(2)ハグを邪魔されてーミミの夜這いー

 

 

「頭をぶつけるなよ!」

 

チャンミンは素っ裸のまま、ミミの父ショウタ、母セイコ、祖父ゲンタ、兄嫁ヒトミに抱えられていた。

 

おろおろしたミミは、彼らの後をついていく。

 

「えらく大きい奴やな」

 

チャンミンの両脇を抱えた父ショウタは苦しげだ。

 

「丸太を運んでるみたいやぜ」

 

と、チャンミンの両足首をもった祖父ゲンタ。

 

「今どきの子は、大きいんやって」

 

チャンミンの生尻を下から抱え込んだセイコが答える。

 

「ピーポーピーポー!」

「救急車!」

 

甥っ子ケンタ、ソウタは、大人たちの周囲を面白がって駆けまわっていた。

 

二人の兄カンタは、金打ちの練習で留守にしている。

 

「あんたたちがずっと遊んでいるから、お兄さんはのぼせちゃったのよ!」

 

兄嫁ヒトミは、子供二人を叱りつけた。

 

ミミは股間に載せただけのタオルが、落ちやしまいかと冷や冷やしていた。

 

(まさかこんな形で、チャンミンの裸を見ることになるなんて!)

 

初対面のミミの家族に、醜態をさらしてしまったチャンミンを気の毒に思う。

 

「お、おっ!滑る!」

 

「お父さん!」

 

「あともうちょっと!」

 

「む、無理だ!」

 

チャンミンの脇が汗でぬるついているせいで、ショウタの指が脇から滑ってしまった。

 

「きゃぁぁっ!」

 

どたーんと音をたてて、チャンミンを頭から落としてしまった。

 

「チャンミン!」

 

「す、すまん!」

 

「頭を打ったか!?」

 

「お父さんったら、もう!」

 

憤慨したミミは、チャンミンの頭を膝に乗せた。

 

「大丈夫?」

 

「ううぅぅ...」

 

うめき声をあげて、チャンミンが目を開ける。

 

「星が...星が飛んでます...」

 

(よかった)

 

「ここは...天国ですか?」

 

「!」

 

わずかに隠していたタオルが落ちたはずみでずり落ちて、総勢7人の面々にさらされていることにミミは気づく。

 

「タオル!」

 

母セイコが素早くタオルで隠す。

 

「おじちゃん、毛がぼーぼー」

 

大喜びのケンタとソウタ。

 

ミミは額に手を当て、大きくため息をついた。

 

(チャンミンったら、可哀そうに)

 

 


 

 

その夜。

 

ミミは忍び足で廊下を歩いていた。

 

築50年を超す田舎家だったから、足を踏み出す度きしむ音にヒヤリとし、周囲に耳をそばだてた。

 

(私が夜這いをかけてどうするのよ!)

 

チャンミンは仏間に寝かされている。

 

(一番の難所は、おじいちゃんたちの部屋)

 

祖父母の枕元を通らないと、仏間へは行けない。

 

すーっと障子を開ける。

 

ミミは息を止めて、抜き足差し足で彼らの布団の脇を通り過ぎる。

 

途中、寝返りを打った祖父にビクリとしたが、熟睡しているようでミミは胸をなでおろした。

 

建付けの悪いふすまを小刻みに開けると、常夜灯だけの薄暗い部屋で、仏壇の前に延べた布団が真正面に見えた。

 

「ふうっ」

 

息を止めていたミミは、ここでようやく息をつくことが出来た。

 

(あれ?

チャンミンが寝ているはずの掛け布団が、平らなような気が...?)

 

『チャンミン?』

 

そろそろと、布団に近づき、掛け布団をめくろうとしたら...。

 

「ひゃっ!」

 

突然、ミミの肩が叩かれた。

 

『くくくく...』

 

ふりむくと、チャンミンが口を押えて笑いをこらえている。

 

『ちょっと!』

 

ミミは、きっとチャンミンを睨みつける。

 

(心臓が止まるかと思ったじゃないの!)

 

どうやらチャンミンは、ミミを驚かそうと、ふすまの陰に隠れていたらしい。

 

(やることなすこと、子供みたいなんだから!)

 

隣室で、「なんだ、今の悲鳴は?」という声とともに、ごそごそと祖父母が起き出す物音がする。

 

「!」

「!」

 

「お父さん、もしかして...?」

「泥棒か?」

 

がたがたっとふすまが開いて、祖父ゲンタが部屋に飛び込んできた。

 

「こんばんは...です」

 

ゲンタの目前には、正座をしたチャンミンが。

 

「僕です。

チャンミンです。

ゲンタさん、そんな物騒なものは下げて下さいな」

 

「なんだ、チャンミン君か...」

 

ゲンタは振り上げた竹刀を下すと、仏間を見回す。

 

ゲンタの背後から、祖母カツが首をのぞかせている。

 

「さっきの声はなんだ?」

 

「すみません。

祭りの掛け声の練習をしていました」

 

「練習?」

 

「はい。

僕の役目は重要です」

 

「熱心なのは感心するが、真夜中だぞ。

明日一日あるんだ、昼間にやりなさい!」

 

ゲンタは吐き捨てると、竹刀を引きずりながら仏間を出て行った。

 

チャンミンの布団にもぐり込んだミミは、チャンミンとゲンタのやりとりをびくびくしながら聞いていた。

 

ゲンタたちが寝入るまでたっぷりと待ってから、チャンミンは布団をめくる。

 

『ミミさん、大丈夫ですよ』

 

できるだけ平らになるよう、ミミはうつぶせで大の字になっていた。

 

『危なかったねー』

 

すると、チャンミンが布団の中に滑り込んできた。

 

『チャンミン!』

 

『ミミさ~ん』

 

チャンミンの腕が伸びて、ミミの腰に巻きついた。

 

『ずっとこうしたかったです...』

 

ミミは、自分の胸に頬をこすりつけるチャンミンの頭をなでる。

 

『...ミミさん』

 

『なあに?』

 

『我慢できなかったんですね?

