【42】NO?

 

~やきもち~

 

~チャンミン~

 

 

ドアの前にたたずんで、僕は民ちゃんのシャワーを浴びる音をしばらくの間聞いていた。

 

ドア越しに、民ちゃんに声をかけようとしたが、言葉が見つからない。

 

このシチュエーションは覗きに近いと気付いた僕は、仕方なくリビングに戻った。

 

そこは無人で寝室をそっと覗くと、身体を丸めたリアがベッドで横になっている。

 

リアに対しての罪悪感が僕を襲う。

 

リアのプライドを傷つけてしまった。

 

「抱いて」の言葉に応えたところ、リアの豊満な身体を前にしても僕の方は萎えたままだった。

 

別れを決心したくせに、リアのことを可哀想だと思って一瞬でもリアを抱こうとした自分に嫌気がさした。

 

自身の喉元に刃物を向けたリアの姿が、頭に焼き付いている。

 

ここまでリアを追い込んでしまった自分の不甲斐なさにも嫌気がさした。

 

「はあ...」

 

僕はソファに寝っ転がって、広い天井に並ぶダウンライトを見上げた。

 

この部屋には、男ひとりと女ふたり。

 

2人の女性の間で右往左往している僕だったが、決して彼女たちに振り回されているとは思わなかった。

 

本心は口にせず、その場限りの優し気な言葉を吐いていた結果がこうだ。

 

僕との別れを拒絶するのなら、リアを置いてこの部屋をさっさと出て行けばいいことだ。

 

けれども、それにストップをかける。

 

リアを「捨てる」みたいじゃないかって。

 

ここを出るのなら、リアには僕らの別れに納得してもらいたいし、リアの今後の生活のことも心配だった。

 

無責任なことはしたくないし、無責任な男だと思われたくなかった。

 

「そういうことか...」

 

どう思われたっていいじゃないか。

 

穏やかで寛大な男に見られたかっただけじゃないか。

 

本音に従って行動すればいいことなのに。

 

民ちゃんのことを想う。

 

もし今、僕の想いをぶつけたら、民ちゃんは困るだろう。

 

男物の洋服が似合う民ちゃんが、ワンピースを着るくらいだ。

 

お洒落した姿を見てもらいたかったんだろう。

 

あんなに綺麗で可愛いワンピース姿を見せられたら、『例の彼』もぐらっときただろう。

 

民ちゃんの恋が順調そうな時、僕の身勝手なタイミングで想いを告げたりなんかしたら、民ちゃんは悩むだろう。

 

民ちゃんとどうこうなる可能性が低くなったからといって、リアと別れることを思いとどまることは決してない。

 

僕は恋人が欲しいわけじゃないんだ。

 

「はあ」

 

ふわっとシャンプーのよい香りが漂ってきた。

 

湯上り民ちゃんは、ソファの背もたれのこちら側に居る僕に気付かず通り過ぎると、6畳間に入っていった。

 

ワンピースを脱いで、いつものオーバーサイズのTシャツに黒いレギンス姿を見て、「いつもの民ちゃんに戻った」とホッとした。

 

綺麗に着飾った民ちゃんを見ると、胸がザワザワする。

 

なぜって、綺麗になるのは僕のためじゃなくて、『例の彼』のためのものだろうから。

 

おい、チャンミン、思い出せ。

 

民ちゃんにリアと抱き合っているところを見られてしまったんだぞ?

 

床を這いつくばってリアとコンタクトレンズを探していた、なんて感じじゃなかったんだぞ。

 

民ちゃんの誤解を解きたかったが、うまい言いわけを思いつかない。

 

別れの条件を果たすためにリアと抱き合っていた、なんて言えるわけがない。

 

「はぁ...」

 

僕は立ち上がってキッチンへ向かった。

 

床に転がったカップケーキをひとつひとつ拾い上げた。

 

情けなく、そして泣きたくなるほど寂しい気持ちで。

 

「このカップケーキはね、豆腐や大豆粉で作られてるんだよ。

イソフラボンが含まれているから、民ちゃんのお胸が大きくなるかもよ」

 

「ひどいですー!」

 

民ちゃんは僕を睨んで頬を膨らませながらも、「でも食べまーす」って大きな口でパクパク食べるんだ。

 

「僕にも1個頂戴」っておねだりしたら、「1個だけですよ」って言いながらも、3個も5個も僕の手に乗せてくれるんだ。

 

民ちゃんはきっと、独り占めしない子だろうから。

 

「チャンミンさんはそれ以上、お胸を大きくしちゃダメです!」って、僕らは深夜のティータイムを過ごすはずだったのに。

 

 


 

 

~民~

 

 

ベランダの手すりにもたれて、夜景を眺めていた。

 

