(16)麗しの下宿人

 

ベンチから伸びる影が長くなる。

 

蝉の鳴く声は相変わらずだけど、暑さが和らいだような気がする。

 

首に巻いた保冷剤がぬるくなり、隣に座るユノのことが気になり出した。

 

「ユノちゃん...平気?」

 

「平気さ。

外は風があるし」

 

「よかった」

 

「チャミは気配り上手だね」

 

「そっかなぁ?

ねぇ、病院に行ったら、何がどう変わるの?

検査するの?

注射は嫌だなぁ...」

 

「詳しいことまでは知らないけど、薬を飲む必要があるらしい」

 

「薬!?」

 

「ああ。

薬を飲むことで、例えば...首の後ろから出る香りが止められる」

 

「よかった~」

 

「他にもいろいろ効果がある。

 

オメガはとっても珍しい存在だって言っただろ?

 

普通の人たちと共存するために、薬は必要なんだ」

 

「キョーゾン?」

 

「辞書で調べな」

 

ユノはベンチから立ち上がると、2人分の空き缶を自販機脇の空き容器入れへ捨てた。

 

「帰ろっか?」

 

「うん」

 

「オメガの話は、今日のところはこれで終わりだ」

 

「え~!」

 

「詳しい話は、専門家から聞いた方がいい」

 

「もうちょっと教えて欲しいなぁ」

 

僕らは夕陽を真正面から浴びながら歩いた。

 

夕刻を知らせる音楽放送が流れた。

 

僕はユノの影のてっぺん辺りを踏んだり踏まなかったり、遊びながら歩いていた。

 

ユノは後ろを振り向くと、「そこまで距離を取らなくていいさ」と笑った。

 

でも、「隣を歩けばいい」とは言わない。

 

首の保冷材がすっかり溶けてしまった今、僕の香りはユノを苦しめ始めていただろう。

 

知らず知らずに漏れてしまった「寂しいな...」のつぶやきに、ユノは僕の元へと駆け寄ってきた。

 

「ぼ、僕!

今夜っ!

今日の夜、お母さんに話すよ!」

 

「...チャンミン」

 

ユノはその場にしゃがむと、僕の両肩をつかみ覗き込んだ。

 

「今夜って...急だろ?

大丈夫なのか?

ひと晩考えてもいいんだぞ?」

 

「ううん。

『オメガ』が何なのかよく分かんないし、ユノちゃんの話だと『オメガ』って怖いことみたい。

お母さんに内緒にしておきたいけど、内緒にしていたらいけない気がする。

お母さんにはいっぱい心配かけてきたし!

それなのに、『オメガ』だなんてよくわかんないことを聞かされて、きっとお母さん、泣いちゃうよ...っく」

 

喉の奥から嗚咽が込みあげ、目の奥から熱い涙が溢れてきた。

 

「早く病院に行って薬飲めば、匂いが無くなるんでしょ?

僕はユノちゃんと一緒に遊べる。

よく分かんないままでいるのは嫌なんだ」

 

一気にまくしたてた後、ひっくひっくとしゃくりあげる僕の背を、ユノは「よしよし」と撫ぜてくれた。

 

僕はとん、とユノの肩に額をあずけた。

 

ユノの首筋は紅潮し、太い血管が浮き出ていた。

 

僕の香りをかがないように、口で呼吸をしているようだった。

 

「チャミは凄いなぁ。

怖いことに正面から立ち向かえる奴なんだな?」

 

「凄くないよ。

大人に助けてもらうんだから。

知らないでいる方が怖いんだ」

 

ユノはTシャツの裾で、ぐずぐずすする僕の鼻水を拭ってくれた。

 

まくしあげた裾から、ユノの引き締まった下腹が露わになった。

 

ユノは今、僕の発散する香りでとても苦しいと思う。

 

でも、我慢できない僕は、ユノの首にしがみついていた。

 

「そうだよな。

いきなりだもんな。

気になるよな」

 

「...うん」

 

「チャミは素直だな~。

騙し放題じゃん」

 

「?」

 

「チャミをからかおうと、俺が嘘ついたとは思わなかったのか?

俺って、チャミをからかってばかりじゃん」

 

僕はぶんぶん首を振った。

 

僕はユノの肩から頭を起こした。

 

「お母さんに話をする時も、病院へ行くときも...もしお母さんが許してくれるなら...一緒に行ってやる」

 

「ユノちゃんはどうして、僕に優しいの?」

僕のこと、弟みたいに思ってる?」

 

僕の問いに、ユノのこみかみがくっと動いた。

 

歩道を通せんぼしている今の僕らは、年の離れた兄弟に見えるのかな?

 

最近の僕はしょっちゅう、「兄弟に見えるのか見えないのか?」にこだわるようになっていた。

 

「そうだなぁ...

チャミは弟っていう感じはしないなぁ。

ほっとけないのは確かだけどさ。

もっと対等な感じかな?

トモダチ、かなぁ」

 

「トモダチだから優しいの?

ユノちゃんはトモダチみんなに優しいの?

僕以外のトモダチにも?」

 

ユノの部屋で裸になっていた男の人を思い浮かべながら、そう尋ねた。

 

「チャミ専用の優しさは他の人にはやらない」

 

「僕専用の優しさ?