だから、夜這いに来ちゃったんですね?』

 

『違うわよ!

チャンミンが心配だったから、様子を見に来ただけ。

ほら、頭を2回も打ったでしょ?」

 

『嘘ですね』

 

『う、嘘じゃないわよ』

 

『ミミさんの胸...ドキドキしてますよ』

 

『!』

 

(だって、だって。

チャンミンの脚が私の脚にからまっているんだもの。

こんなに密着するのは初めてだし)

 

ミミの身体はぐんぐん火照ってくる。

 

『興奮してるんですね?』

 

『馬鹿!』

 

チャンミンの脚を蹴飛ばした。

 

『痛いなぁ』

 

『この脚をどかしなさい!』

 

『嫌です。

ぎゅー』

 

チャンミンは、ミミの背中にまわした腕に力を込めた。

 

『痛い痛い!』

 

(ミミさん...辛いです)

 

ミミの柔らかい身体を抱いているうちに湧いた、抜き差しならぬ欲求とチャンミンは闘っていたのであった。

 

 

ヤバいです!

 

ミミさん、ヤバいです!

 

僕のが暴発しそうです!

 

止められません!

 

でも、止めなきゃです。

 

せっかくのチャンスなのに!

 

ここがお仏壇のある部屋じゃなければ、とっくにミミさんを襲っているのに!

 

場所が悪すぎます!

 

 

『うっ、うっ...』

 

 

(やだ。

もしかして...泣いてるの?)

 

 

胸にしがみついたチャンミンの頭を引きはがして、ミミはチャンミンの顔を覗き見る。

 

『ミミさ~ん』

 

薄闇の中で、潤んだチャンミンの目が光っていた。

 

『たんこぶ、できたでしょ?』

 

ミミは、チャンミンの前髪をかきあげてやる。

 

チャンミンは昨日、鴨居に一度、床に一度、頭をしたたか打ち付けている。

 

『たんこぶが2個できてます』

 

『可哀そうにね』

 

ミミは、腫れた箇所に触れないよう、チャンミンの頭をなぜてやった。

 

『ミミさん...キスしたいです』

 

ミミの手が止まる。

 

『......』

 

すがるようなまなざしで胸元から見上げるチャンミンに、ミミの胸がキュンとなる。

 

(参ったなぁ。

そんな可愛い顔をしないでよ)

 

『軽くね、1回だけだよ』

 

『えー。

ディープがいいです』

 

もぞもぞと下から這い上がってきたチャンミンは、ミミの頬を捉えると一気に唇を重ねてきた。

 

男っぽい強引さに、ミミはくらくらする。

 

ミミもチャンミンの両ほほをはさんで、キスに応える。

 

(止められない!)

 

勢いづいたチャンミンの手が、ミミの胸に回った。

 

『チャンミン!』

 

驚いたミミは、チャンミンの頭をはたいた。

 

「いでっ!」

 

ミミの打ち下ろした手が、チャンミンのたんこぶに直撃してしまったのだ。

 

 

「うるせぇ!」

 

ガタっとふすまが開いた。

 

「!」

「!」

 

とっさにミミは布団にもぐりこむ。

 

「練習は、昼間にやれって言っただろうが!」

 

チャンミンは、今しがた起きたといった風を装って、目をこすりながら、

 

「...ゲンタさん...ですか?

僕は寝言がすごいんです」

 

と言って、大あくびをしてみせた。

 

「起こしちゃいましたね。

申し訳ないです」

 

「ったく。

騒がしい奴だ」

 

ぶつぶつ言いながら、ゲンタはふすまをぴしゃりと閉めた。

 

 

ふすまの向こうに耳をそばだてて、ゲンタのいびきを確認する。

 

『それじゃあ、部屋に戻るね』

 

布団から出ようとするミミの手首を、チャンミンが捕まえた。

 

『ここで寝てください』

 

『駄目ったら駄目!

チャンミンを刺激しちゃうから、駄目!』

 

『あうぅ』

 

チャンミンの手を手首から引き離すと、ミミは部屋を出て行ってしまった。

 

「はぁ...」

 

チャンミンは、キスの余韻に浸りながら枕を抱きしめ、布団の上を右へ左へと寝返りを打った。

 

(拷問です!

若くて健康な男にとって、これは拷問です!)

 

 

(全く、私たちったら高校生みたいなことしてるんだから!)

 

一方、ミミは暗い廊下を忍び足で歩きながら、高校時代を懐かしく思い出したりしていたのだった。

 

 

(つづく)

 

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(1)ハグを邪魔されて ー年下のくせにー

 

 

ひっきりなしに浴びせられるお湯に、チャンミンは閉口していた。

 

のぼせて頭がくらくらしていた。

 

湯船に潜水していたケンタが、にゅうっと水中から頭を出した。

 

「おじちゃん、どうして毛が生えてるの?」

 

「えっ!?」

 

「僕んのは、つるつるなのに」

 

ケンタが大股を開いて、腰を振る。

 

(勘弁してよ)

 

チャンミンは、やれやれといった風に首を振った。

 

「おじちゃんも結婚してるの?」

 

「してないよ」

 

「じゃあ、なんで毛が生えてるの?」

 

「えっ?」

 

(ミミさん...この子らは意味不明なことを言って僕を困らせるんです)

 

洗い場で髪を洗っていたソウタも、チャンミンの方へお尻を見せて振る。

 

(ったく、小学生男子ときたら)

 

「お父さんも毛が生えてるだろ?」

 

「おじちゃん、知らないのー?」

 

ケンタとソウタはゲラゲラ笑った。

 

「結婚すると毛が生えるんだぜ」

 

「はあ?」

 

「とぅっ!」

 

盛大な水しぶきをあげて、ソウタが飛び込んできた。

 

いったん底まで沈んだソウタが、湯船の底を蹴ってばねのようにジャンプする。

 

大揺れしたお湯が縁から、ざざーっと洗い場に流れ落ちた。

 

(結婚したら毛が生える?

