【短編】MOMO★

 

「もう疲れた」

 

別れよう、とチャンミンは言った。

 

そして、「ごめん」と謝った。

 

「え...?」

 

私は絶句する。

 

チャンミンは一体、いつから別れの言葉を口にする機会をうかがっていたの?

 

一週間前?

 

一か月前?

 

全然気が付かなかった。

 

チャンミンが別離を考えていた側で、私は呑気に次の休みの計画をたてていたのだ。

 

あっさりうなずけない。

 

だって4年だよ?

 

「嫌だ」とはっきり口にした。

 

「私はチャンミンのことが好きなのに」

「嫌なところがあれば直すから」

「別れるなんて言わないで」と懇願した。

 

けれど、無駄だった。

 

男の人が下した決意は、冷静な熟考の末の答えだ。

 

チャンミンは情にほだされて決定をひるがえすような人じゃないことは、私がよくわかっているのに。

 

チャンミンと暮らした部屋に、私一人残された。

 

チャンミンのいない生活なんて想像できない。

 

息の根が止まるほど私は苦しんだ。

 

耐えきれなくて、声が聴きたくてチャンミンの携帯電話を鳴らしてしまう。

 

「どうした?」って電話に出るから余計に私は苦しい。

 

言葉が出なくて黙りこくってしまうと、聞きなれた声で「ごめん」と謝るのだ。

 

「ごめん、本当にごめん」って。

 

もう私は、チャンミンの「彼女」じゃない。

 

20代前半の失恋とは、わけが違うのだ。

 

チャンミンとの思い出と気配を残した部屋に住み続けた。

 

かすかな期待もあった。

 

いつか彼が、ふらっと戻ってきてくれるかもしれない、と。

 

どれだけ待とうと、彼は戻ってこないことはわかっているくせに。

 

チャンミンの性格を知っているくせに。

 

意地もあった。

 

敢えて苦しい状況に身を置いて、歯を食いしばって生きるのだ。

 

負けるもんか。

 

「時間が解決するよ」こそ、当人にしてみたら救いのない励ましの言葉だと、友人たちの失恋を慰めてきた自分を蹴り飛ばしたくなる。

 

仕事は1日しか休まなかった。

 

今まで通りの生活スタイルを崩さず、この辛さをやり過ごすのだ。

 

1日1日を刻むように。

 

心の中では、たった1つの願い。

 

どうかお願い。

 

チャンミン、戻ってきて。

 

 


 

 

カーテンを新調しようと、急に思い立った。

 

目障りになってきていた。

 

かつてチャンミンと一緒に選んだカーテンだった。

 

もっと華やかで、きれいな色のカーテンが欲しい。

 

奮発して既製品ではなくオーダー品を注文した帰り、喉が渇いて目についたカフェに入った。

 

カウンター上のメニューを見上げながら、自分の順番を待つ。

 

私の前の客の会計が、なかなか済まないことに気付いた。

 

店員もその客も困っていた。

 

この洒落たカフェは、支払いは電子マネーかカードでのみ受け付けている。

 

彼が差し出したカードは、高いエラー音を立てて拒否された。

 

それならばと、財布から紙幣を出しても店員から首を振られて、心底困っていた。

 

(外国人か)

 

私の後ろで、イライラを隠そうとしない若い女性がいる。

 

見かねた私は、「一緒に会計してください」と2人分の会計を済ませた。

 

彼は目を丸くして、店員からカードを受け取る私の顔を見下ろしていた。

 

その若い男性の顔を真正面から見て、一瞬チャンミンに似てると思った。

 

注文した飲み物を受け取って、私と彼はなんとなく一緒に店頭に置かれたベンチに並んで腰を下ろした。

 

彼の横顔を、ちらちらと観察していた。

 

浅黒い肌はなめらかだった。

 

長い首、伸びた髪。

 

国籍が分かりにくい、全人種のいいところを全部凝縮させたような顔をしていた。

 

洗濯を繰り返して薄くなったTシャツ。

 

開いた穴から、膝がのぞいていた。

 

きっとは着古した結果、擦り切れて開いてしまったのだろう。

 

でも、彼が身に着けるとファッションとして成立してしまう位、身体のバランスがよかった。

 

ぱっとこちらを振り向いた彼と、バチっと目が合った。

 

よく見ると、彼は全然チャンミンに似ていなかった。

 

どこにいても、チャンミンを探す私だったから、背の高い男の人を見ると誰でもチャンミンに見えてしまうのだ。

 

それくらい、私はチャンミンのことを引きずっていた。

 

「ありがとうございます。

出してくれたお金、今払います」

 

たどたどしく言うと、引き結んでいた口元を緩めてひっそりと笑った。

 

笑っているのに、哀しげだった。

 

 

・・・

 

 

彼の名は「モモ」と言った。

 

本名ではないかもしれない。

 

その可愛らしい名前を初めて聞いたとき、ぷっと吹き出してしまったが、私が笑う理由が分からないモモは曖昧な笑いを浮かべた。

 

笑っているのに、哀しげな、ひっそりとした笑いは相変わらずだった。

 