ユノちゃんの言うことは、いつも難しい」

 

「分かんないかなぁ。

この微妙なニュアンス?」

 

「分かんない」

 

 

意気込んでいたのに、母は夜勤を頼まれてしまったと言って、この夜は時間がとれなかった。

 

 

 

一度帰宅した母は、慌ただしく夕食と着替えを済ませると、「早く寝なさいね」と言い置いて、すぐに家を出て行った。

 

母が勤めるクリーニング工場は、機械を止めることなく24時間稼働している。

 

今夜の勤務が終わるのは、翌朝5時。

 

「あ~あ。

勇気を出したのに...」

 

僕はダイニングテーブルに頬をくっつけて、ため息をついた。

 

ラップをかけられたお惣菜のコロッケが、台所のテーブルに置かれていた。

 

母が帰宅途中にスーパーへ駆けこんで、僕の夕飯用に買ってきたものだ。

 

「やば!」

 

母への打ち明け話が延期になることを、ユノに伝えるのを忘れてた!

 

僕はカチカチの保冷剤を包んだタオルを首に巻いた。

 

今夜中に話すと意気込んだ僕だけど、それに付き添うユノの予定を確かめずにいた。

 

ユノは毎日ではないけれど、夜になると外出し、朝方に帰宅する生活を送っていた。

 

僕の為に、今夜の予定を空けていたとしたら、迷惑をかけてしまう。

 

木戸をノックすると、中から「どうぞ~」と、いつもの返事。

 

室内の光源はスタンドライトだけで、ユノは漫画本を読んでいたようだった。

 

「そろそろか?」

 

ユノは書き物机に読みかけの漫画本を伏せて置くと、立ち上がった。

 

「ユノちゃん、ごめん」

 

延期になってしまったことを謝った。

 

「お母さん、忙しいんだな。

夜勤か...大変だな」

 

「ユノちゃんこそ、大丈夫だったの?」

 

「今夜はフリーだ。

好きに過ごしてるから」

 

僕の首に気付いたユノから「チャミ、ありがとう」とお礼を言われてしまった。

 

「ううん。

首が涼しいから、クーラーが無くても済むね」

 

室内は蚊取り線香の匂いで満ちていた。

 

それもそのはず、下宿屋の備品である陶器製の蚊遣りをかき集めて、部屋の四隅で焚いていたからだ。

 

網戸の隙間から入り込んだ蚊を退治するため。

 

...と言うより、僕と同じ時、同じ場で過ごせるようにしたユノの工夫なんだと思う。

 

 

(つづく)

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(15)麗しの下宿人

 

 

「一度オメガになると、死ぬまで『オメガ』だよ」

 

「......」

 

公園前の自動販売機まで、とぼとぼとユノの後ろをついて歩いていた。

 

太陽が西に傾きかけた昼下がり、ユノはジュースを買ってあげると僕を誘った。

 

喉はカラカラなのに、ジュースなんて欲しくなかったけれど、ユノと離れたくなくて頷いた。

 

不安に陥れないよう僕の耳元で、優しい口調で説くユノの声をずっと聴いていたかった...そのために嘘泣きしてもいいくらいだった。

 

そして、聞かされたばかりの『オメガ』について、ユノには訊ねたいことが沢山あった。

 

ユノの息継ぎの音もかき消してしまう蝉の鳴き声は、まさしく騒音だった。

 

きっとユノは、静かで暗いあの場所で聞かされる僕を思い、気分を変えるために僕を外に連れ出したのだろうけど。

 

僕の片手は、ユノのノースリーブTシャツの裾をつかんでいた。

 

ユノは「ば~か、伸びるだろう」と文句を言いながら、僕に裾を引っ張られるがままでいてくれる。

 

僕の胸のあたりに、ユノの腰がある。

 

僕の歩幅に合わせて歩いてくれる。

 

ビーチサンダルを履いていて、水色に色褪せたデニムの裾が擦り切れていた。

 

まっすぐな背中。

 

年の離れた兄弟に見えるかな?

 

それとも、兄妹に見えるかな?

 

...でも、僕は男でもない女でもない『オメガ』だから、もしユノと血が繋がっていたら、関係性を何て言えばいいのかな?

 

「あ~あ。

死ぬまでオメガかぁ...」

 

ユノは僕のため息を聞き逃さない。

 

「そうだね。

あそこのポメラニアンが、死ぬまでポメラニアンであるように。

チャミもずっと、オメガだ」

 

ユノは反対側の歩道を散歩中の、茶色のイヌを顎で指して言った。

 

「あれはポメラニアンじゃないよ。

あれはシーズーだよ」

 

「あ~も~。

チャミは細かい奴だなぁ。

どっちだっていいじゃないか」

 

「同じイヌだけど、種類が違うの!」

 

「シーズーだったのがポメラニアンに変われないだろ?

犬種がなんであれ、変われないものは変わらない。

そのまんまだ」

 

「...。

ユノちゃん。

オメガな生活って、どんな風?」

 

「知りたいだろ?

だから、出来るだけ早くお母さんに報告する必要があるんだ。

それから、お母さんにチャミをお医者さんに連れていってもらう」

 

「オメガは病気じゃないって言ったじゃん」

 

「ああ。

病気じゃないけど、身体に変化が現れるんだ。

例えば、香りを出すとか。

他にもいろいろと...」

 

「えっ!?

