(5)水彩の月★

 

~彼~

 

 

頬にかかった一筋の髪をそっとよけてやる。

 

彼女の額に自分の額をくっつけて、肩を抱いた。

 

彼女は眠ったまま目を覚まさない。

 

触れたむき出しの肩が冷たくて、床に落ちた毛布をかけてやる。

 

「はあ...」

 

僕らはこうして身体を寄せ合っているのに、彼女が遠い。

 

繋がる回数を重ねても、僕の心は満たされない。

 

何かが僕らを隔てている。

 

彼女の額に僕の額を合わせ、彼女の呼吸に合わせて僕も、息を吸って吐いた。

 

彼女に同調しているうち、眠くなってくる。

 

僕の腕の中で「彼」を想っているのでは...との疑いが心をかすめてヒヤリとした。

 

今この時も、「彼」の夢をみているとしたら、辛い。

 

辛すぎる。

 

僕らは、意識して『今』のことか、『これから』のことを話題にするよう気をつけていた。

 

相手が悲しい過去を思い出さないようにという、思いやりの心を持って。

 

僕らは2人でいることをスタートしたばかりで、2人で経験していくであろう出来事に、ワクワクしなくちゃいけないから。

 

いや、違う。

 

思いやりの心からなんかじゃない。

 

僕の場合、おびえていただけなんだ。

 

 

ねぇ。

 

「彼」はどんな人だった?

 

今も忘れられないの?

 

臆病な僕は、君に尋ねられない。

 

死んでしまった「彼」に、僕は勝てない。

 

今の僕は、君を真っ直ぐに見つめているのに、君の心はやっぱり「過去の彼」に向いているのかな?

 

知りたいけれど、知りたくない。

 

僕の質問に答えようと、君は彼を思い出そうとするだろう。

 

そうしたら、君は「彼」との思い出にもう一度胸を痛めるかもしれない。

 

出逢った頃のように、君の視線の先が僕を通り越したところにあったように、逆戻りしてしまうかもしれない。

 

目の前にいる現実の僕を見て欲しいから。

 

だから僕は、君の過去は知りたくない。

 

 


 

~私~

 

 

眠っているふりをしていた。

 

シムさんの指が私の頬に触れたけど、熟睡しているふりをした。

 

私の現実は、今ここにあるのに。

 

今の私の心は、頬に触れているシムさんに向けられているのに。

 

亡くなった恋人、サチさんに注いでいたシムさんの愛情と、今の私がシムさんへ抱いている愛情を天秤にかけてみたらきっと、かつてのシムさんのものの方が深くて熱いに決まっている。

 

それくらい、サチさんの存在は大きくて強力なのだ。

 

私は負けそう。

 

私は寝返りをうつふりをして、シムさんの胸に腕を巻き付けて、彼の脇腹に鼻先を埋めた。

 

こんなに近くにいるのに、遠かった。

 

私の寝顔を見下ろしながら、サチさんの寝顔を思い出しているかもしれない。

 

私の心は、過去に引き戻されそうだった。

 

シムさんは私の肩を抱いて引き寄せたけど、私は眠ったふりをしていた。

 

 

 

 

ねえ、チャンミン。

 

新たに誰かを好きになるなんて、私には無理だったのかな。

 

よりによって、10年越しの恋人を亡くした人だなんて。

 

私じゃ太刀打ちできないよ。

 

どれくらい想いが深いものなのか、私は知ってるから。

 

私もそうだったから。

 

チャンミンと最後に別れた、真冬の図書館の情景が浮かぶ。

 

久しぶりに思い出した。

 

紺のダッフルコートを着たチャンミンが、脚を組んでベンチに腰かけていた。

 

どれくらい待っていたのか、チャンミンの鼻が冷気で赤くなっていた。

 

10年も付き合っていたのに、それでもまだ大好きだったあの頃。

 

「マイさん」

 

懐かしい、懐かしい笑顔。

 

「泣きそうじゃないですか。

マイさんは泣き虫ですねぇ」

 

ベンチから立ち上がったチャンミンは、俯いて立ち尽くす私の元へ駆け寄ってきた。

 

チャンミンがいつも履いていたスニーカーが、霜柱を踏んでシャリシャリと音をたてた。

 

「マイさん...。

綺麗になりましたね」

 

チャンミンの冷たい指が、私の涙をぬぐう。

 

「チャンミン...」

 

今、チャンミンに抱き着いたら駄目だ。

 

粉雪が舞うしんと冷えた空気、風はなくて静寂の二人だけの世界。

 

「マイさんが僕のことが忘れられなくて、未練で苦しんでいるのではないことは、分かっていますよ」

 

そう。

 

私が求めているのは、ダッフルコートのチャンミンじゃないのだ。

 

「僕が大好きになった人なんですよ、あなたは」

 

チャンミンは私の背中をあやすように叩いた。

 

「大丈夫です。

彼も、あなたのことが大好きです」

 

「...そうかな...?」

 

「はい、その通りです。

僕が保証します」

 

チャンミンはとん、と胸を叩いてみせた。

 

「ホントに?」

 

「はい」

 

チャンミンはにっこり笑って、大きく頷いた。

 

「僕の人生は、マイさんと居た10年で終わりなのです。

これ以上はありません。

冷たい言い方かもしれませんが、

これからのマイさんの人生に、僕は寄り添えません。

僕はもう、マイさんと一緒にはいられないのですよ。

僕は...」

 

チャンミンは左の手の平に、右手の手刀をパチンと打った。

 

「ここまでです」

 

涙が引っ込んだ。

 

「しっかりしなさい!」

 

ぴしゃりとしたチャンミンの口調に、私の背が伸びた。

 

ふっとチャンミンの表情が和らぎ、身をかがめると、私を覗き込んだ。

 

「マイさん」

 

優しい性格そのものの、丸いカーブを描いた目で。

 

「彼の名前を教えてくれませんか?」

 

「...ミン...」

 

