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【BL短編】ベビーカー
「...あ」と、声に出していた。
立ち止まったチャンミンの視線は、その1点に釘付けになっていた。
それはひとりの男の後ろ姿だった。
頭の形といい、うなじから肩までのラインといい...色濃く残る記憶のままだった。
彼は両膝に半身を預け、前のめりになり、熱心に前方の光景に見入っているようだった。
通りかかったここは児童公園だった。
小さな子供たちが、ブランコやシーソー、滑り台や砂場で遊んでいた。
彼らを見守る複数人の男女は、母親や父親、それとも保育士だろう。
そのうちの1人が乳児を抱き、2人がそれぞれ乳母車を前にしていた。
チャンミンは勇気を出して声をかけようか、立ち去ろうか葛藤した。
結局、チャンミンはベンチの男に歩み寄っていた。
迷うことで、勇気をかき集める時間を稼いでいただけだった。
「やあ、久しぶり。
覚えてますか?
元気そうですね」
第一声は何にしようか、チャンミンは頭の中でシミュレーションをしていた。
男は近づくチャンミンにまだ気付かない。
男の口元が微笑を浮かべていることは、後ろ姿からでも伝わってきた。
(ユンホさんの笑顔は沢山...沢山見てきたんだから。
僕に向けられてきた笑顔。
華やかで眩しすぎる笑顔。
随分前に、失ってしまった笑顔だ)
「ユ...」
呼びかけた名前は、途中で飲み込まざるを得なかった。
男が前方に向けて大声を出したからだ。
遊具で遊ぶ小さな子供たちの1人に、もしくは大人たちの1人に手を振っていた。
「そういうことか...」
チャンミンはつぶやいた。
男と別れてから7年が経過していた。
そういう状況になっていても当然だ。
チャンミンはここから立ち去ろうときびすを返した。
ところが、考え直す。
(僕には立ち去る理由はない。
僕は何も期待していないんだ。
少しだけ言葉を交わしたかっただけだ。
そうだ、期待したらダメなんだ)
くるりと向きを戻した時、後ろを振り向いた男と真っ直ぐ、視線がぶつかった。
「...あ」
チャンミンを前に、男は真顔になった。
そこに立つ長身の男と、過去に実を結ばなかった恋人の記憶と。
男の頭の中で現在と過去が繋がった瞬間、彼は破顔した。
「チャンミン!」
それは演技も誇張も何もない、からりと晴れた笑顔だった。
チャンミンの眼の奥が、重く熱くなった。
「...久しぶり...です」
とたんに恥ずかしくなったチャンミンは、一度うつむいて一息整えないといけなかった。
「時間はあるの?
ここに座りな」
男は傍らの荷物を脇にどけると、空いた座面を叩いた。
記憶にあるよりも全身がひと回り逞しくなっており、目尻にシワが加わっていた。
髪を染め、流行の服を着て、鋭く尖った眼差しが、柔和で落ち着いたものに変わっていた。
肘までたくし上げたトレーナーはチョコレートか何かで汚れ、淡色のデニムパンツの太ももの部分は水で濡れていた。
チャンミンは男の泥だらけのスニーカーと、自身の革靴を見比べた。
(何を話そうかな)
乾いた地面に水遊びの名残りの水たまりができており、ベンチの足元にカラフルな何かが落ちていた。
(何だろう?)
拾い上げるとそれは小さなカーディガンだった。
「ありがと」
男はチャンミンからそれを受け取ると、手早く畳んで傍らのバッグに納めた。
男の節だった大きな手に、その衣服はあまりに小さく可愛らしかった。
(かつてその指に、どれだけ愛撫されただろう...)