雨は上がっていて、雨上がりの涼しい風が湯上りの火照った顔や首を、ちょうどよく冷やしてくれた。

 

頭の中を整理しようと 熱めのシャワーを浴び過ぎたみたい。

 

「はあ...」

 

今日はイベント盛りだくさんだった。

 

ユンさんに美味しいものをご馳走になったことだけでも、嬉しすぎるイベントなのに、キスされちゃった。

 

「あー」っと声を出して、額を手すりに押し付けた。

 

ユンさんとのキスを、どう処理したらいいのか分からない。

 

嬉しいんだけど、素直に喜べない。

 

私にキスした理由が分からない。

 

深い意味はなかったんだよね、うん、きっと。

 

だって、ユンさんには恋人がいるだろうから。

 

もうひとつの処理できない気持ち。

 

チャンミンさんがリアさんと抱き合っていた。

 

2人とも床に座っていて、リアさんの髪もチャンミンさんの髪もぐちゃぐちゃに乱れていた。

 

2人とも赤い顔をして汗をかいていて...何をしようとしていたのか、私だって想像がつく。

 

チャンミンさん、リアさんとやり直すつもりなんだね。

 

「リアとは別れる」って宣言してたのに、気が変わっちゃったの?

 

「別れたい」ってホテルで泣いてたけど、チャンミンさんの本心はリアさんと別れたくなかったんだね。

 

チャンミンさんの...バカ。

 

心配したんだから。

 

リアさんと別れたチャンミンさんを元気づける方法を、いっぱい考えたんだから。

 

ここはチャンミンさんとリアさんのおうちだから、いつでもどこでもいちゃいちゃしてても、私には文句は言えない。

 

でも...リアさんを抱きしめてるチャンミンさんを見て、もの凄く動揺した。

 

「ラブシーンを見てしまった―!」っていう赤面ドキドキ動揺じゃないの。

 

呼吸が苦しくなる感じ、嫌な感じ。

 

この感情をひとことで言い表せる言葉を見つけた!

 

「面白くない」

 

チャンミンさんとリアさんがいちゃいちゃしているところを見たくない。

 

チャンミンさんには、リアさんといちゃいちゃして欲しくない。

 

でも...チャンミンさんを責める資格は私には、ない。

 

チャンミンさんは、お兄ちゃんのお友達に過ぎないし、チャンミンさんには恋人「リアさん」がいる。

 

それに。

 

私はユンさんのことが好きで、キスもしてもらって、嬉しくて、でもユンさんには恋人がいて...。

 

どーしよー、頭がパンクしそう!

 

手すりにゴンゴンと頭を打ち付けた。

 

「!!」

 

後頭部に何かが触れた。

 

驚いて横を振り仰いだら、チャンミンさんだった。

 

「チャンミンさん...」

 

リビングの方からバルコニーに出てきたチャンミンさんが、いつの間に私の横に立っていたのだ。

 

バルコニーは暗くてシルエットしか分からないけれど、チャンミンさんはきっと困ったような顔をしているんだと思う。

 

言葉が見つからなくて不貞腐れた顔をした私は、手すりの上にあごを乗せた。

 

心の中は沢山の言葉で溢れそうなのに、いざとなると1つも出てこない。

 

「おでこを怪我するよ」

 

私の頭を撫ぜようとするチャンミンさんの手を、はねのけた。

 

「民ちゃん...」

 

乱暴なことをしてごめんなさい。

 

リアさんを抱いていた手で触って欲しくないの。

 

それなのに。

 

チャンミンさんの言い訳の言葉が聞きたかった。

 

チャンミンさんが恋人のリアさんを抱きしめたからって、私に謝る必要なんてないのに。

 

チャンミンさんは私の「彼氏」じゃないのに。

 

どうしてイライラするんだろう。

 

 

(つづく)

 

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【41】NO?

 

~嵐の予感~

 

~民~

 

 

「今夜はごちそうさまでした」

 

ユンさんはふっと笑みを浮かべると、「遅くまで悪かったね」と言って、マンションを見上げた。

 

「お兄さんは心配しているだろうね」

 

ユンさんとのキスで頭がパンクしそうになっていた私は、チャンミンさんの部屋に住んでいる事情を端的に説明できなくて、「もう寝ちゃってると思うので、大丈夫です」と答えた。

 

食事の後、私とユンさんは雰囲気のいいカフェに入って2時間ほど過ごした。

 

レストランでお腹いっぱいに食べたくせに、甘いものは別腹な私は、ユンさんに勧められるままケーキをオーダーした。

 

何を話したらいいのかわからなくて、食べることと飲むことに専念した。

 

ケーキを3個も食べる私を、ユンさんは穏やかな優しい眼で見ていた。

 