チャンミンは手を耳にあてて、大袈裟な身振りで問う。

 

「聞こえませんね」

 

「...チャンミン」

 

「声が小さいですよ」

 

「チャンミン!」

 

「よろしい。

よくできました」

 

 


 

~彼~

 

 

「絵が下手だったあなたが...上手に描けたわね」

 

うたた寝をしていた僕は、その声にうっすらとまぶたを開けた。

 

ソファに横になった僕の視界に、花模様のフレアスカートの裾がひらりと。

 

その人は手にしていたスケッチブックを、僕の前に差し出した。

 

「この人ね」

 

僕は頷いた。

 

「あなたのことが大好きなのね」

 

「え...?」

 

「チャンミンも、大好きなのね」

 

僕は頷いた。

 

「サチさ...」

 

「しー」

 

僕の唇に、人差し指が当てられた。

 

視線を上げようとしたら、サチさんの手が僕の目を覆った。

 

「目を閉じて」

 

その通りにした。

 

「目を開けて」

 

その通りにした。

 

 


 

 

「...チャンミン...」

 

瞬時に目覚めた。

 

遅れて彼女のまぶたもぱっちりと開いた。

 

直後、びっくりしたような顔をする。

 

僕の方も一瞬、息が止まった。

 

「マイさん...今?」

 

「...えっと...」

 

自分でも分かる。

 

今の僕の顔が、くしゃくしゃになっていることを。

 

「今...なんて言いました?」

 

「チャンミン...って言った」

 

「僕の名前を、初めて呼んでくれましたね」

 

「...そう...なるわね」

 

頬をぽりぽりかくマイさんが、滅茶苦茶照れていることも分かる。

 

「急に、どうしちゃったんですか...?

とても...嬉しいです」

 

 

僕らは額同士をくっ付け合って、子供みたいにくすくす笑う。

 

僕らの間に流れていた空気が変わっていた。

 

「...夢を、見ていた」

 

マイさんが囁くように言った。

 

「もしかして...『彼』の夢、ですか?」

 

「うん」

 

はっきりと認めた彼女だけれど、僕の心は全くざわつかなかった。

 

「夢の中で...シムさんの...、シム・チャンミンのことが、大好きだ、って。

そういう夢を見ていた」

 

「大好き...ですか...」

 

ぞくぞくするほどの喜びが胸にせりあがってくる。

 

「大好き...ですか」

 

マイさんへの愛情はホンモノだったのに、彼女から注がれる愛情を素直に受け取っていなかったのは、僕の方だった。

 

たったそれだけのことだった。

 

 


 

 

~私~

 

 

「この際、ぶちまけましょう」

 

額を離した私たちは、裸の身体を起こしてベッドの上に座った。

 

私は毛布にくるまったまま、チャンミンはあぐらをかいて向かい合う。

 

「はっきり認めますけど、僕は彼女のこと...『彼女』が忘れられません」

 

「ずいぶんはっきりと言うのね」

 

チャンミンの言葉を聞いても、全然平気だった。

 

これまでの探り合いの妙な駆け引きは、もう無用だった。

 

 

「僕が忘れられないのは、『彼女』と過ごした10年分の時です。

あいにく、省略も消去もできません。

こればっかりはどうしようもないのです」

 

チャンミンは両手を伸ばし、私のそれを包み込んだ。

 

前髪があっちこっちとはねていているのに、顔も台詞も真面目なのだ。

 

「...これを聞いて、マイさん、僕のことがイヤになりましたか?

未練がましい、と」

 

「いいえ」

 

私は首を振る。

 

未練じゃないの。

 

比較するつもりもないの。

 

ただ、忘れられない人がいた、という事実だけ。

 

そんなこと、分かってたはずだったのに。

 

チャンミンは私の手を引き寄せると、手の甲に唇を押し当てた。

 

「『彼女』が好きだったのは過去の自分です」

 

「じゃあ、私からも正直な気持ちを言うわね」

 

私も口を開く。

 

「私も『彼』のことが忘れられないの。

簡単に忘れられない...とても大切な人だったから」

 

「そうでしょうね」

 

笑ったチャンミンの目尻にしわがよって、それはそれは優しい表情だった。

 

デッサン教室で私の心をとらえたのは、この笑顔だったのだ。

 

「でも...そういう過去があった、というだけ。

だからといって、この過去は消せないの。

この過去も含めて私なの」

 

私もチャンミンの手を引き寄せて、手の甲にキスをした。

 

「...つまり、僕らは『大恋愛経験者』ってなわけですね」

 

「そうなのよねぇ...。

これから私たち、どうなっちゃうんでしょう?」

 

「僕という人間は、誰かのことを好きになったとき、とことん好きになるんです。

ずーっと、長く。

だから、マイさんも覚悟してください。

僕はとても、しつこい男ですから。」

 

「それくらいの人じゃなくっちゃ、物足りないから、私にはちょうどよいわね」

 

「似たもの同士ですね」

 

チャンミンの両腕がにゅうっと伸びてきて、私の肩を引き寄せる。

 

そして、ぎゅうっと力いっぱい、痛いくらいに私の頭を胸に押し付ける。

 

気恥ずかしさから、こんなふざけた感じのハグをしているって、分かってる。

 

 

「『彼』がマイさんをここまでいい女に育ててくれたと、感謝することにしました。

『彼』と10年一緒にいたマイさんだから、僕は好きになったんだと思います。

10年ですよ?

