(46)麗しの下宿人

 

きつく吸い込むごとにタバコの先が赤く明るく灯り、ついでユノの口から濃い紫煙が吐き出された。

「煙の匂いをぷんぷんさせていたら、周りの迷惑にならないのかな?」

「ああ~、それは心配いらない。

煙の匂いを認識できるのはオメガとアルファだけだから」

「あの~。

...ユノちゃん?」

僕は勇気を振り絞り、かつさり気なさを装って、去年の夏からずっと心のうちにシコリとなっていた疑問をようやっと口にしてみた。

「この匂い...嗅いだことある...かも」

ユノの反応が怖くて、僕の視線は彼の肩越しの壁に向けられていた。

「なんだって?

嘘だろ?」

と僕は鋭い口調で問われ、ユノを見た。

「嘘じゃない」

「そうか、それならば近くにオメガが居たってことだな。

どこで嗅いだ?」

「え~っと」

僕は言い渋った。

「近所の話か?」

「ううん。

...ユノ、ちゃんち...?」

「俺の?」

「うん」

大きく頷くと、ユノは目を見開いた。

ぎくりとしている風にも、まったく信じていない風にも受け取られて判断に困る。

「うん。

ユノちゃんちで嗅いだことがある」

「これを?」

ユノは2本の指で挟んだタバコを揺らしてみせた。

フィルターの部分に赤いラインが入った紙巻きタバコだ。

「そうだよ」

「いつの話?」

「去年の...夏休み頃」

「去年...?」

斜め下に向けられたユノの眼は虚ろになっていて、記憶をたどっている風に見えた。

「こっちに引っ越してきてから吸ったことないんだけどなぁ...」

ユノは半分も吸っていないタバコを灰皿に押し付けると、傍らにあったグラスの水を飲んだ。

「果物の匂いじゃないかなぁ?

腐る寸前の果物の匂いに似てるからな、これ」

「果物の匂いじゃなかった」

「チャミの前でこれ吸うの、今日が初めてだぜ?

何かの匂いと間違えてるんだよ」

こんな特殊な香り、間違えるわけない。

ユノがとぼけているのか、忘れているのか。

それとも、あれは暑さで頭をやられた僕の空想だったのか。

もう一歩踏み込んでみるべきか。

「あ~、そうだった!」

と、大きな声を出したユノは何かを思い出したみたいだ。

「多分、あれだ。

あれ。

チャミママからとうもろこし貰っただろ?」

「...とうもろこし」

「そう、それの匂いじゃないかな?

とうもろこし、甘くて美味かったなぁ」

「違う!」

残念なことに僕の記憶は確かなのだ。

匂いを含め、暗さに慣れない目や蒸れた空気、乾いた舌の味、鼓動の音...感覚全部でもって僕の記憶に焼き付いているんだから。

「とうもろこしじゃない」

知らぬ間に語気が荒くなっていた。

「チャミ...?」

無かったことに出来なかった記憶の正体を確かめようとしている。

つぶれた吸い殻の端から、ひと筋の白い煙がゆらりと立ち昇っている。

これは蚊取り線香だ。

僕を襲おうとするアルファ除けの煙だ。

「とうもろこしを持って行ったのは僕だよ。

僕が部屋まで持って行ったんだ」

「そうだったっけ?

昔の話だから覚えてないなぁ...」

ユノは窓ガラスを開け、室内にこもっていた煙を追い出した。

「あの日だけど...」

心臓がドキンドキンする。

「ユノちゃんちに友達が来てたでしょ?

その時に嗅いだ匂いと一緒なんだよ」

 

(つづく)

 

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(45)麗しの下宿人

 

