(61)TIME

 

「初めまして」

 

シヅクが差し出した手を握るユーキを、チャンミンは無表情に眺めていた。

 

「私はシヅク。

カイ君の後輩です。

さすが姉妹、似てるねぇ」

 

この時にはシヅクの顔色も戻っていて、ソファから立ち上がるとカイとユーキを交互に見て言った。

 

無言で突っ立ったままのチャンミンを、シヅクは見かねて脇をつつく。

 

チャンミンは「何だよ?」と眉をひそめてシヅクを睨む。

 

「あんたも自己紹介するんだよ」と、シヅクはチャンミンの耳に囁く。

 

チャンミンは、ユーキの刺すような視線に居心地の悪い思いをしていたのだ。

 

(僕を見るなって。

この女の人...ユーキとか言う人が、カイ君の姉だったなんて...)

 

そんな二人を興味深げに眺めていたカイは、くすっと笑ってチャンミンを手で差し示した。

 

「この方は、チャンミンさん」

 

「!」

 

ひっ、と息をのむ音は、ユーキのものだった。

 

片手で口を覆い、目を見開いている。

 

「嘘...でしょ?」

 

驚きを隠せないでいる姉の姿に、弟のカイはチャンミンをうかがう。

 

「あれ?

チャンミンさん、姉ちゃんと知り合いだったの?」

 

「ええ」

 

ユーキの返答に、チャンミンは激しく首を横に振った。

 

ユーキの傷ついたような表情に、チャンミンは内心で「止めてくれよ」とつぶやく。

 

「あれ?

そうだったの!?」

 

まっすぐにチャンミンを見るユーキの目が真剣で、シヅクは気付かれないようチャンミンの脇腹をつつく。

 

チャンミンの方も助けを求めるように、シヅクのニットの裾を引っ張った。

 

(チャンミンの知り合いが登場するなんて...!

調査に漏れがあったのか!?)

 

平静を装っていたが、シヅクは慌てていた。

 

(まずいな...。

ひとまずチャンミンをここから連れ出そう)

 

「姉ちゃん、まだ食べるものは残ってるだろうし、あっちで食べておいでよ。

酒もいっぱいあるよ」

 

ユーキのただならぬ様子に、気をきかせたカイはドームの方へ親指を立てた。

 

「え、ええ」

 

ユーキは「あなたも行くでしょ?案内して」と、カイの二の腕をつかんだ。

 

「オッケ。

シヅクさんも元気になったみたいだし。

僕らはあっちへ行ってるから。

欲しいものがあったら、適当に見繕ってくるよ?」

 

「ありがと。

今んとこ腹はいっぱいだ」

 

事務所を出るまで、ユーキはチャンミンの方を何度も振り返るから、チャンミンは顔を背けていた。

 

事務所にチャンミンとシヅクの二人きりになった。

 

チャンミンは大きくため息をつくと、どかっとソファに座り込んだ。

 

いつにないチャンミンの荒々しい行動。

 

「なあ、チャンミン。

カイ君のお姉さん、ユーキさんとどっかで会ったことがあるのか?」

 

「ない。

...でも」

 

「でも?」

 

シヅクの心臓の鼓動が早くなっていた。

 

(チャンミンの行動は見張っていたんだが...。

チャンミンと彼女と、どこで接点があったんだ?)

 

「さっき...。

僕に抱きついてきて...」

 

「はああ?」

 

(抱きついてきた...だと!?

センターに戻って、直ぐに調べないと!

セツは?

まずはセツに相談だ!)

 

リストバンドを素早く操作して、セツにメッセージを送る。

 

「シヅク...帰ろう。

今すぐ...」

 

「お、おう!

そうしよう!」

 

チャンミンの顔色は真っ青になっていた。

 

「気分悪いのか?」

 

「......」

 

「ミーナに声をかけてくるから、あんたはここで待ってなさい」

 

シヅクはチャンミンにそう言いおいて、ドームの方へ向かいかけた。

 

(また火のそばに行くのは気がすすまないが...)

 

「!」

 

チャンミンの腕が素早く伸ばされて、力いっぱい引っ張り寄せられた。

 

「危ないなぁ!」

 

シヅクは抗議の声をあげた直後、背後からチャンミンの腕にくるまれた。

 

「...チャンミン」

 

「......」

 

シヅクは後ろ手にチャンミンの頭を撫ぜてやる。

 

「あの人...僕のことを『マックス』って、呼んだ」

 

「マックス!!!」

 

思いがけず大声を出してしまい、焦ったシヅクは「マックスって誰だろうな...」と取り繕った。

 

(まずい...まずいぞ!

ここで『マックス』が登場するなんて!)

 

「マックス、マックスって、何度も言うんだ。

気持ちが悪い...」

 

先ほどの動揺を引きずっていたチャンミンは、吐き出すような、苦し気なかすれた声だった。

 

「人違いだって何度も言ったんだ。

それなのに...」

 

シヅクを抱く腕に力がこもる。

 

「僕は知らないよ...ユーキっていう人なんて...」

 

シヅクの首筋に顔を埋めて、苦し気につぶやいた。

 

「...そうだよな。

びっくりするよな、突然そんなこと言われてもさ」

 

シヅクを抱く腕に力が込められていく。

 

温かくて柔らかいシヅクの身体を腕の中に感じていると、チャンミンの中の不安と不快感が弱まっていく。

 

(シヅクといると僕はホッとする。

シヅクだけが、僕の中で『確かなこと』だから)

 

シヅクはウエストの前で組んだチャンミンの手の甲をぽんぽんと叩く。

 

(閉じ込められた時も、こんな風に密着してたなぁ。

 

あの時のチャンミンはもじもじ君で、でも生理的反応を隠せなくて...私の方が恥ずかしかった。

ところが、あれからのチャンミンはどうしちゃったんだよ)

 

「あっ...!」

 

シヅクが声をあげたのは、チャンミンの手が顎に添えられ、後方へ引き寄せられたから。

 

「待て...こらっ...待て」

 

ここは職場の事務所。

 

ゴムの木に遮られているからといっても、いつ誰かに見られるか分からない。

 

シヅクは唇を寄せるチャンミンの顔を、力いっぱい手の平で押しのけた。

 

「待てっ...チャンミン!

カイ君たちが戻ってくるかもしれんから...」

 

はっとしたように、チャンミンはシヅクの顎から手を放した。

 

「...ごめん」

 

「場所をわきまえることも、覚えるんだよ、チャンミン」

 

「......」

 

シヅクはやれやれといった風に、息を吐いた。

 

「よし!

チャンミン、帰ろう、な?

ユーキさんは間違えたんだよ。

他人のそら似だ、気にすんな」

 

そうじゃないことを知っているシヅクは、もやもやとした気持ちで気休めの言葉をかける。

 

「うん...」

 

「あんたんちまで送っていってやるから」

 

「ねぇ、シヅク」

 

「ん?」

 

「今夜...僕んちに泊まっていって」

 

「はあぁ?」

 

「泊まっていって欲しい」

 

「な、なんで?」

 

シヅクはどぎまぎとうろたえて、しどろもどろになる。

 

「なんで?って。

シヅクのそばに居たいからじゃないか?」

 

(な、なんて...ストレートなんだ...この坊やは!?)

 

「パンツ、持ってきてないし...」

 

「そんなの、シヅクんちに着替えを取りに寄ればいいじゃないか」

 

「ま、まあ、その通りなんだけど...」

 

(こういう時こそ、傍に居てやらなくちゃならんが、

チャンミンの行動は予測がつかんからな...)

 

「嫌なの?」

 

「嫌...じゃないけど、突然でびっくりしたから」

 

「僕たちは『恋人同士』なんだろ?

当たり前のことなんだろ?」

 

(その通りなんだが...。

その通りなんだけど...。

チャンミンの口から、はっきりと『恋人同士』と宣言されると、照れるというか、なんというか...)

 

「だから、泊まっていって」

 

チャンミンの熱い吐息が首筋にかかり、シズクはぞくりとした。

 

「......」

 

先日のチャンミンの行動を思い出して、全身が熱くなる。

 

(泊まるってことは...。

泊まる...と言ったら...。

いくらなんでも早すぎるだろう?

『恋人同士』がひとつベッドで寝るってことは、『アレ』しかないだろ?)

 

「シヅク?」

 

(...ところで、『やり方』知ってるんか?

