【19】NO?

 

 

~君は女の子~

 

 

~チャンミン~

 

 

膝を立てて座る民ちゃんに倣って、伸ばしていた両膝を曲げた。

 

「?」

 

民ちゃんの膝と僕のそれと交互に見比べた。

 

「ほら。

僕の膝の方が大きいよ」

 

「あら、ホント」

 

民ちゃんに膝を撫でまわされて、くすぐったかった。

 

「今日はお洋服を貸してくださって、ありがとうございました」

 

手のサイズを比べようと、民ちゃんは自分の手の平を僕のものと合わせた。

 

「少しだけですけどサイズが違いますね。

よかったー、私の方が小さい」

 

と、無邪気に喜んでいる。

 

「心強かったです。

ほのかにチャンミンさんの匂いがしました」

 

「え!

臭かった?」

 

焦った僕は、民ちゃんが着ているシャツの匂いを嗅ぐ。

 

「ちゃんと洗濯してたんだけど、ごめん!」

 

「臭くないです!

いい感じの匂いです」

 

恥ずかしくなった僕は、テーブルから新しい缶ビールを取って、ぐびりと飲んだ。

 

僕と民ちゃんの違いってなんだろう。

 

わずかなサイズの違いは確認した。

 

「チャンミンさんは、男の人の匂いがしますー」

 

「!」

 

民ちゃんが僕の肩にもたれかかった。

 

「靴もありがとうございました。

ブラシをかけておきました」

 

「いいよ、そんなの...」

 

座高が一緒だから、民ちゃんの横顔は僕の頬のすぐ脇にある。

 

民ちゃんの頬から、ミルクのような甘い匂いがした。

 

「チャンミンさんといると、不思議な気分になります」

 

「同感」

 

「チャンミンさんにくっついていると、安心します。

不思議です」

 

そう言って民ちゃんは、僕の手の平に合わせていた手を放し、もたれていた頭を起こしてしまった。

 

初日には気づけなかった、民ちゃんの肌が放つ甘い香りが遠のいた。

 

民ちゃんといる時に襲われる、不思議な感覚の正体は何なのか、答えを見つけようと僕の頭はフル回転だ。

 

僕と同じところ、違うところ。

 

まじまじと観察してしまう。

 

不気味な気持ちが5%、愉快な気持ちが20%。

 

答えのみつからない妙な気持ちが75%。

 

この「妙な気分」についての分析は後日と言うことで...。

 

「こんなにあっという間に仕事が決まっちゃうとはね」

 

「とんとん拍子でした」

 

こんなことを言ったら民ちゃんに失礼だけど、就職活動が苦戦するのでは、って思っていた。

 

不採用の通知の際に、かけてやる慰めの言葉を考えていたくらいだ。

 

(民ちゃん、ごめん)

 

どこか世間知らずで呑気そうな民ちゃんが、世知辛い都会でちゃんとやっていけるのかと心配していた。

 

僕が守ってあげないと。

 

純朴な民ちゃんを騙したり、泣かしたりするような奴から守ってあげないと。

 

民ちゃんは僕の妹じゃないし、民ちゃんにはホンモノの兄がいる。

 

身近で見守ってあげるのは僕が適任だと、不思議な使命感を抱いているんだ。

 

どうしてなんだろうね。

 

「汗をいっぱいかいたので、お風呂をお借りします」

 

よいしょっと民ちゃんは立ち上がり、目の高さに民ちゃんのお尻が迫ってドキッとする。

 

浴室に向かう民ちゃんの背中を見送った。

 

僕が貸した白いシャツは、僕が着るよりずっとずっと、民ちゃんに似合っていた。

 

 

 

 

「チャンミンさーん!」

 

「はっ!」

 

浴室から僕を呼ぶ民ちゃんの大声で目が覚めた。

 

知らぬ間にうたた寝をしていたみたいだ。

 

「チャンミンさーん!」

 

「み、民ちゃん!!」

 

僕は飛び起きると、浴室まで走った。

 

「大丈夫?」

 

曇りガラス越しに、浴室内の民ちゃんに声をかけた。

 

この直後に、プチ・ハプニングが起きたのだ。

 

 


 

 

「民ちゃん?」

 

チャンミンは、曇りガラスの向こうへ声をかけた。

 

「お願いがあります」

 

ドアのすぐ傍から民の声がする。

 

「どうした?」

 

「あのですね。

私の服を、取ってきてくれませんか?

着替えを持ってくるのを忘れてました」

 

(そういえば民ちゃんは、部屋に寄らずに浴室に直行していたな)

 

「着ていた服も...」

 

チャンミンの背後で洗濯機が回っていた。

 

「洗っちゃったんだ、全部?」

 

「...はい」

 

「適当に何か持ってくればいいんだね?」

 

「引き出しの一番上に、Tシャツが入ってます」

 

「どれでもいい?」

 

「はい。

それから、一番下にパンツとブラが入ってますので...」

 

説明をしかけた民の言葉が止まる。

 

(チャンミンさんに、私のパンツを持ってこさせるわけにはいかない!)

 

「パンツとブラだね?

適当に選んでいいんだね?」

 

リアの下着を1年間洗濯してきたチャンミンは、民のパンツ程度では動じない。

 

「ストップ!」

 

民の部屋へ向かいかけるチャンミンを、民の大声が引き留めた。

 

「チャンミンさん、ストップです!」

 

「ズボンもでしょ?

