(1)キスから始まった

恋人たちのゆーふぉりあシリーズ

 

 

女の子って不思議な生き物だ。

 

彼女たちの感想とは、なんでもかんでも『可愛い』で済ませてしまえるのだ。

 

くすくす笑っていたかと思うと、俺を置いてずんずんと先を歩いていってしまう。

 

何か機嫌を損ねるようなことを口にしてしまったのか?と首を捻っていると、今度は泣き出すのだ。

 

柔らかくていい香りがして、大抵は俺よりも背が低いから、「どう?」と俺の反応を欲しがって見上げられると、胸がきゅんとしてしまうのも事実。

 

確かに彼女たちは可愛い。

 

下心を隠してこうして隣にいるのだけれど...楽しいのは確かなんだけどなぁ。

 

何か違うんだよなぁ。

 

女の子と付き合いたい理由ってなんだろう?

 

...などと、俺はぼんやりと考えていた。

 

 

 

 

「ユノ君の番だよ」

 

どんっと背中を叩かれたせいで、手にしたジュースを膝にこぼしてしまった。

 

ムカッとしたけど、ここは堪える。

 

「一緒にいて嬉しいの、こんな風にふざけてる私って可愛いでしょ?」って、言いたいのか?

 

俺の背中にもたれた俺の彼女Aは、首にしがみついてぐらぐらと俺を揺する。

 

「やめろって!」

 

人前での過剰なスキンシップは嫌いではないが、今日の俺は不快に感じてしまう。

 

一度目につくと、Aのやることなすこと全て、ささいなことが気に障ってくる。

 

そして、苛立つ自分にも苛立つ。

 

好きで付き合っているんだ、イライラするのなら一緒にいなければいいじゃないか、って。

 

彼女を作ること自体が、俺には向いていないのかなぁ。

 

とは言え、『彼女』ナシの生活は味気なく寂しいと思うのだ。

 

Aとの交際に意味や理由を求めたり、疑問を持つようになったのは、昨日あたりからのこと。

 

きっかけ...みたいなものはあった。

 

あいつの存在のせいだ。

 

 

 

 

春休みに突入していた。

 

車で3時間程の観光地に2泊3日、俺たち4人はやってきていた。

 

昨日から、いわゆる『Wデート』とやらをしていた。

 

俺の彼女Aの友人Dに最近、彼氏が出来たのだとか。

 

その彼氏とやらは奥手過ぎて、交際1か月も経つのにキスどまりなんだとか。

(加えて、そのキスもやみくもに口内を探るだけの、お粗末なものなんだとか)

 

関係を深めたい...要するにセックスまで進んでしまいたい。

 

Dの彼氏も可哀想に...そんなデリケートなことまで、俺に知られてしまって。

 

「旅行に一緒にいこうよ、4人で。

お泊りすれば、エッチしないわけにはいかないでしょ?」

 

「よく知らない奴と旅行なんてなぁ...」

 

全く気乗りしなかった。

 

「Dちゃんとその彼氏2人だけで、泊りがけの旅行にでも行けばいいじゃん」と、Aの提案をはねのけた。

 

どうやらAは、俺との旅行を期待していたらしい。

 

顔を歪めてしまったAの表情に弱い俺は、渋々頷いたのだった。

 

 

 

 

1日目は移動日で、夕方過ぎに現地に到着した。

 

2日目の今日はアウトレットモールで買い物し、宿泊するビジネスホテルに昨日と同じく夕方遅くに到着した。

 

「疲れた~!」

 

どさっと大量の買い物袋を床に落とし、交互にシャワーを浴びてさっぱりとさせた。

 

俺とAでひと部屋、Dと彼氏でひと部屋といった部屋割は前夜と同じだ。

 

日中、人目があって遠慮していたんだろう、二人きりになった途端、大胆になったAにキスをせがまれた。

 

「じきにDちゃんたちが来るから」と、深いキスになるのをやんわりと拒んだ。

 

肩すかしを食らったAは、不満な表情をしていたけどね。

 

その気にならなかったんだから、仕方ない。

 

コンビニで買い込んできたものをベッドの上に広げるといった、安上りな飲み会が始まった。

 

学生の旅行なんてこんな感じだと思う。

 

俺はちらりちらりと、Dの彼氏とやらを観察していた。

 