「民は美味しそうに食べるね」って。

 

私は胸がキュンとする(それでも、ケーキは食べられるの。食い意地が張ってるの)

 

ユンさんが右を見る度、赤い跡が見え隠れするから、そこへ視線をやらないように意識していた。

 

恋人がいるんですよね。

 

私へのキスなんて、ユンさんにしてみたら「軽い」ことなんだよね、きっと。

 

期待しちゃいけない。

 

ユンさんは遠い憧れの人なんだから。

 

「また明日」

 

「はい」

 

ユンさんは私の顎に指の背で軽く触れると、車に乗り込んだ。

 

助手席に乗せてもらったのは。今夜で2度目。

 

大きくてかっこいい黒い車。

 

ユンさんの車が交差点を曲がって見えなくなるまで見送った。

 

「はぁ...」

 

私は5分位、マンションのエントランス前で余韻に浸った。

 

チャンミンさん、心配しているだろうなぁ。

 

でも...。

 

チャンミンさんを見ると、正体の分からない気持ちがもやっとする。

 

チャンミンさんのお部屋が、ちょっとだけ居心地悪くなってきたの。

 

チャンミンさんとリアさんが解散して、あの部屋を引き払うことになるのかどうかは私には分からない。

 

今の私がすべきことは、新しい住まいを探すことだ。

 

「よし!」と声に出すと、私はエントランスドアを開錠したのだった。

 

 


 

 

~チャンミン~

 

 

リアのキスを受け止めた僕は、やけくそだった。

 

「抱かないのなら死んでやる」の言葉に、僕の心臓が凍り付いた。

 

単なる脅しだったのだとしても、ここまで捨て身になったリアが哀れで、同時に怖かった。

 

最後に1度セックスをすればリアが納得するのなら、抱いてやろうと思った。

 

本心は、嫌でたまらなかった。

 

リアの激しくて濃密なキスに引きそうになったが、ここでリアを拒否したりなんかしたら、次も自分を傷つけそうだ。

 

リアは僕の首に巻き付けた腕に体重をかけるから、僕は仰向けになったリアを組み敷く格好となった。

 

僕の心はしんと冷えていた。

 

リアがからめてくる舌に機械的に応えながら、民ちゃんのことが頭をよぎった。

 

「リアと別れたい」と民ちゃんの肩で涙を流した夜を思い出した。

 

僕を慰めてくれた民ちゃん。

 

優しい子だ。

 

あの夜の出来事が遠い。

 

「!」

 

リアの手がTシャツの下から忍びこんできた。

 

僕の胸の先端を、指先でいじりだした。

 

「リアっ...」

 

民ちゃんが指摘したように、僕はここに弱い。

 

「待てっ!

ここでするのか?」

 

「うんっ...ここで抱いて。

お願い...激しくして」

 

僕の首筋にリアが吸い付く。

 

リアは僕の手を取ると、自身の豊かな胸に添えさせる。

 

手の平の下に、リアの柔らかくて弾力に富んだ胸を感じているけれど、これっぽちも欲情が湧いてこない。

 

民ちゃんには好きな人がいる。

 

片想いだと言っていた。

 

『例の彼』に人を見る目が備わっている男ならば、男の子みたいな民ちゃんが無意識のうちに放つ、性差を超えた妖しい魅力に気づくだろう。

 

彼女のユニーク過ぎる性格や性根の優しさに気づくだろう。

 

民ちゃんの透明で澄み切った瞳に映るのは、自分だけなんだと独占してしまいたくなるだろう。

 

例えば、僕のように。

 

民ちゃんの想いが『例の彼』に伝わらなければいいのに。

 

『例の彼』が、民ちゃんの美しさに気づかなければいいのに。

 

「!!」

 

リアの片手が僕の胸から腹、腰へと下りていった。

 

他の女性のことを考えながらリアを抱くなんて。

 

リアにすごく失礼だ。

 

「リア...!

やっぱり...よそう」

 

僕のパンツのウエストゴムにかかったリアの手をつかんだ。

 

「こんなの...よくないよ」

 

「放して!」と、僕の手を払いのける。

 

リアの顔が遠い他人に見えた。

 

「!!」

 

僕の股間を確認したリアの手が、ぱたりと床に落ちた。

 

「リア、ごめん」

 

わっとリアが声を上げて泣き出した。

 

リアを抱き起した僕は、背中を叩いてやった。

 

ごめん、リア。

 

他に好きな人が出来た僕が悪いんだ。

 

「ごめん」

 

僕はリアの頭を贖罪の気持ちを込めて撫ぜた。

 

かちゃりと鍵を開ける音がした。

 

「!!!!」

 

「ただいまでーす...。

おっと...皆さまはもうお休みのようですね」

 

小声の主は...民ちゃんだ!!