チャンミンは、みだらな記憶を呼び起こした自分を恥ずかしく思った。
水筒、菓子の袋、タオル、ウェットティッシュなど、何でも出てきそうな大きなトートバッグだった。
男はころころと遊び転がる子供たちを、目を細めて見つめている。
人生が充実している証拠なのだろう。
7年ぶりに会ったのに、隣にいてほっとくつろげる空気をまとっていた。
(よかった。
幸せそうで、本当によかった)
以前のチャンミンだったら、比較してみては卑屈になっていた。
7年の年を重ね、自信と余裕を得たことで、隣の男の良さをあらためて、しみじみと思い出すことができた。
「チャンミンは、元気だった?」
「はい。
とても...元気でした。
今も元気です」
チャンミンは砂場で遊ぶ2人の子供を眺めたまま答えた。
滑り台の側に立つ、ベビーカーの2人の女性の方は見られずにいた。
男に向けた横顔がじんじんと熱かった。
(今、振り向いたらダメだ。
今、ユンホさんと目を合わせたら、止められなくなる)
心の奥底に、ぎゅっと圧縮していたものが、水を得て膨らんできそうだった。
(どちらかがどちらを見損なって別れたんじゃない。
物理的、時間的距離が、僕らを別れさせたのだ)
「ユンホさんは...元気でしたか?」
「ああ、元気だったよ」
「よかったです」
「チャンミン...」
男がチャンミンの名前を、あらたまった風に呼んだ時、チャンミンは勢いよく立ち上がった。
チャンミンにとって都合が悪いことを、男の方から説明されたくなかったからだ。
児童公園、ベビーカー、小さな子供服、チョコレートの染み。
「そろそろ、行かないと!」
会話を打ち切ったチャンミンに、男ははっとして背筋を伸ばした。
「仕事中だったんだね。
引き留めてゴメン」
スーツ姿のチャンミンの全身を眺めると、男は微笑んだ。
「相変わらずいい男だね」
「ユンホさんの方こそ、相変わらずいい男です」
そう言うと、男は目を伏せて照れ笑いした。
チャンミンは迷った。
(もしかしたら、会えるのは最後かもしれない)
チャンミンはこの地にたまたま出張で訪れていただけで、来月には勤め先に辞表を出すつもりでいた。
「ホントにもう行っちゃうの?」
「えっと...ユンホさんの家族は...?」
チャンミンと男の質問は同時で、男は身振りでチャンミンに先を譲った。
「ユンホさんの家族...」
チャンミンは賑やかな辺りを視線で示した。
「僕はまだ独り身で...ははは。
仕事が忙しくて...。
でも、ユンホさんは幸せそうで、僕は嬉しいです」
チャンミンは視線を、男の傍らのバッグに移し、最後に前方に戻した。
男の視線もチャンミンに倣って動き、チャンミンが何を指しているのか合点がいったようだった。
「ああ...そういうことね...」
チャンミンの手首は、男の手に捉えられた。
「ユンホさ...!?」
「ねえ、チャンミン。
さっきからずっと、俺の方を見てくれない」
チャンミンはゆっくり振り返った。
「...え?
そうでしたか?」
「そうだよ~。
俺のこと...怖い?」
「怖くないですけど...」
(まともに見つめてしまったら、再燃してしまいそうなんだ。
ユンホさんはどうってことなくても、僕は...ダメなんだ)
遊具の方から子供たちが男の名前を呼んでいた。
その様子に、男は血相を変えて立ち上がり、トートバッグの中をかき回した。
うずくまったひとりが大きな声で泣いていて、その場にいた若い男性がその子を抱きあげていた。
「チャンミン、待ってて。
そこを動くなよ。
帰ったら、怒るぞ」
男はあっけにとられて立ち尽くすチャンミンに念を押すと、ポーチを持って泣いた子供の方へと駆けていった。
「...ユンホ...先生?」
ベンチまで戻ってきた男は、トートバッグを肩にかけた。
「悪い。
俺の方こそ行かなくちゃならなくなった。
怪我した子がいて...。
もっと話していたかったんだけど...」
「...そんな...」
帰りの列車まで2時間あった。
男とチャンミンはしばし、見つめ合った。
男は後ろポケットを探っていたが、「そうだった...」と舌打ちした。
チャンミンは革バッグから商談ノートを取り出した。
6人の子供と、若い男女が男を待っているようだった。
ナンバーを書きつけたページを破り、男に手渡した。
「これっ、これです」
同時にチャンミンも、男から何かを押しつけられた。
「ぷっ...」
手の甲に貼られたものに、チャンミンは吹き出した。
男はチャンミンから手渡された紙を丁寧に四つ折りにし、デニムパンツの後ろポケットに入れた。
「連絡するよ」
「ユンホせんせ~い」と呼ぶ声に、男は「今、行くよ~」と答えた。
「ユンホさん!