モモの来歴は分からない。

 

言葉が不自由なこともあるが、率先して自身のことを語りたがらなかった。

 

機械油が指の節を染めており、肉体労働の末硬くなった手の平に反して、短く切られた爪や細くて長い指が不釣り合いだった。

 

そう。

 

モモから受ける印象は、アンバランスさに尽きる。

 

散髪のタイミングを逃した長い前髪の下から、知的で思慮深い目元が見え隠れしている。

 

色褪せたシャツの背中は真っ直ぐで、迷いのない脚運び、破れた穴から覗く膝が上品だった。

 

膝頭に上品も何もないだろうけど、私はそう思ったのだ。

 

私の家に来ないか?と冗談めかして誘ったら、しばらく視線を彷徨わせて逡巡した後、こくりと頷いた。

 

 

捨て猫を拾ったかのようだった。

 

縋るような哀しげな眼で見上げられると、その思いは強まる。

 

そんな関係でも、私は全然構わなかった。

 

枕が一つしかなかったから、私はモモの胸に頭を預けて眠る。

 

浅黒くなめらかな肌に鼻を押しつけると、彼の香ばしい匂いがする。

 

誠心誠意を持って、長いまつ毛を伏せて眠るモモを...眠っている時だけはあどけないのだ...愛そうと思った。

 

 

 


 

 

なぜ別れを切り出してしまったのか、あの頃の自分の心理が未だに分からない。

 

一緒に住んでいた部屋を出た後、しばらくの間何度か彼女から電話があった。

 

「別れたくない。

私、変わるから、お願い」

 

と縋りつかれても、僕は首を横に振り続けた。

 

彼女のことは好きだったのに、彼女との関係に疲れていた。

 

扱いにくい難しい性格をしているだとか、度の過ぎた我が儘を言う訳でもなく。

 

彼女が「結婚」を期待していたことは、痛い程伝わっていた。

 

「でも、今じゃない。もう少し後で」と、僕は考えていた。

 

もともと結婚に対して憧れは薄かったし、仕事も面白いほどうまくいっていたし、同棲関係がちょうどよかった。

 

だから、彼女の期待が重かった。

 

彼女の期待に応えるため覚悟を決められない自分に嫌気がさしたし、もの言いたげなくせに、本心を一向に口に出さない彼女から逃げ出したかったんだ。

 

 

 

 

冬物のコートを新調しようと、街に出ていた。

 

大きな包みを抱えた彼女を見かけた。

 

あの日、僕の前で顔をくしゃくしゃに歪め、泣きじゃくって僕の腕にすがった彼女がいた。

 

彼女は一人ではなく、隣に背の高い男がいた。

 

彼女の背に添えられた控えめな手付きに、愛情を感じた。

 

遠くにいるのに、はっきりと分かった。

 

その男を見上げながら彼女は何かを言って、聞き取れなかったその男は身をかがめていた。

 

彼女から包みを...クッションか枕か?...を受け取っている。

 

彼女の笑顔が穏やかだった。

 

僕の大好きだった笑顔だ。

 

その笑顔を奪っていったのは、僕の身勝手さを優先させた結果だ。

 

沈んだ暗い想いを抱えて、未練たらしかったのは僕だけだったのかもしれない。

 

僕の胸がズキッと、何かに刺されたかのように痛んだ。

 

彼女に別れを告げた時には、こうまで感じなかった程の鋭い痛みだった。

 

二人の後ろ姿が小さくなって消えるまで、僕はその場に立ちつくしていた。

 

冷たい木枯らしで、耳がヒリヒリと痛かった。

 

手放したのは僕の方だ。

 

 

胸を痛めなければならないのは、僕の方だ。

 

 

彼女の笑顔を守っていくのは、あの彼なんだ。

 

 

 

(おしまい)

 

 

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【短編】次はどこ行く?★

 

 

 

こんな一週間だった。

 

大きな出来事もなく、激しい感情のぶつかり合いもなく、気怠く、淡々とした一週間だった。

 

 


 

 

その地に降り立った時、小腹が空いていたチャンミンと機内食でお腹が膨れていた私との間で、小さないさかいをした。

 

乗り換えを含めると、半日近く飛行機の狭いシートに押し込められていたことになる。

 

脚はむくむし、腰も痛い、旅行は始まったばかりというのに、2人とも疲労でピリピリしていた。

 

「チャンミンだけ一人で食べておいでよ。

私はコーヒーでも飲んで待ってるから」

 

「なんですか。

僕一人でご飯なんて、嫌ですよ」

 

「でも、お腹が空いているんでしょ?」

 

「せっかく2人でいるんですよ。

いきなり別行動ですか?」

 

『2人で』することに、やたらこだわるチャンミン。

 

無理もない。

 

私たちは普段、滅多に会えない。

 

だから今回の旅行は、2人べったり一緒にいられる貴重な時間。

 

それなのに今は、戯れのひとつみたいに、私たちは敢えて不機嫌さを隠さない。

 

普段は、喧嘩をする隙さえないくらい、私たちは会えないから。

 

「ちょっと!チャンミン!」

 