 

電子レンジのデジタル時計を確認すると、午後23時45分。

 

ふんふんと調子っぱずれの鼻唄を歌っている。

 

よかった、帰ってきた。

 

キッチンの床に座り込んだ僕は、立ち上がって民ちゃんの元へ駆け寄ろうとした。

 

ところがリアが放してくれない。

 

舌打ちしたい気持ちを抑える。

 

リビングに現れた民ちゃんが、ワンピースを着ていた。

 

昨日はちらっとしか見られなかった。

 

黒地に白い小花が散ったロング丈のワンピースは、ほっそりとした身体のラインを控えめにひろいながらすとんと落ちている。

 

ウエストがきゅっと細かった。

 

襟ぐりが広く開いていて、白いデコルテとそこから繋がる長い首が華奢なイメージを醸し出していた。

 

アシメトリーに分けた白い前髪が、青い髪飾りで留められている。

 

ヤバい...可愛い。

 

リアと抱き合っていることを弁解することも忘れて、民ちゃんの姿に見惚れてしまって口もきけない。

 

女装している男には全然、見えなかった。

 

僕の目というバイアスがかかっていたとしても、民ちゃんは綺麗だった。

 

そっか...。

 

今夜、帰りが遅かった理由は...『例の彼』と会っていたんだ。

 

胸がきゅっと痛くなった。

 

民ちゃんが僕らの気配に気づいて、パッと振り向いた。

 

「民ちゃん...」

 

「...チャンミンさん」

 

民ちゃんの目がまん丸に見開かれた。

 

「...リアさん」

 

続いて、僕の腕の中のリアにも気づくと口もポカンと開いている。

 

「ごめんなさい!」

 

民ちゃんは目を伏せると、180度身体を回転させた。

 

「びっくりしました...。

私は、何にも見てませんからね。

...お風呂をお借りしますね。

ごゆっくり...」

 

顔を背けた状態で、民ちゃんは浴室の方へ消えた。

 

キッチンカウンターの下に、紙袋が横倒しになっている。

 

リアともみ合いになった時、手足が当たったのだろう。

 

カップケーキがいくつも床に転がっている。

 

「民ちゃんのために貰ってきたんだ。全部食べてもいいからね」って、勧められなくなったカップケーキ。

 

誰かと会っていた民ちゃん。

 

僕とリアは復縁したのだと誤解したに違いない民ちゃん。

 

ワンピースを着た民ちゃんが綺麗で。

 

民ちゃんが遠くなっていく。

 

「民ちゃん...!」

 

僕は引きはがすようにリアの身体から離れると、立ち上がった。

 

「チャンミン!」

 

リアの不服そうな声を無視する。

 

浴室からシャワーの音が聞こえる。

 

シャワーを浴びる民ちゃんの元へ乱入して、抱きしめて誤解を解きたかった。

 

けれども、僕は民ちゃんの兄の友人に過ぎない。

 

僕には民ちゃんへ、リアとのことを弁解する義務もないし、民ちゃんの恋に口出す資格もない。

 

リアと別れるために、リアとディープなキスをしたし、リアを抱こうとしていた。

 

途中で止めたからセーフだなんて、言いわけにもならない。

 

だから、僕は閉ざされたドアを開けることができない。

 

 

(つづく)

 

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【40】NO?

 

~嵐の予感~

 

~チャンミン~

 

 

「最低!

あなたはクズよ!

最低!

浮気者!」

 

リアの振り回す腕が、僕の顔や頭を打ち付ける。

 

「まるで私だけが悪いみたいに責めるなんて卑怯者!

好きな女がいるのなら、はっきりそう言えばいいじゃないの!」

 

リアの言う通りだったから、僕は叩かれるままでいたけれど、さすがに...痛い。

 

リアの手首を持って動きを封じたら、リアは崩れるように床に座り込んでしまった。

 

「どんな子?」

 

「床に座ってないで、起きて」

 

「私の知っている子?」

 

僕はリアの質問に答えず、彼女の手を引っ張って立ち上がらせようとした。

 

と、リアが僕の首にかじりついてきた。

 

リアの肩を抱くべきか、リアの腕を振りほどくべきか、僕は迷った。

 

僕は「好きな女がいるんでしょ?」の台詞で、視界が開けたような気がしたんだ。

 

リアには悪いけれど。

 

リアとの関係を清算しようと決意した理由。

 

リアとの生活がむなしくて、リアへの興味が薄れてしまったのは常日頃感じていたことで、「別れた方がいいのでは?」の気持ちは湧いては打ち消していた。

 

気持ちを打ち消していた理由は、変化を恐れていたこと。

 