他にもあるの!?」

 

「...残念ながら」

 

ユノは申し訳なさそうだった。

 

「...ユノちゃんもついてきて。

病院に」

 

「それは...お母さんに訊いてみないとな。

俺とチャミは他人同士だから、難しいと思う。

チャミは管理人の息子で、俺は店子だ」

 

「......」

 

心細さに支配されていた僕が、「ユノと手が繋ぎたいなぁ...」と思っていた時、歩道の向こうから自転車に乗った高校生3人組が近づいてきた。

 

部活動帰りらしく、スポーツバッグを前カゴに入れ、会話が弾んでいるのか笑い声がこちらまで聞こえてくる。

 

「ユノちゃん?」

 

ユノは僕を荷物みたいに抱えると、歩道から車道へと出た。

 

シャーっとスピードを落とすことなく、彼らは通り過ぎていった。

 

彼らは会話に夢中になるあまり、車道へ逃げた僕らに気づいていない様子だ。

 

「ここは歩道なのにね?」

 

「あいつらの視界の狭さには、呆れるよ。

1つのことしか出来ないんだな」

 

ユノは僕を歩道に下ろすと、僕らは歩き出した。

 

「あいつらの前に立ちふさがって、チャリから引きずり下ろして、叱りつけてもよかったんだけどさ」

 

「どうしてしなかったの?」

 

「俺ってさ、喧嘩が超強いんだ。

ぼっこぼこにのしてしまっただろうね」

 

こぶしをあげるユノを見たことないけれど、「そうだろうな」と僕は思った。

 

ユノは何年か前に、僕を助けようとヤクザに扮したことがあり、その時の凄みにゾクゾクっとしたし、筋肉質の肉体もはいかにも喧嘩が強そうだ。

 

そして、出逢いの日に見せた、あの鋭い眼光。

 

「喧嘩したことあるの?」

 

テレビドラマで見た乱闘シーンを思い浮かべて尋ねてみると、「あるようなないような」と曖昧な答えが返ってきた。

 

「あるの?

ないの?

どっち?

血は出た?」

 

「な~いしょ」

 

「ケチ」

 

「近道するぞ」

 

ユノは僕の身体を再び抱えると、歩道際の茂みをまたいで公園へ侵入した。

 

「何がいい?

一緒に決めるか?」

 

「ううん。

コーヒー以外のものなら...」

 

僕は木陰のベンチに座り、自動販売機でジュースを買うユノの姿を眺めていた。

 

僕は『オメガ』というとっても珍しい人間で、ユノは『オメガ』が発する香りを嗅ぎつけることのできる珍しい人間。

 

僕とユノは特別な人間同士、秘密の仲間だ。

 

胸がくすぐったく、嬉しい感じがする。

 

同級生たちは、僕は根暗な人間だと見なしているようだけど、実際の僕は単純で、ポジティブな人間なのかもしれない。

 

気分が暗くならないよう一生懸命、プラスな点を探してみては、僕自身の機嫌を取った。

 

ユノは手にした缶ジュースの1本を僕に手渡すと、僕の隣にどかっと腰掛けた。

 

「ねえ、ユノちゃん。

僕はいつまでこれをしていないといけないの?」

 

首に巻いた保冷剤を指さすと、ユノは「それが溶けるまででいいよ」と言った。

 

うなじはキンキンと、痛みをともなう程に冷やされている。

 

「夜とか明日とか、明後日はいいの?」

 

常にこんなものを巻かないといけない生活を想像すると、ぞっとする。

 

「ひとりでいる時はしなくていいさ。

でも、外へ出かけるときは、何かを巻いた方がいいね。

カッコ悪いと思うけど...ハンカチとか?」

 

母の花柄ハンカチを首に巻いた自分を想像して、僕は思いっきり嫌な顔をした。

 

「じゃあ、衿のあるシャツは持ってる?」

 

「持ってる...けど、持ってない。

着たくない」

 

真っ白なポロシャツを1着持っているが、それは父と会う時用に買ってもらったものだった。(結局、その予定は流れてしまい、一昨年の合唱発表会の衣裳として役に立った)

 

「そっか...。

ちょうど夏だし、タオルを巻いてればいいっか」

 

「うん、そうする。

ユノちゃんと遊べなくなるのは嫌だから、ユノちゃんといる時はタオルを巻いてる」

 

「ごめんな~。

俺の鼻がおかしいばっかりに」

 

今はちょうど夏休みだから、誰かに会ったりする機会は少ないのだけど...。

 

「...どこかで知ってる人と会うかも会っちゃうかも。

図書館とかお店とかで?」

 

僕を見つけた時の、彼らの意地悪な笑みを想像してゲンナリした。

 

「もし会ってしまっても 大したことないさ。

俺が思うに...クラスの奴らみんながチャミの香りに気づいたわけじゃないと思う。

ごく一部の奴...それも、影響力の高い奴が嗅ぎつけてしまい、それを周囲に広めたんだ。

俺ほどじゃないけど、鋭い鼻を持ったやつがたまにいるんだ。

大抵の周囲のやつらは凡人だ。

香りなんて分かってもないくせに、『臭い臭い』って言って、チャミを苦しめたんだよ」

 

「ふ~ん...」

 

 

薄着になり、汗をかく夏の盛りのシーズン。

 

僕のうなじが発散させる“特殊な香り”は暴力を呼ぶことを、身をもって知ったのだ。

 

プールもどきの水風呂の日から1週間も経たないうちに、だ。

 

 

下宿屋に向けて僕は全速力で走っていた。

 

濃い緑が茂る桜の木の家を曲がると、下宿屋の板壁が見える。

 

「はあはあはあはあ...」

 

肺を酷使したせいで、呼吸に血の匂いが混じっている。

 

逃げるように帰宅してきたのには理由があった。

 

夏休みの宿題をするためと、クーラーの涼を求めて図書館に行った日のことだった。

 

 

(つづく)

 

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(14)麗しの下宿人

 

 

「僕がオメガだってことを、どうしてユノちゃんは分かったの?