...って、こらこら。

私は何を先走って想像してるんだ?

チャンミンの「泊まって」発言に、深い意味はないかもしれないじゃないか!

いやいや。

チャンミンの行動は予測がつかないんだった。

ムードとか、男と女の駆け引きとか、一切無視だからなぁ。

風邪っぴきの日も、押し倒されたからな。

やっぱり、そのつもりでいるのか?)

 

「シヅク!!」

 

考えふけっていたシヅクはハッとして、チャンミンの腕をほどくと立ち上がった。

 

「ちょっと寄るところがあるんだ。

その後に行くことになるけど...いいか?」

 

頭を撫ぜられて、「子供扱いするな」とチャンミンはむすっとする。

 

「ちゃんとあんたんちに行くから。

さささ、帰ろうか」

 

「うん」

 

チャンミンはすたすたとロッカーからコートをとると、その1着をシヅクに羽織らせた。

 

自身もコートを羽織って、「行くよ」と2人分の荷物を抱えた。

 

そして、チャンミンに腕を引っ張られる格好で、シヅクは事務所を出たのであった。

 

着信を知らせるバイブレーションに、シヅクはリストバンドを確認する。

 

『21:00に集合』と、セツからの返信。

 

 


 

 

~カイとユーキ~

 

「あのチャンミンって人...」

 

すするようにワインを飲むユーキを横目に、カイは「知り合い?」と尋ねた。

 

「チャンミンさんは1年くらい前に、ここに就職してきた人」

 

「その前は?」

 

「さあ、知らないけど」

 

「いくつ?」

 

「えーっと、29か30かその辺り」

 

「やっぱり!」

 

「姉ちゃん、どうしたんだよ?

怖いよ」

 

今にも泣き出しそうに表情をこわばらせたユーキに、カイは困惑していた。

 

(チャンミンさんには、思い出したくない過去があって、会いたくない人物が姉ちゃんで、知らんぷりを装ってんのかな。

まさか!

チャンミンさんは、『本当に』姉ちゃんのこと全然知らない風だった。

人付き合いが苦手そうなチャンミンさんが、あそこまで演技はできないだろう)

 

「他人のそら似じゃないの?」

 

「そんなんじゃない」

 

ユーキは激しく首を振った。

 

「彼『そのもの』なのよ。

年齢も合ってる」

 

「まさか、だけど...姉ちゃんの『彼氏』だったとか?」

 

「ええ」

 

大きく頷くユーキに、カイはへえぇと眉を上げた。

 

「いつ頃?」

 

「5年前に別れた。

別れたというか、急にいなくなった」

 

「5年前って、あの時の?」

 

高校を卒業したばかりの頃、失恋で大荒れのユーキの身の回りの世話に、南国まで出向いたことを思い出した。

 

「大恋愛だったやつ?」

 

「ええ」

 

(姉ちゃんの恋愛は、毎回大恋愛だったけどなぁ。

あの時の姉ちゃんは酷かった。

泣きわめいたかと思うと、しゅんと肩を落として無口になって。

結局、ほっとけなくて1か月ほどあそこに滞在したんだっけ)

 

「でもね...名前が違うのよ」

 

「彼氏の名前は?」

 

「マックス」

 

「偽名だとか。

どっちかというと、『マックス』の方が偽名かな。

『チャンミン』が本名」

 

「そんなハズはないわ。

パスポート上も『マックス』になってた」

 

「『マックス』が本名で、『チャンミン』が偽名?

うちに就職する時に、偽名なんか使えないしなぁ。

...やっぱり、姉ちゃんの勘違いだよ」

 

カイは意固地になるユーキに気付かれないよう、心中でため息をついた。

 

(姉ちゃんの相手は面倒くさい)

 

「その『マックス』さんの写真ってある?」

 

と言いかけて、カイは「ないよなぁ」とぼやく。

 

思い出のものは全部、目の前から消したいとわめくユーキに代わって、カイが一切合切捨ててしまったことを思い出したから。

 

デジタルデータも、アカウントごと消去してしまったから、『マックス』の顔を確認すらしていなかった。

 

「やっぱり、彼はマックスよ!」

 

ユーキの大声に、カイは飛び上がった。

 

姉の支離滅裂な話はいつものことで、カイはシヅクのことを考え始めていたからだ。

 

事務所でのシヅクとチャンミンの、どこか親密そうな雰囲気が気になっていたのだ。

 

「びっくりするなぁ」

 

カイを見るユーキの目はギラギラとしているのが、暗がりでも分かる。

 

「どうして?」

 

「だって...マックスは『チャンミン』でもあるから」

 

「姉ちゃん、頼むよ~。

僕には理解できないよ。

どういうこと?

筋道たてて説明してよ」

 

「それはね...」

 

ユーキはカイに説明を始めた。

 

5年前のことを。

 

 

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(60)TIME

 

シヅクとカイは飲み物を乗せたカートを押して、皆の元に集合した。

 

「シヅクさんは、何か食べましたか?」

 

「まだ、かな」

 

シヅクの脈拍が異常に早かった。

 

(フラッシュバックだの、

倒れるかもだの、

チャンミンが心配だってセツに言ってたけど、

私の方こそ、火が怖いなんて)

 

恐々、焚火に近づけずにいるシヅクの固い表情に、カイは気付く。

 

「僕が適当に見繕って来ますよ。

シヅクさんはその辺に...あそこのベンチなんかどうですか?」

 

カイは会場の一番端に設置したベンチを指さした。

 

「座って待っててください」

 

「え、いいの?」

 

焚火に近づきたくなかったシヅクは、カイの気配りに感謝する。

 

「ええ。

僕とチャンミンさんが育てた野菜を是非とも、味わってもらいたいのです。

ジャガイモが絶品ですよ、バターを落として食べると美味しいんですから」

 

「へぇ、いいね。

じゃあ、それをもらおうか?」

 

カイは、膝の上で落ち着かげに手を開いたり握ったりしているシヅクが心配だった。

 

(炎が怖いのかな...。

そういえば、シヅクさんは昨年の落ち葉焚きの時は未だ、ここにいなかったから)

 

照明らしい照明は、不規則にちらちら赤い光を放つ焚火と、テーブルに置いたランタンのみで、人々の表情はもはや見えない。

 

気をつけて歩かないと、誰かにぶつかりそうだった。

 

カイは手際よく、テーブルの上に並べられた焼き上がった食べ物を皿にのせていく。

 

カイはシヅクが座っている辺りを振り返った。

 

(チャンミンさんは今は、ここに居ないみたいだ。

よかった。

チャンミンさんには悪いけど、僕も頑張らせてもらいますよ)

 

チャンミンの視線の先には大抵、シヅクがいたこと。

 

恋愛を匂わせることを振ると、赤面したのを取り繕うように話題を変える様子。

 

近頃のチャンミンの挙動不審さに、カイは確信していた。

 

(シヅクさんの方は、どうなんだろう?

シヅクさんはいつも通りだ。

チャンミンさんは奥手そうだから、シヅクさんに振り向いてもらおうと積極的になることは出来ないだろう)

 

「お待たせしました」

 

カイはシヅクの隣に腰掛けると、山盛りにした皿を手渡した。

 

「うまそうな匂いだねぇ。

私が大食いってことを、よく分かってるね、さすがカイ君」

 

焚火から十数メートル離れたおかげで、シヅクの緊張は解け、膝に置いた皿から漂う美味しそうな香りにシヅクは笑顔になった。

 

(暗くてよかった。

シヅクさんを見て、ニヤついてる顔が見られなくて)

 

女友達は多いカイだったが、今現在は特定の彼女はいない。

 

(どの子も可愛いけれど、ピンとこない。

でも、シヅクさんは違う。

ガサツな風を装っているけれど、多分、繊細な人だ。

世話好きだけど、決してお節介ではない。

タキさんにフラれて大泣きしてた姿。

あの時だな、シヅクさんのことをほっとけない、と思ったのは。

でもなぁ...こんな心理、僕が姉ちゃんの世話を焼いてる時みたいじゃないか)

 

カイはカップの中身を流し込みながら、暗くていい幸いとばかりに、隣でもぐもぐと食べ物を頬張るシヅクを見つめていた。

 

(ファッションセンスも似てるし...僕の方はちょっとカラフル傾向だけど...僕たちはお似合いだと思うんだけどなぁ)

 

「お!