適当に持ってくるから」

 

「持ってこなくていいです!」

 

「なんで?」

 

「恥ずかしいからです!

パンツを見られたくありません!」

 

「パンツくらい、どうってことないよ」

 

「そういうわけにはいきません!

バスタオル、取ってください!」

 

浴室のドアがわずかに開いて、その隙間から民の手がにゅっと伸びた。

 

(そこまで恥ずかしがらなくてもいいのに...)

 

「はい」と、民の手にバスタオルを握らせる。

 

「チャンミンさん、後ろ向いててくださいね!」

 

「へ?」

 

「私、部屋まで走りますから!」

 

(そっちの方が恥ずかしいだろ!)

 

「ちょっと待った!

僕、あっちに行っ...」

 

民が勢いよく開けたドアが、

 

「あでぇっ!!!」

 

チャンミンの鼻に直撃した。

 

「ううう...」

 

「わー!ごめんなさい!」

 

民はうずくまるチャンミンを覗き込む。

 

「鼻血!?

鼻血ですか!?」

 

「鼻血は...出てない」

 

「ごめんなさい!」

 

「だ、大丈夫だから...。

民ちゃんは、着がえておいで...」

 

チャンミンは鼻を押さえたまま、ひらひらと手を振る。

 

「了解です!

すぐに手当てしに戻りますから。

待っててくださいよ!」

 

「オケ...」

 

びしょ濡れのまま、バスタオルを身体に巻き付けた民は洗面所を出ていく。

 

「!」

 

(ミミミミミミミンちゃん!

お尻が!

お尻が見えてるから!)

 

と、赤面した直後、

 

「ひゃぁっ!」

 

悲鳴と共にドターンという音。

 

「民ちゃん!」

 

鼻の痛みを一瞬で忘れてチャンミンは、音がしたリビングへ走る。

 

民が仰向けでひっくり返っていた。

 

濡れた身体から落ちた水で足を滑らせたのだ。

 

「民ちゃん!」

 

民の側に駆け寄ったチャンミンは、白目をむいた民の頬をペチペチと叩く。

 

「民ちゃん!」

 

「う...うーん...」

 

うめき声をあげて民の目が開き、しばし視線をさまよわせていた。

 

民を見下ろすチャンミンの顔とピントが合った。

 

「よかったー。

濡れた足で走ったりしたら転んじゃうって、そりゃ..」

 

民を抱き起しかけたチャンミンがフリーズした。

 

「...すみません。

あわてんぼうのおっちょこちょいなんです」

 

後頭部をさすりながら、チャンミンに肩を支えてもらう民がフリーズした。

 

 

 

 

(ミミミミミミミミミミンちゃん!?)

(ひぃぃぃぃぃぃぃぃ!!)

 

 

 

民は腰まで落ちたバスタオルを猛スピードで、胸へ引き寄せる。

 

「あのっ!

あのっ!

服着てきます!」

 

「そうした方がいい!」

 

民は立ち上がると、バスタオルを胸に抱きしめて6畳間に飛び込んだ。

 

(恥ずかしー!恥ずかしー!恥ずかしー!恥ずかしー!恥ずかしー!恥ずかしー!恥ずかしー!恥ずかしー!恥ずかしー!恥ずかしー!恥ずかしー!恥ずかしー!恥ずかしー!恥ずかしー!恥ずかしー!恥ずかしー!恥ずかしー!恥ずかしー!恥ずかしー!恥ずかしー!

チャンミンさんに、おっぱい、見られてしまったー!)

 

民は床にぺたりと座り込むと、畳んだ布団に顔を埋めた。

 

「うっ、うっ、うっ...」

 

民は半泣き状態だった。

 

 

 

(つづく)

 

[maxbutton id=”27″ ]

【18】NO?

 

 

~あの男~

 

 

 

~チャンミン~

 

 

僕は廊下に出て通話ボタンを押した。

 

「民ちゃん!

どうした?」

 

『お仕事中のところ、ごめんなさい!

真っ先にお知らせしたいことがあってお電話しました』

 

ゆっくり話せるようにと、僕は給湯室へ足早に移動した。

 

「何かあったの?

大丈夫?」

 

『100%大丈夫です!

グッドニュースです!

ワタクシ...なんと...。

お仕事決まりましたー!』

 

「おー!」

 

僕はこぶしを作って「よし!」と小さくガッツポーズをした。

 

自分のことのように、嬉しかったのだ。

 

一番に知らせたい人物に、僕が選ばれたことが嬉しかった。

 

「お祝いしよう!

今夜、飲みに行こうか?」

 

『えー、昨日も行ったじゃないですか。

いいんですか?