電話しますから!
絶対に!」
立ち去りかけた男は、足を止めてチャンミンを振り返った。
「絶対ですよ!
今日はずっと待ってますから!」
男は親指を立てて見せ、一行に合流していった。
彼らを見送りながら、チャンミンは手の甲を撫ぜた。
ウサギのシールには油性ペンでナンバーが書かれていた。
指定券は無駄になりそうだった。
賑やかな一行が帰った後の児童公園には、ベビーカーをゆする女性が2組残った。
(おしまい)
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(後編)恋する尻尾
「...くそっ...」
繰り飛ばした缶ビールが、テーブルに当たって床に落ち、こぼれた液体が白いラグを汚した。
酔ってしまえば気が紛れるだろうと、いきがってあおったものの、それは苦いばかりで余計に苛ついた。
がらんとしたリビング。
整理整頓の鬼によって整えられたこの部屋は、広々としているのに、俺ひとりじゃなぜか息が詰まる。
...喧嘩した。
あいつと激しい喧嘩をした。
ビリビリと火花が散るほど、ガン飛ばし合った。
よりによって、前日に。
俺の誕生日の前日に、喧嘩した。
ブチ切れたあいつは、家を飛び出して行ったまま、今日になっても未だ帰って来ない。
蹴り飛ばされた空き缶を回収しようと、テーブル下に伸ばしかけた手が止まった。
鈴...?
拾い上げた金色のそれには、黒いサテンのリボンが付いていた。
揺するとチリチリと、涼やかな音をたてた。
俺の物じゃないから、あいつの持ち物かな...そうだとしても、なぜ鈴?
アクセサリーとしては、音が鳴ってうるさいだろうし、鈴から連想する猫なんて、俺たちは飼っていない。
ここに鈴がある理由を、真剣に追求するのも馬鹿馬鹿しい、どうせクリスマスツリーの飾りのひとつだろう。
「はあぁ...」
ラグについたシミをなんとかしないと、綺麗好きなあいつに怒られる。
...俺を怒ってくれるかな...。
怒って飛び出してしまった俺の恋人...2、3日もすれば帰ってくるだろう。
上目づかいで無言で俺に近づいて、突進する勢いで抱きついてきて、子供っぽい仕草にきゅっとなった俺は彼を抱き返す。
俺たちは両方意地っ張りだから、「ごめん」のひと言が悔しくて、ハグやキスで誤魔化してしまう。
いつもそんな仲直りの仕方をしてきた。
でも、昨日の喧嘩はバッドタイミングだった。
2人きりでのんびり、スィートな誕生日の夜を過ごす予定だったのに。
気取ったレストランで、ちょっと贅沢な食事をするとか、高価なものを贈られるとか、特別なことはしない。
テーブルに並ぶ皿が普段より多く、見た目が華やかな盛り付けになる程度。
こんな言い方じゃ、2、3日前から仕込みに精を出すあいつに失礼だったな...その中央に彼特製のケーキが鎮座する点が、いつもと違う。
祝福されるのは俺なのに、あいつは瞳をキラキラとさせて、俺以上に楽しそうなんだ。
いい年した大人が、自分の誕生日を心待ちにしてしまうのは、あいつの存在のせいなんだ。
ラグの汚れを拭き取ったフキンを洗う手が止まった。
「?」
先程から気になっていた音。
俺がいる洗面所のすぐ傍の、玄関の方から聞こえる。
カリカリと何かを引っかく音。
同じ階に住む子供のいたずらかな、と思った。
カリカリ、カリカリカリ。
ドアをノックすると、その音は止む。
ところが、しばらくするとスチール製のドアを引っかく音が始まる。
子供じゃなくて不審者だったら怖いから、インターホンのディスプレイで外を確認することにした。
面倒なことに巻き込まれたくないんだけどなぁ。
「?」
背が低いのか、それともうずくまっているのか、画面の端に身体の一部が映っているだけだ。
奇妙な点といえば、細長いものが揺れている。
(...尻尾?)