「!?」

うなじにぞくりと寒気が走り、勢いよく後ろを振り向くと、「どうした?」と表情のユノが僕を見下ろしていた。

「な、何!?」

首筋に何かしらが触れたのは確かで、その何かの正体を探ろうと首筋を撫ぜると、そこは未だほのかに湿っていた。

「どうかしたのか?」

「首に何か...」

首筋をさする僕に、ユノは「気のせいじゃない?」と言った。

「虫でもないし」と、室内を見回した。

少し肌寒いせいで、窓は閉め切っていた。

「そうかも...」

今日はとても疲れている上に、ユノに抱き付いたりなんかして、感覚や感情が狂っているせいかもしれない。

ユノとたくさんおしゃべりしたい気分だったから、時間は無駄にしたくない。

「いいから、座りなよ」

畳に胡坐をかいたユノの真向かいに 僕も膝を抱えて座った。

ユノの裸足は大きく、破れた...デザイン上なのか着古したせいなのか分からない...ズボンの穴からがっちりと頑丈そうな膝がのぞいていた。

洗濯を繰り返したTシャツはユノの筋肉のラインを拾っていた。

目の前のこの人はあまりにも大人で大きくて、あまりにも小さな僕とかけ離れていて、差の大きさを思うと胸が苦しくなった。

これぞ、アルファが放つ圧倒感もあるだろうけど、僕がずっと感じ続けてきた本来のユノへの憧れからだと思いたい。

本能に引き寄せられているだなんて、思いたくなかった。

ユノの部屋はデスクスタンドの灯りだけで、デスクにノートと分厚い専門書が開いていたから、どうやら勉強中だったのだろう。

「邪魔した?」

「いいや、全然」

電気スタンドの脇に処方薬の白い紙袋が置かれていた。

アルファが服用する必要がある 『抑制剤』とやらだ。

身近にオメガがいる環境で生活せざるを得ない時、万が一の事態を防ぐため、衝動性を抑える薬効がある。

加えてオメガが放つ香り...アルファを誘う香り...に鈍感になる。

ユノは昨年の夏から、僕のためにこの薬を服用し続けている。

認可されたばかりの新薬だ。

薬袋の隣に灰皿があって、「あれ?」と思った。

「ユノちゃん...」

「ジャケット、脱いだら?

窮屈だろ?」

ユノの言う通り、新品の制服は肩が凝る。

「貸して」

ユノは僕からマスタード色のジャケットを受け取ると、ハンガーにかけると鴨居に引っ掛けた。

「ユノちゃんって...タバコ吸ってるんだ」

ユノと出会って4年あまり、彼が喫煙している姿は一度も見たことがなかった。

内緒にしていたのかな?