リアさ...』

 

民ちゃんが、僕の『リアと別れる』発言を気にしている。

 

「気を遣ってくれてありがとう」

 

別れを伝えるタイミングに、頭を悩ませていた。

 

いつ、どこで、どのように、リアに打ち明けようか。

 

恋人関係を解消するのは容易くない。

 

住まいを共にしている故に、どちらかが出ていかなければならない。

 

僕か、リアか。

 

昼過ぎに届いた通知内容が頭をよぎる。

 

『口座残高不足により、指定日に振替できませんでした』

 

3か月連続だった。

 

リアからの入金が滞っていた。

 

リアの求める条件に合わせて選んだ部屋だった。

 

リアの収入の方がはるかに多いに違いなかったが、男の意地で家賃は平等に折半しようと決めた。

 

ごく一般的なサラリーマンに過ぎない僕には、あの部屋の賃料を一人で支払い続ける資金力がない。

 

困った。

 

民ちゃんには、あの部屋に住んだらいいと言っておいて、現実的に考えると、あの部屋を維持できないことに気付いたのだ。

 

リアとの同棲生活を解消したら、1LDK辺りにレベルダウンしなければならない。

 

1LDKで民ちゃんと暮らすということは...民ちゃんと同じ部屋で寝る...。

 

無理が...あるな。

 

いくら似ているとはいえ、僕らは他人同士。

 

それに、民ちゃんは...女の子だ。

 

1LDKでは、民ちゃんとの同居は出来ない。

 

民ちゃんとの同居は...無理か。

 

おい、チャンミン!

 

民ちゃんと『一緒に暮らす』前提でいるじゃないか。

 

僕とリアが選んだベッドで、僕と民ちゃんがひとつの枕を分け合って眠っている。

 

ひとつの枕に、同じ顔が並んでいる。

 

同じ顔をして、別々の夢を見ている。

 

僕と民ちゃんは手を繋いでいる。

 

ぼわーんと浮かんだイメージ画に僕は赤くなった。

 

こらー。

 

何、想像してるんだ!

 

髪をぐちゃぐちゃにかきむしった。

 

「ふう...」

 

缶コーヒーでも飲んで、おかしくなった頭を冷まそう。

 

でも...。

 

眠る民ちゃんの顔を見てみたい。

 

きっと、ものすごく可愛い寝顔なんだろう、と思った。

 

 

 

 

リアとのすれ違いの生活は相変わらずだった。

 

リアが帰宅するのは深夜遅くで、夢うつつの中マットレスの反対側が沈み込むのを感じる。

 

僕にすり寄ってくることはもう、なかった。

 

安堵したけれど、かすかな寂しさも心をかすって、リアへの気持ちがまだ残っているのでは?とうろたえる。

 

リアに別れを告げられるだろうか。

 

気持ちは固まったのに、リアの反応を想像すると身がすくんだ。

 

罵りの言葉、非難の言葉をたっぷりと浴びせられるだろう。

 

大丈夫、耐えられる。

 

これまでの生活を清算したいんだ。

 

彼女のドレスをクリーニングに預け、彼女の下着を洗濯し、彼女が必要とする栄養素を含んだ食材で冷蔵庫を満たした。

 

トイレットペーパーを買い置きし、加湿器の水を補充し、髪の毛が散らばる洗面所を掃除した。

 

家の中をきちんと整えることは、僕の性に合ってるから苦じゃない。

 

気紛れに求められた時、セックスの相手をした。

 

ムラムラした時に、たまたま近くにいたのが僕だった、みたいに。

 

ムシャクシャした気持ちをぶつけるためのセックス。

 

昨夜リアに押し倒されたときに、気付いた。

 

僕にも心がある。

 

僕は恋人なんだよ。

 

リアのハウスキーパーじゃない。

 

この部屋に暮らし始めた当初、僕とリアの間で確かに燃えていた恋の炎は、数か月で勢いを失い、さらに数か月を経た現在は消える一歩手前。

 

2人仲良く穏やかな暮らしをしたかったのは、僕だけだったんだ。

 

僕は、二人で共にする行為の中から幸せを見つけるタイプの人間だ。

 

ところが、リアはそうじゃない。

 

リアにとって、あくびが出るほど退屈な生活だったんだろう。

 

僕らは相性がよくなかっただけのこと。

 

リアを責められない。

 

とっくの前に、リアの生活から僕の存在は閉め出されていた。

 

僕から同棲解消を切り出されても、あっさりと首を縦に振ってくれると思った。

 

 

 


 

 

僕と民ちゃんとの生活は順調だった。

 

料理の腕は上達の兆しゼロで、オムレツという名のスクランブルエッグを毎朝食べた。

 

パセリが入っていたり、チーズを混ぜていたりと、バリエーションを意識している姿が、微笑ましい。

 

民ちゃんの就職が決まった日の夜、外で飲むのを止めて(民ちゃんの要望で)、宅配ピザを頼んで自宅飲みした。

 

リアは仕事に行ったのか不在だった。

 

「お仕事、頑張りますね」

 

僕らはソファにもたれて、ローテーブルに2枚並べたLサイズピザをつまみにしていた。

 

ウキウキ浮かれた民ちゃんは終始笑顔で、左右非対称に目を細めていた。

 

「どんな会社なの?」

 

「うーんと、その人が一人でやってるところです」

 

「仕事内容は?」

 

「アシスタントです」

 

「何をアシストする仕事なの?」

 

「実はー、よく分かんないです」

 

「そんなんで大丈夫なの?