小学生男子の会話は、理解不能だ)

 

「おじちゃん、ミミちゃんと一緒に風呂入ったことある?」

 

「はぁ?」

 

(ないですよ。

悲しいことに、ないですよ。

お風呂どころか...お風呂どころか...)

 

チャンミンは、ぶくぶくと鼻まで湯につかった。

 

大家族の湯舟は十分広かったが、背の高いチャンミンの曲げた膝は突き出ている。

 

「俺、入ったことあるもんね」

 

「いいなぁ」

 

小学生相手に、心底羨ましがるチャンミンだった。

 

ケンタとソウタは得意そうだ。

 

「ミミちゃんも毛が生えてるんだよ」

 

「!」

 

チャンミンはすぐさま想像してしまって、赤くなる。

 

(ううっ...刺激が強いです。

僕はまだ、見たことがないです)

 

「結婚したから、毛が生えたんだぜ」

 

チャンミンの視界が霞んできた。

 

(ミミさん...頭がぐらぐらします...)

 

「ソウタ!ケンタ!

いつまで入ってるのー!」

 

浴室ドアの曇りガラスに人影が写り、がらりと開いてミミが顔を出す。

 

「お兄さんを困らせてるんじゃないでしょうね?」

 

「ミミちゃーん!」

 

ソウタとケンタは、タオルを広げたミミに突進していった。

 

「ちゃんと身体拭いてってよー!」

 

ミミの制止むなしく、びしょ濡れのまま彼らは駆けていってしまった。

 

湯船にひとり残されたチャンミンの顔は、茹でだこのように真っ赤だ。

 

「ごめんね、ゆっくりできなかったでしょ?」

 

チャンミンは前も隠さず、ざぶりと立ち上がった。

 

「!」

 

「ごめんなさい...ギブアップです」

 

そうつぶやいたチャンミンは、ミミの膝めがけてどうっと倒れこんだのだった。

 

意識を失う直前、チャンミンの頭にちらっと違和感がかすめていた。

 


 

チャンミンは、ミミの故郷に来ていた。

 

実家を継いだミミの兄家族、両親、祖父母の9人の大家族。

 

ミミには妹が一人いるが、彼女は近所の家に嫁いでいた。

 

ミミの甥っ子にあたる、カンタ、ソウタ、ケンタは、訪れたチャンミンを見ていい遊び相手ができたと目を輝かせた。

 

チャンミンを『おじちゃん』と呼んで、射的の的にし、

小学生とはいえ3人まとめて背中にしがみつき、

かくれんぼでは3人の鬼になって追いかけまわし、

初日で既にチャンミンは疲労困憊だった。

 

「僕は若い男ですよ。

おじちゃんじゃないです!」

 

チャンミンは、煎餅をかじりながらぷりぷり腹をたてていた。

 

行儀よく正座をして、座卓が低すぎて猫背気味になっている姿が、なんとも可愛らしいのだ。

 

「あの子らは、僕をおもちゃにするんですよ!」

 

三人にさんざん髪をひっぱられて、ボサボサ頭になっている。

 

頭をよしよしとなぜたい衝動を抑えて、ミミはチャンミンをなだめる。

 

「まあまあ、チャンミン。

子供相手にムキにならないで、ね?」

 

「仕方ありませんね。

ミミさんに免じて許します」

 

すると、チャンミンの顔がふにゃふにゃと緩んだ。

 

「ケンタ君たちのおもちゃになるのは勘弁ですけど、

ミミさんのおもちゃには喜んでなりますよ」

 

「チャンミンが言うと、いやらしく聞こえるんですけど...?」

 

「ぐふふふ。

ミミさんも、エッチですぇ。

何を想像していたんですか?」

 

「こらっ!」

 

「ぐふふふ」

 

「こらー!」

 

赤くなったミミはチャンミンをくすぐろうと飛びつこうとし、チャンミンはそれから逃れようと後ろに身をひいた。

 

ミミは、寝っ転がったチャンミンの脇をくすぐった。

 

「あははは。

くすぐったいです」

 

「これはどうだ!」

 

身をよじるチャンミンを、もっとくすぐってやろうとミミは、チャンミンの腕を押さえつけていたら...。

 

「夕飯が出来た...」

 

ふすまが開いて、ミミの母親セイコが顔を出した。

 

「わっ!」

 

はじかれたように、離れる2人。

 

「みんな待ってるから、早く居間に来なさい」

 

コホンと咳ばらいをしたセイコは、ぴしゃりとふすまを閉めて客間を出て行ってしまった。

 

「......」

 

 


 

チャンミンがミミの実家まで連れてこられたのは、チャンミンが「ある役」に抜擢されていたからだった。

 

ミミの故郷では、この季節になるとお祭りが執り行われる。

 

過疎化が進む田舎町にありがちな人員不足の影響で、御旅(祭り行列)へは全員参加だ。

 

各家で、山車、闘鶏楽、ひょっとこ、鬼、巫女さん、稚児さん、太鼓、雅楽隊、旗持ち、獅子...など、役が割り振られている。

 

ところが、ミミの兄リョウタが祭りの2週間前に、修繕のため登っていた屋根から転落し、足を骨折してしまったのだ。

 

地区の中で余っている成人男性はいない。

 

町中の神社でいっせいに祭りが執り行われるため、他地区に住む親せきに応援を頼めない状況だった。

 

そこで、実家から

「ミミ!

お前の彼氏でも男友達でも誰でもいい!

連れてこい!