どうして?」

 

クラスの者たちは僕を「臭い臭い」と陰口言うだけだし、母は何も言わないのに、どうして血のつながっていない他人であるユノが分かったのだろう?

 

そのことがとても疑問だった。

 

「そうだなぁ...。

不思議だよなぁ...」

 

ユノは首をがくりと折り、僕に打ち明けようか否かを迷っているのか、しばらくの間、両脚の間から階段の踏み板を見下ろしていた。

 

「......」

 

僕は急かしたくなる気持ちをぐっと堪え、じぃっと待った。

 

知るのが急に怖くなったからだ。

 

ふいにユノは頭を上げ、僕を見た。

 

「ユノちゃんの顔が怖い!」

 

ユノの眼はらんらんと輝いていて、彼と初めて会った日のことを瞬間的に思い出した。

 

あの時だ、僕が階段から滑り落ちそうになった時のことだ。

 

目にもとまらぬ速さで...まるで瞬間移動してきたかのように、ユノは僕に飛びついていた。

 

そのおかげで、僕は階段から転げ落ちずに済んだのだ。

 

危機に直面した時だったとは言え、ユノの眼は僕を食い殺さんばかりの獰猛なぎらつきに、全身がすくみ上った感覚を、身体で覚えている。

 

飴色の踏み板を踏んだユノの白のスニーカーがとても大きくて、僕の視線に気づいた彼は土足で上がったことを母に謝っていた。

 

「チャミが『オメガではないか?』と疑ったのはね、俺は他のオメガに会ったことがあるからなんだ」

 

「どこで?」

 

「地元さ。

俺の実家がある田舎。

...そこに、オメガの子がいた」

 

「えっ!

僕以外にもオメガはいるってこと!?」

 

「いるさ。

とても数は少ないけれど、この街にも何人かはいるはずだ。

彼らは社会に紛れて生活をしているんだ。

そして、オメガを見分けられる人も少数なんだ」

 

「オメガかどうか見分けられる人のひとりが、ユノちゃんってこと?」

 

「そういうこと」

 

僕はご近所さんや学校の児童たちを思い浮かべてみた。

 

「チャミの周りには、オメガはいないようだ」

 

ユノは僕が何を思い浮かべているのかを見透かして、そう言った。

 

「もしオメガがいれば、俺ならばすぐにわかる。

チャミと一緒に登校した頃があっただろう?

俺は校門んとこで、チャミが玄関に消えるまで、ず~っと見送ってたんだ」

 

「ふふっ。

知ってる。

ありがと、ユノちゃん」

 

「全員確かめたわけじゃないけれどさ」

 

「匂いで分かるんだ?」

 

「ああ。

でも、みんな小学生で子供過ぎる。

分からなくても当然なんだけど...」

 

「子供のうちは分からないの?」

 

「...と言われている。

オメガは絶滅危惧種並みに珍しい。

チャミがオメガだと判明して、すげぇ驚いた」

 

「ずっと分からなかったの?」

 

「分からなかった」

 

質問が次から次へと湧いてくる。

 

「いつ分かったの?」

 

「今日」

 

「えっ、そうなの!?」

 

「前々から、『もしかして...』と思っていたけれど、微かな香りだったから、決めつけるのは早いと思った。

他のオメガの残り香かもしれないから、チャミのものとは限らないし...」

 

ユノの言葉に引っかかった僕は、「ユノちゃんの友だちに、オメガがいるの?」と訊ねた。

 

「あー...友達じゃなくて...知り合いの知り合いくらいの人だよ」

 

「よかった~。

ちゃんとオメガはいるんだね」

 

郵便受けの蓋がカタンと音を立て、開け放った玄関戸の先、門扉の前をバイクが走り去っていった(どうせ請求書か何かだろう)

 

「今日、チャミの香りを嗅いで確信した」

 

「オメガの匂いを臭いと思う人と平気な人との違いはなぁに?

ユノちゃんは臭いと思う人でしょ?」

 

「う~~~ん」と、ユノは頭を抱えてしまった。

 

「...例えると、バリバリのスポーツ選手と運動嫌いな人...かな?」

 

「そっか!

ユノちゃんは、バリバリのスポーツ選手ってことだね」

 

今のユノの例え話はすぐに理解できた。

 

「それから!

チャミは臭くない。

香りが強いだけ」

と、ユノは念を押した。

 

 

学校では、暴力を伴うようないじめは受けていない。

 

持ち物を隠されたり汚されたり、僕の耳に届く声量で交わされる陰口、遠足も写生大会もひとりぼっち。

 

極端に勉強が出来ないのでも出来過ぎるのでもないし、不潔な恰好もしていない。

 

僕が思うに、おどおどとした態度や女っぽい見た目が、彼らのいじめ心をくすぐるんじゃないかなぁ。

 

肉体的な痛みはなくても、心は確実に傷ついていった。

 

それも、鋭い刃ではなく、コピー用紙の縁で出来た傷のようにいつまでも痛み、かさぶたが出来ないからなかなか治らない。

 

 

「いつお母さんに打ち明けようか?