怪しい仕事じゃないよね?」

 

「ご心配なく。

ちゃーんとした人ですから」

 

ほろ酔い民ちゃんは、口をとがらせて僕の肩を押す。

 

「民ちゃん!」

 

民ちゃんの力が強くて、僕は手にしたビールを傾けてしまった。

 

「もー」

 

「ごめんなさい...」

 

「仕事始めはいつから?」

 

「来月からです。

お義姉さんの出産日がもうすぐですしね。

カット・コンテストのバイトもあるので、それまでは週に3日、時短でいいって融通してもらいました」

 

「カット・コンテスト!?」

 

民ちゃんは、両手で口を覆っていた。

 

初耳だった。

 

「内緒にするつもりが...!」

 

「どうして内緒にする必要があるの?」

 

「恥ずかしかったからです」

 

カット・モデルに採用された経緯を説明してもらった。

 

「それのどこが恥ずかしいの?」

 

「だって...。

『背が高いだけで選ばれたんだろ?』ってからかわれたくなかったから...」

 

民ちゃんは立てた両膝に顔を伏せてしまい、語尾が消え入りそうだった。

 

恐らく民ちゃんは、身長のことをさんざんからかわれてきたんだろうな。

 

「僕はからかったりしないってこと、知ってるでしょ?」

 

「そうでしたね」

 

民ちゃんはむくりと顔を上げ、長い前髪がはらりと片目を覆った。

 

僕の手を出す前に、民ちゃんは前髪を耳にかけてしまった。

 

残念。

 

「びっくりしてくださいよ。

男のモデルじゃなくて、女のモデルとしてですよ。

あの美容師さんは...Kさんって言うんです。

私のことを『女そのもの』って言ってくれたんですよ、うふふふ」

 

両手で顔を覆って肩をよじる仕草が、可愛いったら。

 

女性として扱われて余程嬉しかったんだな。

 

民ちゃんの後頭部を撫ぜる僕の心に、優しい想いが満ち満ちた。

 

「チャンミンさんに、写真見せてあげますね」

 

「写真?

コンテストはいつなの?

応援に行きたい」

 

「再来週です。

でも...平日なんです」

 

「そっかー。

残念」

 

「写真を見せてあげますね」

 

民ちゃんのくせ毛の襟足や、細くて長い首は、僕も同じものを持っているはずなのに。

 

無防備に僕の目前にさらされたそれに色気を感じて、僕の体温が1度上がったような気がした。

 

 

 

(つづく)

 

[maxbutton id=”27″ ]

【17】NO?

 

 

~あの男~

 

 

「お昼は食べてきた?」

 

優しく問われて民は、「はい」と元気よく答えたが、実際は緊張のあまり昼食どころじゃなかったのだった。

 

(カッコいい!

この世にこんなに、カッコいい人がいるなんて!)

 

脚をそろえてソファに腰掛けた民は喉がカラカラで、出されたアイスコーヒーを一気飲みしてしまう。

 

「お代わりはどう?」

 

「す、すみません。

お願いします...」

 

真っ赤な顔になった民は、空になったグラスを差し出した。

 

(恥ずかしい!

喉が渇いてたから、がぶ飲みをしてしまった!)

 

「あの...ユンさんはご迷惑じゃなかったですか?

ユンさんの言葉を本気にして、私、ここまでやってきたりして...」

 

民は一人掛けソファに腰掛けたユンを、上目遣いで見ながら申し訳なさそうに言う。

 

「いいや、俺は本気だったよ、最初から」

 

長い脚を組んだユンは、民が提出した履歴書を時間をかけて目を通した。

 

(全ての欄が埋まっている。

志望動機もはっきりとしている。

しっかりした子だ)

 

(ユンさん!

胸が...お胸が見えてます!

シャツがちょっとばかし...はだけすぎてやしませんか?

...そんなことより、履歴書大丈夫かなぁ)

 

書き直しで何枚も無駄にした用紙の数を思い出す。

 

「お兄さんがいるんだね?」

 

「はい!」

 

「へぇ...そう」

 

ユンはあごの髭を撫ぜながら、観察する目で民をとっくりと見る。

 

ユンの視線に耐えられない民は、俯いてしまった。

 

(そんなに私のことを見ないで!)

 

(初々しいな)

 

ユンの唇の片方がわずかに持ち上がる。

 

「君を採用する」

 

「ホントですか!?」

 

民の目にじわっと涙が浮かんだ。

 

「君は無鉄砲な子だね。

もし、俺に追い返されたり、ノーと断られたらどうするつもりだったの?

まさか、俺のところだけを当てにして、ここまで来たんじゃないだろうね」

 

「!!!」

 

図星だった民は、ぎくりとしたのであった。

 

(イエスです。

ユンさんの言う通りです)

 

 


 

~民~

 

 

私の行動が、突拍子もないことは分かってる。

 

私はユンさんに会いたくて、ユンさんの側で仕事をしたい一心で、この半年間、アルバイトを掛け持ちして引っ越し費用を準備した。

 

ユンさんの単なる気紛れな気持ちで、田舎者の私をからかうつもりで誘ったのだとしても、都会まで出てこようと決心するきっかけを作ってくれたユンさんに感謝している。

 

「その時は、身の丈に合った仕事を探すつもりでした。

田舎から出て新しいことに挑戦したかったですし...」

 

世間知らずな子だって、呆れられても仕方がないな。

 

私は恥ずかしくて顔を上げられない。

 

チャンミンさんに借りた、綺麗な青い靴を履いた足先に視線を落とす。

 

「契約書にサインしてもらおうか?

こういうことはきちんとしないと、君も不安だろうからね」

 

「いえいえ!