日当は出してやるから」

 

そんな無茶な要請を受け、ミミはチャンミンを連れて馳せそんじることになったわけである。

 


 

「絶対に嫌です!」

 

「アルバイト代を払ってくれるって」

 

はっきり、きっぱり断ったのに、ミミさんの手を合わせての「お願いポーズ」にやられてしまった。

 

「ほら、この前の旅行のやり直しだと思って、ね?」

 

「おー」

 

初めての旅行では、熱を出してしまって、観光することも、ミミさんと熱い夜を過ごすこともできなかった。

 

そんなわけで、僕はミミさんの甘い誘いにのってしまった。

 

僕はとことん、ミミさんに弱いのだ。

 

ミミさんも僕には甘いから、いい勝負。

 

僕とミミさんは似たもの同士だから、仲良しなんです。

 


 

「ひとつだけ条件があります」

 

チャンミンは、ぴんと人差し指を立てた。

 

「どんなお願いか、怖いんですけど...?」

 

「ミミさんのお父さんと同じ部屋で寝るなんて、嫌ですからね。

ミミさんと、同じ部屋で寝ること!

 

これが条件です!」

 

チャンミンの子供っぽい要求に、ミミはチャンミンの頭を抱き寄せて、よしよししたくなった。

 

(なんて、可愛い子なの、この子は?)

 

ところが、家族にチャンミンを引き合わせた時、

 

「ミミ...お前、

高校生なんか連れてきて...」

 

と、チャンミンを一目見て絶句してしまった。

 

チャンミンが実年齢より若く見えることは承知の上だったが、まさか高校生と間違われるとは。

 

「違うって、彼は大人だから。

彼は職場の後輩なの」

 

苦し紛れなことを口に出してしまったミミ。

 

(ミミさん!)

 

隣に立つチャンミンは、ミミのブラウスを引っ張る。

 

(チャンミンは黙ってて!)

 

ミミは、チャンミンの手を払う。

 

目を丸くした彼らに、「お付き合いしている人です」とミミは言い出せなくなってしまった。

 

(知らない人から見れば、やっぱり私たちは、ちぐはぐなんだ)

 

若すぎるチャンミンと自分との年齢差に、ますますミミは自信をなくしてしまった。

 

ミミの部屋に入った途端、それまで愛想笑いを浮かべていたチャンミンが、険しい目をしてミミに詰め寄る。

 

「どうして『彼氏です』って紹介してくれないんですか?」

 

「ごめんね、チャンミン」

 

納得がいかないといった風のチャンミンは、ミミを睨みつける。

 

「会社の後輩って、どういうことですか!」

 

「チャンミンが若すぎて、お父さんもお母さんもびっくりしてたから...」

 

ミミはチャンミンに背を向けて、バッグから荷物を取り出して、チェストに収める。

 

「それに、約束が違うじゃないですか!

どうして僕は、ミミさんのお祖父ちゃんと同じ部屋なんですか?」

 

「お父さん、いびきがひどいのよ」

 

「そういう問題じゃありません!」

 

チャンミンは、ふんと鼻をならす。

 

「分かりました。

夜這いをかけることにします」

 

「チャンミン!」

 

「ドアが“ふすま”なところが、不安要素ですねぇ。

声を聞かれちゃいますね」

 

「なんてこと言うのよ!」

 

「だって、ミミさん、

可愛い下着持ってきてくれたんでしょ?

見えましたよ」

 

バババッとミミの顔が赤くなる。

 

(しまった!

彼の目は超高性能レーダーだったことを忘れていた!

無防備にバッグの中身を見せてしまった)

 

「安心して下さい。

絶対に夜這いに来てあげますから。

待っててくださいね」

 

チャンミンは、目を半月型にしてにやにやしている。

 

「チャンミンったら...もう」

 

階下からミミたちを呼ぶ声が聞こえた。

 

「衣装合わせするって。

ほら、下に行こうか」

 


 

仏間横の部屋の鴨居に、長着と袴が吊るされ、たとう紙に包まれた長襦袢が畳の上に広げられていた。

 

「あぅっ!」

「チャンミン!」

 

鴨居に頭を派手に打ち付けたチャンミンはうずくまった。

 

「大丈夫?」

 

「大丈夫じゃないです...。

星が飛んでます」

 

「おい!

とっとと、衣装合わせするぞ!」

 

床の間を背にしてあぐらをかいた初老の男が、手招きをした。

 

祭礼の役を務める彼はテツといって、ミミの妹の義父だ。

 

「お前は『旗持ち』だ」

 

「ええ?

旗を持って歩くだけですか?」

 

チャンミンは祭りの役名を知ると、不服そうな顔をした。

 

「地味ですね」

 

「馬鹿たれ!

神さんの名を染めぬいた大事な旗なんだぞ。

罰当たりなことを言うんじゃない!」

 

「どうせやるなら、獅子がいいです」

 

「馬鹿たれ!

1日2日の練習で獅子を舞えたら、40年やってる俺らはどうなるってんだい!

第一、お前みたいなでかい奴が履ける股引きなんぞない!」

 

テツはチャンミンの頭をはたいて叱りとばした。

 

「え?

僕の脚が長いってことですか?」

 

(チャンミンったら...)

 

呆れたミミは、ため息をつく。

 

「チャンミン、ほら、ね?

神官姿になれるんだよ?」

 

「着流し姿の方がよかったです」

 

ご機嫌斜めのチャンミンは、小さなわがままを言う。

 

(家族に「彼氏」だと紹介されなかったことを、根にもってるのね)

 

「今夜、練習だからな」

 

ひと言言い終えて、テツは帰っていった。

 

ミミの母親セイコに、長着と袴を合わせてもらううち、チャンミンの気分は上がってきた。

 

「ミミさん!

似合いますか?」

 

ミミの前で、くるりとまわって見せる。

 

「似合う似合う!」

 

ミミは手を叩いて、チャンミンを褒める。

 

(チャンミンの母親のようだわ、これじゃあ)

 

袴が若干短すぎるが、腰を落として着付ければごまかせるだろう。

 

「僕に惚れなおしましたか?」

 

衣装合わせを終え、着物を脱いだチャンミンは、小首をかしげてにっこりと笑う。

 

「はいはい」

 

ミミは、チャンミンから顔をそむけて渋々答えた。

 

「早く服を着て!」

 

「ミミさん、もしかして照れてます?」

 

チャンミンの言う通り、ミミは彼の下着姿にドギマギしていた。

 

Tシャツを脱いだ上半身をまともに見られない。

 

 

この子ったら、

 

この子ったら。

 

痩せてるから細いだけかと思っていたら...。

 

なんなの!?