そんなマイさんです。

さぞかしマイさんは、僕のことをうんと大事にしてくれるだろうなぁ、って」

 

「そうね」

 

「昔と比べて、僕は大人になりましたから、想いは深いですよ」

 

私を抱えこんだ腕の力がゆるむ。

 

そして、互いの頬をくっ付け合った。

 

チャンミンの肌が熱い。

 

私の肌も熱い。

 

「マイさん。

もう一度、僕の名前を呼んでください」

 

「チャンミン」

 

「『シムさん』より、断然いい感じです」

 

「そう?」

 

「当然ですよ」

 

頬をくっ付け合ったまま、チャンミンの手が私の髪を撫でる。

 

私もチャンミンの背に腕を回して、その肌を撫ぜた。

 

「これはね、愛の告白ですよ」

 

チャンミンの喉がこくりと動いた。

 

私も緊張している。

 

「今の僕は、あなたのことしか考えていませんよ。

もちろん、これからも」

 

 

デッサン教室で、つぶれたピーマンを手に困り顔で笑っていたチャンミンを思い出した。

 

 

思い出し笑いをしていたら、「僕の顔に何かついてますか?」と眉を下げた。

 

 

「僕は...美味しそうにご飯を食べてたマイさんのこと、忘れられません。

思い出すと顔がニヤけます。

これからも、僕と2人で、美味しいものを食べましょうね。

僕は大食いだから、マイさんは太ってしまいますね」

 

 

「はい。

ふつつかな私ですけど、よろしくいお願いします」

 

「ハハッ。

僕の方こそ、よろしく、です」

 

 

(おしまい)

 

 

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(4)水彩の月★

~彼~

彼女への誕生日プレゼントを探しに出かけた日、通りの向こうに彼女を見かけた。

 

彼女は、ショウウィンドウをじぃっと見つめていた。

 

声をかけようと、わくわくした気持ちを抱えて、横断歩道を小走りで渡った。

 

「偶然だね」「わぁ、びっくりした」なんてやりとりを想像しながら。

 

肩を叩いて、びっくりさせよう、っていたずら心も湧いていた。

 

ところが、僕の足は止まる。

 

彼女のあまりにも真剣な眼差しに気づいたから。

 

そこは花屋だった。

 

ショーウィンドウの向こうは、色とりどりの花と緑が瑞々しい。

 

彼女の目は、目の前の植物たちを通り越して、うんと遠いところを見ていた。

 

声をかけられなかった。

 

無心で見つめている背中が、「邪魔をしないで」と語っていた。

 

もしかして、昔の「彼」のことを思い出しているのでは...と、嫉妬心が僕の胸を焼いた。

 

 

 

 

市民会館で開講された、週に1度のデッサン教室で彼女と出逢った。

 

軽い気持ちで受講した僕の隣の席が彼女だった。

 

折れそうなくらい細い手首をしていて、腫れぼったいまぶたで、心をどこかよそに置いているような、上の空な感じの人だった。

 

でも、誰かと言葉を交わすときになると、瞬時に表情を切り替える。

 

僕の描く下手くそな絵を見て、吹き出した彼女の笑顔に、僕の心はさらわれた。

 

あっという間に。

 

彼女には、既に恋人がいるのだと思い込んでいた。

 

なぜなら、僕を見ているのに、その瞳の奥が僕を通り越したところを映しているみたいだったから。

 

ベタな誘い方だったが、「お茶でもどうですか?」って、次の週には声をかけていた。

 

週に一度のわずか30分ほどだが、彼女とコーヒーを飲む時間が楽しみだった。

 

そのためにデッサン教室に通い続けていたと言っても過言ではない。

 

彼女の心のガードは固く、食事に誘えるまでに時間がかかった。

 

彼女の心には、誰か他の人がいる。

 

そうであっても、痛々しく儚げな彼女に、僕はどんどん心惹かれていった。

 

30年ちょっとの人生の中で、彼女は僕が2番目に「好きになった人」となった。

 

 

 

 

彼女には打ち明けていた。

 

自分には長く交際していた恋人がいたこと、そしてその人を2年前に亡くしたこと。

 

かっこ悪いことに、聞き上手の彼女に質問されるまま、ほぼ洗いざらい話してしまった。

 

「その方の名前は?」

 

その恋人の名前も、聞かれるまま教えてしまっていた。

 

過去を語らない男が理想だったにも関わらず。

 

2年前だったら辛くて口にできない名前だったのが、今の僕には抵抗はなかった。

 

それくらい、気持ちの整理がついていた。

 

深く深く愛していて、その人を失った当時の僕は亡霊のようで、長い期間苦しんだ。

 

今でも記憶の深いところで、その人への愛情は存在している。

 

けれども、今の僕の心の中心は彼女だ。

 

 

 

 

彼女にも、亡くしたばかり恋人がいると知った時、僕の頭に「似たもの同士」という言葉が、ぱっと浮かんだ。

 

似たような境遇の者は、やはり惹かれあうものなのだろうか。

 

でも、そんな言葉でひとくくりに片付けてもらいたくなかった。

 

最初は僕の片想いだった。

 

もう2度と恋なんかできないと諦めていたのが、今こうして新たな恋を得て、僕は嬉しかった。

 

少しずつ、距離を縮めていった。

 

ところが、彼女に自分の気持ちを伝えた日、彼女は首を振った。

 

「ごめんなさい。

シムさんとお付き合いできる資格は、今の私にはありません」

 

ああ、と落胆のあまり全身の力が抜けた。

 

「彼氏がいたのなら、申し訳ない。

僕が言ったことは忘れてください」

 

「そう言っていただけて、嬉しいんです。

彼氏は...いません。

でも、今はダメなんです」

 

僕の交際人数なんて、亡くなった恋人ひとりきりだったから、新しい恋を始める手順がわからなかった。

 

「僕のことは?」

 

ずいぶん不器用な、かっこ悪い台詞を発言してしまったものだ。

 

彼女は、ため息をつき、

 

「...恋人を亡くしたばかりなんです。

1年半も経つのに、忘れられないんです。

貴方のことは気になります。

でも...、彼に対して悪いことをしているかのような、罪悪感があるんです。

こんな状態で、貴方とつきあったりなんかしたら、貴方に失礼です」

 

真っ赤な目をした彼女は、そう言って哀しげにほほ笑んだ。

 

 

それでもいい。

 