機嫌が悪い私に対して機嫌を悪くしたチャンミンは、私を置いてずんずんと先へ歩いて行ってしまおうとする。

 

追いかけても、チャンミンは振り向きもせず大きな歩幅でずんずん行ってしまう。

 

彼の後ろ姿が怒っていた。

 

今回の旅行にそなえて、チャンミンは髪を短く切ったのだという。

 

暑い国にいくから、って。

 

短く刈り上げた襟足からすっと伸びる首が、怒っている。

 

チャンミンの後ろ姿が、どんどん遠くなる。

 

彼は振り返らない。

 

チャンミンが雑踏の中に隠れてしまう。

 

私に別れを告げたチャンミンが、立ち去るシーンを想像してみた。

 

こんなに悲しいシーンを想像しちゃっても、大丈夫なの。

 

私たちは交際中で、今の私は幸せだから。

 

私は柱の陰に隠れる。

 

もうすぐ、チャンミンは振り返る。

 

私がついてきていないことに気付く。

 

キョロキョロと周りを見渡して、私を探す。

 

きっと。

 

目の前をチャンミンが走り過ぎた。

 

慌ててる。

 

真剣な横顔だった。

 

チャンミンが引き返してきた。

 

笑いをこらえる私を見つけたチャンミンは、驚きで目を丸くし、心からホッとした安堵の表情を見せた後、眉をひそめてぎりっと私を睨んだ。

 

「子供じみた行動をとらないで下さいよ。

誰かに連れ去られたかと思ったじゃないですか!

ったく!」

 

舌打ちをしたチャンミンは、再び私を置いて行ってしまおうとした。

 

10メートルくらい先へ進んだチャンミンは、くるりと回れ右をした。

 

つかつかと引き返してくると、私の手首をぎゅっと握った。

 

「ほら、行きますよ。

僕は今、お腹が空いてて機嫌が悪いんです。

ほらほら!」

 

チャンミンの握る手が、痛いくらい力強い。

 

チャンミンにひきずられながら、私は幸せだ、と思った。

 

引きずられるように歩く私に気付いたチャンミンは、歩をゆるめて振り返った。

 

隠れたのは、貴方の気持ちを確かめるつもりじゃないんだよ。

 

普段できないプチ・喧嘩を、ここぞとばかりに2人で楽しんでいるんだよね。

 

苦笑した貴方の顔が、「その通りです」って言っている。

 

 

貴重で、待ちに待った、2人だけの旅が始まった。

 

 

 

全てがくすぐったく、笑顔ではじけていて、夢見心地で、けだるげだった。

 

観光はしなかった。

 

ずっとホテルで過ごした。

 

食事どきだけ、地元のマーケットをぶらついた。

 

チープでくだらないものを、半分ジョークで買ったりした。

 

木彫りの花がペンダントトップのネックレスに心惹かれたが、種類が多すぎて迷ってしまって買うのをやめた。

 

不気味なお面を買おうとしたら、チャンミンに全力で止められた。

 

グリーンカレー好きな私が大量に買ったグリーンカレーペーストの瓶は、チャンミンのリュックサックの中に入っている。

 

一生記憶に残るくらい美味しいもあったし、お互い目を見合わせるくらい不味いものもあった。

 

プールで泳いで、冷たい飲み物をオーダーしてそれぞれ持参した本を開く。

 

「もう手遅れですよ。

真っ黒な顔をしてます」

 

日焼け止めを塗りなおしてばかりいる私を、チャンミンは笑う。

 

「チャンミンこそ、サングラスの痕がついてるよ」

 

「えぇっ!」

 

慌ててサングラスを外したチャンミンは、眩しすぎる日光に目を細めた。

 

「日焼け止め、塗ってください!」

 

目を閉じて顔を突き出して、大人しく私にクリームを塗られるがままのチャンミン。

 

頬と鼻先は赤く火照っていて、唇は日焼けしてひびわれていた。

 

 

ぬるま湯のシャワーを「沁みる!」「痛い」と大騒ぎしながら浴びた後、お互いの背中に化粧水を塗り合った。

 

化粧水をたっぷり含ませたコットンを、ベッドにうつ伏せになったチャンミンの熱い背中にパッティングしてあげた。

 

「日焼け直後は、保湿が大切なんだよ」って。

 

チャンミンの履いたハーフパンツを下にずらしてみたら、白い肌があらわれて、しっかり日焼けをしたのがよく分かる。

 

ふざけてもっと下に引き下ろしたら、

「こらっ!」

と、バネのように飛び起きたチャンミンに怒られた。

 

 

天井のファンが回る涼しい部屋のベッドの上で、現地のTV番組を見ながらビールを飲んだ。

 

エアコンで冷えすぎた身体を温めようと、バルコニーに出る。

 

湿った生温かい空気に、プランターから漂う南国の花の香りにむせかえりそうだった。

 

手すりから身を乗り出すと、ライトアップされたプールが眼下に見える。

 

「泳いだら、怒られるかな?」

 

「泳いできたら?