この芋はうまいねぇ」

 

「でしょ?」

 

「うん、うまい」

 

酔って陽気になったスタッフのひとりが、「落ち葉を追加しよう!」と言い出したようだ。

 

「もっと暗くできないの?」の声に、スタッフの一人が照明パネルの操作に走った。

 

ドームの照明は落とされ、非常口の緑の灯りだけになる。

 

焚火の炎ゆらめくムードを求めたのだ。

 

2人のスタッフが落ち葉の詰まった袋を逆さにして、思い切りよく焚火に追加した。

 

「あーっ!」

「いっぺんに入れたら駄目だよー」

 

落ち葉が蓋をして、火を消してしまったようだ。

 

「炭を入れたらどう?」

「そうしよう」

 

赤々とした炭を火ばさみで挟んで、くすぶる落ち葉の山に埋めた。

 

「じきに燃えてくるよ」

 

焚火の周りが騒がしくなっていく一方、シヅクの背筋に冷や汗がつーっと流れ落ちる。

 

(カイ君が側にいてくれて助かった。

鋭いカイ君のことだ。

私が火が怖いことに気付いたみたいだ。

あれこれ用事を作っては、焚火には近づかないようにしてたからなぁ)

 

「シヅクさん。

向こうでコーヒーでも飲みませんか?

ここじゃ、煙たいですし」

 

「いいね!」

 

カイは、立ち上がるシヅクの肘に手を添えてアシストする。

 

「ありがと」

 

シヅクの手から受け取った汚れた皿とカップを、カイは小走りでテーブルに戻しに行く。

 

焚火組は落ち葉の山を鉄棒でかき回していた。

 

シヅクたちが回廊に向けて歩き出した時。

 

カサカサに乾ききった落ち葉に、炭からの炎が燃え移った。

 

背後で悲鳴が上がる。

 

「!!」

 

振り向いたシヅクの視界に、めらめらっと1メートル近く立ち上がった真っ赤な炎が飛び込んだ。

 

 

「!!」

 

 

シヅクの目には何も映っていなかった。

 

 

脳裏には、四方八方炎に囲まれたシヅクがいた。

 

 

轟音。

 

 

息が...できない。

 

 

熱い。

 

 

押しつぶされて...。

 

 

カイは硬直したシヅクに気付いた 。

 

 

「シヅクさん?」

 

 

かくんと膝の力が抜けたのを認めるや否や、カイは両腕を伸ばす。

 

カイの腕の中で、シヅクの身体はぐったりと弛緩していた。

 

「シヅクさん!」

 

カイはぴたぴたとシヅクの頬を叩いてみる。

 

かすかに顔をしかめたから、意識はあるようだった。

 

(震えている...)

 

宴もたけなわなメンバーたちは、ここの様子に気付いていないらしい。

 

「シヅク...!」

 

会場に戻る途中だったミーナが、カイとシヅクの元へ駆け寄ってきた。

 

「やだ!

シヅク...どうしよう!」

 

シヅクの肩を揺すったり、額に手を当てたり、下まぶたを押し開いてみたりするミーナに、

 

「事務所に連れて行きましょう。

ここは暗いですし」

 

カイはシヅクの膝裏に腕を回すと抱き上げた。

 

(シヅクさんは...きっと、火が怖かったんだ。

しまったな...

僕が火の側に連れて行ったりなんかしたから...)

 

おろおろするミーナを後ろに従えて、カイは軽々抱き上げたシヅクを事務所まで運ぶ。

 

事務所は暖房がよく効いており、温かくて静かだ。

 

ソファにシヅクを横たえると、カイは傍らに片膝をついて座った。

 

「シヅクさん。

もう大丈夫ですよ」

 

 


 

 

~チャンミン~

 

 

「あの...すみません。

人違いをしているのではないでしょうか?」

 

この知らない女の人は、僕の胸に顔を押しつけて、背中に腕を回してしがみついている。

 

肩を抱くことも、無理やり引きはがすこともできずに、僕の両手はさっきから宙を上下している。

 

僕の顎のあたりに頭のてっぺんがきているから、女の人にしては背が高い方だろうか。

 

困ったなぁ...この人はもの凄い勘違いをしている。

 

全然知らない人だし、僕の名前は『マックス』じゃないし...。

 

この人が言う『マックス』という人物は、きっと僕に似た人なんだろう。

 

待てよ...。

 

僕の名前はどうして、チャンミンなんだろう?

 

どうして『チャンミン』は僕自身なんだと、認識しているのだろう?

 

ぐらりと視界が揺れた。

 

ダメだ。

 

自分探しは禁物だ。

 

ぶるっと頭を振って、遠のきそうな意識を取り戻した。

 

そして、僕の胸にしがみついたままの見知らぬ女の人を見下ろした。

 

物理的な接触には慣れていないし、苦手だ。

 

ただし、シヅクだけは別。

 

本当は突き放したかったけれど、まさかそんなことは出来ない。

 

だから僕は彼女の両肩をつかんで、僕の胸からゆっくりとひきはがした。

 

「あっ...」

 

びっくりした。

 

彼女は泣いていて、僕の行動が不満だったのか眉をひそめていた。

 

あらためて彼女の顔を見た。

 

目尻が切れ上がった目が大きい。

 

化粧が濃いせいで、年齢がわかりにくいが、多分20代後半か30代。

 

女性の年齢なんて見当がつかないけど、シヅクを基準にして推測してみた。

 

知らない人だ、と判断していたけど、どこかで見たことがある、と思った。

 

その発見に、僕は怖くなった。

 

僕が覚えていないだけで、この人とどこかで出会っていたのかもしれない。

 

僕は目をつむって、その記憶の欠片を探してみるが、見つからない。

 

「マックス...。

今までどうしてたの?」

 

「えっ!?」

 

「5年も行方をくらますなんて...。

私、あなたに何かあったんじゃないかって、ずっと...ずっと」

 

彼女はまた泣き始めた。

 

困ったな...。

 

彼女は僕の腕をぎゅっと握っている。

 

そこの部分だけ、彼女の体温で熱を帯びたみたいになって、僕の腕の筋肉がぴくぴくと痙攣している。

 

これ以上、彼女に触られたくない、と思った。

 

「どうしてたも何も...僕は『マックス』ではありません」

 

彼女は僕を見上げて、きっと睨みつけた。

 

「とぼけないでよ。

私がどんな想いをしていたのか...」

 

そんなこと...知らないよ。

 

「どなたかと間違えていませんか?

僕は、『マックス』ではありません。

僕の名前は...」

 

言いかけた僕の言葉に、鋭い彼女の声が覆い重なる。

 

「私たちのこと、何もなかったことにしたいんでしょ!?」

 

彼女はつかんだ僕の腕を揺するから、ニットが伸びてしまう、と顔をしかめた。

 

「だから!

僕は、『マックス』じゃありません!」

 

荒げた僕の声に、彼女はハッとしたように僕の腕から手を離し、僕は心底ほっとした。

 

しわくちゃになったニットの袖を撫でつけていると、彼女は僕から一歩下がってまじまじと僕を観察し始めた。

 

「本当に『マックス』じゃないの?