彼はチャンミンと言って、学部は違うが俺と同い年。

 

正直言って、10人並みのDには勿体ないと思った。

 

すれ違う者の3人に1人は振り向いてしまうような、いい顔をしていた。

 

スタイルもよい。

 

自身の容姿の良さに気付いているのかいないのか、積極的に自分を前面に出すことはないキャラで、Dの隣でニコニコと楽しそうにしている。

 

質問を振ると、考え考え言葉を選びながら答えるだけじゃなく、こちらにも質問を投げかけてくれて、会話が途切れない。

 

美味そうに食べるのが好印象だった。

 

空いた容器を片付け、新しいものの封を開けてやったりと、気がきく。

 

感じのよい奴だと思った。

 

ところが俺は今朝がた、AとDの会話を漏れ聞いてしまったのだ。

 

会話の内容が内容だけに、俺はチャンミンの顔をまともに見られない。

 

女の子とは、己の彼氏の報告会をするものなのだろうか。

 

俺が知らないだけで、えっちの内容まで赤裸々にバレてしまっている...ぞっとした。

 

 

 

 

今日の朝方のことだ。

 

俺とAの部屋にDがやってきた。

 

寝起きのえっちでもしようかとその気でいたのに、邪魔者Dの登場に俺は内心で舌打ちをしていた。

 

スウェットパンツを押し上げる、やる気満々の下半身を見られたくなくて、俺は背を向けたまま寝たふりをしていた。

 

俺は熟睡しきっているものと思い込んだ彼女たちは、ひそひそと『彼氏とのえっち事情』を報告し合っていたのだ。

 

肝心なワードは避けてはいたが、どうやら前夜のチャンミンはDを満足させてあげられなかったらしいのだ。

 

お粗末なえっちだったらしいのだ。

 

サイズのことなのか、テクニックのことなのかまでは不明。

 

Dはチャンミンとのえっちに満足できなかった...か...。

 

見た目もテクも両方抜群なんて、パーフェクトな奴はそうそういない。

 

Aの方こそ、俺を傷つけまいと『感じている』ふりをしてくれているかもしれないんだし。

 

そもそも、Dの方に問題がある可能性もある。

 

そんなことを考えながら、ベッドの上での酒盛りで、脚を崩して座るチャンミンの股間についつい目がいってしまうのだ。

 

細身のズボンを履いているが、パーカーの裾が邪魔をしている。

 

サイズが平均以下だったとしても、テクでそれをカバーすればいいことだしなぁ。

 

でも、経験値が低いのなら...つまり、童貞...テクがなくても仕方がないか。

 

もしくは、「自分は上手い」と、ひとりよがりながむしゃらなえっちをする奴なのかもしれない(キスも下手だと聞いているし)

 

そこに注目してしまう俺こそ失礼極まりないなと、視線を上げた時、チャンミンとバチっと目が合ってしまった。

 

俺の内心なんて知るよしもないチャンミンは、にっこりと笑いかけるんだ。

 

なぜだか「ドキン」としてしまい、男の微笑みにドギマギしてしまった自分に驚いた。

 

 

(つづく)

 

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月夜に孕んだ人魚の話

 

 

人魚になった俺は、チャンミンに手を引かれて夜の川を下っていた。

 

人魚の泳ぎとは、尾びれだけを動かせばいいわけでないらしい。

 

チャンミンの動きを見倣い、みぞおちの下をくねらしてみるのだが、二股だった脚が一つの尾びれとなった違和感に慣れない。

 

身にまとわりついて邪魔なだけの衣服は脱ぎ捨てた(水中生活を送る彼らが裸身でいるワケがよく分かった)

 

暗闇に染まった水中は恐ろしく、水面へ浮上しかけるたびチャンミンに引き留められた。

 

「肺一杯に水を充たせば、空気は必要ないよ。

怖いだろうけど大丈夫。

ユノの身体は人魚になっている」

 

溺れるのではと、恐怖でパニックになる俺を抱きしめて、「大丈夫、ユノは人魚だよ」と繰り返した。

 

「水を飲んで。

そうすれば、水の中でも話が出来る」

 

固く引き結んでいた口を開き、流れ込んでくる水をごくりごくりと飲みこんだ。

 

その水が胃袋ではなく肺を充たしてゆくにつれ、全身が軽くなってゆき、自身の身体が人間ではなくなったことを体感したのだ。

 