不安なってことは...!」

 

「条件等はここにある通り」

 

ローテーブルに置いた1枚の書類に印刷された要項ひとつひとつに、ユンさんは指し示しながら説明をした。

 

ユンさんはいい匂いがする。

 

きっと私の3日分のアルバイト代でやっとのことで買える、高級な香水なんだろうな。

 

「多くはあげられないけれど、妥当な金額を支払うよ」

 

用紙にプリントされた金額を見て、「こんなに沢山?」って驚いた。

 

ユンさんは目を丸くした私を見て、くすりと笑った。

 

目尻のしわとか、カッコいい髭とか、大人の男って感じ。

 

でも、視線の高さがユンさんと同じで悲しくなった。

 

私は大き過ぎる。

 

男の人を見上げたいのに。

 

「朝9時から午後6時まで。

半分はオフィスで、もう半分はアトリエで仕事をしてもらうことになる。

ここまでで、何か質問は?」

 

「今のところ、思いつきません...」

 

ユンさんの顔が間近にあって、胸が破裂しそう。

 

「アシスタントがいなくて、不便だったんだ。

何人か面接をしたんだが、これという子が見つからなくてね。

だから、君から連絡をもらって、僕は助かったよ」

 

「あの...。

失礼を承知で質問してもいいですか?」

 

「どうぞ」

 

「私を雇うのは、同情...からじゃありませんよね?」

 

ユンさんに「街に出てこないか?君に手伝ってもらいたいことがある」って名刺を渡されたのがきっかけだ。

 

私の背中にあるやる気スイッチが、バチっと入った瞬間だった。

 

友達にこのことを話したら、「騙されてるんだよ」「売り飛ばされるよ」「民はウブな世間知らずなんだから」って、ボロクソに言われた。

 

こんなに素敵な人になら、騙されてもいい。

 

狭い田舎町では、大きくて男みたいな私は目立つから、狭い交友範囲で彼氏候補の人もいなかった。

 

彼氏候補どころか、女として見られていなかった。

 

仕方ないよね。

 

これといった特技も資格もなく、フリーターだった私はアルバイトをもう一つ増やして頑張った。

 

私はユンさんに見込まれたのかな。

 

何を?

 

なんでだろ?

 

ユンさんはぷっと吹き出した。

 

「同情で人を雇うほど俺は優しくないよ。

向こうで君を一目見た時に、ピンときたんだ。

君は使える子だって。

それに」

 

ユンさんはそこで言葉を切ると、私の前髪にそっと触れた。

 

ゾクゾクっとした。

 

(ひぃぃ!

ち、ちか、近いです!)

 

ユンさんの眼光が突き刺さる。

 

「ルックスも申し分ない。

俺の作品のモデルになってもらいたいくらいだ。

その時は、ギャラは別口で支払うからね」

 

モデル?

 

こっちに来てから、モデルめいている。

 

カット・コンテストのモデルでしょ、リアさんはモデルでしょ。

 

「そんな!

モデルだなんて...とんでもない!」

 

私は両手を激しく振った。

 

ユンさんは数歩下がって、私の顔と身体を観察するみたいに見始めたから困ってしまった。

 

そんなに見ないで下さい、恥ずかしいです。

 

 


 

 

~ユン~

 

 

顔のパーツがしっかりしている。

 

額の形がいい。

 

全身のバランスもとれている。

 

痩せた身体がいい。

 

少年らしい儚げなところが特にいい。

 

顎に手を添えてかすかに頷いていると、民がもじもじと俯いている。

 

小さな膝小僧が内股気味だ。

 

ますます、いい。

 

オフィスで会った、あの担当者。

 

この子の双子の兄、ということか。

 

不思議な巡りあわせだ。

 

履歴書では「女」とあったが、一卵性で男女の双子はあり得ない。

 

この子がこうありたい願望が、履歴書に表れているって訳ね。

 

ガチガチに身体を固くした民の周りを一周した。

 

そんなに緊張して、可愛い子だ。

 

顔を近づけると身体をこわばらせるから、ますます可愛い。

 

男慣れしていないな、この様子じゃ。

 

ローテーブルに置いた携帯電話が、通話着信を鳴らした。

 

ディスプレイに表示された発信者に、舌打ちしそうになるのを飲み込んだ。

 

通話ボタンを2度押しした。

 

ぐーっと民の胃が音をたてた。

 

「ひゃっ!」

 

お腹をおさえた民の姿に、大声で笑ってしまった。

 

「ランチはまだだったんだろ?

パスタを茹でるから、食べていきなさい」

 

民は茹だこのように顔を真っ赤にして、「はい」とつぶやいた。

 

 

 

(つづく)

 

[maxbutton id=”27″ ]

【16】NO?

 

 

~あの男~

 

 

このビルは6階まではテナントが入っており、7階から10階までは居住スペースになっている。

 

チャンミンと後輩Sは、地下駐車場の守衛室脇エレベータで6階まで上昇した。

 

開いた扉の真正面がデンタルクリニックで、右手の奥まったところに指定されたオフィスがある。

 

「金持ちが通いそうな歯医者っすね」

 

Sはゴールド縁の自動ドアの向こうを興味津々にのぞき込んでいる。

 

チャンミンは腕時計で、約束の時刻の1分前なのを確認する。

 

目立たないよう廊下から1歩引っ込んだ位置にあるドアのインターホンを鳴らした。

 

『はい』と男性の声が応答し、チャンミンは名乗った。

 

「お待ちしておりました」

 

ドアを開けたのは、年齢は30代後半、浅黒い肌、均整のとれた長身、そして目鼻立ちのくっきりとした美形の男性だった。

 