僕が知らない大人の世界にユノが居るのだと思うと悔しい気持ちになった。

僕が指さした灰皿には、吸い殻が3本あった。

会うなりユノに抱きついてしまったり、目の前にいる彼に気をとられていてしまったりで、室内に充満する香りに気付けていなかった。

スモーキーで甘い香りだ。

「あ~、それね。

俺はタバコはやらないよ」

そう言ってユノはポケットから出したタバコの箱を、僕に放ってよこした。

「タバコじゃない」

僕はためつすがめつ観察してみたが、それは商品名すらもプリントされていない、無地の白箱だった。

いぶかしげな僕に、ユノは「あやしいものじゃないよ」と笑った。

「おまわりさんにつかまっちゃうものじゃない。

これは、チャミの近くでいられるためのアイテムだ」

「?」

「この部屋、禁煙じゃなかったよな?」

「うん」

歴代の住人たちによるタバコのヤニで、天井と柱が変色していた。

「1本頂戴」

ユノは1本を口に咥えると、ポケットから三日月柄がプリントされたマッチ箱を取った。

爆ぜた火花に一瞬間照らされた、伏せたまつ毛がつくる影と、真っすぐに伸びた鼻梁に見惚れてしまった。

ユノはタバコ風のものを強く吸い込み、顔を背けて煙を吐き出した。

「うまいもんじゃないんだけど...」

ユノはさらにひと吸いした。

「これはオメガが近くにいても興奮しにくくなる煙だ。

オメガの香りを誤魔化してくれるし、煙を嗅がせることでアルファの鼻と欲を麻痺させてくれる。

チャミ...後ろを向いて」

ユノに手招きされた僕は、彼に背を向けて座りなおした。

「!」

うなじにふっと、空気が吹きかけられた。

「特に首の後ろからの香りが漂うんだ。

チャミは未だ、発情期を迎えていないから分からないかもしれないけれど、発情期中のオメガが出す香りは凄い。

俺たちアルファは平静を保てない。

そうならないために薬を飲んでるんだけど、それだけじゃ不十分なんだ」

僕はくんくんと、シャツについた匂いを嗅いだ。

「吸う機会がほとんどなかったから、仕舞いこんでた。

やっぱ、使い時かなと思って、久しぶりに吸ってみたんだ。

相変わらず、まずい」

ユノは顔をしかめた。

しかめた顔もハンサムだった。

「匂いがきついから、遠慮してたんだ」

ユノはもう一度、僕のうなじに煙を吹きかけた。

「慣れるまで気になるだろうけど、アルファとオメガ界隈ではわりとポピュラーな匂いだ」

「“界隈”って...ふふっ」

ユノの言い方が面白くて噴き出してしまう。

「俺自身、チャミみたいな若いオメガが近くに居た経験はないと言っていい。

だから、何重にも予防しておきたいんだ」

ユノは立ち上がると、僕のジャケットのポケットから例の布切れを取り出した。

「これもそのうちのひとつだよ。

『アルファが近くにいるんだぞ』って、マーキングしてるわけ」

「ふっ...マーキングって...言い方」

ユノは「アルファは鼻が利く」と言って、自身の鼻先をつついてみせた。

「チャミが『オメガ』だって、見つけたのは俺だ。

チャミがいつか、運命の『アルファ』と出逢えるまで、俺はチャミを護る責任を果たしたい」

「嫌だよ!

僕にはユノちゃんしかいないよ!」

ユノの発言は聞き捨てならず、僕は非難の声をあげた。

「俺もそうなったらいいと思う。

チャミはまだ若いし、発情期も迎えていないから先のことは分からない」

「発情期になれば分かるの?」

「ああ。

そのあたり、学校でレクチャーがあると思う」

早々とオメガになってしまったせいで、診察室でされるのは年齢に配慮したどこか概念的な説明にとどまっていた。

オメガ専門の学校という、同じ境遇の同年代の者たちが集められた環境でなら、具体的な身体的変化やアルファからの脅威についての教育が受けられるはずだ。

「で。

どうだった、学校?」

「あ~...」

ユノに訊ねられたことで、今日の出来事を報告したくて、この部屋に駆け込んだんだと思い出した。

ところが、ある疑問が頭を占めてきたせいで、何を話せばよいのか迷子になってしまっていた。

それは煙の匂いだ。

熟れた桃のような香りは初めて嗅ぐものでははかった。

かつて僕が目撃してしまった、ユノが裸の誰かと抱き合っていた日、室内に充満していた香りそのものだった。

 

(つづく)


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(44)麗しの下宿人

 

オメガを隠し続ける学校生活を送るよりも、不特定多数のアルファから身を守ることのできる特別学校で、のびのびと勉学に励めるのは大変魅力があった。

ユノは僕を護ると言ってくれたけれど、そこには「保護者として」の注釈が入るのだろう。

彼と並んで立つと、30㎝の身長差もあって年の離れた兄弟のように見えた。

僕を見下ろすユノの目はいつも、か弱きものを見守る優しい目なのがその証拠だ。

そうじゃないんだよなぁ。

僕が欲しいのはそうじゃないんだよなぁ。

ユノは気づいていないよね。

憧れを持って見上げる13歳の瞳の中に、粘っこい感情が混じっているのを。

ユノが優れた力と知を備えたアルファだからこそ、僕はどうしようもなく彼に惹きつけられてしまうのは当然のことで、出逢いの日、階段から転落しかけた僕を救った瞬間、ユノの獰猛な目にぞくぞくしてしまったのは否定できない事実だ。