 

可愛い顔して、鍛えちゃってるじゃないの!

 

いい意味で期待を裏切ってくれちゃって。

 

 

「ミミさん、

そんなに飢えた目で僕を見ないでください」

 

「チャンミン!」

 

「今夜、全部見せてあげますから...楽しみにしていてくださいね」

 

「こら!」

 

ミミはチャンミンの洋服を投げつけると、部屋を出ていったのだった。

 

(年下のくせに!

 

年下のくせに!

 

私は、からかわれてばっかりなんだから!)

 

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(後編)おかえりパンケーキ★

 

休日の夕方、僕は友人夫婦を家に招いた。

 

「好きなものをいくつでも選んでよ」

 

「本当にいいのか?」

 

「いいんだ。

必要とする人にあげたいんだ」

クローゼットの扉を開けると、彼らが自由に選べるよう、リビングに引っ込む。

彼らの希望に満ちた会話を聞いていられなくて、僕はTVを付けた。

サイドテーブルに置いた携帯電話を手に取り、ロックを外すためPINコードを入力した。

その4桁の数字だけで、胸が切なくなった。

リビングを占拠するソファに寝転がった。

背が高い僕が思いきり足を伸ばしても、まだ余裕がある大きなソファ。

足先の数十センチの隙間を見て、胸が詰まった。

隣室に顔を出して、楽し気に会話を交わす彼らに声をかける。

「コーヒーを淹れようか?」

「ありがとう、でもこの後行くところがあるんだ」

コーヒーをすすめておきながら、早く一人になりたかったから、断られてホッとしていた。

彼らのために僕は、マンションに横付けした車まで荷物を運んでやった。

そして、車の色を見て、胸が締め付けられそうになった。

(暗証番号は、彼女の誕生日。

「チャンミンの身長に合わせないとね」と一緒に選んだソファ。

彼女が独身時代、乗っていた車の色がワイン・レッドだった)

全てが、彼女とリンクしてしまって、泣けてくる。

玄関、廊下、リビング、洗面所と次々と電気を付けて歩く。

家じゅうを明るくするために。

「チャンミン!

省エネ、省エネ!

使っていない部屋の灯りは消すこと!」

(彼女がここにいたら、小言を言っただろうな、絶対)

薄暗いのは怖い。

寂しい気持ちが増してくるから。

僕は、ダイニングテーブルに置きっぱなしのPCの電源を入れた。

辛くなると分かっているのに、見ずにはいられない。

フォルダを開くと、大量の写真が画面いっぱい埋め尽くす。

撮影日の古いもの順に、並び替えてみた。

数年分若い僕と彼女との写真。

一緒にいられるだけで幸せで、笑顔で、片時も離れたくなくて。

(あの頃に戻りたいかって?

答えは「NO」だ)

左手をかざし、薬指にはめた指輪にじーっと視線を注ぐ。

(あの頃より、今の方が幸せだ。

「今」、はちょっと正確じゃないな。

5日前、

ほんの5日前までの方が、ずっと幸せだった)

フォルダを閉じて、テキストソフトを立ち上げた。

しばし目をつむって考えを巡らした後、僕はキーボードをパタパタと打ち始めた。

寂しいです。

僕独りは辛すぎます。


パンケーキ・ミックスをボウルに入れた。

彼女はいつでも目分量だった。

「細かい男は嫌われるよ」

きっちりと計量カップではかる僕に呆れていた。

卵も牛乳も、その時々で量が違ってた。

「こういうものわね、美味しい物しか入っていないんだから、不味くなりようがないのよ」って。

卵を割り入れ、冷たい牛乳を加え、泡だて器でゆっくりと混ぜ合わせる。

「洗い物が減るんだから、この方が合理的」って、彼女はお玉でぐるぐる混ぜてた。

大雑把にも関わらず、彼女が焼き上げたパンケーキは、それはそれは美味しいんだ。

中はふっくらと、表面はちょうどよい焦げ加減で。

僕が焼くと、こう上手くは焼けない。

生焼けだったり、焦がしてしまったり。

ホットプレートに並ぶ水玉から、目を離さない。

僕は、無心でパンケーキを焼き続けた。

焼きあがったパンケーキを、1枚ずつ積み上げていく。

どれくらい積み上げられるか、途中から面白くなってきた。

ボウルが空になったので、追加で生地を作る。

コンビニまで走って、足りない卵と牛乳を買ってきた。

業務用サイズのパンケーキ・ミックスを全部使ってしまった。

 

彼女と一緒なら、もっと面白かった

濃く淹れたコーヒーと一緒に、パンケーキを食べた。

その夜は、バターをたっぷり塗って食べた。

口の中もお腹も幸福で満たされたのに、僕の心は隙間風だらけだ。

寂しいよ。

独りで食べても、むなしいよ。

 

 


帰宅した僕は、玄関、廊下、洗面所、キッチンと順番に点ける。

ダイニングテーブルには、パンケーキが積み上げられたお皿がある。

電気ポットでお湯を沸かして、紅茶を淹れた。

出張土産に彼女にあげた紅茶だ。

トースターで軽くあぶった2枚に、メープルシロップをかけて食べた。

鼻の奥がツンとして涙が出そうだったけど、それをこらえて、ゆっくりとパンケーキを食べた。

食後はパソコンに向かった。

それから、寝相の悪い彼女のために選んだキングサイズのベッドで、一人で眠った。

次の日は、丁寧に入れた緑茶と一緒に食べた。

 その次の日は、いちごジャムをのせて食べた。

その次の次の日は、冷たい牛乳と一緒に食べた。

彼女はいない。

パンケーキはなかなか減らない。

使い終わった皿を洗いながら、僕はとうとう泣いてしまった。

会いたい。

彼女に会いたい。

 