第3ボタンまで開けた麻の白シャツから、逞しい胸元が見え隠れしている。

 

(胸をはだけすぎだろ。

誰アピールだよ。

キザったらしい奴だなぁ)

 

背中まである長い髪を後ろでひとつに束ねている。

 

その男性は、チャンミンを目にして一瞬、目を見開いたがすぐにビジネスライクな表情になって、チャンミンたちを中に招き入れた。

 

オフィスは仕切りのないワンルームで、そちこちに置かれた観葉植物と壁一面の窓ガラスにかけられた木製ブラインドが、ナチュラルな雰囲気を作っている。

 

(中央に螺旋階段があるから、アトリエと繋がっているのだろうか)

 

「時間を早めてしまい申し訳ありませんでした。

日にちをあらためようかと思いましたが、これまでに何度もこちらの都合で延期していますからね」

 

本来の打ち合わせの日時は1週間前だったが、度重なる予定変更にチャンミンたちは振り回されていたのだ。

 

「飲み物をご用意しましょう。

アシスタントが不在ですので、私が淹れることになります。

アイスコーヒーでよろしいですか?」

 

「お構いなく」とチャンミンは頭を下げる。

 

チャンミンもSは立ったまま、さりげなく目隠しされたミニキッチンに向かう男性の背中を見送る。

 

広い背中で揺れるその髪は、つやがあって手入れが行き届いているのが分かった。

 

(自身にお金をふんだんにかけるタイプと見た)

 

ラフなファッションだったが、上質で高価そうに見えた。

 

「先輩、想像と全然違いますね」

 

Sのひそひそ声に、チャンミンは頷く。

 

(確かに。

アーティストというから、痩せこけて、ボサボサ頭の、トリッキーな服を着た奴を想像していた)

 

「芸術家って儲かるものなんすか?」

 

恐らく計算のもと絶妙な位置に配置された家具も、量販店や通販で揃えたものには見えない。

 

座るよう促された透明アクリルチェアも、チャンミンでさえ知っているブランド家具だ。

 

「1作品、何十万も何百万もするんですかね」

 

オフィスを見回しても、不思議なことに彼の作品らしきものは置かれていない。

 

飲み物を乗せたトレーを持った男性が戻ってきたため、チャンミンはSの脇をつついて黙らせる。

 

Sはチャンミンに目で合図され、あたふたと名刺入れを取り出した。

 

名刺交換の際、ぐっと見据える彼の眼力に、チャンミンは一瞬ひるむ。

 

上質な白い名刺には肩書がなく、彼の名前『ユン』とあるだけだ。

 

2人の名刺を受けとったユンは、顔と名前を確認するかのように「チャンミンさんと、こちらがSさんですね」ともう一度眼光するどいまなざしで、チャンミンたちを見た。

 

チャンミンはユンの胸元に視線をくぎ付けにしているSに気付く。

 

「おい!」

 

慌ててSの背中を叩いた。

 

「すみません」

 

「それでは、始めましょうか」

 

ひととおりの挨拶を終えると、ガラス天板のテーブルに3人がつき、打ち合わせが開始された。

 

1年間の発刊スケジュールと各号のテーマを、バックナンバーを見せながら説明する。

 

予算の都合上、オリジナルに制作してもらうのは最終号のみで、残り5号分は既出の作品を使用することになっている。

 

作者近影の写真撮影日時や、作品撮りの日程については、あらかじめメールと電話で伝えてあった。

 

しかし、そのいずれも都合がつかないとのことで、スケジュールの変更を余儀なくされた。

 

(マジかよ...)

 

イラっとする表情をひた隠しにして、「なんとかしてみます」と愛想笑いをする。

 

チャンミンはその場で関係者に連絡を入れ、平身低頭で頼み込む羽目になった。

 

ユンはときおり、チャンミンに向かって意味ありげな笑みを浮かべたり、不自然なほど目を合わせてくるので、チャンミンは居心地が悪い思いをしていた。

 

もの柔らかな言い方の陰に、有無を言わせない強引さがうかがえた。

 

(苦手なタイプだ。

整え過ぎたヒゲが、厭味ったらしい)

 

「撮影日の詳細は、追って連絡します」

 

内心の思いを気取られないよう、チャンミンはビジネスライクな笑みを浮かべた。

 

 

オフィスを辞去したチャンミンとSは、帰りの車の中でユンについての話題になった。

 

「オーラが凄かったっすね」

 

「ああ。

向こうのペースに飲まれっぱなしだったな」

 

「今までの電話やメールって何だったんすか?

全部、無駄だったじゃないですか、酷いっすね」

 

「引き受けないと言い出されるよりは、マシだよ」

 

チャンミンはため息をつく。

 

(好き嫌いを仕事に影響させたらいけないのは分かっている。

でも、あの人物は生理的にやりにくい相手だ)

 

「先輩。

見ましたか、あれ?

あれって、キスマークですよね」

 

「虫さされってことはないだろうな」

 

チャンミンは、ユンの白シャツの胸元を思い出す。

 

「ついつい目がいっちゃうんですよね。

打ち合わせの間、苦労しました。

あれって、僕らに見せつけてるんですかね?」

 

「見せつけるって、何のために?」

 

「そりゃもう、先輩にですよ」

 

「はあ?」

 

「あの人、先輩のこと気に入ったんじゃないですか?