ごうごううるさく頭の中で反響していた水流の音が、気付けば気にならなくなっていた。

 

耳も人魚仕様になったのか、チャンミンの言葉がクリアに聴こえた。

 

「どう、楽になった?」

 

チャンミンは俺の頬を両手で包み込むと、額同士を合わせた。

 

チャンミンが微笑んでいるのがよくわかる。

 

水を得た人魚は、夜目がきくようだ。

 

人間ならば死と直結するしかない墨色の世界だったのが、チャンミンと同族になったこれからは違う。

 

辺りを見回すと、蒼い世界が広がっていた。

 

視線を真上に転じた。

 

水面の向こうから黄色く発光しているように見えるのは、河口岸の工場地帯のイルミネーションだ。

 

闇の水面を貫いてきた光が俺たちの白い肌と鱗を照らし、海底へと吸い込まれて消えていく。

 

「綺麗だね」と、知らぬ間に言葉が漏れていた。

 

チャンミンはクスクス笑った。

 

「そのうち見慣れるよ。

これが当たり前の景色になるんだ。

僕にしてみたら、イルミネーションの方が綺麗に思えるよ」

 

チャンミンの口は動いているが、泡はこぼれておらず、言葉は耳というより頭の中に響いてくる感覚だった。

 

人魚はテレパシーで会話をするのだと、初めて知った。

 

「そうだよ」

 

チャンミンは頭を指さして、ニコニコ顔で頷いた。

 

 

海水に身体を慣らすため、河口際で1週間過ごした。

 

俺の泳ぎの特訓も、この時に集中的に行われた。

 

満ち潮引き潮、停泊中の船舶の間をじぐざぐに、昼間は水底を、夜間は水面ぎりぎりを。

 

早く人魚になりたくて、俺はチャンミンの尾びれを必死に追った。

 

チャンミンの泳ぎは速かった。

 

船の上やプールサイドから眺めるだけだった頃は、そのスピード感を実感することはできなかった。

 

太い尾びれは筋肉の塊で、ひと掻きで十何メートルもの距離を前進できる。

 

そして、チャンミンの泳ぎはダイナミック、かつ洗練されていた。

 

すぱっと鋭い切れ味で...ゼリーに真横からナイフを入れたかのような...無駄な水流も起きていない。

 

よそ見をしていると、ずっと前方に姿を消しているのだ。

 

方向転換をする瞬間、チャンミンの瑠璃色のウロコが、思わず目を細めてしまうほどのまばゆさで煌めいた。

 

息を飲む美しさとは、このことだろう。

 

こうも美しい生き物を、俺は狭いプールに閉じ込めていたのだ。

 

 

棲み家にする海域まで到着するまで、一か月ほどかかった。

 

俺の泳ぎは無駄が多く、慣れない水圧のせいで直ぐに疲れてしまうためだ。

 

 

初めて迎える満月の夜、チャンミンに浅瀬へと誘われた。

 

「チャンミン...どうしたの?」

 

「あのね、ユノが人魚になってから、その~...僕らさ。

ね?

分かるでしょ?」

 

チャンミンは俺の腕にすがりつき、照れ隠しなのか俺の指を玩具のようにもてあそんだ。

 

モジモジする様子に、アレのことかと合点がいった。

 

「でもさ...俺。

...人魚になったばかりで、どうやればいいのか...。

脚はないんだし」

 

「人間だった時と変わらないよ。

身体をぎゅっとくっ付け合って...」

 

チャンミンは俺の腰に両腕を回した。

 

「尻尾を巻きつけ合って...。

こんな感じに」

 

チャンミンの尾びれがひと巻き、俺の下半身に巻き付いた。

 

地上で生活していた頃も、チャンミンの誘いから始まることが多かった。

 

「あとは一緒。

今までとほとんど変わらない。

同じ...」

 

チャンミンは語尾まで言う前に、俺の口を塞いだ。

 

息継ぎする必要がない俺たちは、繋がっている間ずっと、唇を合わせたままでいられた。

 

どちらかが必ず、相手のウエストや肩に腕をまわしていた。

 

潮流に引き離されてしまうからだ。

 

(絶頂の直前は、チャンミンのそこは俺のものを食らいつき、腕の支えなしでもよくなったのだけれども)