「...あっ!」
誰か具合の悪い人がいて、俺たちの部屋の前で倒れている可能性が頭を過った。
玄関まで走り、裸足のままたたきに下りて、開錠する。
なぜか俺たちの部屋の前で行き倒れになっている人物を介抱しないと。
あいつがいなくて寂しく腐っていた気持ちを一瞬で忘れて、俺はドアを開けた。
・
「にゃあぁぁぁぁん」
「うわっ!」
飛びつかれて俺は、尻もちをついてしまった。
俺の首にしがみついてきたそいつは、真っ黒なダウンコートを着ていた。
コートからは、懐かしい匂いがした。
俺の頬に顔をすり寄せて、にゃあにゃあ鳴いている。
ずいぶん前から玄関前にいた証拠に、頬が冷たい。
「分かったから...もういいだろ?」
肩を押して俺の胸から引きはがし、そいつの顔を観察した。
長い前髪の下に、大きくて丸い眼。
毛先がはねたくせ毛に埋もれるように、大きく尖った耳。
黒ネコだった。
「可愛いなぁ」
思わず言葉にしてしまった。
それくらい、可愛いネコだった。
俺の褒め言葉に、ネコは小首をかしげて「にゃあ」と鳴いた。
「おいで」
手招きすると、ネコは素直に俺の後についてくる。
「外は寒くって!」と、スキップするみたいに軽やかに、足音をたてずに。
リビングに通されたネコは、ダウンコートを脱ぐとそのまま、ぱさりと足元に落とした。
ビロードのような艶のある短毛の黒ネコ。
ネコである証拠に、長い尻尾がゆらりゆらり。
黒い毛皮に包まれたネコのお尻は、丸く小さくて可愛らしい。
ソファにぴょんっと飛びのって、ネコは抱えた膝に顎をのせている。
床にはネコが脱ぎ捨てたまま、ダウンコートが丸まっている。
あいつなら絶対にしないだらしがない行為だな、と呆れて、俺はそれをソファの背に引っかけておいた。
懐かしい匂いがしても当然だ、見覚えがあるデザインで、そいつが羽織ったコートは俺の持ち物だったのだ。
「いつの間に?」という疑問は脇に置いておく。
なぜなら今、素敵なことを思いついたからだ。
さっき、テーブルの下で見つけた鈴の存在。
「こっちにおいで」
呼ぶとネコは顔を輝かせて、ソファに腰掛けた俺の足元に駆け寄ってくる。
なつっこすぎて猫というより、どちらかというと犬みたいだ。
リボンを結ぶ間、ネコは長い首を屈めてじっとしている。
「よし、結べたぞ」
ネコは後ろの俺を振り向くと、「にゃあ」と鳴いて、首を左右に振って鈴を鳴らした。
俺を覗き込むネコの眼が、「似合いますか?」と褒めてもらいたがっている。
俺はネコの前髪をそっと斜めによけて、現れた額に唇を押し当てた。
「似合ってる...可愛いよ」
どんな音も聞き漏らすまいと、主張する大きな耳に触れ、柔らかな毛につつまれた丸い頭を優しく撫ぜた。
俺の腕の中から頭を上げて、
「美味しいものを食べさせて下さいな」
ネコはそう言って、俺の唇の端をぺろりと舐めた。
「何がいい?」
俺はネコを抱き上げて、ソファに座らせた。
「何でもあるぞ」
キッチンに立って、冷蔵庫の中を物色する。
あいつが焼いたケーキ、温めるだけまでに仕上げた料理、ドリンク各種。