あの時すでに、僕の潜在的オメガ...アルファに怯え、服従したくなる特性...はアルファに反応していたのだろうか。

純粋だった僕らの関係は、理性に逆らえない動物的な本能によって歪められるんじゃないかって、不安なんだ。

大人でかっこよくて賢いユノに憧れ、弟のように懐いていた頃に戻りたいなぁと思ったりした。

今さら戻れないって分かってる。

初登校の日、母とユノが見送ってくれた。

スクールバスは自宅近くの公園前に指定された。

近所に同じ学校に通う者はいないらしく、バスを待つ生徒は僕一人だった。

そりゃそうだろうな、と思った。

オメガは全人口の0.5%しかいないのだ。

ユノは洗いっぱなしの髪に白のトレーナー、色あせたデニムパンツといった 気の抜けた服装で、さらには片手をパンツのポケットに突っ込み、あくびを噛み殺している。

あらたまった格好で見送られたら、かえって緊張しそうだった。

「行ってらっしゃい」

僕は2人を振り返り、「大丈夫」と頷いてみせた。

ステップを上がると、既にバスに乗り込んでいた在校生たちの注目を一身に浴びた。

小心者で人見知りの僕は、彼らの視線に耐えられなくて、空いているシートを見つけるや否や腰を下ろした。

バスは発車し、僕は窓ガラスに額をくっつけんばかりにして、遠ざかる母とユノの姿を見送ったのだった。

「ふう...っ」

僕はシートに背を預け、堅い革バッグを抱えた。

見知っている駅やショッピングセンター、いくつかの橋を渡り交差点を曲がり、学校やネットのてっぺんしか見たことのない打ちっぱなしゴルフ場を過ぎた辺り以降は、僕の知らない場所だった。

緊張と座席のビニールの匂いで気分が悪くなってきた。

僕はジャケットのポケットから取り出した布切れを、すんと胸深く吸い込む。

それはユノの...アルファの...匂いがたっぷりしみ込んだTシャツを、30センチ四方に切ったものだった。

医師とユノ曰く、いわゆる「マーキング」に近いもので、街中に紛れ込んだアルファ避けになるんだそう。

「さっきの人...アルファだよね?」

「え?」

通路を挟んだ席にいた生徒の一人が話しかけてきたのだ。

その子は色素が薄く、栗色の髪と長いまつ毛の持ち主で、ズボンを穿いているから男子なのかな、と判断した。

「どうして分かったの?」

「君のそれ」

彼は僕が握りしめていた布切れを指さして、「アルファの匂いがする」と言った。

「ええっ!?

分かるものなの?」

「俺らは羊だからね。

狼の匂いに敏感にならなきゃ、食われちゃうよ」

布切れの匂いを嗅いでみたが、ユノの香りしかしない。

「君も何人かのアルファに会っていれば、匂いが分かってくるよ。

今まで何人のアルファと会ったことある?」

「え~っと」

去年の夏、図書館で「アルファらしき男」に腕をつかまれたこと、僕のことを「臭い」と言ってからかったクラスメイトを数に入れて、「3人」と答えた。

彼は「妥当な数か」と言って、無遠慮に僕のシャツの襟を引っ張った。

「な、何すんだ!?」

「違うのか...。

だよなぁ、中1で“番(つがい)持ち”は早いよなぁ」とつぶやく彼は、声変わりしてないようだった。

「『番』って?」

いぶかしげな僕の表情に、彼は呆れた表情を見せる。

「あれ?

教えてもらってないの?」

「うん」

「お前の名前は?」

「お前呼ばわりかよ」と思いながら、名前を告げた。

「ふ~ん。

俺、B。

3年生 よろしく」

Bが僕のうなじを確認した理由が分からないまま、差し出された手を握った。

「それとさ...」

Bは僕にうなじを見せて「俺には『番』は未だいないよ」と言った。

つるんと白い、すべすべのうなじをしていた。

狼に噛まれたりなんかしたら、容易に折れてしまいそうな細い首だった。

「中学生で『番』がいたりしたら大変だからな」

そう愚痴ると、Bは自分の席に戻ってしまった。

次の診察は来週にある。

(番について詳しい説明を受けよう)

へとへと疲労困憊で初日を終えた僕は、帰りの道中ずっと眠りこけていたようだ。

運転手に肩をゆすぶられて目を覚まし、お礼もそこそこにバスを降り、身体を引きずるようにして帰宅した。

(ユノだ!)