 

チャンミンの動きはぎこちなく、「もしかして?」と思って尋ねてみたら、人魚同士の行為は初めてなんだそうだ。

 

「っていうことは...チャンミンの初めては人間だったんだね。

つまり...俺」

 

「そうなんだよね~。

ねえ、どうだった?」

 

「人間だった時より、しっくりくる」

 

「そりゃそうだ」

 

「まだ下手くそだけど」

 

回数を重ねるうち慣れてくるだろう。

 

 

その後、砂浜の波打ち際に誘われた。

 

「大丈夫なのか?」

 

打ち上げられるんじゃないかと怖がる俺の手を、チャンミンはぐいぐい引っ張った。

 

水中生活わずか10日ほどで、水から上がることに俺は恐怖を覚えた。

 

ここでハッとした。

 

地上で暮らしていた間の、チャンミンの心境をリアルに想像できた。

 

チャンミンが感じていた不快感と恐怖とは、計り知れないものだったに違いない。

 

「ごめんなチャンミン、これまで」

 

俺は謝った。

 

「駄目だよユノ。

謝ったら駄目だよ。

僕が居たかったから、ユノの家で暮らしたんだ。

ユノはいっぱい僕の為に尽くしてくれた。

それからね、ユノは凄いことをしたんだよ。

僕のために人間を捨てるなんて...誰も出来ないことだよ。

人魚とは、人間になりたいと願う生き物なんだから。

それなのに...。

言葉では言い尽くせない。

僕は感謝しているんだよ」

 

「俺もチャンミンに感謝している。

ここまで連れてきてくれてありがとう」

 

青白く発光する満月は、完璧な丸型をしていて、おとぎ話の世界に居るかのようだった。

 

浜辺で月を見上げる人魚が二人...絵本の住人そのものだと思った。

 

読書が出来そうなくらい辺りは明るく、月光のおかげで海面も俺たちも光を集めて鈍く輝いている。

 

浜に生えている樹木が、白い砂浜に濃い影を作っていた。

 

俺のウロコは紫水晶色で、自分のものながら綺麗だと思った。

 

俺たちは手を繋いで 砂浜に仰向けで寝転がった。

 

星屑の霞の河が、夜空を斜めに横たわっていた。

 

「飛行機や船を見る度、いいなぁ、って。

乗ってみたいなぁ、って。

ユノのおかげで、船にも車にも乗ることが出来た」

 

「飛行機には乗せてあげられなかったね」

 

「全~然。

船だけで十分。

夢が叶った」

 

「よかったね」

 

「...ユノと出逢う前の僕は...。

海にちゃぷちゃぷ浮いてね、月や星を眺めたなぁ。

あまりに遠い世界でね。

独りぼっちだったから、寂しくてね。

いつも涙が出てしまうんだ」

 

流れ星がつーっと、右から左へと横切った。

 

「そうだったんだ...」

 

 

チャンミンと出会った日の話だ。

 

うっかり者のチャンミンは、海面にぷかぷか浮いているうちに寝入ってしまい、波打ち際まで流されてしまったらしい。

 

干上がりかけて瀕死のところを俺に救われた。

 

今夜のように満月の日だったから、砂浜に打ち上げられた人魚を見つけることができた。

 

初めて目にした時、華奢な身体つきから、『彼女』かと思った。

 

抱き起こした時、固く平らな胸と喉仏に、『彼』だと知った。

 

上半身に対して下半身...尾びれ...は大きく立派で、俺の背丈ほど長かった。

 

ああ、これが人魚なのか、と感動した。

 

そして俺は、チャンミンを自宅まで連れ帰ったのだ。

 

 

「ねえ。

僕ね、ユノとの赤ちゃんが早く欲しいんだ」

 

「知ってる」

 

『人魚は弱く儚い存在だけど、人間に出来ないことがある』

 

チャンミンからのプロポーズ代わりの言葉だ。

 

俺はうつ伏せになって、チャンミンを見下ろした。

 

人魚は雌雄一体だという。

 

「じゃあ俺もそれが可能だっていうこと?」

 

複雑な心境で恐る恐る尋ねたら、

 

「ユノは背びれが付いているから、完全なる雄」

 

と、俺の背骨から尾てい骨にかけて生えた背びれに触れた。

 

「背びれは、強靭な肉体を持つ証なんだ」

 