俺の誕生日を祝うため、あいつが用意したご馳走たち。
感動して、ちょっとだけ泣きそうになってしまった。
今年の誕生日は、あいつの代わりにネコと祝おう。
ケーキとオードブルの皿を左右に持って、ネコの待つテーブルに戻る。
ネコに酒を飲ませてもいいのかな、と迷ったけれど、ま、いっか。
シャンパンと、猫らしく牛乳のパックも取ってくる。
「切ってやるから、待ってろ」
ところがネコは、ナイフを取りに戻る俺のニットの裾を掴んで離さないんだ。
「ホールのまんま食べるってか?」
驚く俺に、ネコはこっくりと深く頷いた。
こんなお行儀の悪い食べ方、あいつだったら絶対に許さないだろうな。
ケーキにかぶりつくネコ。
口も鼻も頬も、真っ白いクリームだらけだ。
指ですくいとったクリームの行き先は、当然俺の口の中。
こんなベタなこと、したことなかった。
ネコは俺の首に両腕をからませた。
そして、俺の唇をぺろぺろと舐めだした。
「くすぐったいよ...!」
俺が口を開けるまで、舌先の愛撫は止まらない。
温かく柔らかなネコの舌は、俺の下腹を痺れさせる。
耐えきれなくて顎を緩めた直後、ネコの長い舌が侵入してきた。
俺もネコに応えて、口内で踊るそれを吸い、クリームにまみれた上唇を食み、尖った犬歯をたどった。
ネコの首で鈴が鳴り、ネコの喉が、くくっと鳴る。
俺の手は自然とネコの尻に下りていく。
柔らかな毛皮を撫ぜて、形を楽しんだ。
ネコの尻尾の先は天井に向けてカーブを描いている。
身体の動きに合わせて、ゆらゆらと揺れる尻尾。
尻尾の付け根から先に向けて、優しく撫ぜ上げた。
「...んんっ...」
ビロードの毛皮が、丸くすぼめた手の平をくすぐる。
「...ん...あ...っ...」
敏感な尻尾を触られて、ネコの喉からくぐもった声が漏れた。
(つづく)
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(前編)恋する尻尾
ネコは尻尾が弱いみたいだ。
ネコの反応が面白くて、俺は何度も尻尾を撫ぜる。
「尻尾ばかり、触らないで」
怒ったネコに、手の甲を引っかかれてしまった。
俺の手を傷つけたことに、ネコはすぐに後悔したようで、
「ごめんね...痛いよね、痛いよね?」
俺の手を両手で包み込み、みみず腫れになった箇所にふぅっと息を吹きかけた。
こんな風にしてもらったこと、過去にもあったなぁ。
・
去年のあいつの誕生日に、手料理を振舞おうと俺は張り切っていた。
危なっかしい包丁つかいに、隣に立ったあいつはヒヤヒヤしていた。
「そんなところで切っちゃうなんて...勿体ない」
「押さえる手は、猫の手にしないと!」
「ホントにヘタクソだなぁ」
「黙ってろ」
口うるさいあいつの忠告を無視して俺は、まな板の上の野菜を乱暴に、ザクザクと切った。
「...あっつ!」
押さえていた指に激痛が走り、包丁を放り出してその個所を確かめようとした。
ところが、その前に俺の手はあいつにかっさらわれた。
「もぉ!
血が出てるじゃないか!
もぉ!