出来るだけ早い方がいい」

 

「ユノちゃん、しつこいよ。

僕が言っても、絶対にお母さんは信じてくれないよ」

 

「だろうね」とユノは苦笑すると、僕の頭をわしゃわしゃ撫ぜた。

 

玄関からの空気の流れにより、水風呂で濡れた髪はほとんど乾きかけていた。

 

保冷材で首回りを冷やしているおかげで、香りが立ち昇るのを抑えられており、ユノの表情も涼しげだ。

 

僕とぴったり身体を寄せてくれている。

 

「もぉ!」

 

僕はユノから顔を背け、くしゃくしゃに乱れた髪を指で梳かしつけた。

 

「このタオル取っちゃうよ?」

 

僕の首の後ろから出る香りは、ユノにとって耐えがたいものだと知った今、これがユノの悪戯の仕返しになった。

 

「あ~、それだけは止めてくれ!」

 

ユノは階段の数段上へと、駆けのぼってしまった。

 

「チャミの側にいられないよ」と、ニヤニヤしている。

 

「...え...そんなにキツイ?」

 

「ああ、そうだ。

チャミだから、正直に言う」

 

「そんなぁ...」

 

ユノは僕がいる段まで戻ってきた。

 

「チャミが俺とトモダチでいたいのなら、お母さんに打ち明けないといけないんだ。

俺もチャミとトモダチでいたい。

チャミの香りは、俺にとって強すぎる。

苦しいんだ」

 

ユノはぎゅっと、Tシャツの胸を握った。

 

「...ごめん」

 

「チャミは悪くない。

悪いのは俺さ」

 

「どうして?」

 

ユノの説明は聞けば聞くほど、なぜなぜが増えていく。

 

「とにかく、チャミの香りに敏感な俺が悪いってこと。

だからチャミは自分を責めたらいけない。

俺が悪い。

分かった?」

 

「...うん」

 

「俺も一緒に話をする。

チャミ一人じゃ信じてもらえないけど、俺の口から聞かされれば、お母さんはちゃんと信じてくれる」

 

「どうして?」

 

「『どうして?』って言われてもなぁ...」と、ユノはボヤいた。

 

「大人が言うと真剣みが増すんだ」

 

「ええ~。

大人は嘘つきだって、テレビで言ってたよ」

 

「時と場合による」

 

「大人ってズルいね」

 

「ズルくて結構。

チャミも大人になればズルくなる」

 

「!」

 

『大人』の言葉に、ハッとした。

 

「...ユノちゃん...」

 

僕はユノのTシャツの袖をつん、と引っ張った。

 

「僕は一生、ずーっと、死ぬまで『オメガ』なの?」

 

この時のユノのひそめた眉と潤んだ眼...とてもとても悲しそうな表情が答えだった。

 

「よし!」

 

ユノは大きな声を出し、ぱっと立ち上がった。

 

僕はきょとんと、高々とそびえるユノを見上げた。

 

「ジュースを買いに行こうか?

俺も飲みたくなってきた」

 

「う~...ん」

 

何てことない風に、ユノを相手に軽口が言えた僕だったけれど、本当は相当なショックを受けていたのだ。

 

 

...結局、オメガって何なの?

 

僕の解釈では、オメガは男と女の間みたいな性別だってこと。

 

ユノの説明はちょっと違っていて、僕は男でも女でもない、特別な性別だってこと。

 

オメガの正体を知るうちに、僕の解釈の方が正解に近いことを知った。

 

 

(つづく)


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(13)麗しの下宿人

 

 

オメガ...?

 

初めてきく言葉。

 

ユノの深刻そうな表情から、『オメガ』とは良くないことのようだ。

 

ユノは蛇口を閉めた。

 

水音が止んだとたんに蝉の声が耳を襲い、とてもうるさい。

 

しんしんと身体が冷えてきて、歯がカチカチと鳴った。

 

ユノがひっきりなしに、手の平ですくった水を僕のうなじにかけ続けていたせいだ。

 

外はとても暑いのに腕は鳥肌だっていて、うつむくと乳首が小さく固く縮んでいた。

 

「僕...ユノちゃんの言ってること、分かんない」

 

「すぐには分からないさ。

分からなくて当然だ。

分かるはずない」

 

「学校で習ってない」

 

「教えてくれる学校はないよ」

 

「お母さんからそんな話、聞いていない!」

 

ユノはきっと、僕に嘘を教えてびっくりさせようとしているんだ。

 

もうちょっとしたら、「冗談だよ。信じた?ごめん」って言うんだ。

 

そして僕は、「ひどいよ、ユノちゃん!」ってユノの背中を叩く...いつものパターン。

 

今度は蝉の声が遠のいて、ぽちょんぽちょんと蛇口から滴り落ちる雫の音がはっきり耳に届いた。

 

「......」

 

冗談にしてはユノの表情は真剣だし、口元も笑っていない。

 

僕に悪戯を仕掛ける時はきまって、ユノの唇はひくひく震えているのに...。

 

これは冗談じゃない...。

 

怖くなった僕は口を尖らせ、ぷいっとユノから顔を背けた。

 

「お母さんは『オメガ』のこと知ってるの?」

 