ピーって笛を鳴らされて、ホテルの人に見つかったら僕だけ逃げるから」

 

ニヤニヤ笑うチャンミンの顔が、日焼けのせいで頬が光っている。

 

 

旅はまだ中盤。

 

こんなに幸せでバチが当たりそう。

 

 

目覚めたら、すぐ目の前にチャンミンの寝顔がある。

 

まつ毛が長くてびっくりした。

 

おでこから鼻先まで、鼻筋を人差し指でなぞったら、パチッと目が開いて、その目がにっこりと笑った形になった。

 

「おはよ」のひとことが照れ臭かった。

 

突然、チャンミンが飛びついてきて寝起きの髭をずりずりってこすりつけてきた。

 

日焼けあとが痒いのか、ぼりぼりと背中をかきながらバスルームへ向かうチャンミンの後ろ姿。

 

あんなに短い髪なのに、あっちこっちに寝ぐせができていて、私はくすりと笑ったのだった。

 

朝食ビュッフェ会場へ、スリッパを履いたまま行っちゃうから、脇を肘でつついて教えてあげた。

 

泊数と着替えの数を見誤ったチャンミンは、着られる服がなくなって、マーケットで調達することにした。

 

配色センスが独特で、変な柄のシャツを、堂々と着ているから可笑しいの。

 

後頭部の髪がはねたままだったけど、可愛くて、面白かったから指摘しなかった。

 

どうせこの後、プールで泳いで濡れるだろうからね。

 

起床してご飯を食べて、泳いだりプールサイドで読書して、午後は部屋で昼寝して、涼しくなったらマーケットをひやかし歩く。

 

1着だけ持ってきたワンピースは、2日目の夜、ホテルのレストランで食事をとった時に1度着ただけ。

 

あとは、水着でいるか、Tシャツ短パンで過ごした。

 

チャンミンも同様で、くつろいでリラックスした姿をお互いにさらしていた。

 

 


 

 

帰国前夜。

 

荷造り作業がおっくうで、寂しくて仕方がない。

 

「帰りたくないなー」

 

「帰るのやめましょうか?」

 

「明後日から仕事だから、無理―」

 

「辞めちゃえば?」

 

「それは...無理―。」

 

「ふふふ。

そうでしょうね」

 

とっくに荷造りを終えたチャンミンはベッドに腰掛けて、私の荷造り具合を面白そうに眺めている。

 

「チャンミンとまた旅行に行きたいもの。

稼がなくっちゃ」

 

「旅行代くらい僕が出しますよ」

 

「自分の分は自分で出したいの」

 

「ふふふ。

あなたはそういう人ですよね。

お土産を好きなだけ買ってあげますよ」

 

「ホントに!?

じゃあ、ドライフルーツがいい。

マンゴスチン、買って」

 

「マンゴスチン?

なんですか、それ?

オレンジ色のですか?」

 

「それは、マンゴー。

マンゴスチンは、白くてプルっとしてる果物。

チャンミン、ビュッフェで山盛りにしてたじゃない?

あれがマンゴスチン」

 

「ふうん。

いくらでも買ってあげますよ。

好きなだけ」

 

「いいの?」

 

「はい。

スーツケースに入りきらなかったら、もうひとつスーツケースを買ってマンゴスチンをぎっしり詰めて帰りましょう」

 

その光景を思い浮かべたのか、チャンミンは鼻にしわをよせて、くくくっと笑った。

 

 

私たちの旅が、もうすぐ終わる。

 

1週間前の空港での出来事が、うんと遠い。

 

小さなスーツケースに、ドライフルーツが詰まっている。

 

マンゴスチンが大嫌いになるくらい、沢山食べてやるから。

 

 


 

 

「荷ほどきは終わりましたか?」

 

受話器から聞こえるチャンミンの声。

 

数時間前に別れたばかりなのに、私は寂しさのあまり泣きそうになる。

 

「だいたい」

 

洗濯機の中で、南国の香りが染みついた夏服が洗われている。

 

明日から現実世界に引き戻される。

 

今日が終わるまでは、旅気分でいさせてね。

 

 

「楽しかったね」

 

「うん。

これまで生きてきたうちで、一番楽しかった」

 

「大袈裟ですねぇ」

 

チャンミンがふふんと、笑った。

 

 


 

 

いい加減、マンゴスチンに飽きてきた。

 

嫌いになりそうだった。

 

誰かに分けてあげればいいのに、欲張りな私は一人で食べるつもりだった。

 

人にあげたら、チャンミンとの思い出が減ってしまうから。

 

思い出が逃げないよう、スーツケースも腕が入る分だけしか開けなかった。

 

残りわずかとなった時、取り出しにくくなって初めてスーツケースのファスナーを全開させた。

 

「?」

 

ビニール袋に気付いた。

 

味もそっけもない白い袋に、細長い紙箱が入っている。

 

紙箱を開けてびっくり。

 

旅先のマーケットで、私が迷いに迷って買わずじまいだったネックレスだった。

 

チープなチェーンに、木彫りのお花のペンダントトップが揺れている。

 

 

あの時の空気、音、匂い。

 

汗ばんでベタベタなのに、ずっと手を繋いでいた。

 

ありありと思い出せる。

 