彼女が漂わせている「寂しそうな空気」を、僕の手で晴らしていくから。

 

だから僕は、諦めなかった。

 

「今は駄目だ」と言った彼女の言葉、「今は」に望みがあると思ったから。

 

初めて食事に誘った夜を境に、上の空で遠くを見ていた彼女の目に力が宿ってきた。

 

彼女がまとっていたピリピリとした空気が消えた。

 

彼女といると、穏やかで温かくて、ほっとくつろげた。

 

これが、彼女の本来の姿なんだろう。

 

こんな彼女と10年も一緒にいて、手放さなければならなくなって悔しかったに違いない。

 

僕は、そんな「彼」に嫉妬した。

 

彼女が「彼」と過ごした10年という時に嫉妬した。

 

 

 

 

彼女が初めて僕の部屋を訪れた日、ちょうど彼女の誕生日だった。

 

ちょっとしたサプライズのつもりで、ささやかな贈り物をした。

 

交際を始めてまだ日は浅く、アクセサリーなんか贈ったりしたら重いかな、って、彼女が負担に思わないよう、知恵をしぼって選んだ。

 

先日、ショーウィンドウを無心に見つめていた彼女の姿に、ヒントを得た。

 

隠していたクローゼットから出してきたものを見て、彼女の口が「まあ」といった感じに丸く開いた。

 

それから、僕に手渡されたものを膝にのせてしばらくの間、彼女は無言だった。

 

「気に入らなかった?」

 

不安になった僕は、おずおずと尋ねた。

 

「好きなんじゃないかな、って、勝手に想像してしまって...。

外れてたら...ごめん」

 

「いいえ...。

ちょっと、びっくりしたから...。

でも、ありがとう。

嬉しい」

 

確かに、彼女の表情は嬉しそうだった。

 

僕はほんの少しだけ不安だった。

 

もしかしたら、間違ったものを贈ってしまったのではないか、って。

 

 


 

 

~私~

シムさんの名前が、亡くした恋人と同じ名前であることに混乱した。

 

名刺をもらったあの夜、確かに目にしていたはずなのに、印刷された「チャンミン」という名前が頭に入ってこなかった。

 

それほど私は、哀しみの海底に沈んでいたのだ。

 

シムさんとの仲が親密になっていっても、どうしても名前で呼べなかった。

 

口にする度に、チャンミンの記憶がいつになっても薄れていかなくなることが怖かった。

 

同じくらい背が高くて、優しくて。

 

最初は、比べてばかりいた。

 

そのうち、徐々に違うところが見えてきた。

 

全然の別人だった。

 

私の心の中で、永遠に生き続けると固く信じていたのに、次第にチャンミンとの思い出が遠ざかっていった。

 

想いの濃さが薄くなっていったのではない。

 

今でもチャンミンはちゃんと、私の中に息づいている。

 

それとは別に現れたスペースに、シムさんの存在が満ちていったのだ。

 

過去のチャンミンはチャンミンとして存在し、全く別の場所にシムさんが存在している。

 

比べられない。

 

シムさんと初めて食事をしたとき、栄養不足だった私の身体と心が生き返った。

 

幽霊のように生きていた自分の視界が、リアルで色鮮やかなものに変わったのだ。

 

やっと戻ってこられた、と思った。

 

シムさんが私を生き返らせてくれたのだ。

 

そんなシムさんに感謝しながらも、隣を歩く彼のつくる笑顔が気になった。

 

目尻に浮かぶ笑いジワがとっても素敵だったけれど、笑い方を忘れてしまったみたいに、頬や口元がぎこちないものに見えたから。

 

ピンときた。

 

この人も、何か大切な存在を失ったばかりなんだ、って。

 

ぎこちない笑いであっても、本心からのものだと分かっていた。

 

彼の頬をほぐしてやりたい、と思った。

 

 

既婚歴のある人と交際を始めた知人が、苦笑交じりに漏らした台詞を思い出していた。

 

「『死別』はまだいいよ。

諦めがつくから。

辛いのは『離別』よ。

別れた相手が、どこかで暮らしているのよ?

顔を合わせるかもしれないし、ずっと比べられる」

 

とんでもない。

 

『死別』した者ほど強力な存在はない。

 

死んだ者の思い出は時が経つほど美化されるものだから。

 

シムさんの「恋人」が、どんな人だったのか見てみたい。

 

目にすれば、安心する。

 

実体がないのは、想像ばかりが膨らむ。

 

きっと素敵な人だったんだろう。

 

10年も一緒にいただなんて、深い愛情で結ばれていたのだろう。

 

顔もわからないんじゃ、私はずっと彼女の亡霊に嫉妬し続けるしかないじゃないの。

 

 

シムさんの部屋に初めて通された日。

 

彼がお茶の用意をするため台所に立った隙に、私は周囲を見回した。

 

「彼女」の気配が残っているんじゃないか、って。

 

同棲はしていなかった、と言っていた。

 

でも、互いの部屋を行き来していたに決まっている。

 

シムさんが私に手渡したマグカップひとつさえ、「彼女」のものなんじゃないかと疑った。

 

私の固い表情に気づいたシムさんは、苦笑交じりに

 

「『彼女』のものは全て彼女の実家に送ったよ。

だから、ここには『彼女』のものは何もないから」

 

と言った。

 

「......」

 

「君にあげたいものがあるんだ」

 

微笑んでみせたシムさんは、立ち上がってクローゼットを開けた。

 

ポールに引っ掛けた空のハンガーが目に入った。

 

きっと彼女の洋服がかかっていたんだ。

 

「無いこと」が、彼の欠けた心を表しているみたいで、息が詰まる。

 

シムさんがクローゼットから取り出してきたものを見て、再び息が詰まった。

 

動揺した心を悟られないよう、私は無理やり笑顔を作る。

 

ウンベラータの鉢植えだった。

 

シムさんは、私の反応をじっと見守っている。

 