玄関斜め上の2階からユノのシルエットが片手をあげていた。

勝手口へ回る時間も惜しくて、正面玄関に靴を脱ぎ捨て階段を駆け上がった。

開いた引き戸から廊下へ灯りが漏れていた。

「ユノちゃん!」

長袖Tシャツと膝の開いたデニムパンツを身に付けたユノがいた。

濡れ髪を見るのは久しぶりだった。

オメガになった以降、ユノと混浴するのを避けていたのだ。

僕は構わなくても、ユノがしんどいらしい。

分かっているけど、今日の僕はユノの顔を見るやいないや、抱きついてしまっていた。

「チャミ!」

僕の腕の中で、ユノのウエストは固く締まっていた。

押し付けた耳が、ユノの体温で次第に火照っていった。

いつまでも剥がれない僕に諦めたのか、僕の背の上で浮いていたユノの手はそっと背に落とされた。

「どうした?」

「...何でもない。

ちょっとだけ、こうさせて」

ユノはくすりと苦笑した。

「いいよ」

「今日は大丈夫だと思う。

薬はちゃんと飲んでる」

ここ1か月あまり、僕が放つ体臭は安定していた...はずだ。

「そうみたいだね」

「......」

「......」

沈黙。

(困ったな...)

10秒、20秒と、抱き着いた言い訳を考えているうちに、身体を離すタイミングを失ってしまった。

そして25秒を過ぎた頃、

「!」

突然僕の首筋に...首の後ろに温かく湿った感触が。

 

(つづく)

 

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(43)麗しの下宿人

 