過去に交際してきた女性たちとの間で経験した、辛かった時期を思い起こす。

 

関係を清算する際に発生する事柄...。

 

例えば...別れ話中のすったもんだ、引っ越し手続きと持ち物の線引き、友人たちへの説明...そして、心を襲う寂しく悲しい想い。

 

僕はリアの反応が怖かった。

 

そんな中、優柔不断な僕の前にあの子が現れた。

 

その日の夜に、僕はリアとの別れを決意した。

 

好きな人ができたから、リアと別れようと決意したんだった。

 

僕の気持ちが、ここで初めて明確になったのだった。

 

 

「別れる前に、ひとつだけお願いを聞いてくれる?」

 

「ああ」

 

リアと別れられるのなら、何でもしてやろうと思った。

 

最後のお願いを叶えてやろうと思った。

 

この時の僕のずるい考えが、その後、物事を複雑にしてしまったのだ。

 

 


 

 

~リア~

 

 

チャンミンに罪悪感を植え付けようと訴えたのに、通じなかった。

 

チャンミンは本気なんだ。

 

私のプライドはズタズタだった。

 

許せない。

 

本当に許せない

 

モデルの仕事が激減した今は、この部屋を私一人で維持はできない。

 

ここを出なくちゃいけなくなるのは困る。

 

あの人のところへ転がり込もうか?

 

捨て身でいけば何とかなるかもしれない。

 

チャンミンの方も、良心と罪悪感をもっと刺激してやれば、折れるかもしれない。

 

チャンミンが私から離れられないように、引き留める何かとは...?

 

これしか、ない。

 

抱き着いたチャンミンの耳元に囁いた。

 

「最後に1回だけ私を抱いて」

 

「え!?」

 

私の背中に回ったチャンミンの腕がビクリとした。

 

私の流す涙がチャンミンの肩に落ちる。

 

あなたのせいで泣いているのよ、って。

 

自分が可哀そう過ぎて、いくらでも泣けそうだった。

 

「1度だけ抱いてくれたら、チャンミンと別れてあげる」

 

「......」

 

「私のことを可哀そうだと思って...最後に...」

 

「...できない」

 

「チャンミンに断られたら、私...っく...っく...。

女としての自信を失っちゃう...」

 

「リアは自信を持っていいんだよ」

 

あと少しだ。

 

チャンミンの肩にもたせかけていた頭を起こし、間近から彼の顔を見る。

 

チャンミンも泣いているじゃない。

 

それにしたって...整った顔をしている。

 

私がチャンミンと付き合ったのは、チャンミンの顔とスタイルが理由なんだもの。

 

滅多にいない「いい男」だったから。

 

チャンミンには内緒。

 

私が「浮気」をしていることも、内緒。

 

もっと近づいて、チャンミンに口づける。

 

チャンミンは、唇を堅く引き結んだままだ。

 

「私とはキスもしたくないのね。

もう私は終わりなんだわ!

生きている価値なんてないんだわ!」

 

「リア!

落ち着けって!」

 

ごうごうと泣きわめく私を、チャンミンはきつく抱きしめる。

 

あと少し。

 

「死んでやる!

チャンミンと別れるくらいなら、私...死んでやるから!」

 

「リア!!」

 

この後の展開にふさわしい策がひらめいた。

 

チャンミンの腕の中から抜け出して、キッチンカウンター上のラックから包丁を抜く。

 

「リア!

よせ!」

 

私の手から包丁をもぎとろうとチャンミンが手を伸ばすから、刃先を自分の方に向ける。

 

「死んでやる!

全部チャンミンのせいよ!」

 

死ぬ気なんて、さらさらなかった。

 

隙を狙ったチャンミンが、私を羽交い絞めにする。

 

チャンミンは私の指を1本1本はがすようにして包丁を取り上げて、カウンター上に置いた。

 

「分かった、分かったから」

 

背後からきつく私を抱きしめた。

 

「死ぬとか、終わりとか、よしてくれ」

 

抱きしめられた私は、振り向いて片手をチャンミンの頬に添えた。

 

充血した目で、苦しそうな顔をしている。

 

そうよ。

 

チャンミンが悪いのよ。

 

抵抗しないことに心中ほくそ笑んだ私は、チャンミンと深いキスを交わしたのだった。

 

 

(つづく)

 

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【39】NO?