 

折りたたまれた紙切れはホテルの便せんで、チャンミンの几帳面な文字が並んでいる。

 

飛び上がるほど嬉しい言葉が綴られていた。

 

 

涙が出そう。

 

もう泣いちゃってるけどね。

 

 

チャンミンに電話をかけなくっちゃ。

 

私もチャンミンが大好きだよ、って。

 

(おしまい)

 

 

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【短編】男とか女とかどっちでもいいじゃないか★

 

 

僕とハルは放心して、二人並んで天井を仰いでいた。

 

僕らは全裸で、いわゆる『情事』の後で、

 

ハルの白い胸が、乱れた呼吸に合わせて上下していた。

 

僕らの関係は、やっとでと言うべきか、ここまできた。

 

 


 

 

ハルとは専攻した講義で初めて顔を合わせ、解剖実習では同じグループになった。

 

何人かの学生が、実習内容のあまりのグロさに途中脱退している中、僕は最後まで耐え抜いた。

 

マスクの下の僕の顔色は真っ青だったと思う。

 

ハルは指導通りのメスさばきで、スケッチをとる僕に「ここを」「もっと詳しく」と指示をしていた。

 

マスクの上のハルの眼は大きくて、白目がきれいで、気づけばハルの眼に吸い寄せられるように見つめてしまっていた。

 

6人いたチームが、実習終了後には3人にまで減っていた。

 

切り離されたものを全てひとつのビニール袋にまとめる際、手袋をはめたハルの手と僕の手が重なって、ドキリと胸が跳ねたんだ。

 

 

ハルは男だというのに。

 

男だという言い方は、すこし正確じゃない。

 

ハルは、男のように見えるし、女のようにも見える。

 

ハルの髪は漆黒のベリーショートヘアで、スリムなスタイルをしている。

 

白い腕は、驚くほど引き締まっていて細かった。

 

小さなお尻と、ほっそりとした脚は細身のブラックジーンズに包まれていた。

 

並んで歩くとハルの頭は、僕の肩あたりにくるから、身長は170あるかないかだと思う。

 

自分のことを『俺』と言ってたから、男のつもりでいたら、ある日スカートを履いてきて、手にした教科書をバサバサっと落としてしまった。

 

一言で言い現わすと、ハルは『中性的』。

 

フレアスカートを履いた女性らしいファッションも、革ジャンを着た尖ったファッションも、どちらも似合っているからたちが悪い。

 

僕を混乱に陥れるのは、周囲の者たちの見解が見事にバラバラだったから。

 

「ハル?

男に決まってるだろ。

女といちゃついてんの見たことあるし」

 

とか、

 

「女子に決まってるじゃない。

彼氏らしき人と歩いていたわよ」

 

とか。

 

「お前は男か?それとも女か?」と、面と向かって尋ねられないんだ。

 

だって、ハルを前にすると、ハルの細い首にドキドキし、ハルの骨っぽい指にドキドキし、屈んだ際にチラ見えした黒い下着のラインにドキドキし、スカートからのぞく白い脚にドキドキした。

 

ハルが女だったら、経験のあることだから、これは恋だと素直に喜べる。

 

もし男だったら...僕は禁断の扉をオープンすることになる。

 

自分が抱えているのが恋愛感情だというのは、とっくの前に認識している。

 

ただ、その恋心も複雑だ。

 

ハルが女の子と連れだって歩く姿を見かけると、その女の子に対して嫉妬する。

 

ハルが男子学生にふざけて首にタックルしていたのを目撃した時、ズキリと胸が痛んだ。

 

相手が女だろうが男だろうが、ハルの隣にいる者に僕は嫉妬した。

 

だから僕の心は忙しい。

 

 

ハル、お前はどっちだ?

 

ここはもう、自分の目でトイレで確認するしかない。

 

男子トイレか、女子トイレか。

 

ところが、ハルと会うのは2時間ばかりの実習の間くらいで、ハルと連れションする機会がなかなか訪れない。

 

ハルと連れだってトイレに行くチャンスが到来した時が一度だけあった。

 

個室に直行するハルにがっかりした。

 

用を足した後も、個室のドアの向こうの気配を窺っていたが、こんな行動はまさしく「変態」だと気づいた。

 

個室を選択したのは、「付いていない」ことを僕に知られたくないからか?

 

ただ単に、「腹を壊していた」だけなのか?

 

 

ハル、お前はどっちなんだ?

 

ハルが男だったらいいのか?

 

僕は、男が好きなのか?

 

これまでの恋愛経験では、もちろん相手は女性だ。

 

オナニーで思い浮かべるのは女性だし、セックスの相手は皆女性だった。

 

実は、僕には『その気』があって、ハルと出逢ったことで目覚めたのか?