僕んちは下宿屋を営んでいる。

たったひとりきりの下宿人の名はユノと言う。

12歳の夏、オメガ性が目覚めてしまった僕は普通の少年じゃなくなった。

そしてすごい偶然なんだけど、ユノは『アルファ』なんだって。

13歳になった僕は、『オメガ』特有の身体変化もさほどなく、『アルファ』の実態も知らずまだまだヒヨッコ『オメガ』だ。

でも、いずれ知ることになる。

怖い。

「どうなってしまうんだろう?」戸惑う僕を、ユノが導いてくれるらしい。

オメガだと宣告された日の帰り道、僕と母はファミリーレストランで夕食を摂ることにした。

混雑した店内で誰に聞かれているか分からなかったから、話したくて仕方がないオメガの話題には一切触れなかった。

狭くて居心地のよい我が家のダイニングでの会話のように...夏休みの宿題のことや、老人ホーム入所中の祖父について話をした。

テーブル真上の照明のせいで目の下の隈が際立ってしまい、母はとても疲れて見えた。

今日1日、僕らに降り注がれた情報量は多過ぎだったし、息子を案ずる思いがひとり親の肩に負担をかけていた。

「苦労かけてごめんね」と言いかけたけれど、母に向けて謝罪の言葉こそ口にしてはいけないのだ。

一人息子に謝られたりなんかしたら、母を苦しめてしまうことが分かりきっていたから。

お腹が空いていたから 全部食べた。

診察室で泣いたり気分が悪くなったりしたけれど、やっぱり実感が伴っていない。

現実を理解できない子供でよかったのかもしれない。

『オメガ』になったからと言って、困った経験が無かったせいもある。

レストランを出ると、外は日暮れ時で薄暗かった。

僕は母の手を握った。

初めて息子から手を繋がれて母は目を丸くしていたが、すぐに笑顔を見せ僕の手を握り返してくれた。

母の手は僕の手よりも小さくて、ユノの大きな包み込むような手と比較してしまった。

「ひとりで電車に乗って行けるかなぁ?」

これからの僕には、定期的な通院の必要があるのだ。

「行けるようにならないとね。

仕事が休みの日は、付き添うわね」

「ユノちゃんも付いていってくれるんだって」

「そうね。

助かるわね」

門を曲がった先に我が下宿屋がある。

ユノの部屋がある2階の窓は、どれもが真っ暗だった。

ユノは病院から直接アルバイトに出掛けたらしく、帰宅は翌朝だった。

翌春、ユノは2度目の契約更新を済ませた。

暑くも寒くもなく、空気はからりと乾燥した気持ちのよい日曜日だった。

全開にした窓から桜の花びらが舞い込み、色あせた畳の上と真っ白な僕の靴下の上に落ちた。

通りの突き当りに桜の巨木がある。

僕は制服姿でユノの部屋にいた

マスタード色のジャケットとこげ茶色でチェック柄のズボン、同色のネクタイ。

「いいとこの坊ちゃんみたいだな」

壁にもたれて漫画を読んでいたユノは、僕の全身をざっと眺めてそう言った。

「やっぱり派手だよね?」

同級生たちは地域の中学校に進学する一方、僕だけが私立中学へ通学する。

主治医の勧めだった。

思春期を迎えたオメガたちは、いよいよ危険にさらされるようになるらしい。

発情したオメガは、クラス内にいるかもしれないアルファを目覚めさせてしまい、彼らを煽っただの、彼らに襲われただのと校内を混乱に陥れる存在になること必至。

入学早々に行われる血液検査でオメガであることバレる前に、全国からオメガばかり集めた中高一貫校へ進学することに決めたのだった。

学校はバスで片道1時間半かかる場所にあった。

昨秋、学校見学をした際、設備とサービスの素晴らしさに僕は目を見張った。

地方の生徒たちの為に寮が用意され、寮生活をするほどではない近距離の生徒たちは道中危険があってはいけないからと、送迎バスを利用して通学する。

不特定多数のアルファたちから身を守るため、高い門扉と防犯カメラ、警備員が配備されている。

校内にオメガ専門の医療室があり、僕の主治医も定期的に訪れるとのことで、至れり尽くせりだ。

僕は未だヒートを経験したことはないが、ヒート(発情期)中の生徒たちが療養できる宿泊施設もあるんだとか。

オンボロ下宿屋の息子が、こんな至れり尽くせりな環境で学ぶことができるのも、学費も制服代も何もかもが無料だからだ。

なぜなら、オメガとは『保護』すべき貴重な存在だというのが理由だ。

『保護』という言葉が気に入らないけれども。

「チャミ」

ユノは膝をてこにして立ち上がると、「肩...余ってる」と笑っておもむろに僕の肩口をつまんだ。

「ジャケットに着せられてるみたいだな」

小柄で痩せ気味の身体がコンプレックスだった。

「このままでいいか。

そのうち大きくなるだろうからな。

俺も入学したての時は、ずるずるの制服を着てたなぁ」

「どうかな。

僕の背は小さいままだと思う」

「デカくなりそうな気はするんだけどなぁ」

ユノはそう言ってくれたけれど、オメガになってしまった以上、彼並みの高身長は望めないと諦めているのだ。

「ユノちゃんも中学の頃、小さかったの?」

「そうだなぁ。

中3の頃、一気に伸びた」

ユノは僕の頭頂部にかざした手のひらを、30㎝上まで持ち上げてみせた。

「『アルファ』が出てきたのもその頃だったかな」

「そうなんだ!」

今初めて、ユノがアルファになった頃の話を耳にして、もっと知りたいと思った。

「どんな風だった?

教えてよ」

ユノは、好奇心が溢れた挙句、ユノの腕をつかんでしまった僕に微笑んで見せた。

「いくらでも教えてやるさ」

昨年の夏以降、僕は自分自身のことでいっぱいいっぱいだった。

学校の課題とアルバイト、僕の通院の付き添いで、ユノのスケジュールは埋まっていた。

通院の道中、僕に危険を及ぼす者はいないかと、ユノは周囲に神経を尖らせていたし、周囲の耳を恐れて『オメガとアルファ』に関する話題は不可だった。

そして何より、『オメガ』特有の香りを放つ間隔と濃さが増してきたせいで、ユノと距離を取らざるを得ない期間が増えた。

振り返ってみると、共に気軽に過ごせる時間が激減していた。

「飯、食いに行くか?」

「行く!」

僕は元気よく即答した。

今日も母は仕事で留守にしており、昼食は残り物で済ませるつもりだった。

「着替えて来いよ」

「うん!」

バタバタと部屋を出ていく僕の後ろ姿を、多分きっと、ユノは優しいまなざしで見送ってくれてると意識していた。

 

(つづく)