私のこと...覚えてない?」

 

「全然」

 

僕は彼女のまっすぐ視線を合わせて、ゆっくり首を振った。

 

目鼻立ちのくっきりとしていて、美人の部類に入るんじゃないかな...多分。

 

どこかで見たことがあるような気がしたけど、女の人はみんな似たり寄ったりの顔に見えるから、さっきの考えは恐らく勘違いだろう。

 

「じゃあ、僕は行かなくっちゃ」

 

「あっ...!」

 

飲み物を運ぶシヅクを手伝いに来たのに、こんなところで時間をつぶしてしまった。

 

踵を返す僕に、「待って...」と彼女が引き留めたけど、僕は無視して早歩きで先を急いだ。

 

「知らない」を貫いたのに、確かに「知らない」のに、とても後味が悪かった。

 

あの女の人に対して、不親切でぶっきらぼう過ぎたと自分の行いに後悔をしていた。

 

それからもう一つ。

 

実は僕が忘れてしまっただけで、ホンモノの昔の知り合いだったかもしれない可能性を、ちらっと考えてしまったからだ。

 

早くシヅクの顔が見たい。

 

安心したい。

 

エントランスからドームへ行くには、事務所の前を通らないといけない。

 

早歩きが小走りとなったとき、

 

「あれ...?」

 

事務所から人声がした。

 

戸は開け放たれていて、事務所の斜め奥に巨大なソファを置いた休憩コーナーがある。

 

ぼそぼそとした話し声はそこから聞こえてきて、ゴムの木が邪魔で誰がいるのかまでは分からない。

 

興味を失った僕は事務所に立ち入らないで、通り過ぎようとした。

 

「ありがとな、カイ君」

 

「!」

 

シヅクの声。

 

つんのめるように足を止めた僕は、気付けばゴムの木の向こうに駆けつけていた。

 

「チャンミンさん...」

 

2対の目が僕に注目していて、その片方の人物に僕の胸に不快感が広がった。

 

シズクはソファに足を伸ばして座っていて、二人の手の間にグラスがあった。

 

「何してる...?」

 

かすれた固い声だった。

 

シヅクは僕の登場に驚く風でもなく、僕をもっとムッとさせたのは、僕の問いに応えなかったこと。

 

青ざめたシヅクの顔色のことも、立ち尽くす僕を余裕ある表情で見るカイ君のことも、僕の目に入らなかった。

 

だらんと落とした両手はこぶしを握っていた。

 

この感覚は...休日の街角でこの2人を見かけた時や、ガーデンチェアに並んで座る2人と鉢合わせになった時と、同じだと思った。

 

ぎゅうっと胸が締め付けられて、呼吸が浅くなる、とても嫌な感覚だ。

 

かっと身体が熱い。

 

「シヅクさんに休んでもらっていただけですよ。

チャンミンさん...。

顔が怖いですよ」

 

カイ君の落ち着いた声に、僕は我に返る。

 

「っ...」

 

そうか、今の僕は怖い顔をしてるのか...。

 

ぷいと顔を背けた。

 

「水じゃなくて、温かいものの方がいいですか?」

 

シヅクは震えているのか、口をつけたグラスがカチカチと音をたてていた。

 

水攻めになったポンプ室での、凍えたシズクの姿が瞬間、思い浮かんだ。

 

僕の確かな記憶だ。

 

「どこか悪いのか?」

 

自分の不快感のことより、具合の悪そうなシヅクのことが気になってきた。

 

自分のことでいっぱいいっぱいな自分が、恥ずかしかった。

 

「...大丈夫、ちょっとビックリしただけだから...」

 

シヅクの声は囁くように小さくて、確かに具合が悪そうだった。

 

ソファの足元に膝まずいて、シヅクを覗き見た。

 

「大丈夫、か?」

 

「二人のメンズにかしずかれて、これは夢かね?」

 

「え?」

「あはははっ!」

 

きょとんとする僕と、弾けるように笑ったカイ君と、反応は正反対だった。

 

僕の背後で空気が動いて、振り向くとさっきの女の人がいた。

 

まさか、僕を追いかけて来たのか?

 

心中で顔をしかめた。

 

「姉ちゃん!」

 

「!?」

 

カイ君は立ち上がると、ゴムの木の前に立つ女の人に向かって言った。

 

「遅いよ。

パーティーはもうすぐ終わりそうだよ」

 

姉ちゃん...?

 

「そうだ!

紹介しないとね」

 

カイ君はシヅクと僕を交互に見ると、片手でその女の人を指し示した。

 

 

「この人は僕の姉、ユーキです」

 

 

 

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(59)TIME

 

~チャンミン~

あの夜。

 

帰宅した僕は真っ先にシャワーを浴びた。

 

シヅクの部屋を出て、火照った身体を覚ましたくて、タクシーは止めて氷点下の寒空の下、歩いて帰ることにしたのだ。

 

もんもんと頭の中で渦巻く想いを吹っ切りたくて、早歩きだったのが小走りになり、駆け足になり、マンション下に着くころには汗だくで息も切れそうだった。

 

脱いだコートを腕にひっかけ、エレベータで階数ランプを見上げている間、僕の鼓動は壊れそうに早い。

 

その理由は、走ったせいなのか、身体の奥底から湧き上がる妙な感情のせいなのか、わからなかった。

 

そんな訳のわからない心の嵐を吹っ切りたくて、冷水のシャワーを頭からかぶる。

 

下腹の底の、重ったるい感覚。

 

この感覚は、単なる生理現象で片付けられない。

 

『そういう気満々だろ?』とシヅクに言われて、理性を失くした自分の行為が恥ずかしくなった。

 

シヅクと間近で接すると、シヅクにもっと近づきたいという衝動に襲われるんだ。

 

『そういうこと』が、どういうことなのかは、知識として知っている。

 

うろ覚えの僕の過去をどれだけ頭を振り絞ってみても、全く身に覚えがないのだ。

 

だから、女性に対して『そういう感情』を抱くのはこれが初めてなんだろう。

 

顎がガチガチと震うまで全身を冷やしたのち、今度は火傷しそうなくらい熱いシャワーに切り替えた。

 

自身の肉体をいじめて、もんもんとした感覚を追い出したくて。

 

今までの僕は、こんな風じゃなかったのに。

 

体調の悪いシヅクに無理やりキスをしたり、ベッドに押しつけたり、一体何やってんだよ。

 

恥ずかしい限りだけど、あの時は沸き起こった欲求に突き動かされていて、気付いてたらそうしてた。

 

白く曇った鏡を片手で拭って、雫をしたたらせ上気した自分の顔を映してみる。

 

以前、シヅクが浴室に乱入してきた時も、こんな風に鏡に映った自分を子細に眺めていた。

 

普段から自分の顔をこうやって検分するように見ることはないし、自分の身体つきがどんなだかにも興味はない。

 

休日のルーティンにジム通いを組み込んでいるのは、身軽に健康でいたいだけのこと。

 

一瞬、視界が揺れたかと思うと、がくんと膝の力が抜けて、反射的に洗面ボウルをつかんだ手によって、崩れ落ちるのを免れた。

 

鏡の中の自分と目を合わせるのは、やっぱり危険だ。

 

鏡に映るこの顔が、自分のものなんだという実感が希薄なことを、思い知るからだ。

 

こめかみがずきずきとうずいてきた。

 

頭痛の前兆。

 

俯いていた頭を起こす時、足先から膝、太もも、下腹部へと目線を上げていく際に、僕の目に映る身体にさえも、違和感がある。

 

ドキドキするとか、嬉しいとか、いい匂いだなとか、柔らかいなとか...五感は確かに自分のものなのに、それを感じる僕の身体が、自分のものじゃない気がする。

 

僕はやっぱり、おかしい。

 

こんな風じゃなかったのに。

 

一人でいると、不安と困惑に襲われる。

 

シズクのベッドにもぐりこんで、背中にシヅクの体温を感じたかった。

 

 


 

 

この日は通常より2時間早く終業し、落ち葉焚きが開始された。

 

スタッフたちの家族や友人たちも参加し、アルコールもOKで、くだけたムードで皆が笑顔だった。

 

同僚のミーナは、目下アタック中だという男性を招待していた(外国語教室の講師なのだそう)。

 

シヅクは、セツとその夫Uを友人として呼んでいた。

 

セツにしてみたら、シヅクの担当であるチャンミンを観察する目的もあり、半分は仕事を兼ねている。

 

Uは彼女の元被験者で、小柄で線の細い、眼鏡をかけた大人しそうな男性だ。

 

キビキビとしたセツとは対照的だが、目配せだけで通じ合う信頼関係が二人の間で築かれているようだ。

 

セツはUの観察者を3年務めた。

 

エプロン姿のシヅクは、エントランスまでセツたちを出迎え、落ち葉焚き会場のドームまで案内した。

 

「差し入れです」

 

Uはアルコールのボトルを掲げてみせた。

 

シヅクに案内されて、セツは目がくらみそうに高いドームの天井を見上げ、感嘆の声を漏らす。

 

「ねぇ、シヅク、大丈夫なの?」

 

「大丈夫?って何が?」

 

「焚火、っていったら、火だよ?