 

 

~チャンミン~

 

 

残業でくたびれた身体を引きずるようにして帰宅した。

 

今日はカタログに載せる健康レシピを監修する料理家の元へ出向いていた。

 

僕もエプロンをつけて、調理を手伝ったのだ。

 

片手に下げた紙袋の中に、沢山のカップケーキが詰まっている。

 

生地が大豆粉とお豆腐で出来ているからヘルシー、なんだそうだ。

 

民ちゃんに食べさせようと、全部もらってきた。

 

民ちゃんの大きな口の中に、すいすいと消えていくんだろうな。

 

「チャンミンさん、美味しいですー」って。

 

思わず、ふふふっと笑いがこぼれた。

 

リビングが明るかったから民ちゃんがいるんだろうと、元気よく「ただいま」と言った。

 

「チャンミン...?」

 

キャミソールに短パン姿のリアが、ソファで膝を抱えていた。

 

ローテーブルの上にスナック菓子と菓子パンの袋が散らかっていた。

 

1.5リットルのコーラのペットボトルをラッパ飲みしたリアは、フライドチキンにかぶりついた。

 

「珍しく遅いのね」

 

スタイルを死守するために食へのルールが多かったリアらしくない。

 

「食べ過ぎじゃないのか?」なんて、口が裂けても言えない。

 

どんな内容であれリアに向けるふさわしい言葉が、今は見つからない。

 

昨夜に引き続き、リアが今夜も部屋にいること自体も、今までと違っていた。

 

分かっているのは、リアが著しく機嫌が悪いということだ。

 

キッチンに紙袋を置いて、「民ちゃんは?」とリアに尋ねた。

 

「さあ。

帰ってきてないと思う」

 

民ちゃんの部屋を何度かノックしたのちドアを開けたが、三つ折りにした布団が見えるだけで無人だった。

 

まだ帰ってきてないのか?

 

今夜はカットモデルのバイトではないはずだ。

 

23時。

 

民ちゃんはまだ帰ってこない。

 

 

 

 

携帯電話のディスプレイを何度も確かめていた。

 

落ち着かなくて、立ったり座ったり、冷蔵庫の扉を開けたり閉めたり、飲みたくもない珈琲を淹れたり。

 

これまで3回電話をかけたが、マナーモードにしてあるのか民ちゃんは電話に出ない。

 

今朝、出勤前の玄関先で、「今夜は帰りが遅くなります」と民ちゃんは言っていた。

 

昨日に引き続き、民ちゃんの態度がどこなくそっけなかったような気がした。

 

だから余計に僕は心配だった。

 

「未成年じゃあるまいし。

弟くんは夜遊びしているだけだって」

 

民ちゃんのことを男だと勘違いしているリアが、投げやりに言う。

 

夜遊び、の言葉に僕の心がヒヤリとした。

 

今夜はカットモデルのバイトはないはずだ。

 

友達と遊びに行っているのだろうか?

 

それとも...『例の彼』と...?

 

「チャンミン...。

弟くんの心配もいいけど、もっと心配しなくちゃいけないことがあるんじゃないの?」

 

騒々しい音を立てていたTVを消すと、リアは怖い目をして僕を見た。

 

「私たちのこと...まだ気持ちは変わらないの?」

 

「...変わっていない」

 

僕はゆっくりと首を振った。

 

「私は...別れたくない」

 

「リア...」

 

「チャンミンに捨てられたら、私はどうすればいいのよ?

この部屋を出て行かなくちゃならなくなるのよ。

モデルの仕事なんて...この半年間はほとんど無かったのよ。

知らなかったでしょう?」

 

「え...!」

 

驚いた。

 

「忙しい忙しいって...帰りも遅かったよな?」

 

「呑気な人ね。

モデルの仕事がなくなったら、どこで稼いでると思う?

コンビニやファストフードの店員をやってるって?

私にできるわけないでしょう?

夜の仕事に決まっているじゃない!」

 

「......」

 

モデルのことも夜の仕事のことも、初耳だった僕は絶句した。

 

「初めて聞く話でしょう?

驚いたでしょう?

毎晩帰りが遅い理由を聞かなかったチャンミンが悪いのよ」

 

「夜の仕事っていうと...つまり...ホステスとか、キャバ嬢のことか?」

 

「そうでもしないと、生活費はどうするのよ?」

 

「どうしてもっと早く教えてくれなかったんだ?

相談にのってやれたし、違う部屋に引っ越すことだってできたんだぞ?」

 

「モデルの仕事が少なくなったなんて言えるわけないじゃないの。

チャンミンは『モデルのリア』が好きなんでしょ?

理想を壊したくなかったのよ」

 

「リア...」

 

リアは話したいことしか話さない。

 

僕が質問したとしても、詮索していると捉えて機嫌を悪くする。

 

仕事の後、遊びにでも行っているのだろうと思い込んでいた。

 

好き勝手に暮らしているのだと、リアに嫌気がさしていた自分が恥ずかしくなってきた。

 

リアにはリアの事情があったのだ。

 

不満があったのならそれを言葉で伝えたり、帰りの遅い理由を問いたださなかった僕が悪かった。

 

リアの言う通り、僕は『モデルのリア』に惚れた。

 

でもそれは好きになったきっかけに過ぎず、僕が求めていたのは「好きな人と共に過ごす時間」と互いを想い合う感情だ。

 

楽しく笑い合うだけじゃなく、衝突し合ったり、胸を痛めることもあったりして、共に経験する時間が欲しかった。

 

僕をほったらかしにしているくせに、携帯電話を盗み見るリアが嫌だった。

 

「じゃあ、泊りで何日もいなかった時は?