僕の言うことを聞かないんだから...痛いよね...痛いよね」
怪我はたいしたことなくて、中指の節を少し切っただけ。
それなのに、まるで俺が骨折でもしたかのように、おろおろの仕方が凄かった。
怪我をしたのは俺の方なのに、その様子が面白くってクスッとすれば、あいつは当然ムッとするわけだ。
怒ってるのになぜか眉が下がってて、頬を膨らませちゃってて、すごい可愛かった。
・
「...ネコ...」
ネコの毛皮の胸に顔を埋めてつぶやいた。
俺の背中をネコは優しくさすってくれる。
「...寂しいですか?」
「寂しいね」
俺は素直に認めた。
「相方さんはどこへ行っちゃったんですか?」
「さあ...実家に帰ったか...友達んちか...」
ネコの背中を抱き直した。
「でもなぁ、あいつは友達が少ない奴だから。
ホテルに泊まってるだろうなぁ。
それでさ、ルームサービスであれもこれもと注文して、腹いっぱい食べて。
カードの請求額に、俺は真っ青になるんだ...きっと、そうだよ。
もの凄く、怒ってたから」
「喧嘩したんですか?」
「...うん」
「原因は?」
「大した内容じゃなかった。
長く一緒にいるとね、小さなことに気が障ることが増えてくる。
仕事が忙しくて...イライラしてたんだ。
突き詰めてみると...俺が悪いんだろうね」
「じゃあ。
ちゃんと謝らないとね」
「...そうだな。
許してもらえるかな?」
「許しますよ。
ユノの『ゴメン』を待ってると思います」
「これまで、ちゃんと謝ったことがないんだ。
なんとなく仲直りしてて。
言わなくても分かるだろう、って。
...甘えていたんだろうね」
「...いらっしゃい」
「...え?」
ネコに腕をひかれ、寝室へと誘われた。
「僕を可愛がって」
両手を広げたネコの胸に、俺は飛び込んだ。
・
俺はネコに口づけながら、毛皮のビスチェを脱がせた。
二つ並んだ桜色のボタンに、俺は堪らず吸い付いてしまう。
「...っあ...あぁ...」
あまりに可愛らしい声を漏らすから、俺の行為はつい激しくなってしまう。
「待って...」
もっともっとと吸い付く俺の口を、片手で押しとどめると、ネコは毛皮のショートパンツをするりと脱いだ。
小さな白い尻が露わになって、その中央から猫の尻尾が生えている。
「可愛い尻尾だね」
「でしょ?」
裸になって急に恥ずかしくなったのか、俯くネコの顔は真っ赤になっている。
さっきから俺を煽る、揺れる尻尾。
軽く握って、先から付け根に向けてその手を滑らすと、
「んんっ...」
甘い声を、喉奥でくぐもらせるのだ。
くくっと緩く引っ張ると、
「ああっ...」と、より甘高い声を漏らすのだ。
「ダメ...引っ張ったらダメ」
「ネコは尻尾が敏感なの?」
「...うんっ...」
「触るの...止めた方がいい?」
「......」
恥ずかしくてたまらないのか、俺の腕の中の肌が熱く汗ばんでいる。
「もっと引っ張ってもいい?」
尻尾の付け根をつかんで、じわじわと引く力を込めていく。
「...ああっ...あぁぁ...!」
もっと甲高い悲鳴を上げて、顎も肩もマットレスにぺたりと落としてしまった。
高く突き出した腰。
愛らしい割れ目の中央に、黒く長い尻尾。
「いつまで猫をやってるつもりだ?
尻尾をとらないと、できないよ?」
「......」
「抜いてやろうか?」
「うん...」
引っ張ったり押し戻したり、さんざん焦らして、ネコの尻尾が抜けるまでに、たっぷり時間をかけた。
背中を丸めて、俺の太ももにしがみついて、ネコは猫の鳴き声を忘れてしまっていた。
いつもの、聞きなれた、切なげに、かすれた甘い声音で。
揺さぶる度、ネコの首で鈴が鳴る。
・
「ごめん...怒鳴ってごめん」
額にはりついた、汗に濡れた前髪を人差し指でそっとよける。
3度目の「ごめん」で、ネコはやっとで頷いてくれた。
「...許してあげる」
不承不承、ネコはそう答えた。
尖らせた唇が可愛くて、ついついパクリと咥えてしまった。
「...僕こそ...ごめん」
俺以上に意地っ張りで照れ屋なネコ、俺の口の中でもごもごとつぶやいた。
「聞こえないなぁ」
「...ごめんね」
「いいよ。
謝らなくても、俺はとっくに許してたよ」
シーツの中からもぞりと抜け出たネコは、俺の上になると、俺の枕元に両手をついた。
大きな猫耳が、ダウンライトの黄色い灯りにふちどられている。
俺を見下ろす1対の眼は、猫というより子犬の眼だ。
「ユノ」
「ん?」
「お誕生日おめでとう」
「うん、ありがと」
「僕たち、喧嘩しちゃったでしょう?