あの子...平気なの?」

 

セツの質問に、シヅクは肩をすくめる。

 

「さあ、分かんない。

もしかしたら、フラッシュバックして意識失うかもしれないから、それに備えてセツを呼んだわけさ。

チャンミンに『参加したら駄目』なんて言えないよ。

まさか、こんなイベントがあるとは思わなかった」

 

「強い刺激も、かえっていいかもしれないわね。

反応が一気に進めば、お目付け役もいらなくなるから。

...シヅク、複雑でしょ?」

 

「うん」

 

(嬉しい反面、寂しいってのは確かだ。

チャンミンの担当を外れたら、もう近くにはいられない)

 

ドームの中央に築かれた落ち葉の山から、白い煙がドームの天井にむかって立ち昇っている。

 

「ホントに燃やしてるんだ!

すごい!」

 

数十人の人々が、火の回りを囲んで立ったり、座ったり、食べたり飲んだりして、談笑している。

 

照明を落としたドーム内で、焚火のオレンジ色の灯りが揺れている。

 

この世はコンクリートと合成樹脂で覆われ、緑にも土に触れられず、すべてが人工的で整然としている。

 

生の野菜といったら、カットされ真空パックされたものくらいで、収穫されたての丸ごと野菜の実物に触れる機会もない。

 

くすぶる落ち葉の中には、アルミホイルに包んだ野菜が埋められている。

 

植栽担当のチャンミンたちが丹精込めて育てた野菜だ。

 

落ち葉の焚火の隣には、タキが半日かけて熾した炭が真っ赤になっている。

 

「お!いたいた」

 

シヅクは輪になった参加者たちの一番後ろで、焼きトウモロコシを齧るチャンミンを見つけた。

 

何事もなく呑気そうな様子に安堵したシヅクは、「チャンミン!」と呼んだ。

 

地面に直接腰を下ろしたチャンミンは、食事する手を止めてシヅクたちを見る。

 

「このでかい男は同僚のチャンミン。

で、こちらは私の友達、セツ」

 

「どうも」

 

立ち上がったチャンミンはお尻についた土を払うと、セツに頭を下げた。

 

「こんばんは。

シヅクがお世話になっています」

 

チャンミンの顔は既に見知っていたが、セツは初対面のように振舞った。

 

「え...っと...」

 

チャンミンは友人を紹介された際、自己紹介の後の会話が思いつかない。

 

食べかけのトウモロコシのやり場に困って、シヅクをちらちら見て彼女からのフォローを求める。

 

所在なさそうなチャンミンに、シヅクはぐるりと会場を見渡して、

 

「お!

酒が足らんみたいだな。

追加せんとな」

 

「じゃあ、僕が...」

 

「私が行くから、あんたはここで腹いっぱい食べてなさい。

じゃあな、チャンミン」

 

そう言い終えると、先ほどから脇をつつくセツを連れて回廊に向けて歩いて行ってしまった。

 

(なんだよ...)

 

沢山の人に囲まれて、居心地の悪い思いをしていたチャンミンだった。

 

このイベントに呼べる友人もいなかった。

 

(そうなんだ。

僕には友達が、いない。

他人に全く興味のなかった僕だったから、それは仕方がない。

大勢の中で一人でいるのは平気なのに、シヅクが側にいないのは寂しい)

 

隣にシヅクが座ってくれるものと期待していただけに、がっかりしたチャンミンは再び地面に腰を下ろした。

 

 

「チャンミンって子...あんな顔してたっけ?」

 

シヅクとセツは回廊のベンチに腰掛けて、賑わう落ち葉焚きパーティを眺める。

 

セツの夫Uは、数人の参加者に囲まれ会話を楽しんでいるようだ。

 

大人しそうに見えて、実際は社交的な性格だという。

 

「むすーっとしてたのが嘘みたい。

シヅクが惚れても仕方がないわねぇ

シヅクを頼る顔しちゃって」

 

「そうだね」

 

辺りは暗く、焚火が作る炎とテーブルに置かれたランタンの灯りだけでは、参加者たちは黒いシルエットにしか見えない。

 

(これまで視界にすら入っていなかった周囲の人間に、意識が向きだした頃だ。

いろんなことが不安に感じ出しただろうな。

ずぶ濡れの子犬みたいな目をしちゃって、さ。

あとで、近くに行ってあげよう)

 

「ゆっくりしていってよ」

 

シヅクはセツの肩を叩くと、配達されたアルコール類を受け取りに裏口へ向かった。

 

 

「よっこらしょ」

 

カートに乗せようとしていたコンテナがふっと軽くなり、顔を上げるとカイがいた。

 

「ありがと」

 

カイは「どういたしまして」とにっこりと笑った。

 

カートを押すカイの口元に、農作業用のゴム引きのエプロンを付けたままのシヅクを見て微笑を浮かべた。

 

「完全防備ですね」

 

「ああ!

外すの忘れてた」

 

「シヅクさんは誰を招待しましたか?

...彼氏、とか?」

 

「えっ!」

 

シヅクはカイの言葉に素っ頓狂な声を上げてしまった。

 

「まっさか!

友達とその旦那さんだよ」

 

「ふうん...」

 

シヅクの反応に、カイは疑わしそうな目線を送る。

 

(危ない、危ない。

彼氏なんかいないって、言いそうになった。

ホントはいるけど、相手はチャンミンです、なんて暴露したら「いつの間に?」って質問攻めにあって、今はちょっと面倒だ)

 

「カイ君は誰を呼んだの?」

 

「姉です。

遅れてくるって言ってたから...もう少ししたら来ると思いますが...」

 

「へぇ、見てみたい!」

 

「紹介しますね」

 


 

膝上に組んだ腕に顎をのせて、チャンミンは赤々とした炭をぼぉっと眺めていた。

 

一人でいるのを好むことを知っているスタッフたちは、出来上がった料理をチャンミンの元へ運んでくる以外は、無理に会話の輪に引き込むことはしない。

 

次々と皿の上にのせられる、蒸し焼きにしたサツマイモや、ソーセージ、魚のホイル焼き、炙ってとろとろに溶けたマシュマロなどを、チャンミンは順に胃袋におさめていった。

 

お腹は満たされた。

 

アルコールは頭痛を誘発しそうだったため、ミネラルウォーターを飲んでいた。

 

「はぁ...」

 

チャンミンはシヅクが隣に座るのを、待っていた。

 

甘いもの好きのシヅクのために、余分にもらったマシュマロも、皿の上で冷めてしまっている。

 

つまらない、と思った。

 

(僕を一人にするなんて...)

 

シヅクから不当な扱いを受けていると拗ねるチャンミンだが、職場にいる間は彼女の顔をまともに見られない。

 

いつまでも戻ってこないシヅクに業を煮やして、すっくと立ちあがった。

 

(アルコールを持ちに行く、と言っていた。

重くて運ぶのに苦労しているかもしれない。

僕ときたら、気が利かないんだから)

 

「チャンミン!」

 

スタッフの一人に声をかけられ、チャンミンは回廊に向かおうとした足を止めた。

 

「行ったついでに、ビールの追加を頼めるかな?」

 

チャンミンはこくりと頷いた後、事務棟へ駆けて行った。

 

(ビール、ってどこにあるんだ?)

 

火熾し担当だったチャンミンは、大量に用意されているはずのドリンクの場所が分からない。

 

事務所の冷蔵庫を開け、保管庫の冷蔵室も覗いてみたが見つからない。

 

追加のものが配達されたままになっているかもしれないと、エントランスを確認しに行ったが、やっぱりない。

 

「おかしいなぁ」

 

(シヅクはどこに取りに行ったんだろう?

裏口の方かな)

 

裏口はドームを挟んで事務棟の反対側にある。

 

チャンミンがドームへ引き返そうとしたとき、

 

 

 

「マックス!」

 

悲鳴に近い、鋭い女性の声に、チャンミンは振り返った。

 

エントランスのドアの前で、一人の女性が両手で口を覆って立ち尽くしていた。

 

「?」

 

チャンミンは背後を振り向いたが、エントランスには自分以外の者はいない。

 

「マックス...」

 

背の高いスリムな女性だった。

 

「あの...人違いじゃ...?」

 

大きく見開いた目尻が切れ上がった目は真剣だった。

 

「嘘でしょ...

マックス...」

 

「あの...マックス...って?

僕は...違います」

 

チャンミンがそう言い終える前に、その女性は体当たりする勢いでチャンミンにしがみついてきた。

 

「!」

 

「マックス...」

 

「あの...」

 

彼女はチャンミンの胸に顔を押しつけ、彼の背中に巻き付けた腕に力を込めた。

 

「違います...僕は...」

 

頭の中にクエスチョンマークが飛び交っている。

 

(この女の人は誰だよ?