その時は、撮影だったのか?」

 

リアの表情が一瞬強張った。

 

「今さら、あれこれ聞くのはやめてよ。

私のことなんか興味なかったくせに!」

 

「そんなこと...」

 

「なくはない」と思った。

 

リアの不在に不貞腐れているうち、不在が当たり前になってきて、稀にリアが部屋にいる日があると、くつろげず緊張している自分がいた。

 

「チャンミンは...こんな私を...捨てるの?」

 

「そんな言い方はよせよ」

 

リアの口が歪み、大きな目に涙が膨らんでいる。

 

また泣かせてしまった。

 

「私のことが嫌いになったの?」

 

「嫌いになったわけじゃない」

 

「じゃあどうして、別れたいのよ?」

 

「君と恋人関係を続けるのに疲れたんだ」

 

僕の目にも涙が浮かんできた。

 

交際期間たった1年で僕は根を上げた。

 

「早く帰るから。

料理もするし、デートもする。

チャンミンの好きなことを一緒にするから。

チャンミンのファッションに口出ししないし...そうだ!

旅行しようよ。

今まで行ったことなかったでしょう?

私、変わるから!」

 

僕の腕をぎゅっとつかんだリアが、僕を見上げている。

 

リアの必死な姿は初めて見る。

 

「もう遅いよ」

 

僕はゆっくりと首を横に振った。

 

「大嘘つき!

私のことを好きだの、最高だの言ってたくせに!」

 

「ごめん」

 

当時の気持ちは本物だったと断言できる。

 

「分かった!

他に好きな女がいるんでしょ!」

 

瞬時に民ちゃんの顔が浮かんだ。

 

パチンと音がして、頬がカッと熱くなった。

 

僕の表情のわずかな変化を見て取ったリアが、僕に平手打ちをしたのだ。

 

 

(つづく)

 

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【38】NO?

 

~君が遠い~

 

~ユン~

 

 

ゆるいパーマをかけたプラチナ色の前髪を、アシメトリーに分けて髪飾りで留めていた。

 

秀でた白い額が顕わになって、意志の強そうな目元が強調された。

 

キャンドルが作る濃い影が、民の鼻筋とくっきりと結ばれた唇を浮かび上がらせていた。

 

化粧など一切、不要だった。

 

透明グロスすら付けていなかった。

 

それでいい。

 

丹念なメイクを施した女たちとは雲泥の差だ。

 

民は男と女の両方の色気を兼ね備えている。

 

ワンピース姿でそのことが如実に露わになった。

 

儚げな美しさだけでなく、俺を見る瞳が綺麗過ぎて胸をつかれる。

 

さんざん女も男も振り回してきた俺が、うろたえてしまうほどの透明さだ。

 

せっかく見つけた有能なアシスタントを失うのは痛い。

 

民の能力に期待していなかったところ、意外に事務能力が高いことに驚いたからだ。

 

まてよ...失う必要はない、か。

 

公私ともに可愛がってやればいいだけだ。

 

思わせぶりな言動で動揺するこの子をもっと見ていたいが、生ぬるいことはすっ飛ばしてそろそろ本気を出そうか。

 

この子は恐らく...未経験だ。

 

怖がらせないように、慎重に事を運ばないといけないな。

 

民の横顔を盗み見る。

 

本人は気付いていないだろう。

 

額から鼻先まで美しいラインを描く横顔が、どれだけ美しいのか。

 

粘土の塊から人体を無数に形作ってきたから、よく分かる。

 

今すぐ民の頭の形を両手で確かめたくなったが、あいにく運転中だし、早速民を怖がらせてしまうから、代わりにハンドルを固く握りしめた。

 

 

 


 

 

~民~

 

 

バッグの留め具を指先で開け閉めしながら、緊張を解こうと深呼吸をした。

 

何を話せばいいのかな。

 

精悍な横顔を見せてハンドルを握るユンさんを横目で見た。

 

対向車のヘッドライトが、ユンさんの彫の深い顔をなめていく。

 

時折眩しそうに眼を細めている。

 

家族の話じゃ、子供っぽいよね。

 

趣味の話...といっても、私には趣味がない。

 

どうしよどうしよ!

子供時代の頃の話...?