「チャンミンは?」

 

「僕も雄だけど完全なる雄ではないから、赤ちゃんを産むことができる」

 

「選ばれし存在だね」

 

チャンミンはふっと笑った。

 

「...ユノには黙ってたけど」

 

「何?」

 

チャンミンを当うと、彼は俺の肩越しに月夜に魅入られたままに見えた。

 

「人魚が孕みたければ、満月の夜に交わるべし...」

 

「えっ、そうなの?」

 

チャンミンは仰向けからこちらへと向き直ると、俺の胸の上にのしかかった。

 

「そうなのだ。

でも、そのつもりで誘ったわけじゃないよ。

ユノと抱き合いたくて...。

...今思い出した。

黙っててごめんね」

 

チャンミンはぺろっと、いたずらっ子のように舌を出してみせた。

 

「いや、全然」

 

俺はチャンミンを砂浜に組み敷くと、その可愛らしい舌を頬張った。

 

 

(おしまい)

 

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(3)泡となって薔薇色の雲になる

 

 

~ユノ~

 

車を自宅のカーポートに停車させた時、何かがおかしいと感じた。

 

門扉が開いていた。

 

誰か来訪者がいたのか、それとも不法侵入を犯した者がいたのか。

 

「チャンミン!」

 

中庭いっぱいに建造した、50メートルプール。

 

プール底に仕込んだ照明を透かした薄青色は凪いでいる。

 

水中に沈んでじっと潜み、いきなり飛び出して俺を驚かすこともたびたびだった。

 

悪戯っ子なところがある人魚なのだ。

 

「チャンミン?」

 

すみずみまで目をこらしてみたが、チャンミンらしい影はなかった。

 

プールサイドの地面が乾いている。

 

そして携帯電話が転がっていた。

 

拾い上げてみると、電源が落ちており、ボタンを押しても起動しない。

 

家じゅうの照明が点いていた。

 

「チャンミン!」

 

地下の屋内プールも、キッチンもリビングも、2階に上がって寝室を覗いたが、チャンミンはいなかった。

 

「...あ」

 

もっと早く気付くべきだった。

 

車いすがなくなっていたじゃないか。

 

クローゼットの扉が開いている。

 

「!」

 

伏せて置いたはずの本が閉じられ、広げ置いたノートが消えていた。

 

「くそっ」

 

隠しておくべきだった。

 

これを見てチャンミンは家を飛び出していったんだ。

 

俺を引き止めようと、俺に会いに行ったんだ。

 

「あの馬鹿!」

 

なんて無鉄砲な。

 

特訓をしていたとは言え、外気に身をさらしていられるのは、わずか1時間もないんだぞ。

 

なんて危険なことを。

 

照明が点いていた...ということは、暗くなってからのことだ。

 

現在時刻と日の入り時間を逆算し...既に、2時間半は経っている!

 

どこに行こうとしたのだろう...。

 

手掛かりがないか、デスクの上を注意深く見る。

 

最近の俺が熱心に読み込んでいた、本の裏表紙に貼られた図書館のシール。

 

ノートに書き記したアドレス。

 

ポケットの中の物を握りしめた。

 

チャンミンが知っているところ、、第一に訪れるであろう場所と言えば...。

 

見当違いなところだ。

 

俺は階段を駆け下り、カーポートまで走る。

 

左右の確認なしに表通りに車を出した。

 

 

 


 

 

 

~チャンミン~

 

 

海の泡が風の精霊となって天高く浮かび上がり、薔薇色の雲になるという。

 

薔薇色の雲になんてなりたくなかった。

 

この固くて冷たい地面を蹴って、走ってゆきたい。

 

大きな石も柵も楽々と飛び越えて、デコボコ道もぬかるんだ道もスニーカー履きの足で駆けてゆくのだ。

 

どうして僕は人魚なんだろう?