誰だよ、マックスって?

全然、意味が分からない...)

 

「どこにいたのよ...。

死んじゃったのかと思ってたのよ...」

 

「!」

 

見知らぬ女性に抱き着かれたチャンミンは、突き放すこともできず、両腕を宙に浮かせた状態で、されるがままでいるしかなかった。

 

 

 

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(58)TIME

 

「チャンミンさんは初めてでしたよね?」

 

小型フォークリフトをリモコンで操作しながら、カイは背後で作業をするチャンミンを振り返った。

 

「ああ。

僕はここに来て、1年経ったばかりだから」

 

外は真冬の風が吹きすさぶのに、ドームの中は温められた空気でジャケットなしでも平気だった。

 

(1年前のことすら僕はほとんど覚えていない。

『心配するな』とシヅクは言うけれど、

色鮮やかに記憶している今を思うと、それ以前の僕は濃い霧の中で彷徨っていたかのようで...。

このギャップに怖くなる)

 

「ビニールを剥いでください」

 

カイから手渡されたカッターナイフでシートを切り裂くと、圧縮されていた枯れ草が飛び出した。

 

植物園ではあるイベント開催のため、この1週間浮ついた空気が流れていた。

 

年に一度の恒例イベント『落ち葉焚き』だ。

 

火気厳禁のドームだったがこの日だけは特別で、防火対策を万全にした上で焚火をするのだ。

 

スタッフの家族や友人も招待して、焚火料理を振舞って飲み食いを楽しむ。

 

炎を見る機会が皆無の世の中だから、赤い炎、ものが焼ける音、灰色の煙、燃焼する様を眺められるこのイベントを、皆心待ちにしている。

 

日頃のメンテナンスで大量に出る枯れ葉や枯れ枝の処分は、専門業者に任せているが、『落ち葉焚き』イベントのために1部はよけておく。

 

チャンミンとカイは、ドーム中央辺りの収穫を終えた畑に落ち葉の山を作る役目だった。

 

チャンミンは知らず知らずのうちに、シヅクを目で追っていた。

 

「チャンミンさん、そんなに楽しみなんですか?」

 

「えっ!?」

 

カイはフォークの持つ手に顎を預けて、動揺するチャンミンを面白そうに見ている。

 

「さっきから心ここにあらず、って感じです」

 

「そうかな...」

 

カイの指摘が図星だったチャンミンは、くるりと背中を向けて作業に没頭するふりをした。

 

(最近のチャンミンさんは、全くもって変ですよ)

 

先ほどのチャンミンの視線の先...回廊をミーナと並んで歩くシヅクの姿を認めたカイは、おや、と眉を上げた。

 

 


 

 

『あの夜』の翌日。

 

熱の下がらないシヅクを案じたチャンミンは、「医者なんぞ絶対に行かん!」と駄々をこねるシヅクを無理やり、文字通り引きずるようにして病院に連れて行った。

 

診察室から出てきたシヅクの不貞腐れた顔を見て、連絡もせず仕事をサボっていたことにチャンミンははじめて気付いた。

 

この1年間、何の疑いも抱かずオートマチックに自宅と職場を往復していたチャンミンだったから、この日の自分の行動に大いにうろたえた。

 

(前日の「好き」とか「キス」とか、「好き」とか「キス」とか...。

僕の頭はこのことでいっぱいだ)

 

タクシーの後部座席に並んで座るシヅクのくしゃくしゃ髪の後頭部。

 

チャンミンは片腕を伸ばしてシヅクの肩にかけると、ぐいっと自分の方へ引き寄せた。

 

シヅクの頭がことんと肩に落ちた。

 

視線を落とすとチャンミンのとっさの行動に目を丸くしたシヅクと目が合った。

 

熱のせいで目尻の縁が赤く、シヅクの茶色い瞳はやっぱり熱のせいでうるんでいた。

 

蛍光灯が一つだけだったボイラー室や、間接照明だけのシヅクの部屋ではぼんやりとしていたから、

こうして昼間の陽光の元で見るシヅクに、チャンミンは「これまで彼女のどこを見ていたのだろう」、「視界に入っていたのに、見ようとしていなかった」自分にあらためて気づかされたのだった。

 

「ちゃんと寝てろよ」

 

シヅクがベッドに横になったのを確認してから、チャンミンは出勤していった。

 

仕事を終えると真っ先にシヅクの部屋へ戻る。

 

食料品や日用品を買い込んだ袋を抱えて。

 

ベッドを抜け出してタブレットを操作しているシヅクに、チャンミンはシヅクを怒鳴りつけてしまった。

 

「駄目じゃないか!」

 

大きな声を出すチャンミンに、シヅクは「うるさいなぁ」ってわざとらしく両耳を押さえてベッドに戻る。

 

「なんだか調子が狂うなぁ...」

 

買ってきたものを冷蔵庫にしまうチャンミンの背中を、肩肘をついて眺めていたシヅクはつぶやいた。

 

「え?」

 

「チャンミンに世話をされるなんて......ムカつく」

 

「ムカつく、ってどういう意味だよ!?」

 

「世話をするのは私の方、って感じだったから」

 

「なんだよ、それ」

 

レンジで温めたスープを手に、チャンミンはシヅクの枕元に座った。

 

「チャンミンのくせに生意気だ、って意味じゃないからね。

うーん...なんていうのかなぁ...うん、そうだ!

こんな風に優しくされることに慣れていないんだな、きっと」

 

シヅクの言葉に、チャンミンは考え込んでしまった。

 

自分の行為のどこが「優しい」ことなのか、判断基準が分からなかったからだ。

 

(僕はしたいと思ったことをしているだけなんだけど...。

もし、的外れなことをしちゃって迷惑をかけているんだとしたら、どうしようか)

 

「ありがとうな」

 

そう言って、シヅクの視線はカップを持つチャンミンの手に落とされる。

 

(まじまじとチャンミンの手をみるのは初めてかも。

神経質そうな指先が、チャンミンらしい)

 

視線を袖口に転じると、毛玉ひとつない黒のニットから覗かせたシャツが真っ白でチャンミンらしい、と思った。

 

「ありがとうって、お礼を言われるようなことしたっけ?」

 

「いっぱいしてもらったよ。

挙げだしたらキリがないけどな、はははっ」

 

(チャンミンの言うこと、することは全部、見返りを求めていない純粋な気持ちからきていることは分かっているよ。

根が優しいんだ。

感動するよぉ...)

 

チャンミンは湯気がたつカップの中身を、スプーンですくってふうふう息を吹きかけた。

 

「口開けて」

 

口元に突き出されたスプーンに、ムッとしたシヅクはチャンミンを睨みつける。

 

「子供扱いするな!

汁なんぞ、一人で飲める!」

 

「病人の看病は、こうやるものなんだって。

ほら、口を開けて」

 

「ったく」

 

よく冷ましたコンソメスープを大きく開けたシヅクの口に、ゆっくりと流し込んだ。

 

スプーンに触れる柔らかそうなシヅクの唇に、チャンミンの喉はごくりと鳴る。

 

気付けばチャンミンは、斜めに傾けた顔を寄せシヅクの唇を塞いでいた。

 

「チャ...」

 

スプーンがチャンミンの手からこぼれ落ちて、床に転がった。

 

「待て...」

 

シヅクは口づけたままチャンミンの手からカップを取り上げると、手探りでサイドテーブルに置いた。

 

チャンミンは、両手でシヅクの頬をすっぽりと包んでキスに夢中になっている。

 

(おいおい)

 

間近に迫るチャンミンの閉じたまぶたとまつ毛を観察してしまうシヅク。

 

(病人相手に...何するんだ)

 

とまどうシヅクの唇をこじ開けて、チャンミンの舌が侵入してきた。

 

「んっ」

 

(この坊やは...なかなかどうして...積極的で...強引で... 。

ん?

ん?

おいおいおいおい。

どこでこんなキス覚えたんだよ!

上手すぎるだろ!)

 

頭の芯が痺れそうになったシヅクは、ぐいぐい攻めてくるチャンミンの舌を押し戻す。

 

(待て待て...これ以上は...)