言葉が出てこなくて、ハート型の丸い葉を指先でなぞる。

 

これ以上黙っていたら、シムさんが不安に思う。

 

モンステラやポトス、ユッカなど、ポピュラーなものじゃなく、ウンベラータを選んだセンスに、私は泣き出しそうだった。

 

自宅のベランダに、二つの鉢が並ぶことになるなんて。

 

よりによって、植物だなんて。

 

嬉しいのに...困ってしまった。

 

(後編に続く)

 

 

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(2)水彩の月★

 

 

息せき切って目指すは、図書館。

 

建物前が小さな公園になっていて、大きな街路灯のたもとにベンチが置かれている。

 

足を組んで私を待つのは、大好きな人。

 

「マイさん」

 

足音に気付いて顔を上げた彼は、汗だくの私を認めると、にっこりと笑った。

 

下がった眉、細めた目、目尻のしわ、大好きな大好きな笑顔。

 

「ごめんね、帰り際に頼まれごとされちゃって」

 

「僕も今来たところです」

 

チャンミンが差し出した左手を握って、共に歩き出す。

 

人通りがほとんどない、等間隔に街路灯が並ぶ歩道を二人で歩く。

 

街路灯のオレンジ色の灯りに照らされる、チャンミンの端正な横顔を見上げる。

 

チャンミンと手を繋いで帰路につく。

 

「お~て~て~、つ~ないで~♪」

 

大きく前後に振って、私は歌う。

 

「の~み~ち~を、ゆ~け~ば~♪」

 

私の手を包み込む、温かい彼の手の平。

 

 

「マイさん、また痩せましたか?」

 

私の歩幅に合わせて歩くチャンミンが、口を開いた。

 

「チャンミンの気のせいよ」

 

前を向いたまま私は答えて、チャンミンの手を握りなおした。

 

「ちゃんと、ご飯食べてますか?」

 

「食べてるよ」

 

チャンミンの方を振り向けない。

 

時おり走り過ぎる車のテールランプ、自動販売機が放つ白い光、曇り空で星は見えない。

 

「手首が小枝みたいです」

 

私の手をすっぽりと覆う、チャンミンの指にギュッと力がこもった。

 

私は何も答えられない。

 

「途中で、美味しいものを買っていきましょう」

 

チャンミンが、腕を前後に振った。

 

チャンミンの腕は長いから、前に後ろにと私は振り回される。

 

「腕が千切れちゃうよ」

 

「千切れないよう、いっぱいご飯を食べようね」

 

「...うん」

 

不服そうにつぶやく。

 

 

チャンミンの手が私を繋ぎとめる。

 

強風が吹けば、私はどこかへ行ってしまいそう。

 

大丈夫。

 

チャンミンの手は離さないから。

 

チャンミンも離さないでしょ?

 

 

「ちゃんと眠れていますか?」

 

しんと落ち着いた口調で、チャンミンが尋ねた。

 

チャンミンが口にするのは、いつも私を案ずる言葉だ。

 

「寝坊するくらい、寝てるよ~」

 

ほんとうのことを言いたくなかった。

 

「嘘ですね。

そんな幽霊みたいな顔をして。

眠れてないんですね」

 

「そんなに心配なら、今夜も泊まっていってね」

 

「いいんですか?」

 

チャンミンの声は弾んでいる。

 

私が誘わなくても、泊まっていくくせに。

 

一緒に暮らそう計画を立てている途中だった。

 

私は前を向いたままだったけど、チャンミンの笑顔がどんなに輝いているか、見なくてもわかっている。

 

チャンミンの笑顔は、私を骨抜きにする。

 

高校生の時から交際していて、あれから10年も経つのにまだ好きで。

 

同い年なのになぜか敬語で、そんな彼の話し方が大好きで。

 

彼と目が合うと、未だに私の胸はときめきでいっぱいになる。

 

チャンミンがいてくれたら、私は無力じゃない。

 

 

 


 

 

「そろそろ帰りますね」

 

後ろから抱きしめていたチャンミンが、身体を起こした。

 

私とチャンミンの間で温められた空気が逃げてしまい、背中が急に寒々とした。

 

「もう?」

 

チャンミンに見捨てられたかのような、すがるような眼をしてしまったのだと思う。

 

チャンミンは、ふっと小さなため息をつく。

 

「そんな顔をしないでください。

仕方ないですね。

マイさんが寝付くまで、帰りませんよ」

 

再び横になったチャンミンは、私の前髪を指ですく。

 

「マイさんは、

僕がいないと、そんなに駄目になっちゃうんですか?」

 

チャンミンの腕の中で、私はこくりと頷いた。

 

ベッドに横たわったままの私の目に、薄暗い室内の様子が映る。

 

テーブルの上には、ほとんど手がつけられず冷え切ってしまった料理が並んでいた。

 

幸せなのに、寂しくて。

 

 

 


 

 

そうね、チャンミンの言う通り、痩せたかもしれない。

 

かなり痩せたかもしれない。

 

チャンミンの言う通り、幽霊のような顔をしているのかもしれない。

 

よく眠れないの。

 

目が冴えて、何度も寝返りをうって、ようやくまどろむのは夜明け頃。

 

玄関ドアから外へ出ると、パチンとスイッチを入れて、「外の顔」を作って出勤しているの。

 

食べたい欲が、眠りたい欲が消えてしまったみたいなの。

 

ご飯が美味しくないの。

 

眠くならないの。

 

私ってば、どうしちゃったんだろう。

 

チャンミン、どうしたらいいんだろう?