 

つまらないよね。

 

セーラー服の下はズボンだったんです、バレンタインはあげるより貰う側だったんです...なんて、自虐ネタは痛すぎる。

 

そうなの。

 

私ってば、自分で自分のことを「男みたい」って呪文のように唱えていたんだ。

 

コンプレックスの塊である自分の身体を持て余してた。

 

こんな自分が嫌いだった。

 

ワンピースが似合わないのも、当然。

 

私の女の部分をこれまで磨いてこなかったんだから。

 

自分のことを自虐る女なんて、ユンさんは好きじゃないだろうな。

 

だって、いつも自信に満ちた人だから。

 

チャンミンさんの話は、どうかな。

 

世の中に、自分と同じ顔をしている人が2人、3人だっけ?居るという話を聞いたことがある。

 

チャンミンさんはまさしくそのうちの1人で、怖いくらいにそっくりだっていう話。

 

私とチャンミンさんを並べてみたら、ユンさんもびっくりしますよ、って話そうかな。

 

どうかな。

 

耳の上で留めた髪飾りを、指で触れる。

 

昨夜、KさんとAちゃんが即席で作ってくれたもの。

 

シンプルなヘアピンに 透明なクリスタルビーズを繋いで作ったお花に、造花の小さな葉っぱが添えてある。

 

とっても可愛らしくて、嬉しくなった私は2人に抱き着いてお礼を言った。

 

ユンさんの車は大きくて、座り心地がよくて、静かだった。

 

低いエンジン音が心地よく響いていて、アルコールでぼうっとした私は眠ってしまいそう。

 

「眠い?」

 

あくびをこらえているのがユンさんにバレてしまった。

 

信号待ちで停車させたユンさんは、くすっと笑った。

 

「ひゃっ」

 

ユンさんの大きな手が、バッグの上の私の手に重なった。

 

「冷たい手をしているね」

 

思いっきりビクッとしてしまって、ユンさんは笑い声をたてた。

 

「そんなに驚くことかい?

傷つくなぁ。

俺みたいなおじさんは気持ちが悪いかい?」

 

「いえいえ」

 

「気持ち悪いなんてとんでもない」と首を振ったら、私の頬がユンさんのもう片方の手に包まれた。

 

「ひっ!」

 

「怯えすぎだよ」

 

「いえいえ、そんなつもりは...!」

 

ユンさんのさらりと乾いた手のひらは温かくて、思わず頬をこすりつけてしまいそう。

 

膝が震えていた。

 

ユンさんの指先が私の耳を挟むように髪の中へ滑り、うなじまで移動するとぐいっと手に力がこもった。

 

力づくじゃないの。

 

その動きはとても自然で、あっという間に私の顔はユンさんの方へ引き寄せられていた。

 

ユンさんの黒くて美しい目が、間近に迫っている。

 

この先を察した私は、ぎゅっと目をつむった。

 

斜めに傾けられたユンさんの顔がもっと近づいて、ふわっとユンさんの唇が私のものにあたった。

 

ムードぶち壊しだけれど、心の中で私は「ひぃー!」って叫んでたの。

 

キス!

 

キス、ですよ!

 

私、ユンさんとキスしてるのよ!

 

嘘でしょう!

 

信じられない!

 

もうダメ。

 

心臓が壊れてしまう。

 

ユンさんは私から顔と手を離すと、車を発車させた。

 

ユンさんの手の平と私の頬の間で温められた空気が、ふっと逃げて行ってしまった。

 

「......」

 

私の身体はユンさんの方を向いたまま、しばらく硬直していた。

 

「そこまで驚くことかい?」

 

前を向いたままユンさんは、苦笑した。

 

「......」

 

驚くに決まっているでしょう!

 

「このまま真っ直ぐ家まで送ればいい?

それとも、どこかに寄ろうか?」

 

「あ、あのっ」

 

「ん?」といった風に、ユンさんがこちらを見た。

 

「おしっこ...おしっこがしたいです」

 

「!」

 

わー!

 

わー!

 

なんてことを口にしてんの!

 

頭がおかしくなってる!

 

ユンさんとのキスで、頭のネジがとれちゃったんだ!

 

おしっこって...おしっこって...。

 

ばっかじゃないの!?

 

お子様じゃないの...。

 

泣きそう。

 

穴があったら入りたい。

 

「あははは!

気付いてやれなくて悪かったね。

カフェに寄ろうか?

民は甘いもの、好きだろう?」

 

ユンさんが私のことを呼び捨てで呼んだのに。

 

恥ずかしさでいっぱいだった私はこくこくと頷くのが精いっぱいだった。

 

ユンさん、彼女がいるのに私にキスなんてして、いいんですか?

 

 

(つづく)

 

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