 

チャンミンは体重をかけると、シヅクを仰向けに押し倒した。

 

「待てったら!」

 

シヅクはチャンミンの両頬を挟んで引き離した。

 

「病人を押し倒してどうすんだよ?」

 

「あ...!」

 

「ちゃんと寝てろって言うけどさ、「寝る」の意味が違うんじゃないかね?」

 

「......」

 

片手で口を覆うと、チャンミンの顔が真っ赤になった。

 

「ごめん...そういうつもりじゃ...」

 

「そういうつもり満々じゃないかよ?」

 

「いや...その...僕はそういうつもりは全然なくて...」

 

(これ以上責めたら、チャンミンが可哀想だ)

 

シヅクはしどろもどろのチャンミンを睨みつけていたが、きっぱり言い放つ。

 

「もう帰れ」

 

「え!?」

 

きょとんとしているチャンミンに、シヅクは目を見開く。

 

「今夜も泊まっていくつもりだったわけ?」

 

「え...そのつもりだったんだけど...?」

 

(やっぱり)

 

「あかんあかん!」

 

「どうして?」

 

「私はもう、一人で大丈夫だから。

看病は十分だ、お腹いっぱい、ありがとな。

ってことで...帰れ」

 

「いや...でも、シヅクをお風呂に入れないと...

髪の毛べたべただろ?」

 

「嘘っ!?

臭い?」

 

シヅクはくんくんと自分を嗅ぐ。

 

(待て...風呂に入れる...だと?)

 

「チャンミン!

あんた、私を裸にしたいのか?」

 

「!!」

 

「私の見事なボディを見たら、おさまりがつかなくなるでしょ?

ヌードは近いうちに見せてやるから。

今夜は早くお帰り。

子供の寝る時間だよ?」

 

壁にかけた時計を指さす。

 

「!」

 

「...おやすみ」

 

耳まで真っ赤にしたチャンミンが玄関ドアの向こうに消えて、シヅクは大きく息を吐いた。

 

(キャラクターが安定していないせいか、こっちの方が振り回されてるよ、全く)

 

 


 

 

翌日、事務所で顔を合わせた二人は、滑稽なほどぎょっとし合った。

「お!

チャンミン君、顔を赤くして初々しいのぅ」

 

照れ臭くて仕方がないシヅクは誤魔化すようにバシっと、チャンミンの背中を叩く。

 

「違っ!

寒いところから暖かい部屋に入ったから、それで顔が赤くなって...」

 

もごもごと言い訳をするチャンミン。

 

「着がえなくちゃ!」

 

両耳を赤くして、ロッカールームへ早歩きで向かうチャンミンの後ろ姿をシヅクは見送った。

 

(私はこの背中にくっついて寝ていたんだな...。

何なのこのトキメキは...恋だねぇ)

 

 


 

 

「...報告書にある通り、被験者186番は順応度が高まってきていると思われます」

 

60代の白衣の男性の前で、シヅクは直立不動になってそう報告を終えた。

 

その男性は手元のディスプレイを睨んだまま、たっぷり1分近くも無言でいた。

 

「エス所長?」

 

シヅクに声をかけられ、はっとしたようにエス所長は顔を上げると口元を緩め、

 

「失礼。

予想以上に早くて驚いていたんだ」

 

「やはり、相性がよかったからでしょうね」

 

この部屋には、シヅクを含め十数人の男女がひとつのテーブルを囲んでいた。

 

同じテーブルについた白衣の40代男性が、

 

「あの時の高熱は、順応しかけた兆しだったのでしょうね。

頭痛、発熱、痙攣、一時的な意識混濁...過去の事例も多くは、体調の急変です」

 

大型ディスプレイに顔写真を幾枚も並べて見せる。

 

「シヅク君があの場に居合わせて、M大学病院に運んでくれたおかげだ」

 

白衣の40代男性...チャンミンを急患で診た医師は、立ったままのシヅクに座るよう促した。

 

「半年前から、頭痛に悩まされていました。

彼の場合、他人への無関心さが特に目立っていましたので、受診のきっかけ作りに苦慮していたのです」

 

「186番については、しばらくの間順応の具合を観察しよう。

稀に見るペースですから、慎重に進めないと」

 

「しばらく、とは、どれくらいの間でしょうか?」

 

シヅクはおずおずと尋ねる。

 

「彼の場合はまるで読めない」

 

「怖いのは感情の暴走ですね。

彼は薬の服用は続けているようですか?」

 

「はい」

 

チャンミンの自宅で、さりげなく確認した薬のボトルの中身が減っていたことを思い浮かべながら返事をした。

 

(ごめん、チャンミン。

あんたが服んでる薬は、ただの頭痛薬じゃないんだよ。

処方箋も薬のラベルも全部デタラメなんだよ)

 

「シヅク君はこれからも彼の観察を続けるように。

慎重を要する時期にさしかかっているから、より注意深く。

君からの報告をもとに、ここへ戻すタイミングを判断する」

 

「はい」

 

「それでは、次の被験者についての報告は?」

 

(よかった...。

これでもうしばらくチャンミンの側にいられる。

 

でも、

お役目御免になったら、次の任務では遠方に行かなければならなくなるかもしれない。

 

この仕事を続けている限り転勤族だし、被験者にべったりと張り付くことになるから、誰かと交際するのは難しい。

 

かつての被験者と結婚したセツは賢い。

以前担当していた被験者はほんの子供だったから、恋に落ちることはなかった。

 

恋愛感情は心を呼び覚ましやすい理由から、大抵は異性を担当する)

 

地下奥深くから高速で上昇するエレベーターで、シヅクはため息をついた。

 

地上に戻ったシヅクは、エントランスホールに飾られた巨大な絵画を見上げる。

 

額に角を生やした白い馬に跨るのは、長い黒髪をたなびかせた目鼻立ちのくっきりとした女性。

 

右下の隅に『Changmin』とサインがある。

 

これを目にするたび、シヅクの胸はしくしくと痛むのだった。

 

 

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(57)TIME

 

「...となると」

 

(これからの私らは、どうなるんだ?

『付き合う』ことになるのか?

チャンミンには、『私らはこれから恋人同士になるんだからな』って宣言してやらないと。

教えてやらないとな。

あいつは誰かと深い関係を持つこと自体が初めてだから)

 

トイレの便座に腰掛けたシヅクがくすくす笑っていると、ドアがノックされた。

 

「シヅク?

大丈夫?」

 

「大丈夫!」

 

(チャンミンには友人もいない。

ひとりぼっちなんだよな)

 

「うーん...」

 

自宅と職場の間を往復するだけのチャンミンの毎日を知っているシヅクの胸が切なくなった。

 

チャンミンの休日を追ったシヅクは、どの日であろうと半日をジムで過ごした後、食料や日用品を買い物しただけのチャンミンを確認しただけだった。

 

(チャンミンの心は今、私に向かって開かれている。

彼のことを大事にしてやらんとなぁ)

 

一方、部屋とトイレのドア前を何度も行ったり来たりうろうろしていたチャンミンは、シヅクがなかなか自分を呼ばないことを心配し出してきた。

 

(倒れているんじゃないだろうな。

起き上がろうとしたらふらつくくらい熱も高かった!)

 

ドアの前で耳をそばたててみると、「うーん」とうなる声がするだけでその他の物音がしない。

 

(呻いているのか!?

大変だ!)

 

「シヅク!!」

 

チャンミンは鋭くドアをノックする。

 

「大丈夫か!?

開けるよ!」

 

シヅクの返事を待たずにチャンミンはドアを開けた。

 

「あっ!

こら!」

 

「シヅク...」

 

便座に腰掛けたシヅクを前にチャンミンは、ほっと息をつく。

 

「よかった...」

 

「あのなー、レディの用足し中を覗くなんて!

私がパンツを下ろしてたらどうすんだよ!?」

 

「10分も出てこなかったら、心配するだろう?

倒れてたらマズイと思ったんだよ」

 

シヅクの指摘に顔を赤くしたチャンミンは、シヅクを睨みつける。

 

「もう済んだ?」

 

「う、うん」

 

シヅクの背中とひざ下に腕を回して、チャンミンはシヅクを抱え上げた。

 

「下ろせ!」

 

「うるさい」

 

(トイレの往復にお姫様抱っこだなんて、恥ずかしい!)