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(42)麗しの下宿人

「暑い~暑い~、なんて暑さだ~♪

かき氷、食べたいなぁ~♪」

僕はでたらめな即興唄を小声で口ずさんでいた。

「今日も暇~、明日も暇~、なんにもすることな~い♪

友達いな~い♪」

下宿屋2階の欄干に腰掛けていた。

部屋の鍵は常に開けっ放しで、ユノとは気安い関係で、あっても、ユノの部屋に無断で入るわけにはいかない。

ここはユノの隣の部屋で、角度的に庭木が邪魔をして通りすべてを見渡すことはできなかった。

枝と枝の隙間を塗って、桜のあるT字路の辺りから目を反らさない。

ユノがいつ帰ってくるか分からないからだ。

「僕は早起き~♪

ららら~♪」

人通りのない辺りは小鳥の鳴き声がするくらいで、早朝の空気は過ごしやすい適温といえた。

昨夜、生まれて初めての『オメガ』の薬を1錠飲んだ。

体調の変化に注意を払っていたけれど、だるさや気持ち悪さもなんともなかった。

今朝の分は台所のテーブル上にある。

飲み忘れ防止のため、箸入れ脇に置きっぱなしにしておくことにしたのだ。

「はやく~、ユノちゃん~、帰ってこないかなぁ~♪」

ユノとは昨日、病院で別れた以来だった。

かれこれ30分、バイト先から朝帰りするユノを待ち構えていた。

「今日は~何しようかなぁ~♪

あっ!」

近所迷惑になるから、押し殺した声量でユノの名を呼んだ。

「ユノちゃん!」

ユノの視線の矢が、パッとこちらへ放たれた。

僕のところからはユノの表情までは見分けれないけれど、ほころんだように見えた。

ぶんぶんと手を振る僕に応えて、ユノも片手を上げた。

「おかえり」と、口だけをパクパクさせた。

「あっ!」

この時、僕は身を乗り出し過ぎてしまったようだ。

ぐらりとバランスを崩し、欄干から転落しそうになった。

(落ちる!)

僕の鈍い運動神経も、命の危険を目の当たりにするとそれなりに機能するようだった。

とっさに両手で欄干にしがみつき、額をしたたかに打ち付けた程度で難を逃れることができた。

(び、びっくりした)

心臓がバクバク打つ胸をなでおろした。

「チャミ!」

名前を呼ばれて見下ろした僕は、心底驚いた。

欄干の真下にユノがいたのだ。

僕が欄干から落下しそうになった時、ユノは未だ桜の家の門の辺りにいた。

ところが今この時、ユノは下宿屋の敷地内にいる。

僕の危機を察したユノは通りをダッシュし、高さ1.5メートルの塀をジャンプして乗り越えたということになる。

この間、1秒もなかった。

ユノは僕を助けるために『アルファ』の力を発揮したのだ。

「ユノちゃん...凄いね」

僕の考えを読み取ったユノは、「もう隠す必要がなくなったから」と照れくさそうに笑った。

「朝ご飯は?

用意してあるよ」

「サンキュ。

そっちに行くよ」

ユノの姿は玄関のひさしの中へ消え、僕も室内へと頭を引っ込めた。

僕は階段を駆け下り、洗面所で顔を洗うユノの元へと急いだ。

部屋で待っていられなかったのだ。

ざぶざぶ豪快に洗顔するユノの腰に腕を巻き付た...餌をねだって足元にまとわりつく子犬のように...。

「......」

ユノの腰はがっちりと固く、広い背中は激しく身体を動かしたせいで熱かった。

「どうした、チャンミン?

変だぞ?」

「...ユノちゃん、いい匂いがする」

バイトのユノは、外出前にコロンか何かを付けて行っているようなのだ。

「そう?」

ユノはシャツの襟口をくんくんと嗅いだ。

「うん、いい匂い。

香水付けてるの?」

「少しだけね」

「ユノちゃんはバイトに行くときお洒落をしていくんだ?」

「夏は汗臭いかもしれないだろ?」

「そんなことないと思うよ」

常々、仕事内容が何なのか気になっていたのだ。

夕暮れ時に出かけ、夜明け過ぎに帰宅しているから、夜の仕事だということは分かっている。

夜の仕事といえば、終夜営業のレストランや道路工事の仕事しか思いつけない。

「ユノちゃんのバイトって何?」

「俺のバイト?」

「ユノちゃんってどんな仕事してるの?」

僕は脱衣所まで、金魚のフンのようにユノの後を追いかけて行った。

ユノは「店だよ、酒を出す店」と答えると、両腕をクロスさせ、着ていたシャツを一気に脱ぎ捨てた。

「!」

ユノの裸の背中を目の当たりにして、瞬時に全身の血の巡りがよくなった。

これ以上見ていられなくなった僕は、くるっと180度身体を回転させた。

「チャンミン?」

「何でもない!」

熱くなった頬をユノに見られなくて、両手で包み込んで隠した。

「何だよ?」としつこいユノから頑固なまでに背中でガードしているうちに、彼はやっとであきらめてくれた。

「変な奴」

『アルファ』と『オメガ』の関係性を聞かされてしまったことで、見慣れていたものに強く意識してしまう。

それは決して嫌悪感ではない。

「チャミ、行かないのか?」

着替えがないユノは半裸のまま、自室のある2階へと階段を上っていた。

(もう...目のやり場に困るんだよねぇ...)