 

そんなことはどうでもいい。

 

僕にとっての問題は、別のところにあった。

 

僕が悩んでいるのは、この恋愛感情を次のステップに進めるために、とるべく行動のことだ。

 

 

「チャンミン、どうした?」

 

まじまじと見つめる僕に気付いたハルは、笑って僕の肩を突いた。

 

「ずいぶんと俺をじろじろ見るんだな」

 

僕の肩に置いたハルの手は、男のものにしては華奢で、女のものにしては骨ばっている。

 

ハルのトップスはいつもゆるっとしたもので、胸のサイズを確認しようがない。

 

 

 

その日は、大物の解剖実習だったため、片付けを終えて解剖教室を出た時には夜9時を過ぎていた。

 

深夜まで実験を行っている工学部棟からは、煌々と灯りが漏れている。

 

夜の構内をハルと並んで歩いていた。

 

「焼肉食いにいこうぜ」

 

ハルの誘いは耳を疑うようなもので、先ほどまで内臓やら、肉やら、骨やらをいじくりまわしてきた僕は、「うへぇ」とうめいて、首を横にふった。

 

「お前の神経、太過ぎ。

魚も無理。

今の俺は、野菜スティックしか食えん」

 

「お前の神経が軟弱なんだって」

 

この日のハルは、オーバーサイズのトレーナーにミモレ丈のプリーツスカートを履いていた。(女性のファッションに疎い僕でも、流行にのったお洒落なものだってことはわかる)

 

ハルと食事にいける、いいチャンスだったのに、僕の食欲は行方不明だ。

 

「なあ、チャンミン」

 

「ん?」

 

ハルに両頬を包まれ引き寄せられて、あっと驚く間もなくハルの唇が重なっていた。

 

柔らかい唇の感触にゾクッとした。

 

やば...。

 

何度も僕の唇に、柔く重ねなおされているうち、僕もその気になってきた。

 

僕もハルのうなじに手を回して、積極的にキスに応えていた。

 

キスに夢中になっているうちに、反応してしまうのは当然のことで、ハルにばれるんじゃないかとかなり焦った。

 

この日のハルは女の子の恰好をしていたから、焦った。

 

もしハルが男っぽい恰好をしていたら、反応したのか?

 

 

想像してみた。

 

 

参ったな。

 

 

もっと反応していただろう自分が、容易に想像できて焦った。

 

 

互いの唇が離れた時、

 

「俺んちに遊びに来いよ」とハルは僕を誘った。

 

「気になっているんだろ?

確かめにこいよ」

 

 

僕が確かめたがっているものが何なのか、ハルにはお見通しだった。

 

 


 

 

さあ、チャンミン、どうする?

 

ハルが女だったとしたら、それはそれでいいと思った。

 

ハルが男だったとしても、僕はハルを抱くだろうし(やり方は分からないけれど)、もしかしたら抱かれる側になるかもしれない。

 

後者の場合、ある程度の知識は必要だろうからと、僕は検索の鬼と化した。

 

検索キーワードは言わずもがな。

 

アイテムも通販する気合の入れように、若干引いた。

 

どちらでも対応できるように、用意はしておかねば。

 

 

あの時の僕を思い出すと、滑稽極まりない。

 

 


 

 

「気が利くな。

ありがとう」

 

差し入れの買い物袋をハルに手渡すと、靴を脱いでハルの部屋に上がった。

 

 

胡座をかいて座ると、ハルはビールやスナック菓子を所狭しとテーブルに並べだした。

 

 

この夜のハルは、オーバーサイズの厚手Tシャツにワイドなチノパン姿だ。

 

 

ただ、襟ぐりがやたら広いTシャツだったから、ポキンと折れそうなほど華奢な鎖骨が見え隠れしていて、僕はごくりと喉が鳴ってしまう。

 

 

(どちらなのか、全然分からねぇ...)

 

しかし。

 

白い家具で揃えているあたり、女子の部屋だ。

 

 

チェストの上に、キャンドルが灯っていてギョッとする。

 

アロマ...キャンドルか...?

 

 

「なあ、落ち着けって、チャンミン」

 

 

缶ビールをちびちび飲みながらキョロキョロする僕の肩を、ハルはくくくっと笑いながら叩いた。

 

「はっきりさせたいんだろ?」

 

ハルの顔がずいっと近づいた。

 

 

僕がやって来る直前に風呂に入ったのか、ハルの髪からシャンプーの香りがする。

 

 

シャンプーだけじゃない、この部屋全体が甘くていい香りで満ちている。

 

 

「シャワー使う?」

 

 

ハルに問われて、僕は無言で首を横に振った。

 

 

白状するけど、僕はハルの部屋に来る前に、しっかりちゃっかり入浴を済ませてきていた。

 

「チャンミンも風呂に入ってきたんだ、石鹸の匂いがする」

 

ハルは僕の頭や首をくんくんと嗅ぎまわるから、僕の心臓はバックバクだった。

 

「いやっ...その...汗かいたし...今日は暑かったし...」

 

もごもご言っていると、ハルは立ち上がってパチンと照明を消した。

 

 

キャンドルのゆれる灯りの存在感が増した。

 

 

ムーディー過ぎて、余計に緊張する。

 

 

「俺の気持ちをまだ言ってなかったね」

 

 

胡座をかいた僕の太ももに、ハルがまたがった。

 

 

「!」

 

 

「俺は、チャンミンのことが好きだよ」

 

 

「...ホントに?」

 

 

「好きじゃなかったら、部屋に呼んだりなんかしないって。

自分のことを『俺』だなんて呼んでるせいで、チャンミンを混乱させてしまっててゴメン。

男か?