妙にじろじろ見てましたよね」

 

「うーん」

 

「僕が見るに、あの人はゲイですね」

 

「こら!」

 

チャンミンはSの頭をはたく。

 

「先輩っていかにもゲイ好みって感じですもん」

 

「どこが?」

 

信号待ちで停車すると、Sは助手席に座るチャンミンを眺めまわす。

 

「先輩の顔って、よーく見ると女の子っぽいんですよね」

 

「はあ?」

 

「まつ毛なんかフサフサじゃないですかぁ。

世の女子たちが欲しくてたまらない涙袋もバッチリあるし」

 

チャンミンはサイドミラーに顔を映してみる。

 

「超短髪でー、筋肉もりもりでー、髭生えててーっていうまんまじゃないところに、ツウ好みの心をくすぐるわけですよ、先輩の場合」

 

「......」

 

「優柔不断っぽいところも、迫ったらOKそうだし」

 

「OKって、何をだよ!?」

 

「決まってるじゃないですか、ハハハ!」

 

(こいつの話に付き合ってられるか...)

 

チャンミンは、ふうっと大きく息をつく。

 

(ふうん。

僕の顔に、女の子っぽい要素があるのかぁ。

民ちゃん、よかったね。

僕の目には、民ちゃんは女の子にしか見えないけど、

第3者の目からは「男の子」だからなぁ)

 

チャンミンは助手席の窓枠に肘をついて、歩道を行き交う人々を見るともなく眺めた。

 

「あ!」

 

「なんすか?」

 

「いや...何でもない」

 

チャンミンは、歩道を大きなストライドで歩く民の姿を目撃していた。

 

チャンミンたちの乗った車は、間もなく交差点を曲がってしまったため、民の姿はすぐに見えなくなってしまった。

 

(僕が貸した白いシャツと青い靴。

 

すらりとしたスリムな体型、高い身長。

 

見間違いようがない、民ちゃんだ。

 

だって、僕そのものなんだから。

 

自分を見間違えるはずはない)

 

「先輩、昼めし食っていきましょう。

どこにしましょうか?」

 

「任せるよ」

 

(民ちゃんはこの辺りで、待ち合わせをしているんだろうか、例の人と?)

 

 

(つづく)

 

[maxbutton id=”27″ ]

【15】NO?

 

 

~情けない僕~

 

 

 

「民ちゃん...もしかしてその格好で例の人と会うつもり?」

 

チャンミンの言葉に民は、着ていたTシャツを見下ろした。

 

「変ですか?」

 

チャンミンは後ずさりすると、民の全身を上から下へと見た。

 

そのTシャツは、ロックミュージシャンのシルエットがプリントされた、なかなかハードなデザインだ。

 

しかも『Keep Your Head Down』とある。

 

(そのメッセージは、デートには相応しくないだろうに)

 

「もうちょっと...」

 

「もうちょっと?」

 

「女の子っぽい洋服はないの?(こういう台詞は民ちゃんにあまり言いたくないんだよな。ごめんな、民ちゃん)」

 

「...はい」

 

下を向いてもじもじする民の頭を撫ぜたくなる衝動を抑えたチャンミンは、「ちょっと待っててね」と声をかけるとクローゼットの扉を開けた。

 

寝室のクローゼットはリアに占領されているため、チャンミンの洋服類は玄関からリビングをつなぐ廊下の収納スペースを使用していた。

 

浴室からはリアが浴びるシャワーの音がする。

 

(これなんかは、どうかな)

 

ハンガーにかかった一着を、民の胸に当ててみる。

 

「うん、これがいいよ。

生地も柔らかいし、女性っぽく着られると思う。

それに...サイズも同じだろうから」

 

「お借りします」

 

早速その場でTシャツを脱ごうとしたが、ハッとして腕を止めた。

 

「ごめんなさい。

あっちで着替えてきます」

 

(危ない危ない、チャンミンさんを前にするとリラックスし過ぎてしまう)

 

1分後、6畳間から出た民を、チャンミンは満足そうに眺めた。

 

「うん、いい感じ。

可愛いよ」

 

「へ?」

 

民に真顔で見返されて初めて、チャンミンは民に向かって「可愛い」と口にしていたのに気づいた。

 

(本心がポロっと口から飛び出てしまった!)

 

片手で口を押えて照れ笑いするチャンミンに、民の方も耳を赤くしながら慌てて言う。

 

「あ、あの!

靴はどうしたらいいですか?

私、スニーカーとオックスフォードシューズしか持ってないんです!」

 

(『可愛い』だって...私のことを『可愛い』だって...!)

 

「うーん。

ボトムスがグレーでしょ...。

青かピンクを持ってきたいなぁ」

 

シューズラックから一足を選び出すと、民を玄関まで手招きした。

 

手入れの行き届いたその靴は、民の足にぴったりだった。

 

「今日のコーディネイトは髪の色によく似合ってるよ」

 

(アルコールが入っていなくても、すらすらと民ちゃんを褒められるようになったぞ)

 

「チャンミンさんって、お洒落が好きなんですか?」

 

「うーん。

好きな方に入るのかなぁ。」

 

(実際は、リアの隣を歩くには、それなりの恰好をしていないと散々文句を言われてたから。

Tシャツやトレーナー、パーカーなんて言語道断だった)

 

「ボタンは第3ボタンまで開けておいた方がいいよ」

 

民の胸元のボタンを第2ボタンまで外してから、チャンミンは瞬足で手を離した。

 

(またやってしまった!)