 

 

・・・

 

 

小さなおにぎり1つが、私にとって大盛りカツ丼くらいのボリュームに感じられる。

 

チャンミンは、ちびちびとかじる私を、じーっと見張っている。

 

「はい、よく噛んで。

少しずつでいいですから、飲み込んで」

 

ひと口食べるごとに、お茶を手渡してくれる。

 

「ほら、もうひと口。

あと少しですよ」

 

「うっ...」

 

胃の腑から、せりあがってくる吐き気に耐えられず、トイレへ走る。

 

トイレにうつむき、大きく息を吐く。

 

えずいてもえずいても、ほとんど出ない。

 

当然だ、ほとんど食べていないんだもの。

 

背後に立ったチャンミンは、口元にかかる髪をおさえてくれる。

 

「ごめんなさい。

無理に食べさせた僕が悪かったです」

 

優しく背中をさすってくれる。

 

「苦しいですね。

僕が悪かったです」

 

私の背をさすりながら、チャンミンは何度も謝った。

 

どろどろになった顔をタオルで拭いていると、チャンミンは冷蔵庫からゼリー飲料のパックをとってきて、私に渡す。

 

「これならお腹に入るでしょう?」

 

キャップを開けられずにいると、チャンミンは苦笑まじりのため息をついた。

 

「僕がいない時は、どうするんですか?」

 

キャップをひねる瞬間に、チャンミンの手の甲に浮かんだ血管を見つめながら、私は思う。

 

(全く、その通りなの。

 

どうしたらいいんだろう?)

 

 

そこだけ生気をはなつフィロデンドロンの鉢。

 

チャンミンが、マグカップに水を汲んで、フィロデンドロンの根元に注ぐ。

 

一度では覚えきれない突飛な名前だったから、言い間違えるたびチャンミンは笑っていた。

 

人の手のような形をした大きな葉っぱ。

 

じょうろを買わないといけませんね、と言いながら、買うタイミングを逃していた。

 

鉢植えの植物はね、鉢底から水が出るまでたっぷりやるのよ。

 

かつてした私のアドバイス通りに、生真面目な顔をして丁寧に水やりをするチャンミンを、見つめたのだった。

 

・・・

 

 

ねえ、マイさん。

 

僕はひどい男ですね。

 

僕がいないと駄目な女にしてしまっていますね。

 

安心してください。

 

僕はマイさんから離れませんから。

 

怖い夢を見たら、僕はたちまち目を覚まして、マイさんを抱きしめてあげますから。

 

 

・・・

 

 

ふと、習い事がしたくなった。

 

 

急にそんな考えが、浮かんだ。

 

チャンミンとの待ち合わせ時間より早く到着した日のことだ。

 

ふらりと入った閉館間際の図書館で、目に留まったちらしをパンフレットスタンドから1枚抜きとった。

 

いつものベンチに座って『市民講座のご案内』のちらしに目を通す。

 

料理教室、ダメ、英会話、ダメ、アロマテラピー、ダメ、ヨガ、ダメ。

 

「今日は早いんですね」

 

集中していたから、チャンミンがやってきたことに気付けなかった。

 

チャンミンは、隣に座って私の手元を覗き込む。

 

「習い事ですか、

いいんじゃないですか?」

 

「チャンミンもそう思う?」

 

「マイさんだったら...そうですねぇ...。

初めてのデッサン講座ですかね」

 

チャンミンは私のことなら、何だってお見通しだ。

 

「うん、そうなの。

これなら出来そうだから」

 

 

「いいですね。

いつか僕の顔を描いてくださいねー」

 

 

『いつか』

 

なんて甘やかな、幸福な響きだろう。

 

「何年かかるかなぁ?」

 

「かっこよく描いてくださいねー」

 

 

・・・

 

 

市民会館の一室で、週に一度の市民講座が始まった。

 

スケッチブックとデッサン用の鉛筆、練り消しゴム。

 

これらを入れるバッグも、チャンミンと一緒に選んだ。

 

気合が入っていた。

 

今ここで何か新しいことを始めないと、自分はダメになると切羽詰まっていた。

 

講習生は20人ほどで、講師も市内で絵画教室を開いているという、優しそうな女性だった。

 

教室をざっと見渡すと、20代から60代まで様々で、夜7時のクラスだということもあり、私のようなスーツ姿の者が半分。

 

長テーブルに2人ずつ席につく。

 

初回の課題は、めいめいが持参したものをデッサンする。

 

勤め帰りだから、通勤バッグに入れられるものは限られている。

 

つぶれないようタッパーに入れたものを取り出していると、「あっ!」という声が。

 

隣席の男性が、ひどく困った顔でティッシュに包んだものを凝視している。

 

その様子を見つめる私に気付くと、彼は肩をすくめて手の中のものを私に見せた。

 

「つぶれてしまいました」

 

ティッシュの中には、無残につぶれたピーマンが。

 

「困りました」

 

他の生徒たちは、バナナだとか、化粧ポーチだとかのデッサンを始めている。

 

「私のものでよければどうぞ。

沢山ありますから」

 

タッパーの中のイチゴをすすめた。

 

「美味しそうですね」

 

「今食べちゃったら、デッサンできませんね」

 

そう言ったら、彼は肩を小さく震わせて笑っていた。

 

清潔そうで、穏やかそうな人だというのが、第一印象だった。

 

きれいな歯並びをしていたし、ペンケースや鉛筆を取り扱う所作が丁寧だった。

 

ティッシュでくるんだだけのピーマンを、バッグに入れたらつぶれちゃうでしょうに。

 

きちんとしていながらも、ほんの少しの隙がこの人の魅力だと思った。

 

誰もが無言で、鉛筆が紙をこする音の中、テーブルの間をぬって講師が、一人一人に的確なアドバイスをする。

 

「しょっぱなから難しいものを選びましたね」

 

「そうなんです。

じゃがいもみたいになってしまいました」

 

イチゴを描くのは難しかった。

 

種を描こうとすればするほど、無数に穴が穿たれた塊になっていく。

 

隣を見ると彼も苦戦していて、私以上に下手くそで、小さく吹き出してしまった。

 

「笑いましたね」

 

彼は素早く両手でスケッチブックを隠したが、彼の両耳が真っ赤になっていて、さらに私は吹き出してしまった。

 

講師のお姉さんは、私と彼を前にお手本を見せてくれる。

 

