなぁ)

 

がっくり肩を落とすチャンミンに笑顔を見せるユンは、内心でほくそ笑んでいた。

 

(つづく)

 

(39)NO? -第2章-

~民~

 

リアさんは腕と足を組み、むっつりとした表情で助手席にいる。

 

「もうすぐ着きますよー」

「......」

 

何の返答もしないリアさんに、「ふぅ」っと気づかれないようため息をついた。

 

(面倒くさい人ですね。

チャンミンさんも大変だっただろうなぁ)

 

チャンミンさんとの再会に、リアさんは驚いていた。

平静を装っていたけれど、あの場から逃げだすかのように私を引っ張っていったあたり、相当動揺していたはずだ。

 

(そりゃそうよね。

『前カレ』だもの...。

前カレ...前カレ...ああ、胸がシクシクする)

 

私はリアさんのぺたんこのお腹をチラ見した。

 

(チャンミンさん...リアさんの妊娠の件、知らないんだよね。

それとも、リアさんの性格を知っていて、話半分で受け取っていたのか...)

 

この車に何度も乗っている証拠に、リアさんはダッシュボードにあったサングラスをかけた。

以前の私だったら、ユンさんに女の人の存在を見つけてしまって、胸を痛めていただろうな...今は違うけど。

 

「このデパートでいいんですよね?」

「ええ」

 

私はサイドウィンドウを開けチケットを受け取ると、立体駐車場へと車を侵入させた。

ユンさんの車は大きくて、ぶつけたり擦ったりしないように、何度も切り返しながらなんとか駐車スペースに車をおさめた。

案の定、リアさんは助手席にふんぞりかえっている(アシストは最初から期待していなかったけどさ)

緊張のあまり、脇も手の平もびっしょり汗をかいていた。

 

「車の中で待ってますから、リアさんはどうぞ、行って来てください」

 

買い物好きのリアさんの付き合うのはしんどそうだったのだ。

 

「それであなたはいいの?」

「はい」

「ふ~ん。

私、特に欲しいものないのよねぇ。

そうねぇ...悪いんだけど、私のマンションに寄ってくれないかしら?」

「へ?」

 

ユンさんの話だと、リアさんは住むところを失ったため、ユンさんの家へ転がり込んだと聞いている。

 

「取ってきたい荷物があるのよ。

いい加減引っ越さないといけないんだけどね」

 

唖然とする私をよそに、リアさんは車の中に戻ると「場所は分かるわね?」と笑った。

Mさんのものとは真逆の華やかな笑顔だ。

一方、Mさんの笑顔には照れ混じりの控え目なのに...媚びがあった!

チャンミンさんとリアさんを鉢合わせにせまいと焦っていた私。

ところがそれを超えるハプニングが私に起こってしまった。

 

チャンミンさん!

なんですか、あの女の人は!

 

仕事上の関係の人だってことは分かってますよ、でもね。

あの人...Mさんは女っぽ過ぎます。

リアさんとは真逆なタイプだから、嫌な予感がするのです。

 

(チャンミンさんのスーツをつん、って摘まんでました!

私、ちゃんと見てたんですから!)

イジワルな気持ちばかり湧いてくる自分に嫌になる。

 

「民さん...あなたに聞きたいこともあるし、後でカフェにでも寄りましょう」

「...はい」

 

リアさん振り回されている状況に、暗澹たる気分になった。

ユンさん問題、交際宣言問題、チャンミンさんとモデル問題、リアさん問題、Mさん問題、チャンミンさん鈍感問題...それからそれから。

チャンミンさんと初夜問題!

 

(あと3日ですよ)

 

抱えている問題がいっぱいです。

 


 

~チャンミン~

 

Mさんを先に帰すことに成功した僕はオフィスへと戻ると、ユンは商談テーブルについたまま僕を待っていた。

「すみません、お時間とらせてしまって...」

「Mさんは?」

「次の予定があるようです(嘘だけど)」

「そうですか」

 

打ち合わせは終了したにもかかわらずここに居座る僕に、ユンの眼差しは説明を求めるものだった。

 

「あの...ユンさんにご相談がありまして...。

この後、ご予定は?」

「いいえ。

今日はフリーです」

「申し訳ありません。

お時間はとらせませんので」

 

僕はコホン、と咳ばらいをした。

これからの話の内容を思うと、鼓動が早くなってきた。

大の大人が、仕事関係の者に、それもユンに、自分の色恋を暴露するなんて...非常識過ぎる。

内容が内容だけにしどろもどろな話し方じゃあ、ユンに小馬鹿にされる。

今さらながら、僕とは恋愛がからんでくるととことんダサい男になってしまうとあらためて呆れるのだ。

遠い昔、下級生や同級生と恋をした学生時代からスタートして、社会人となり社内恋愛を経た後、リアと同棲する仲となり...どの恋愛でも僕はカッコ悪い姿を彼女たちにさらしてきた(そのいくつかは第1章で披露している)

そして新しい恋をゲットした今も、僕はやっぱりカッコ悪い。

これが僕、チャンミンなのだから仕方ない。

民ちゃんも変わった子だし、僕も抜けているところだらけ。

 

お似合いじゃないかと、心中でニヤニヤしてしまっていると、

「チャンミンさん?」

 

ユンの言葉に、考え事からハッと引き戻された。

 

僕の固い表情に気づいたユンは、

「なんですか...深刻な話ですか、チャンミンさん?」

と言って、背もたれから身を起こし、ジャケットの衿を正すものだから、つられて僕の鼓動も早くなってしまった。

 

「いえ...大した話ではないのです」

 

緊張のあまり喉がカラカラだった僕は、コーヒーカップに口をつけた。

...が、カップは空っぽで、恥ずかしさで顔がかあぁぁっと熱くなった。

 

「......」

 

ユンはふっと微笑し、「新しく淹れましょうか」と席を立った。

悔しいけれど、ユンはカッコいい奴だ。

パーテーションの向こうにユンの姿が消えた後、僕はあのことを思い出した。

民ちゃんにメールを読めと言われていたんだった。

 

(何だろう?)

 

バッグから取り出した携帯電話は、通知ランプを点滅させていた。

 

「......」

『あの話のことです。

ユンさんに話すことは中止にしてください。

チャンミンさんにご迷惑をおかけしてしまうと考えたからです。

変なことをお願いしてごめんなさい』

「......」

 

(分かったよ、民ちゃん。

僕を気遣ってくれたんだね。

でも、今ここでユンを牽制しておかないと、民ちゃんは困るんじゃないかな)

 

「う~ん...」

 

何かいい代案がないか唸っていると、コツコツとパーテーションをノックする音がした後、トレーを持ったユンが現れた。

 

「さあ、聞かせてもらいましょう」

 

僕が話し出すのを待つユン。

コーヒーのすばらしい芳香が鼻をくすぐるから、僕は形ばかりにカップに手をつけた。

僕の頭はフル回転だ。

 

(マズいな。

今さらお話したいことはありません...とは言えないよなぁ)

 

(つづく)