ユノは「どうかなぁ...」と言って僕を抱え上げ、浴槽の縁をまたいだ。

 

「オメガ』はとてもとても、珍しいんだ。

だから、知らない人の方が多いと思う」

 

ユノは軽々と運んだ僕を脱衣所で下ろした。

 

「お母さんから『オメガ』の言葉を聞いたことはあるか?」

 

「ううん」

 

「そうだろうな。

自分の子供がまさか『オメガ』だなんて、普通の親は疑わないさ」

 

ユノはひざまずくと、バスタオルで僕を包み込んだ。

 

ユノは僕の濡れた髪と身体をてきぱきと拭き、パンツまで穿かせてくれたので、僕は突っ立っているだけでよかった。

 

「よし、出来上がり!」と、ユノは僕のお尻をペチンと叩いた。

 

「ユノちゃんも濡れてる」

 

ユノの身体から滴り落ちる水で、脱衣所の床が濡れていた。

 

僕もユノの髪と身体を拭いてあげた。

 

「筋肉モリモリ、ムッキムキ」

 

「そうか?

いつも見てるじゃん?」

 

「そうだけど...」

 

昼間見るユノの身体は、夜の脱衣所で目にするものとは全然違うと思った。

 

真っ白い浴室で目にしたユノは、『オメガ』という聞きなれないワードと相まって、白昼夢の登場人物のようだった。

 

反面、夜の入浴後に脱衣所で目にするユノは、日常生活に溶け込んだ「優しいお兄さん」だった。

 

(あれ?)

 

ユノは僕が拭きやすいよう身をかがめてくれていたのだが、僕は彼のうなじに発見したのだ。

 

場所は耳たぶの真後ろで、ユノは首にタオルを引っかけていたし、湯船では僕を後ろから抱きかかえていた為、見つけられずにいた痕だった。

 

「ユノちゃん、ここ。

怪我してる」

 

それは鬱血痕で、ぶつけたり、挟んだりして出来た痣ではなく、どうやってできるのか、誰がどういうつもりで付けるのか、僕は何も知らない年ごろだ。

 

「あ~...」

 

ユノは「ったく」と舌打ちすると、僕が指摘した箇所を撫ぜた。

 

「何かの痣かな...。

痛くないから、大丈夫」

 

「それなら、いいんだけど...」

 

この下宿屋はどこもかしこも暑い。

 

着替え終わった僕らは、ユノの部屋に戻らず階段に腰掛けて、昼の盛りが過ぎるのを待つことにした。

 

「うなじは冷やした方がいい」ということで、保冷剤...氷枕にできるほど、大きなやつ...を包んだタオルを首に巻くことにした。

 

体温が上がると僕のうなじから香りがたちのぼるからだ。

 

その香りのせいで、クラスメイトから臭いと疎んじられ、ユノから顔を背けられたのだ。

 

オメガになると臭くなる...そのワケはまだ、説明してもらっていない。

 

ユノのことだから、僕の理解が追い付くよう順を追って説明してくれるだろう。

 

「お母さんに教えてあげないといけなのかな?

『僕はオメガだよ』って」

 

「ああ。

内緒にはできない」

 

「どうして?」

 

「......」

 

ユノは僕の問いに、どう答えたらいいか迷っているようだった。

 

僕はユノの横顔を穴のあくほど見つめ、彼の答えを待った。

 

ユノは僕の問いにどう答えたらいいか迷っている。

 

これまでのユノの話しぶりや表情から判断すると、不吉な存在にしか思われない『オメガ』。

 

「お母さんの協力も必要になるからだ。

その他の人にも助けてもらわないといけない。

チャミひとりじゃ、どうにもできない」

 

「僕が子供だから?」

 

ユノはゆっくり首を振り、「子供とか大人とか、関係ない」と言った。

 

「大人だったとしても、『オメガ』は多くの人に助けてもらわないといけない。

それも、普通の人よりもたくさんの協力が必要になる。

薬も飲まないといけなくなる」

 

「薬!?」

 

ユノは僕の手をとると、指をからめて握った。

 

僕のふやけた指はまだ戻っていない。

 

「まるで病気みたいだね」

 

僕には身体が弱くて母に苦労をかけてしまった過去がある。

 

せっかく丈夫になったのに、また心配をかけてしまうと思うと悲しくなった。

 

「『オメガ』は病気じゃない」

 

「じゃあ、何なの?」

 

「チャミを傷つけようと、俺は決して思っていないからな。

そこのところは分かってくれ、な?」

 

僕にどう分かりやすく説明してやろうか、話を組み立てていたのだろう。

 

ユノは口をつぐみ、彼の視線はしばらくの間、正面の玄関の戸に向けられていた。

 

外はとても明るいのに、ここはほの暗く風通しが悪い。

 

これから怪談話が始まるみたいで怖くなった僕は、階段を駆け下り玄関の引き戸を開けた。

 

 

世の中には『オメガ』という、3つめの性があること。

 

「3つ目?」

 

「男、女、オメガ。

チャミはオメガだ」

 

「え...!