でも、お祝いしたかったから、戻ってきました」
「おかえり」
「僕からのプレゼント。
気に入ってくれた?」
「うん。
可愛いネコだった」
「気合を入れたからねぇ。
ネコの僕、どうだった?」
「最高だよ。
チャンミンは...俺だけのネコだよ」
・
玄関ドアを開けた時。
尻尾を付けたチャンミンが、ドアの前にうずくまっていたんだ。
「何してるんだ!?」の大声を、ぐっと飲みこんだ。
猫みたいに「にゃあぁぁぁ」って鳴くのを聞いて、吹き出すのを必死で堪えた。
俺は猫になったチャンミンをそのまんま、受け入れた。
羽織っていたダウンコートを脱いだ姿に、俺は度肝を抜かれた。
だってさ、チャンミンの奴、バニーガールみたいな格好をしていたんだ。
身に付けているものは、黒いファー製のビスチェにショートパンツだけ。
猫耳といい尻尾といい、この日のために用意していたんだと思う。
せっかく仕込んできたのに、喧嘩中だからって中止するのも悔しかったんだろう。
誕生日プレゼント兼仲直り。
チャンミンの計画は大成功だ。
いかにも俺が喜びそうなコスチュームに身を包んで登場するんだから。
喧嘩のきっかけはお互い様なところがあって、どちらが悪いとも言い切れない。
実際の俺たちは、仲が良すぎるくらい良いから、たまの喧嘩もいいスパイスだ。
それにしても...。
可愛かった。
とんでもなく可愛いかった。
俺が特に気に入ったのはもちろん、尻尾だ。
「もう一回、付けてくれる?
俺が挿れてやろうか?」
「えー、恥ずかしいから...嫌だ。
あれは、年に一度のお楽しみ。
そう言うユノこそ、尻尾をつけてよ」
...よいしょっと」
チャンミンは、ベッドの下に落とした尻尾を拾い上げた。
「どう?」とクスクス笑って、毛先でさわさわと、俺の鼻先をくすぐった。
「ネコなのはチャンミン。
俺はネコじゃないの!」
「ふふっ。
分かってるよ。
...そうだ!」
チャンミンは自身の頭から、猫耳のカチューシャを取って、俺の頭に装着する。
「うん、可愛い。
よく似合ってる」
「そう?」
「僕より似合ってる」
俺の目尻にとん、とチャンミンの細い指が添えられた。
「あーがり目、さーがり目、くるっと回って、ニャンコの目。
ほら、ユノの目って猫っぽいでしょ?」
「そう?」
「うん」
「...腹が減った。
御馳走の続きを食べようよ」
「僕もペコペコ。
あのシャンパン、ちょっといいやつなんだ」
「チャンミンはネコだから、ミルクだぞ?」
「ヤダね。
猫の時間は終わりだよ」
ベッドを下りたチャンミンにはもう、あの尻尾はない。
俺が引っこ抜いちゃったから。
「次は白猫になってあげるね。
来年のユノの誕生日を、こうご期待!」
チリチリと鈴を鳴らしながら、リビングに向かうチャンミンの背中を、俺は追った。
(おしまい)
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【BL短編】産卵
「ひ、ひ、ふー。
ひ、ひ、ふー」
「よし、いい子だ。
あともうひとふんばりだ」
「ひぃ、ひっ、ふー」
ユノはチャンミンの額から流れる汗を、タオルで拭いてやる。
ユノの手を握るチャンミンの指の力は、手の甲に爪が食い込むほどだった。
「っん...んっ...」
チャンミンはぎゅっと目をつむり、ある1点に向けて渾身の力を注ぐ。
「いったん、深呼吸しようか?」
「ふうふうふう」
ユノの目線は、チャンミンの顔と彼の尻の中心とを行ったり来たりと忙しい。
チャンミンのお尻の真ん中。
桃色の粘膜がいっぱいいっぱい口を開き、硬質な丸いものが出たり引っ込んだりしている。
「お尻が...痛い」
「どれどれ...。
血も出てないし...うん、大丈夫だ!」
「ホントに?