 

「歩けるってば!」

 

「その足じゃ無理だろう?」

 

「う...」

 

シヅクをベッドに寝かすと、チャンミンもシヅクの隣に横になった。

 

(おいおい、一緒に寝るつもりか?)

 

さも当然かのように行動するチャンミンの行動に、シヅクはぎょっとしつつも新鮮な気持ちになる。

 

(そうだった。

チャンミンはちょっとズレてる君、だった)

 

「朝までここに居ても、いい?」

 

「え...?」

 

「欲しいものや、やって欲しいことがあったら、いつでも僕を起こしてよ」

 

鼻先までかぶった布団の端から、チャンミンの丸い両目がシヅクをまっすぐに見つめていた。

 

「よしよし」

 

思わずシヅクは手を伸ばして、チャンミンの頭をくしゃくしゃにする。

 

「子供扱いするのは止めて欲しい」

 

「あははは」

 

(この子を大事にしてやろう。

チャンミンの気持ちを、しかと受け止めよう)

 

「ねえ、シヅク」

 

「何?」

 

「シヅクの足のこと...教えてくれるかな?」

 

「は?」

 

「シヅクのことをいっぱい知りたいんだ。

僕に教えて?」

 

(他人に無関心なチャンミンが、私のことを知りたいだって。

感動する...)

 

「なんで?」

 

「シヅクのことが好きだからに決まってるだろう?」

 

「......」

 

(ストレート過ぎる。

へぇ、チャンミンの本来のキャラって、こんな風なんだ)

 

「大したことないよ。

怪我をしただけ」

 

チャンミンはじぃっと、言い渋るシヅクを真剣な顔で見つめている。

 

詳しい話を聞くまで絶対に目を反らさない意気が、びしびしとシヅクに伝わってくる。

 

(そうだよなぁ、チャンミンは何も知らないんだよなぁ。

話したって構わないよね。

適当なことを言ってあしらうわけにもいかない)

 

「子供の頃、事故に遭ったんだ」

 

チャンミンの気迫ある眼差しに負けてシヅクは、語り始めた。

 

「どんな事故?」

 

「列車事故だよ。

脱線して横倒しになって、炎上して...酷かったよ」

 

「......」

 

「その時に、足をやられたわけ。

命が助かっただけでも幸運だった」

 

「怖かった?」

 

「当ったり前だろうが」

 

「そうだよね、ごめん」

 

「気付かなかっただろ?

最近の義足はよく出来てるわけ。

ヒールの高い靴は辛いけどね」

 

「気付いてやれなくて、ごめん。

水に浸かって...冷たかっただろ?」

 

「あんたに気付いてもらおうなんて、これっぽっちも考えてなかったし、ずっと言うつもりもなかったし」

 

「ひどいな」

 

「日常生活で特に困ってることはないし、20年も近く前のことだし、トラウマでどうこうってことはない。

...これで、私の昔話はおしまい」

 

そう締めくくったシヅクは、寝返りを打ってチャンミンに背を向けた。

 

「もう寝よう。

おしゃべりするのは、ちとキツイ」

 

背後からチャンミンの手が伸びて、シヅクの額に当てられた。

 

「薬が効いてきたのかな。

さっきよりは下がったみたいだね。

もっと冷やした方がいい。

氷を買ってくるよ」

 

チャンミンはベッドを抜け出して立ち上がった。

 

「...チャンミンの方は、頭痛は大丈夫か?」

 

「え?」

 

「大丈夫か?」

 

シヅクの質問に、チャンミンはすっかり氷が溶けてしまった洗面器を両手で抱きしめる。

 

「ねぇ、シヅク」

 

「ん?」

 

「タンクの上で、僕が言いかけていたことなんだけど...」

 

「うん」

 

「ひとつは、シヅクのことが好きだって言いたかったみたいなんだ。

あの時は、うまく言葉にできなかった」

 

「うん」

 

「もうひとつは...僕の悩みというか。

僕には相談できる人いないからね。

シヅクしかいないんだ...だから、話してしまうけど」

 

(そうだよ。

そのために、私はチャンミンの側にいたんだよ)

 

チャンミンが自分に話そうとする内容が、なんとなく予想がついたシヅクは身を固くする。

 

「シヅクが足のことを教えてくれただろ?

子供の頃のこと」

 

「うん」

 

「それから、シヅクのことを知りたいって、言っただろ?」

 

「うん」

 

「僕も、自分のことをシヅクに教えてあげたいんだ。

シヅクはどう思っているかは分かんないけど、さ」

 

「......」

 

「思い出せないんだ。

子供の頃だけじゃなく、つい数年前...いや、1年前のことすら思い出せない。

まるで僕には過去がないみたいなんだ」

 

「...うん」

 

「頭が痛いのも、脳に何か腫瘍があるのではと疑った。

でも、検査では異常はないし、処方された薬も調べてみた限りでは特別なものじゃなかった。

何かを思い出そうとすると、ひどい頭痛に襲われるのは事実で...」

 

「そうか...」

 

「もっと詳しい検査をすれば原因はわかるかもしれない。

多分、僕の頭は何かしら問題を抱えているのは、確かなんだ。

ねえ、シヅク。

笑わないでくれよ。

...僕は少しずつ忘れていっているんだと思う」

 

「チャンミン!」

 

シヅクはがばっと起き上がり、瞬間ぐらりとふらついて駆け寄るチャンミンに支えられた。

 

「寝てなくちゃ、駄目だよ」

 

「忘れていっているなんて、そんなんじゃないって」

 

「どうしてシヅクに分かるんだよ?

僕が鮮明に覚えていることといえば、ついこの間以降なんだ。

シヅクと話をするようになってからのことだよ。

あとはうすぼんやりとしている。

 

思い出そうとすると、ずきずきと頭痛がする。

だから、思い出すことは避けているんだ。

おかしいだろ?」

 

「そっか...。

それは辛いね」

 

シヅクはチャンミンの頭をくしゃくしゃと撫ぜたが、チャンミンは「子供扱いするな」とシヅクの手を払いのけなかった。

 

「検査で異常なしなら、急を要するような事態にはなっていないって。

精神的なものかもしれないし、な?」

 

シヅクの肩に額をあずけたチャンミンの頭を、シヅクは撫ぜ続けた。

 

「よしよし。

私も調べてみるから。

あまり思い煩うなよ。

しばらく様子をみようよ。

私に話してくれて、ありがとうな」

 

シヅクはじっとしているチャンミンを覗き込む。

 

「もう寝ようではないか?

遭難しかけたからな、私たちは」

 

シヅクはベッドに横たわり、腰掛けたままのチャンミンの手を引っ張った。

 

「チャンミンも、ねんねしなさい」

 

「子供扱いするな」

 

「私のおっぱいを触っていいからさ」

 

「!」

 

チャンミンの視線が瞬時に、シヅクの胸元に移る。

 

「冗談に決まってるだろうが?」

 

「僕をからかうなって」

 

と不貞腐れながらも、チャンミンはシヅクの隣にもぐり込む。

 

「知ってるか?」

 

「何を?」

 

「私たちは、『恋人同士』なんだぞ?」

 

「!」

 

(やっぱり、無自覚だった)

 

「『私はあなたが好き』『僕もあなたが好き』...で終わりなのか?

それでいいのか?」

 

「......」

 

「恋人同士なら、互いの想いや体験を共有し合っていくものなんだ。

昔のことを思い出せなくたっていいじゃないか。

これから思い出を作っていけばいいじゃん。。。あれ、私ってばクサいこと言ってるな、ははは」

 

「そっか!」

 

「それにさ、私らは『恋人同士』になったんだから、一緒の布団で寝るものなの」

 

「うっ...」

 

「今夜の私は、具合が悪すぎるから、アレは出来ん」

 

「うっ...」

 

(一応、知識としては知っていたか...。

どうしてもチャンミンをからかってしまう)

 

「おっぱい触るくらいなら、いいけどな」

 

「シヅク!」

 

「ごめんごめん。

じゃあ、手を繋ごうか?」

 

「うん」

 

間もなくチャンミンのまぶたは閉じたままになった。

 

(やれやれ。

看病する側が先に寝てどうするんだよ)

 

ベッドサイドに置かれた冷却シートを貼りかえながら、シヅクは熱い息を吐いた。

 

 

(こういうとこが、チャンミンらしいんだけどね)

 

TIME第2章終わり

 

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