僕は男じゃないの?」

 

『オメガ』とは、まさか性別に関わるものだとは予想外のことで、頭が真っ白になってしまった。

 

ユノは僕をからかっている...絶対にそうだ。

 

「ちんちん付いてるよ?」

 

「チャミは男さ。

男にも種類があるんだ」

 

「男は男じゃないの?」

 

「その通りなんだけど、血液型にA型とかB型とかあるだろ。

AAとかAOとか...知ってる?」

 

「知らない」

 

「そっか、小6じゃ未だ習ってねぇのか」

 

ユノはバリバリと頭をかくと、「子供に説明するのって難しいなぁ」と呻いた。

 

「もう1回、血液型の話をするぞ。

世の中にはA型とB型がある」

 

「O型は?」

 

「今の話では無視してくれ。

世の中はA型とB型で占められているとする。

ところが、チャミはC型だった」

 

「C型の人なんていないよ」

 

「いないさ。

多くの人が知らないだけで、世の中にはいるんだ。

とてもとても珍しい、血液型だ。

だから、チャミは病気でもないし、男じゃなくなったわけでもない。

ちゃんと人間だ。

ただ違うのは、血液型がとても珍しいC型だってこと。

...オメガとはそういう存在だ」

 

「僕の血液型はB型だよ」

 

「...そうか」

 

ユノはつぶやくと、僕の頭をかき抱いた。

 

「チャミはB型なんだね」

 

僕がふざけて言ったことを、ユノにはお見通しだった。

 

「でも、C型になっちゃった...そういうことだね」

 

ユノは僕が理解しやすいよう血液型を例えにして話をしてくれたが、C型という馴染のない記号を取り上げることによって、生々しさを軽減させようという配慮もあったのだ。

 

僕は男だけど、性別は3つ目の性であるオメガである...正直、あの日は理解ができなかった。

 

オメガとは肉体的に男でも女でもなくなってしまう性別なのだと、さすがにあの日のうちに説明はできなかっただろうと思う。

 

ユノを急かさず、話を聞くべきなんだろうけど、大きな疑問をすぐに解消したかった。

 

「ユノちゃんはどうして分かったの?

僕が『オメガ』だってことを」

 

ユノにそう訊ねた。

 

(つづく)

 

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(12)麗しの下宿人

 

昼間の風呂場は白々と、とても明るい。

 

見せたくないもの...タイル目地のカビやひび割れ、鏡の水垢、手入れをしているのに日々蓄積していった汚れ...があからさまだ。

 

昼間の風呂場...現実を見せつけられているのに現実じゃないみたいな...そんな不思議な感覚に襲われる。

 

いつもはからりと乾いている昼間の湯船に、大量の水が満たされつつある。

 

蛇口全開で、冷水はごーごー音をたて水しぶきをあげている。

 

「水着は?」

 

「俺たちしかいないのに、何を隠す必要があるんだ?」

 

「まあ...そうだけど」

 

僕は全てをさらけ出すことに抵抗があって、タオルをかけておちんちんを隠していた。

 

男同士だし、おちんちんを見られることくらいどうってことなかった...これまでは。

 

あの日、ユノと知らない男の人が裸でもみ合っている様子を覗いてしまって以来、ユノの裸をまともに見られない。

 

変わらずユノとお風呂には入っているけれど、それは夜の時間帯で、白熱灯が2つあるだけ。

 

加えて、湯気で辺りは霞んでいる。

 

だから今みたいに、毛穴も静脈がわかるほどに明るい所なんて、なんだかもう...恥ずかしくて恥ずかしくて、タオルで覆った上に、重ねた両手で隠していた。

 

ユノが男の人と裸でもつれ合っていたことと、僕がおちんちんを隠したくなる心理とどう繋がっていたのか、当時の僕には説明ができなかった。

 

僕は学校で一人ぼっちだったから、性に早熟な同級生たちの会話に加わったことはないし、知恵をつけてくれる兄弟もいない。

 

どうすれば赤ちゃんができるのか、その仕組みを知らなかった僕はつくづく初心だ。

 

気の早いユノと僕は衣服を脱ぎ、湯船の縁に腰掛けて溜まっていく水に足を浸していた。

 

無造作にかけられたタオルに隠されたものに、つい視線が及びそうになる。

 

ドキドキした。

 

(僕は変だ...変になった)

 

足先は冷たいのに、うなじはかっかと熱く火照っていた。

 

「裸になっても、あっちぃな」

 

浴室の格子窓のすぐ側に、隣家の塀が迫っている 。

 

こちらを覗き見しようと思えばできるけれど、覗いたとしても、我が下宿屋は男性限定。

 

覗きたい者なんて滅多にいないだろう。

(世の男の人たちは、女の人の裸が好きなのだ)

 

ユノは手の甲で、鼻を塞いでいた。

 

「チャミは確かに臭うけれど、それは『くさい』のとは違う」

 

ユノはその説明をすると言っていたけれど、どうしてその場にお風呂場を選んだのか、僕には理由が分からない。

 

「わっ!!」

 

気付けば、僕は水風呂の中にひっくり返されていた。

 

頭のてっぺんまで水に浸かり、熱かった身体が一気に冷却される。

 

水の中へと突き落とされたのではなく、ユノが僕を抱きかかえて湯船に飛び込んだのだ。

 

唐突な行動過ぎて、溺れてしまうんじゃないかとスリル満点の悪戯だった。

 

「あはははは!」

 

ユノのはじける笑い声が、タイル張りに反響した。

 

「ユノちゃん、酷いよぉ。

溺れるかと思ったじゃんか!」

 

「ごめんごめん。

ミニミニプールみたいだな、ここ」

 

一般家庭の湯船より広いとは言え、小学生が泳ぐには狭い。

(息継ぎの練習にはちょうどよいサイズだ)

 

僕はユノの腕の中から逃れ、水面に顔を浸けてバタ足をし、ユノの顔に盛大に水を浴びせかけた。

 

「おい!