彼女のことが大切だったから、できる限り彼女に寄り添えるよう、心をくだいてきた。

でも、彼女はここにないものを求め続けていた。

そんな暮らしがむなしくなって、もう沢山だ、って本心を彼女にぶちまけてしまった。

絶対に口にしたらいけない言葉を。

絶対に彼女が傷つくとわかって、敢えて口にしたらところもあったのかもしれない。

彼女を沢山傷つけてしまった直後、

僕は彼女を失ってしまった。

二度と取り戻せない。

後悔しても、もう遅い。

彼女はもう、戻ってこない。

 彼女とはもう、夢の世界でしか会えないのかなあ。

もしそうなら、僕はずっと眠ったままで構わない。

彼女との思い出が、だんだん遠くなっていくのが怖い...。


背後に気配を感じた。

「こらっ!」

「いでっ!」

 急に頭をはたかれて、心臓が止まるほど驚いた。

「勝手に私を死人にするんじゃない!」

 「サトコさん...」

振り返ると、サトコさんがいた。

「おかえり!」

僕はサトコさんに飛びついた。

「チャンミン、ただいま」

僕に抱きしめられながらも、サトコさんの目は、じーっとパソコン画面の文章に注がれている。

 気づいた僕は、パソコンに飛びついた。

 「どれどれ...

『彼女はもう、戻ってこない』

『彼女とは夢の世界でしか会えないのかなあ』

...ふむふむ。

『 僕は眠ったままで構わない』

​『彼女』って私のことでしょ?」

「わー、読むなー!」

 パソコンを頭の上に持ち上げた。

 「チャンミン、小説書いてるんだ?」

「違うよ!

日記だってば!」

こっぱずかしい文章を読まれて、火が出るほど頬が熱くなった。

 汗も噴き出してきた。

 僕は、サトコさんが不在だった10日間の暮らしを、パソコンに書き記していたのだ。

最初は、日記調だったのが、思いが深くなり過ぎて、筆が滑りすぎて、『妻を亡くして嘆き悲しむ夫』、にまで話が膨らんでしまった。

寂しくてたまらない気持ちを吐露したものが、相当にロマンティックになり過ぎてしまった。

誰かに見せるなんてとんでもない。

 書いた当人さえも、こんな恥ずかしいもの、読み返せない。

 

 「チャンミンは、私がいなくてそんなに寂しかったんだ」

 「そうですよ...悪いか?」

「プリントアウトして、私に頂戴」

「へ?」

「製本して、本棚に飾っておくから」

 「嫌です」

「チャンミンと喧嘩したとき、朗読してあげるから」

 「もっと嫌です」

 「ケチ」

僕も負けていられない。

「サトコさん、一度ここに寄ったでしょ?」

「来てないよ」

サトコさんが僕から目をそらした。

 サトコさんは嘘が下手だ。

 「来てるでしょ?」

 「来てない」

「立派にバレてるから」

 「バレてる?」

「3枚減ってた」

「何が?」

 「パンケーキが減ってた」

「......」

 「サトコさん、パンケーキが好きでしょう?」

「......」

「パンケーキのいい匂いに誘われて、サトコさんが帰ってくるんじゃないかなぁって」

 「枚数をいちいち数えてたの?

 チャンミン、細かい男は嫌われるよ」

「パンケーキ食べる?」

「夕飯に、パンケーキ?

ご飯とふりかけだけの、質素なメニューを欲してるのに」

  「冷凍庫がパンケーキで、いっぱいなんだ」

「外食続きで太っちゃったのよ」

「ホントだ」

「なんですって!?」

「嘘です。

太ってないです。

アイスをのせる?

ホイップクリームもあるよ」

サトコさんは、疑わしそうに僕を睨んでいたけど、ふんと鼻をならしてダイニングチェアにすとんと腰を下ろした。

 「私を太らせる気?」

「アハハハ。

抱き心地がよくなります」

「真に受けるわよ、その言葉。

両方のっけてね」

 

 「了解!」

 

 

(後編につづく)

 

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(3)水彩の月★

 

 

 

「食事に...行きませんか?」

 

おずおずと切り出され、一瞬だけ迷って、

 

「はい」

 

と私は返事をした。

 

「よかったです」

 

彼は、心からホッとした表情をした。

 

彼に案内されたのは、古くて大賑わいの居酒屋で、スマートな装いの彼が浮いていて可笑しかった。

 

「いきなり高級レストランじゃ、大げさかと思いまして」

 

照れて目元をほころばせた。

 

「ここなら、メニューが豊富ですし」

 

メニュー表を私の前に広げる。

 

「好きなものを選んでください」

 

食欲なんて全然なかったけれど、彼に変に思われたらいけない。

 

店員を呼んだ彼は、私がでたらめにメニューを指さす通りに、注文を済ませてくれた。

 

次々とテーブルに料理が届く。

 

私は、おそるおそるだし巻き卵に箸を伸ばした。

 

出来るだけ小さく刻んで、口に運んだ。

 

「あ...」

 

じわっと広がる命の味。

 

ちゃんとした食事をしたのは、いつだっただろう。

 

私の身体に命が満ち満ちていくのが分かった。

 

かさかさになった私の筋肉に、骨に、血管に、栄養たっぷりの点滴液が巡り廻っていく感覚だった。

 

気付くと、揚げ出し豆腐も、海老の串揚げも小皿にとっていた。

 

「貴女は、美味しそうに食べるんですね」

 

「え?」

 

「見ていて気持ちがいいです」

 

あまりに美味しくて、じわっと涙がにじんでしまって、焦った私はおしぼりで目を拭う。

 

「美味しいですか?」

 

「ええ、とっても」

 

彼は、それはそれは優しい笑顔を見せた。

 

目尻のしわのおかげで、安心して見られる笑顔だった。

 

「よかったです。

このお店の料理は、全部美味しいんですよ」

 

財布を取り出す私を制して、彼は会計を済ませ、私たちは店を出た。

 

夏の気配が感じられる、湿度が高くて暖かな夜の空気が私たちを包む。

 

「駅まで一緒に行きましょうか」

 

隣を歩く彼の精悍な横顔を見上げた。

 

私の視線に気づいて横を向いた彼と、目が合った。

 

とくんと心臓がはねた。

 

「あの...あの!