女か?

って、首をかしげているチャンミンを見ていたら、可笑しいったら...ぷっ」

 

 

「あー、笑ったな」

 

 

「俺はチャンミンをからかいたくて、スカートを履いてるんじゃないし、『俺』って呼んでるわけじゃない。

 

ありのままの姿だよ、全部。

 

周囲の奴らには、思いたいように思わせてるんだ」

 

 

ハルの視線が一瞬下にそれた。

 

 

僕の股間が大変なことになっていた。

 

 

「えっ...と...」

 

 

僕はハルの腰を引き寄せて、僕の身体に密着させた。

 

 

僕の両手が、ハルの小さな骨盤を包んでいる。

 

肉付きの薄い、細い腰だった。

 

 

「こう見えて、俺はすごく...緊張しているんだ」

 

 

「...僕も、緊張している」

 

と答えた僕の声がかすれていた。

 

 

「チャンミンは、俺が『男』だったらいいと思ったか?

それとも『女』だったらいいと思ったか?」

 

 

ハルの声がかすれていた。

 

 

「チャンミンは、俺のことをどう思っている?」

 

 

男とか女とか、どっちでも構わない。

 

 

「僕は、ハルが好きなんだ」

 

 

ハルが男だろうと女だろうと、今夜の僕らは一歩先へ進むんだ。

 

 

互いの唇が吸い寄せられるように重なって、ハルの両手は僕の背に回り、僕の手もハルの胸に回った。

 

 

(...そういうことか)

 

 

感触でわかった。

 

 

(そっちだったんだ...)

 

 

男とか女とかどっちでもいいんだけれど、やっぱり、どっちか分からないと進められないからね。

 

頭の片隅で小さく納得しながら、僕はハルの身体にむしゃぶりついた。

 

 

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【1】彼女との出逢いー僕を食べてくださいー

 

 

「もっと吸って」

 

彼女に懇願していた。

 

「もっと...もっと吸って」

 

うわ言のように繰り返した。

 

「お願いだ...吸って...!」

 

彼女のためなら命を失ってもよかったんだ。

 

 


 

 

 

大型連休に突入し、多くの同級生たちが家族の元へ帰省していった。

 

僕の場合、行きたいところもない、欲しい物もない、そんな鬱々とした気分だった。

 

かといって、一週間も寮でゴロゴロ過ごしていたら、ますます気持ちが沈み込みそうだった。

 

皆にならって、僕も帰省することにしたんだ。

 

1時間に1本、普通列車がやっと停まる寂れた駅に降り立った。

 

しとしとと雨が降っていた。

 

閉鎖してしまった観光案内所と公衆トイレがぽつんとあるだけの、駅のロータリー。

 

当然のごとく客待ちのタクシーなどないし、ばあちゃんには帰省することを伝えていなかったから、迎えの車もない。

 

荷物はリュックサック1つと身軽だった僕は、徒歩40分くらい歩いて向かうことにした。

 

濡れようが、濡れまいがどうでもよかった。

 

それくらい、自分に対して投げやりになっていた。

 

10分も歩かないうちに、スニーカーの中がぐずぐずに濡れてきて、歩を進める度にキュッキュッと音をたて始めた。

 

ささやかな商店街を抜け、水田を貫く片側一車線の道を20分も歩くと、針葉樹の木立の中だ。

 

間伐されていないせいで、木々は密集しており、伸びるに任せた枝が空を覆っている。

 

緑のコケに覆われた幹が連なる薄暗い道を、黙々と歩き続ける。

 

生い茂るシダから滴がぽたぽたと落ちていた。

 

茶色い杉葉がアスファルトのあちこちにへばりついている。

 

危険を感じる間もなかった。

 

背中に衝撃を感じた。

 

景色がぐるっと回転したのち、一瞬目の前が真っ暗にになって、視界に光の粒がチカチカと瞬く。

 

僕は硬い地面に叩きつけられていた。

 

雨粒が、仰向けになった僕の顔をたたく。

 

悲鳴すら出せなかった。

 

そして、真っ白い顔が僕を見下ろしていた。

 

一切の音が消滅して、痛いくらいに心臓が拍動するドクドクと音をたてている。

 

喉の奥でせき止められていて、言葉は出ない。

 

僕を見下ろす一対の瞳は、これ以上はないほど真っ黒だった。

 

逆光だったにも関わらず、肌は青白く光っている。

 

女だった。

 

非常事態にも関わらず、唯一血色を感じられる目尻が妖しかった。

 

僕は、この女にタックルされ、突き倒され、組み敷かれていた。

 

なぜ?

 

なぜ?