チャミ!」

 

「さっきのお返し!」

 

大人げないユノは洗面器に水を汲むと、滝行のように僕の頭の上から降り注いだ。

 

ひとしきり僕らは、水遊びをした。

 

はしゃぎ声は隣家にまで届いてしまっていただろうけど、数々の問題児が住まってきた我が下宿屋。

 

苦情を言ってくる者はおそらくいない。

 

「あ~、面白かった」

 

水面が大きく波打っている。

 

「......」

 

僕らは湯船の縁にうなじを持たせかけ、水面の揺らめきが反射したタイルの天井を眺めていた。

 

「なあ、チャミ」

 

「なあに?」

 

「さっきの話。

チャミが気にしてたこと」

 

「...あ...!」

 

あまりに楽しくて、冷たい水が心地よくて、忘れかけていたこと。

 

「チャミの匂いのことだ」

 

「......匂うんでしょ?

僕、臭いんでしょ?

学校でも、『くさい』って言われてるんだ。

僕、お風呂にちゃんと入ってるし、頭も洗ってるのに...」

 

成績は中くらい、視線は常に下、目立たないように、貝のようになっているのに、匂いばかりは隠せない。

 

ユノは僕が学校でどのように過ごしているのかを、とても気にかけている。

 

「ユノちゃんも、僕のことを『くさい』って思ってるんだ!」

 

僕は引き寄せた膝に顎を乗せた。

 

たっぷり水浴びしたおかげで冷えた肌に、吐息が温かい。

 

「違うよ。

チャミの場合は、『くさい』のとは違うんだ。

『匂い』っていう言い方がいけなかったね。

『香り』だ」

 

「言い方を変えたって、臭うのは変わらないじゃんか」

 

「全然違うよ。

チャミからは『香り』がするんだ。

我慢できなくてつい、顔をそむけてしまって...嫌な思いをさせてしまったな。

ごめん」

 

「あれ...?」

 

今さら気付いたのだけど、ユノは鼻を覆っていなかった。

 

さっきまで顔を背けていたくせに、今のユノは鼻先と僕の頬がかするほどに接近している。

 

驚いた僕はお尻をずらして彼から距離をとろうとした。

 

「くさいんでしょ?

離れてよ」

 

「離れない」

 

僕の身体はユノの手で引き戻された。

 

「くさくないの?」

 

「ああ」

 

ユノの前髪のひとすじから、水滴がぽちょん、と滴り落ちた。

 

「どうして?

濡れたから?」

 

「それもあるけど...」

 

ユノは僕のうなじをそっと、3本の指でつかんだ。

 

くすぐったくて首をすくめた。

 

ユノの手は大きくて、僕の細っこい首など簡単にひねりつぶせそうだった。

 

「チャミのうなじの体温が下がったこともある。

水で洗い流されたこともある。

さっきまで、チャミのここから、匂いが...香りが漂っていたんだ」

 

「首の後ろから匂いが出てるの!?

病気!?」

 

「病気とは違う。

今から俺が話すことは、信じられないことだと思う。

あくまでも俺が、『そうじゃないかな?』って推測した話だ」

 

僕の身体に何かしら異変が起きているらしい。

 

病気じゃないのなら『呪い』とか『魔法』とか、変な草の汁が付いたとか、変な虫に刺されたとか...ありとあらゆる可能性が湧いてきて、頭の中でひしめいた。

 

ドクドクと鼓動が早い。

 

 

 

「俺が思うに...チャミは『オメガ』だと思う」

 

「オメガ?」

 

それは僕が初めて耳にするワードだった。

 

左利き、珍しい血液型、有名人の子孫、外国の血が流れている、アレルギー体質...そんな類の話だと思った。

 

「オメガって、何?

珍しいの?」

 

「ああ。

珍しいよ、とても」

 

「オメガって...何?

病気では無いんだよね?」

 

ユノは首を振った。

 

「じゃあ...宇宙人、とか?」

 

ちょっとふざけてみた。

 

「チャミが宇宙人なら、チャミのお母さんも宇宙人になっちまうぞ?

君たちは誰がどう見ても親子だよ。

そっくりだ」

 

「じゃあ、何なの?

オメガになったから、首が臭くなったの?

今まで普通だったのに、急にオメガになっちゃったってこと?」

 

僕は特異体質の持ち主なんだと、一瞬だけ得意げな気持ちになってしまったくらいだ。

 

ユノの表情はちっとも楽しそうなものじゃなく、どちらかというと苦しそうだった。

 

怖くなってきた僕は、「ユノちゃんの話、聞きたくない」と言って耳を塞いだ。

 

「知らなかったでは済まない話なんだ」

 

「オメガだと何が問題なの?

変なの?

オメガって何だよ?」

 

今後の僕の人生を左右する話をする場に、昼間の風呂場は相応しくない。

 

聞いた直後は、ユノからの宣告の重さが理解できなかった。

 

 

...のちにじわじわと、気を抜けば不幸に転落してしまう身の上を思い知らされるごとに、「知らなければよかった」と、ユノを責めた。

 

 

(つづく)

 

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