僕の動揺に気づいていない風のユノが憎たらしい。

逆三角形の背中を追いながら、僕は「ああ、しんどい」とため息をついた。

「チャミの分もあるんだ?」

「うん。

一緒に食べようと思って...待ってたんだ」

当下宿屋の朝食サービス。

ユノは湯気で曇ったラップを外し、ほのかにまだ温かいおにぎりにかぶりついた。

僕もユノの真向かいに座り、彼の真似をして大口でかぶりついた。

「うまい」

「あははは。

ほら、付いてるよ」

ユノの唇の端に見つけた1粒の米粒をつまみ、極めて自然な流れでパクっと自分の口へ運んだ。

とっさに出てしまった極めて自然な行動だったため、ユノの驚いた表情を見るまで、自分の大胆さに気づいていなかった。

「チャミ...。

俺より年上みたいだな」

慌てて手を引っ込めた僕に、ユノはとっても優しい微笑みを唇の端に浮かべた。

「薬飲んだだろ?」

「うん。

分かる?」

ユノはにじり寄ってくると、僕の首筋に顔を寄せた。

すん、と耳たぶの下で空気が動き、鳥肌がたった。

「ああ。

匂わない」

「これでユノちゃんの側にいられるね 」

「ああ。

これまで通りだ」

と、ここでユノは大きなあくびをした。

昨日は1日中病院行きに付き添ってくれた上に、日をまたいで働いてきたのだ。

「悪い、チャミ。

寝かせてくれ」

「あ...ごめんね」

眠くて仕方がないのに、部屋まで押しかけてきた僕を追い払わずにいてくれた。

ユノはどさっと、敷きっぱなしの布団に仰向けに横たわった。

「ここにいてもいい?」

「ここにいても暇だぞ?...」

ユノのまぶたはすでに半分閉じられていた。

眠りにつこうとするユノを眺めていたくて、真向かいの壁にもたれた。

「昨日...ユノちゃんはお医者さんと何を話したの?」

「ん~と。

チャミが安心して暮らせるためのノウハウ。

チャミの為に何をしてあげられるか、っていう話し合い。

俺って『アルファ』だろ?

チャミにとって、俺は危険な存在なんだ」

ユノは目をつむったまま言った。

「やっぱ、今まで通りにはいかない」

「お母さんもおんなじこと言ってた」

「だからって、俺はここを出るつもりはないよ」

「うん。

僕んちにずっと住んでて」

「いるよ...」

「風邪ひくよ」

タオルケットをかけてあげようと膝立ちになったとき、目をつむっていたはずのユノの目がぱっちりと開いていた。

「寝てるかと思った」

「俺が見つけたんだ。

チャミが『オメガ』だって...俺が見つけたんだ」

「ふふ、そうだね」

「こっちおいで」

「うん」

ひらひらと僕を誘うユノの手に従った。

こてん、とユノの腕の中に転がり込んだ。

「言っとくけど、俺はロリコンじゃねぇし、そういうんじゃないからな」

ユノは犬のようにワシワシと、僕の頭を撫ぜまわした。

「分かってるよ」

「チャミと話したいことがたくさんある。

ごめん、今は寝かせて。

マジで疲れてるんだ...」

ユノは僕の頭から手をほどくと、そのままぱたりと布団の上にその手を落とした。

すぐにすーすーとユノの寝息。

僕は指の背で、ユノの真っ黒な前髪を梳いた。

カーテンを閉めなくては。

全開にした窓からさんさんと朝日が差し込んでいて、ユノの額が汗で光り始めていた。

今日も暑くなりそうだ。

僕はユノの側からそろりと抜け出て、扇風機のスイッチを入れた。

(第1章終わり)


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