「種を描こうとするのではなく、種の周囲の盛り上がった部分、

光が当たっているでしょう?」

 

彼が黒く塗りつぶしてしまった箇所を、練り消しゴムで軽くこすり取る。

 

「わぁ...」

 

一気に立体的なイチゴになって、私と彼は顔を見合わせる。

 

「光に注目してくださいね。

光を作れば、おのずと凹んだ部分ができますから。

影になっているからといって、黒く塗りつぶしちゃだめですよ」

 

すとんと納得できて、何度も頷いた。

 

 

講座が終了し教室を出た私は、彼を見てまた吹き出すこととなった。

 

彼は手の平にイチゴをのせたままだった。

 

「これ...食べてもいいですか?」って。

 

 

 

自然な流れで、駅までの道のりを彼と並んで歩くことになった。

 

ぽつりぽつりと、自己紹介に近い会話を交わした。

 

30代だろうか。

 

チェックのシャツに細身のデニムパンツとラフな格好だった。

 

着飾った感じはしないからアパレル系ではなさそう。

 

チャンミンみたいに背が高い人だった。

 

(そうなの。

なんでも、チャンミンが基準なの)

 

 

「僕はこういうものです」

 

別れ際、彼から名刺を渡された。

 

「設計士さん?」

 

「そうです」

 

何か言いたげな彼の表情に気付いて、私も名刺入れを取り出した。

 

「マイさん、ですか」

 

「はい」

 

 

「また来週」

 

「来週の講座で」

 

 

互いに軽く手を振って、駅前で別れた。

 

 

今夜は会えないとチャンミンには伝えてあった。

 

明日、上手く描けたイチゴの絵を、チャンミンに見せてあげよう。

 

 


 

 

デッサン講座の後に、彼とコーヒーを一杯飲むのが習慣になった。

 

ゆったりと落ち着いた物腰と、安心させてくれる低い声。

 

力が入っていた肩のこわばりがとけていった。

 

襟足の髪が、くるんと内巻きになっているのが可愛らしいと思った。

 

一週間が待ち遠しかった。

 

 

 


 

 

チャンミン...。

 

 

ごめんなさい。

 

 

気になる人ができました。

 

 

ごめんなさい。

 

 

 

(後編へ続く)

 

 

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(1)水彩の月★

 

今日一日あった出来事を、事細かにサチさんに報告するのが日課だった。

サチさんは、僕の言うことを頷きながら聞いてくれる。

僕とサチさんは、高校生の頃から交際していて、それから10年以上たった今でも、僕はこんなにもサチさんのことが大好きだった。

部屋の天井灯を消し、ダイニングテーブルの上のライトだけ点けて、僕はウィスキーの水割りを飲みながら、サチさんは梅酒のロックで、向かい合わせに座って、僕らは他愛ない会話を交わす。

「ねぇ、サチさん、今日はこんなことがあったんだ」

​「うんうん、それで?」

僕を見つめるサチさんと、サチさんを見つめる僕。

 

​彼女と出会って随分たつのに、サチさんを見るたび僕は、未だに胸が高まる。

 


ここ一ヶ月、サチさんがうちにやってくる頻度が減ってきた。

僕はそのことが、とても寂しい。

サチさんは、仕事人間だ。

がっかりした気持ちで、僕はいつものようにウィスキーの水割りを作って、ダイニングテーブルにつく。

TVはつけない。

サチさんはTVを滅多に見ないから、自然と僕も静寂な部屋を好むようになった。

ダイニングテーブルをはさんだ向こうは無人だ。

手を付けられていないグラスの氷はすっかり溶けてしまっている。

サチさんが飲まなかった梅酒を僕は一気に飲み干す。

サチさんが来なくても、僕は馬鹿みたいにサチさんのために、飲み物を作ってあげる。

溶けた氷で、薄まってぼやけた味がする。

サチさんは、毎晩グラスに一杯だけ梅酒を飲んでいた。

だから、僕はサチさんが好きだった梅酒のストックはかかさない。


数日前のこと。

いつもは夜にしか訪ねてこないサチさんが、夕方のうちにやってきた。

休日だった僕は、衣替えをしようとクローゼットの中を整頓していた。

「サチさん、このワンピース気に入ってたよね?」

ノースリーブでフレアなデザインのそれは、25歳の誕生日に僕がサチさんに買ってあげたものだ。

水彩絵の具をにじませたような花を描いた、藍色の色合いが美しい生地だ。

「サチさん、着てみせてよ」

「私、いくつだと思ってるの~?もう入らないわよ」

仕方なく僕は、ハンガーにかかったワンピースを、リビングのカーテンレールに引っ掛けておいた。

「このワンピースを着たサチさんと、僕はスーツできめて、高級レストランに行ったね」

「そうね、交際7年記念だったっけ?」

​「ワインがあんなに高いなんて、びっくりした」

「チャンミンのお金だけじゃ足らなくて、私もお財布の中身をひっくり返したわね」

「それは言わないで!恥ずかしい思い出なんだから」

思い出し笑いをしながら、僕の目から涙が零れ落ちた。


​ねぇ、サチさん。

僕は全然慣れない。

今の状況に、全然慣れない。

君がいない毎日に、全然慣れないんだ。

サチさん、僕は君に会いたくてたまらない。


サチさんは、月に2,3回は出張がある身で、その日の朝も出張にでかけようとしていた。

前夜、サチさんの部屋に泊まった僕は、彼女のスーツケースを持って、マンションの下まで見送りに出ていた。

「生ものには気を付けて下さいよ」

「胃薬をたくさん持ったから大丈夫」

「取引先がいやらしいオヤジかもしれないから、気を付けて下さいよ」

「引っぱたくから大丈夫」

タクシーが到着して、スーツケースをトランクに入れ、サチさんがシートにおさまっても、

僕は名残惜しくて、開けたウィンドーから顔を出したサチさんにキスをして、

タクシーの運転手さんが咳払いするまで、うんと長いキスをして、タクシーが消えるまで、ずっと見送っていた。

「ホテルに着いたら、電話してくださいよ」

「チャンミンも起きて待っててね」

僕とサチさんが最後に交わした会話だ。

よかった、僕もサチさんも笑顔だった。

お互い笑顔だったことが、僕にとって救いだ。

行っちゃ駄目だ!