今夜はありがとうございました」

 

頭を下げる私の肩の上に、彼の手がぽんとのった。

 

「お礼を言うのは僕の方です。

誰かと一緒に食事をするのは久しぶりでしたから」

 

細めた彼の目が、少しだけ潤んでいるように見えた。

 

ごく最近に、彼も誰か大切な人を失ったのだろうか?

 

彼の笑顔は素敵だけれど、笑顔の筋肉を久しぶりに動かしたかのような、ぎこちなさがあったから。

 

なんとなく、そんな感じがした。

 

 

 


 

 

突如、眠りの一日が訪れた。

 

眠くて眠くて仕方なかった。

 

1年半分の睡眠不足を取り戻すかのような一日だった。

 

夢も見ず、“泥のように”の言葉通り、こんこんと眠った。

 

そよぐ風で目覚めた。

 

チャンミンは裸足のままベランダに出て、フィロデンドロンに水を与えていた。

 

鉢底から水が流れ出るまで、たっぷりと。

 

ベランダに出しっぱなしでも大丈夫な季節になっていた。

 

「よく眠ってましたね。

マイさんが寝ている間、僕は3回も一人でご飯を食べましたよ」

 

ちょっとだけ拗ねた口調で言いながら、室内に戻ってくる。

 

そうだった。

 

チャンミンには部屋の鍵を渡してあったんだった。

 

「マイさん、進歩していますよ。

上手くなりましたね」

 

床に直接座ったチャンミンは、私のスケッチブックを膝に広げていた。

 

「恥ずかしいから!」

 

手を伸ばすと、チャンミンはスケッチブックを高く掲げてしまう。

 

「僕の顔を、いつ描いてくれますか?」

 

「え?」

 

スケッチブックを取り返そうとした手がぴたりと止まった。

 

「あの...もっと上手くなってから...」

 

「冗談ですよ」

 

チャンミンはスケッチブックを私に返すと、マットレスにあごをのせて、じーっと私を見上げた。

 

「頬がふっくらしてきましたね。

よかったです」

 

優しい性格そのままの、丸いカーブを描いたまぶた。

 

チャンミンに気付かれただろうか。

 

チャンミンは鋭い。

 

あどけない眼差しにさらされて、私の心は怯えていた。

 

「安心しました」

 

寂しそうな笑顔だった。

 

懐かしい笑顔だった。

 

 

 


 

「今日は、遠回りしていきましょうか」

 

チャンミンと手を繋いで、足を向けたのは市民公園だった。

 

日が暮れて、完全な無人になった公園は、日中の健全な空間から一変して寂しくなる。

 

夜のしっとりとした空気、木々が放つ青臭い空気。

 

砂利道の遊歩道は、公園の大きな池を一周している。

 

この公園は、私とチャンミンのお気に入りの場所だった。

 

池には鯉が飼われていて、池をまたぐ橋から餌を投げてやるのを二人で楽しんだのだ。

 

無人販売小屋の空き缶に硬貨を入れて、パンの耳が詰められたものを買って。

 

いっぺんに投げ込んだ私と、目当ての鯉に狙いを定めて少しずつ投げてやったチャンミン。

 

「食いしん坊なあの太った鯉は、マイさんですね」とチャンミンが言って、

 

私は「離れたところにいるあの鯉は、マイペースなチャンミンみたい」とからかった。

 

そんな思い出のある公園だった。

 

 

「マイさん」

 

ずっと無言だったチャンミンが、口を開いた。

 

チャンミンが何を言おうとしているのか分かった。

 

「好きな人が、いますね」

 

自分でもはっきりわかるくらい、肩がビクリとした。

 

「僕は気付いていましたよ」

 

私たちは立ち止まった。

 

柵の向こうの池は、夜の闇に沈んでしまっている。

 

「...ごめんなさい」

 

そう言うのがやっとだった。

 

チャンミンと繋いだ手が、汗ばんでいる。

 

「謝らないでください」

 

チャンミンは手を離すと、私の両肩に手を置いて、私を覗き込んだ。

 

チャンミンの顔も、闇夜に包まれてしまって、表情はうかがえなかった。

 

「ごめんなさい!」

 

涙が出そうなのをこらえる。

 

泣いたらいけない、涙はずるいから。

 

「マイさん...」

 

「ごめんなさい。

いつかは言わなくちゃいけないと思っていたの」

 

「マイさん」

 

「ごめんなさい。

チャンミンはずっと、私のそばにいてくれて...」

 

駄目だ。

 

涙を止められない。

 

「チャンミンは、

いっぱい...いっぱい...

私を支えてくれたのに...」

 

涙が次々とこぼれて、鼻水も出てきて、しゃくりあげてうまくしゃべれない。

 

「ずっと...ずっと...

 

チャンミンだけを、

チャンミンだけを、

好きでいたかったのに...。

 

本当に...ごめんなさい!」

 

「マイさん、謝らないで!」

 

チャンミンは大きな声を出すと、腕を伸ばして私を引き寄せた。

 

「違うんです。

悪いのは、僕の方なんです」

 

チャンミンは私の首筋に頬を埋めると、吐き出すように言った。

 

「僕がマイさんを引き留めていたんです」

 

 

 

 

 

 

 

あの日。

 

あの冬の日。

 

冷たいみぞれ雪が降る夜。

 

こんな天気に、こんな時間に、カラスみたいな恰好の女を、公園で降ろしたタクシーの運転手さんはどう思っただろう。

 

池には薄氷が張っていた。

 

黒いコートも黒い靴も脱いだ。

 

氷のように冷たい鉄柵をつかんで、上半身を乗り出した。

 

身体を痛めつけてやる、凍り付かせてやる。

 

空からぼたぼたと落ちる氷水が、黒いスーツをどんどん濡らしていった。

 

チャンミンのいない人生なんて、想像がつかなかった。

 

自分の人生プランに、こんなイベントが起こるはずがなかった。

 

断じて受け入れたくない!