 

僕の頭はクエスチョンだらけ。

 

地面に打ち付けられた背中が、ズキズキと痛んだ。

 

彼女の白い指が、僕の肩に食い込んでいた。

 

肩を押さえつけていた片手が、僕の喉にかかる。

 

冷たい、冷たい手のひらだった。

 

彼女の指の下で、ぼくの頸動脈が脈々としているのが分かった。

 

恐怖のあまり、しゃくりあげるような呼吸がやっとだった。

 

彼女は蒼白な唇の片側だけで微笑む。

 

彼女の顔が近づいてくる。

 

どこかで見たことがある、という考えが頭の片隅をかすめた。

 

僕が覚えているのは、ここまでだ。

 

彼女の唇が、僕の左首筋に押し当てられた。

 

溶けかかった氷のような感触だった。

 

 


 

 

大の字に寝ていた。

 

ここは...どこだ?

 

頭だけを動かして、周囲を見回す。

 

見上げると、太い鉄骨の梁、外の光を透かしている波板トタン。

 

鉄工所のような場所だった。

 

僕は、真っ白なマットレスの上にいた。

 

砂埃だらけのコンクリート床の上に、直接置かれている。

 

手足をためつすがめつしてみたが、怪我は...していないようだ。

 

上体を起こして、初めて気づく。

 

下着だけの、裸だった。

 

着ていたTシャツもデニムパンツも、近くに見当たらなかった。

 

ますます、訳が分からなくなった。

 

「おはよう」

 

彼女がマットレスの端に腰かけていた。

 

背中まである長い髪。

 

前髪は眉毛の上で切りそろえられている。

 

アルビノのように真っ白な肌と、睡眠不足みたいなクマ。

 

長いまつ毛の下には、青みがかった墨色の目。

 

整った小さな鼻。

 

魔女みたいな黒い、ゆったりとしたワンピースを着ている。

 

そこだけポッと紅い目尻を細めて、僕のことを興味深そうに舐めるように見ていた。

 

そして、ファストフードでよくあるような、LLサイズのカップに差したストローをくわえている。

 

「えっと...?」

 

彼女の顔を見て、冷たい唇の感触を思い出した。

 

左首筋に手をやったが、怪我の気配はない。

 

「何もしていないから」

 

クスクスと彼女は笑った。

 

「貴方の名前は?」

 

「チャ、チャンミンです」

 

「ふぅん、変わった名前ね」

 

「僕は...どうしてここに?」

 

「私が連れて帰ったの」

 

どうやって?

 

抱えて?

 

そんな小さな身体で?

 

なぜ?

 

常識的な疑問が次々と湧いてくる。

 

「美味しそうだったから、連れて帰ったの」

 

美味しそう?

 

僕は絶句する。

 

「ゆっくり味わおうと思って」

 

味わう?

 

頭がおかしい人なのかもしれない。

 

「貴方って、美味しそうなんだもの。

食べちゃおうとおもったけど、もっと美味しく育ててからにしようと思って」

 

「食べる?」

 

「そう」

 

食べるって?

 

育てるって?

 

意味が分からない。

 

彼女の瞳が、群青色に変わっていた。

 

 

「美味しそうね。

少しだけ食べさせて?」

 

「え?」

 

さっと空気が動いたかと思うと、

 

強引に両ほほを押さえつけられ、僕の唇に彼女の唇が押しかぶさった。

 

冷たい唇、けれど柔らかい唇。

 

息が出来ず口を開けたすきに、彼女の舌が僕の口腔内にぬるりと侵入してきた。

 

僕の思考は止まった。

 

鉄の味がした。

 

彼女の舌がぐるっと僕の口の中なぞる。

 

僕の舌はくわえられて、彼女の歯があたる。

 

彼女の口から漂う、甘い香りに酔った。

 

息ができない。

 

でも、気持ちがいい。

 

頭の芯がじんじんと痺れる。

 

全身にぞくぞくと震えが走った。

 

気付けば、僕は彼女の首を引き寄せていた。

 

突然、彼女は僕を突き放した。

 

その勢いで、僕はマットレスに仰向けに倒れこんでしまった。

 

息が荒い。

 

「美味しい。

今日のところは、これくらいにしておくね」

 

彼女は、息が止まってしまうほど、甘い微笑みを見せた。

 

「ごめんなさい。

血が出ちゃったね」

 

「あ...」

 

口の中が、鉄の味でいっぱいだった。

 

舌先がじんと痛い。

 

僕の血がついた唇は赤く染まり、瞳は漆黒に変わっていた。

 

「......」

 

彼女のキスで、僕の中の何かに火がついた。

 

彼女の視線が、僕の顔から胸、腹と移り、腰までいくと止まった。

 

「あなたの洋服はまだ乾いていないの。

こんな天気だから」

 

トタン屋根を叩く雨音が、うるさいくらいに反響していた。

 

立ち上がった彼女の動きで、さっき嗅いだ甘い香りがふわりと漂った。

 

巨大な鉄骨の向こうにいったん消えると、僕の服を腕にかけた彼女が戻ってきた。

 

「濡れてて気持ち悪いだろうけど、服を着て。

もう帰っていいわよ」

 

ぱさりと僕の膝に洋服が投げられる。

 

それらに手を伸ばす気はなかった。

 

嵐のような欲情が、僕の中で吹き荒れていた。

 

僕は、とても、興奮していた。

 

 

(つづく)

 

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