じんじんする」
「入れるときはあっという間だったのになぁ。
つるん、って」
「やった直後だったからだよ」
「もっとくださ~い、ってひくひくしてたぞ?」
「ユノの馬鹿」
「3分の1は顔出したから。
一気にやっちゃってくれ」
「...う...ん」
「顔を出してきたぞ。
...力を抜くな。
あ〜あ、引っ込んじゃったぞ」
「だって...だって...。
おっきいんだもん」
苦し気にあえいで、チャンミンは目尻にたまった涙を拭った。
「そりゃそうさ。
世界で一番、大きいんだから」
「...苦しいし、やだ...」
「じゃあ、そのまんまでいる?」
「やだ」
「普段、もっとデカいやつ入れてるだろ?
弱音を吐くな。
チャンミンならできる」
「一番膨らんでるとこ...がキツイ。
裂けそうで怖い」
「よっしゃ。
マッサージしてやるぞ。
...どう?」
「今ならイケそうな気がする。
んん~っ!」
「頑張れチャンミン!」
「んっ、んーっ...っん、んんっ...」
「産まれる、産まれるぞ!」
「ひ、ひ、ふー」
チャンミンはぎゅっと目をつむり、歯を食いしばる。
「んーっ!」
「あと少し!」
ユノはチャンミンの背をさすり続ける。
「頑張れチャンミン!」
「んん~~~!」
すぽん。
「チャンミン!
やった、やった。
よくやった...!」
ユノはチャンミンの頭を引き寄せて、ごしごし撫ぜ、頬にキスの嵐。
「はあはあはあはあ...」
「チャンミン...凄いよ。
お前は数百億の価値ある卵を産んだんだぞ」
お尻の下に敷いたタオルの上に、ぽとりと産み落とされた卵。
ユノは卵を人差し指と親指でつまみ持つと、ライトにかざす。
「ほぉ...」
光の当たり具合でそれは、濃い赤から濃い青へと色を変え、その中間の紫色は一瞬だ。
その瞬間を見たくて、ユノは手首を左右にかえして、卵の中で繰り広げられる色の世界を楽しんだ。
一仕事終えたチャンミンは、全身を汗で光らせ、呼吸を整えようと深呼吸を繰り返していた。
汗びっしょりの首の後ろをタオルで拭う。
例の箇所がじんじんする。
「...綺麗だ...」
ライトに近づけると、強い光線のもとでは不思議なことに無色透明になるのだ。
中に数億年前のあぶくが閉じ込められている。
「綺麗だなぁ...最高だ。
チャンミンが産んだ卵は...綺麗だ」
「馬鹿ぁ。
もう二度としないでよ。
一生、出てこないんじゃないかって、怖かったんだから」
「チャンミンの可愛いアソコを見てたらさ、ついつい...」
「もおっ!」
かあぁぁっと赤くなったチャンミンは、手にしたタオルをユノに投げつけた。
「その卵...どうするの?」
半身を起こしたチャンミンの視線の先。
シルクハットと夜会服。
「目的は果たしたから、本来の持ち主に返してやるよ」
「目的を果たすって...。
僕に卵を産ませたかった、ってことが?」
「うん」
「...ユノの変態」
「うん。
俺はチャンミン限定で、変態になるんだ」
「罰当たりなことをしちゃったね」
「どうせこれは、数奇な運命を無数に見てきたシロモノさ。
こんな程度、可愛いものさ」
ユノはそう言って、片眼鏡をはめて見せたチャンミンの頭を撫ぜた。
(おしまい)