 

チャンミンの動揺に気が付かない民は、シューズラックの鏡に全身を映して満足そうだ。

 

「いい感じです。

ありがとうございます」

 

出勤しようとするチャンミンのスーツ姿に、

 

「大人の男って感じです...」

 

胸の前で両手を握りしめ、目をキラキラさせて褒められてチャンミンは照れくさくて仕方がない。

 

(でも、全然、悪い気はしない)

 

「チャンミンさん、今日もカッコいいですよ。

行ってらっしゃい!」

 

「民ちゃんも、頑張って!」

 

明るい民の言葉に見送られて、チャンミンは出勤していったのであった。

 

(民ちゃんの気になる人ってどんな人なんだろうな...)

 

 

 


 

 

 

突き当りにエレベーターが2基あり、片方は貨物用の大きいものだった。

 

もう一方の黒塗りのエレベーター脇のキーパットにメールで知らされた暗証番号を打ち込んだ。

 

すると扉が開いて、民はそれに乗り込む。

 

(すごい、ハイテクだ)

 

階数指定ボタンはない。

 

昇るの三角ボタンがあるきり。

 

上昇するエレベーターの箱の中、民は壁にもたれて深呼吸をした。

 

(この時のために、私は頑張ったんだ、うん)

 

何度も頷き、こぶしを握った。

 

琥珀色の木目が美しい玄関ドアの正面で、民はもう一度深呼吸をした。

 

防犯カメラが作動中を知らせる赤いランプに、緊張した。

 

インターフォンのボタンを押そうとしたところ、目前の扉が開いた。

 

「やあ、いらっしゃい」

 

(きゃー!)

 

民は心中で感激の悲鳴を上げる。

 

扉の内側で、穏やかな笑みを浮かべるその人物は、民が卒倒しそうになるほどの美丈夫だった。

 

「お邪魔します...」

 

「遠いところありがとう。

おっと、靴を履いたままでいいんだよ」

 

中へと招き入れられ、その重厚な扉は音もなく閉まり、カチリと電子ロックがかかった。

 

 


 

 

 

「アポイントが11時に前倒しになりました」

 

「はあ!?」

 

翌号カタログの校正を行っていたチャンミンは、後輩Sの報告に壁時計を確認した。

 

「あと1時間もないじゃないか!?」

 

「今からなら、ぎりぎり間に合いますよ。

おおまかな年間のスケジュールはまとめておきました」

 

「できる後輩を持って僕は幸せだよ」

 

「やっとわかってくれましたか?」

 

チャンミンとSは、早歩きで中央エントランスを目指す。

 

「先輩!

足早いっす!

僕の脚の長さのことを、もっと考慮して下さいよ」

 

「悪い」

 

エントランス横の、立体駐車場から社用車が吐き出されるのをじりじりと待つ。

 

「どうして、あんな面倒くさそうな人に頼むことになったんですか?」

 

「イメージを変えるためだろうね。

ここ2年は女性モデルを使ってたから」

 

「その前は、世界の街並みでしたっけ?

いいなぁ、その時の担当になりたかったっす。

海外へ行き放題だったんだろうなぁ」

 

「馬鹿だなぁ。

海外に行き放題だったのは、カメラマンだけ。

お!車が来たぞ」

 

「僕が運転しますよ」

 

 

 

 

チャンミンが勤めるのは、中堅どころの健康食品会社だ。

 

インターネット注文が主流のこの世の中にあっても、未だに紙ベースのカタログ注文は根強い人気だ。

 

チャンミンはカタログ製作部に所属している。

 

隔月に発行されるカタログ『へるし』は、美しいグラビア写真に加え、読み応えのある記事も満載で、ちょっとした雑誌レベルだと毎号好評なのだ。

 

チャンミンは表紙と巻頭ページ制作のセッティングを担当している。

 

カメラマンやイラストレーター、ライターと、紙面制作部署との橋渡し的業務という、神経を使う仕事内容だ。

 

一昨年1年間の表紙モデルに起用されたのがリアで、撮影現場での初顔合わせでチャンミンはリアに一目惚れをしたのだった。

 

当時のチャンミンは文字通り、リアに「メロメロ」だった。

 

猛烈なアタックの末、残すところあと1号分の撮影が行われる頃になって、首を縦に振ってもらえた。

 

それまでのチャンミンにしてはあり得ないほど、のめり込んだ恋だった。

 

来年度からは、がらりと趣を変えたものになるという。

 

取締役の一人が、海外の美術展である一作品を目にした瞬間、稲妻に打たれたのだとか。

 

そこで、そのアーティストの作品を年間6号分の表紙に採用することになった。

 

「芸術家ってやっぱり、気分屋で気難しい人なんすかねぇ?」

 

「芸術家に限らず、写真家であっても、イラストレーターであっても、誰でも気難しいもんだよ」

 

助手席で、校正の続きをしながらチャンミンは答えた。

 

「さすが年長者の言葉は、重みが違いますねぇ...もうすぐ着きますよ」

 

「10時45分。

間に合ってよかった」

 

チャンミンと後輩Sの乗った社用車は、地下駐車場への急なスロープを下りて行った。

 

 

 

(つづく)

 

[maxbutton id=”27″ ]