どうして、僕はあの日、彼女を引き止めなかったのだろう。

仕事なんかさぼってしまえよ!

経費の節約なんか気にせず、新幹線を使えばよかったのに!

バスなんか乗り遅れてしまえばよかったのに!

どんなに怖い思いをしただろうか。

​ほんの少しでも、僕のことを思い出しただろうか?

その晩、どれだけ待っても彼女からの電話はなく、僕からかける電話も通じなかった。

あまりにも打ちのめされて、僕は葬式にも行けなかった。

「チャンミンのおかげで死なずにすんだわ、ありがとう」って、

僕に抱きつくサチさんの夢を何度みたことか。

「電話して」じゃなくて、

「愛してる」って言っていればよかったと、僕は死ぬほど後悔している。


ねぇ、サチさん、

お願いだから、戻ってきて欲しい。

僕は、サチさんを思い出すたび、いくらだって涙を流せる。

サチさんを強く、恋焦がれる思いが僕にサチさんの幻影を見せる。

はたからは、僕はひとりごとを言っているように見えただろう。

けれども、僕は大真面目だった。

僕の目には、テーブルの向こうで、梅酒をちびちびと飲むサチさんが映っているんだ。

もうしばらく、

もう少しの間だけでいいから、

僕の気持ちがしゃんとするまで、サチさんに会っていたい。


会社にいる時、友人といる時は、僕は平気なふりをしている。

あまりに平然としているから、実は恋人を亡くして打ちひしがれているとは、誰も想像も出来ないと思う。

平気なふりをしているうちに、だんだんとそれが普通になってきた。

サチさんの不在が当たり前のようになってきたことが、哀しい。

サチさんがいなくて、僕は息の根が止まるほど苦しいのに、僕は生きているわけで、

これからは、サチさんがいない世界を生きていかなくてはならない。

サチさんが、僕の前に現れる日が、少しずつ減ってきたことも、たまらなく寂しい。

寂しいけれど、日常は容赦なく続くわけで、幻想の世界に浸っているばかりもいられない。

 


半年ぶりに、職場の同僚たちと飲んで帰宅した深夜。

リビングのソファで酔いつぶれていると、サチさんがすっと現われた。

 

僕の頭を膝にのせて、手ぐしで髪をすいてくれる。

ああ、そうだった。

僕はこうされるのが大好きだった。

「ねぇ、チャンミン」

僕は、とにかく酔っぱらっていて、半分眠っている状態で、目をつむったままサチさんの声を聞いていた。

「あなたはもっと、人と会うべきよ、いろんな人とね。

いろんなところへ出かけるべきよ。

美味しいものを食べて、飲んで。

お腹を抱えて笑う日が来て欲しいと、願っているの。

あなたはハンサムで、​とっても優しい人だから、

 

あなたのことを好きになる女の子は沢山いるはずよ。

私のことを想ってくれるのは嬉しいわ、でもね、

今のままじゃ駄目よ、チャンミン。

いつまでも、悲しみの海の底にいないで、チャンミン」

サチさんの声が子守唄のようで、僕を眠りに誘う。

僕の頬は、サチさんのワンピースの上。

僕がプレゼントしたワンピース。

​藍色がよく似合っていたサチさん。

「私は、ずっとあなたのことを忘れないから。

​でもね...、

あなたは、私のことを忘れてね...。

 

全部忘れられたら寂しいから、そうね...。

 

1年に1度だけちょこっと思い出してくれるだけでいいわ」

サチさんは、僕の髪をやさしくなでる。

​「ねぇ、チャンミン。

​あなたをいつまでも引き止めてしまって、ごめんなさいね」


明け方、猛烈な喉の渇きを覚えて目を覚ました僕は、蛇口から流れる水を、手ですくって飲んだ。

何度も手ですくって飲んだ。

濡れた口元を手の甲で拭いながら、リビングを振り返る。

スーツはしわだらけで、部屋の空気はよどんでいる。

カーテンをひき、窓を開けて、新鮮な空気を取り込む。

窓の外の明け方の白んだ空に、淡い三日月が見える。

​僕は、異変に気づいてハッとする。

ワンピースが消えていた。

カーテンレールには、ハンガーだけが残されていた。

水彩絵の具で描いたような、にじんだ色合いが美しいワンピースがなくなっていた。

​サチさんが、持っていったに違いない。

しんとした心で、僕は確信していた。

もう、サチさんは僕の前に現れることは、ないだろう、と。

僕はもう、サチさんに会えなくなった、と。

「しっかりしろ!」

僕は口に出す。

ぴしゃぴしゃと、頬を叩いた。

​「ねえ、チャンミン、あなたは生きているのよ」

夢うつつの中、昨夜、サチさんが最後に言った言葉を思い出す。

「あなたは、私がいなくても大丈夫だから」

僕はぐっと涙をこらえて、もう一度口に出す。

「しっかりしろ、シムチャンミン!」

僕は大きく深呼吸をして、しわくちゃのスーツを脱ぎ、熱いシャワーを浴びるためバスルームへ向かった。

ほとばしるシャワーと真っ白な湯気の中、むせび泣いていた。

泣くんじゃない。

熱いお湯が頬を叩く。

しっかりするんだ。

僕はぐっと唇をかんで、心の中で話しかける。

サチさん、ありがとう。

​今までありがとう。

僕は、頑張りますよ。

​見ていてくださいね。

​僕は、あなたのことが大好きでした。

​死ぬほど、あなたを愛していました。

 

(おしまい)

 

 

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