 

 

チャンミン。

 

 

チャンミン。

 

 

チャンミン!

 

 

どうして私を置いていってしまったの?

 

続きを楽しみにしていたドラマも、まだ途中だよ。

 

誕生日プレゼントは、もう用意してあるんだよ。

 

一緒に暮らそうって、言ってたじゃない。

 

どうして冷たくなってしまったの?

 

そんな怖い顔していないで、笑ってよ。

 

目を開けて「じろじろ見ないでください」って笑ってよ。

 

チャンミンのいない人生なんて、あり得ない。

 

 

チャンミンの元に行きたい。

 

 

ストッキングの足を柵にかけた時、

 

ぐいと腕を引っ張られた。

 

 

「何をやっているんですか!」

 

 

チャンミンが現れた。

 

 

チャンミンだ!

 

 

引き寄せられたチャンミンの胸が、頼もしくて温かくて。

 

「マイさんは、僕がいないと駄目ですね」

 

私が大好きだったダッフルコートを着ていた。

 

「おうちへ帰りましょう」

 

チャンミンは広い背中を見せて、私の前でしゃがんだ。

 

私がチャンミンの首に腕をまわして、体重を預けると、チャンミンは私をおぶって軽々と立ち上がった。

 

首筋に鼻をくっつけて、チャンミンの匂いを吸い込んだ。

 

よかった、温かい。

 

よかった、チャンミン生きていた。

 

よかった、チャンミンが戻ってきた。

 

 

もしくは、

 

私は、あの世に行けたのかな。

 

あの世のチャミンに会えたのかな。

 

あの世で、チャンミンにおぶわれているのかな。

 

どちらなのか分からなかった。

 

どちらでも嬉しかった。

 

幸せだった。

 

けれども、心の底では分かっていた。

 

どちらもあり得ないのだと。

 

これは夢なのだ。

 

チャンミンを恋焦がれる狂った精神が、チャンミンの亡霊を見せているのだと。

 

ところが、夢じゃなかった。

 

びっくりした。

 

最後に別れたあの図書館前に、チャンミンは待っていた。

 

行けば必ず、チャンミンは待っていた。

 

そして、手を繋いでおうちに帰るの。

 

お~て~て~繋いで~、野道をゆ~け~ば~♪

 

チャンミンと思い出話をたくさんして、チャンミンの腕の中で眠りにつく。

 

 

私の初めては、全部チャンミンと経験した。

 

二人で、数えきれないほどの初めてを味わって、一緒に笑って、泣いた。

 

思い出話ばかりしていたら、過去の世界にとどまり続けるばかりで、先に進めないって?

 

 

ううん。

 

そんなこと、なかった。

 

思い出話をすることで、昇華された。

 

チャンミンとの思い出を、少しずつ過去のことにしていけたの。

 

 

夢じゃなく、確かにチャンミンは存在した。

 

冷え切って固くなってしまった手じゃなかった。

 

温かな手で私に触れていた。

 

私の心が、しゃんとするまでチャンミンは、私と手を繋いでいてくれたの。

 

 

 


 

 

マイさんを一人にできなくて、僕はいつまでもマイさんのそばに居続けました。

 

どんどん痩せていくから心配で。

 

僕のせいで、マイさんをこんな風に苦しめてしまって。

 

打ちのめされたマイさんが元気になるまでは、見守ろうって決めたんです。

 

そのうち、欲がでてきたんです。

 

僕は、ずっとずっと、マイさんの側にいたくなったんです。

 

離れがたかったのは、僕の方なんですよ。

 

でも、僕の役目は終わったようですね。

 

 


 

 

「マイさんは、素敵な人です」

 

チャンミンは、私を抱きしめて、私の頭を撫でながら言った。

 

「だから、マイさんが好きになる人も、素敵な人です。

 

彼は...

悔しいですけど、

 

僕よりずっといい男です」

 

顔を上げようとする私を押さえるように、チャンミンの腕に力がこもった。

 

「彼なら大丈夫です。

 

彼なら安心して、マイさんを任せられます」

 

チャンミンの大きくついた一呼吸に合わせて、彼の胸も上下に動いた。

 

 

 


 

チャンミン。

 

手を繋いでいてくれてありがとう。

 

私が前に進めるようになるまで、側にいてくれてありがとう。

 

みぞれ雪の夜、私を助けてくれてありがとう。

 

生きる道を、私に残してくれてありがとう。

 

 


 

 

「マイさん」

 

私を抱きしめる腕をゆるめると、チャンミンは私の顔の高さに腰をかがめた。

 

「はい」

 

「僕の最期のお願いをきいてくれませんか?」

 

こくこくと頷いた。

 

「キスしてもいいですか?」

 

私は、大きく頷いた。

 

そっと唇が触れるだけの優しいキス。

 

少しだけ口を開けたら、チャンミンの温かい舌が私の舌にちょんと触れた。

 

私の涙と、チャンミンの涙が混じってしょっぱい味がした。

 

 

「このキスが、僕の生きる糧になります...って、生きるって言い方も変ですけどね」

 

ふふふっとチャンミンが笑った。

 

 

 


 

 

マイさん。

 

 

大好きでした。

 

 

僕は貴女のことは忘れません。

 

 

でも、マイさんは僕のことを忘れてくださいね。

 

 

僕の手じゃなく、彼の手を繋いでください。

 

 

全部忘れられたら、やっぱり寂しいので、1年に1度は僕のことを思い出して下さいね。

 

 

 

(おしまい)

 

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