 

水からあがった人魚はあまりにも儚く、弱い。

 

僕に足を下さい。

 

この尾びれを2本の足に変えてくれるのなら、僕は代わりに何でもあげます。

 

そんな魔法があればよかった。

 

あったらよかったのに。

 

倒れた車いすを起こし、そこによじのぼる力がなかった。

 

胸が押しつぶされそうだった。

 

「はあはあはあ...」

 

僕には起き上がる力はもうない。

 

でも、ユノに会わないといけないのだ。

 

ユノを引き止めないと。

 

僕はうつ伏せになって、ほふくで進んだ。

 

「よいしょ...よいしょ...」

 

尾びれが重い。

 

水の中では自由に動き回れるのに、地上はなんて不自由なんだろう。

 

ずりずりと地面に擦れてうろこが何枚もはがれた。

 

「ユノっ!」

 

必死で芝生をつかむ指先が透けてきた。

 

「ユノー!」

 

聞こえるはずがないのに、ユノの名前を叫んだ。

 

「ユノー!」

 

僕はユノがいないと、ここでは生きていけない。

 

「ユノ!

ユノー!」

 

地面に無様に転がって身動きできなくなった今になって、いかにユノが僕を守り、慈しんできたのかを身をもって知った。

 

ユノは狡くなんかない。

 

僕のために一生懸命だった。

 

僕を全身で愛してくれた。

 

僕はユノを愛している。

 

僕は地上の生活が、ユノの側に暮らすことに満足していたんだよ。

 

意地悪な気持ちを持ってごめんなさい。

 

「...ユノ」

 

泡になんてなりたくない。

 

泡となって薔薇色の雲になんてなりたくない。

 

「ユノ―!!」

 

頬を伝う涙が唇を濡らした。

 

海の水のように塩辛い涙だった。

 

 


 

 

~ユノ~

 

 

公園の芝地に打ち上げられたひとりの人魚。

 

チャンミンを海から連れてきたことに、深く深く後悔した。

 

愛情さえあれば、チャンミンを地上で生かすことができると信じていた。

 

「チャンミン!」

 

横倒しになった車いすと、見覚えのある俺のコート。

 

なんて無謀なことをしてくれたんだ!

 

抱き起し、頬を叩いた。

 

「チャンミン?」

 

コートの合わせから裸の胸がのぞいている。

 

コート1枚羽織っただけで、飛び出したのか...。

 

チャンミンのまぶたは苦し気にゆがんだ形で固く閉じ、扇型に広がったまつ毛。

 

「チャンミン!」

 

唇は真一文字に閉じて、口角は下がっている。

 

毛布がめくれあがり、しなやかな尾びれの先から地面の芝が透けて見えた。

 

街灯の光を受けて、キラキラとまばゆい光を放つはずの瑠璃色のうろこが、くすんだ鉛色になっていた。

 

「チャンミン!」

 

この広場を斜めに突っ切った先に、図書館がある。

 

海への往復の際に、図書館の前を通るのだ。

 

俺が図書館にいると信じて、そこに向かったんだ。

 

「馬鹿野郎...」

 

チャンミンは俺を止めようとしたんだ。

 

力なくくたりと落ちた腕は、指先から肘まで透けている。

 

チャンミンは泡となって消えていこうとしている。

 

 

 

 

人魚には魂がないという記述を読んだことがある。

 

チャンミンは人魚だ。

 

チャンミンには魂がない。

 

...ということは、魂を失うことはないはずだ。

 

一瞬、希望の感情が湧いたが、すぐさま心が冷えた。

 

人間に愛された人魚には魂が宿るのだ。

 

俺に愛されたチャンミンには、魂が宿っている。

 

魂のない人魚の命が尽きる時、泡となって消えて行く。

 

チャンミンには実体がまだ残っている。

 

ということは、まだ間に合うかもしれない。

 

 

 

 

毛布にくるんだチャンミンを抱き上げ、図書館へとは逆方向に向かった。

 

チャンミンは軽かった。

 

公園のすぐそばに、海へと注ぐ河川がある。

 

流れが早く、黒々とした水面がざぶざぶと、堤防壁に当たって砕けている。

 

「チャンミン、待ってろ」

 

コンクリートの堤防にチャンミンを寝かせた。

 

俺はジャケットと靴を脱いだ。

 

俺はポケットから小瓶を取り出し、中身を飲み干した。

 

チャンミンをもう一度、抱き上げた。

 

眼下3メートル下は、夜の川。

 

 

 

俺はチャンミンを抱きしめて、共に飛び降りた。

 

 

 

俺とチャンミンは水の中。

 

周囲から音が消えた。

 

チャンミンを抱いた腕から力が失われる。

 

 

肺の中の酸素が尽きた。

 

 

漆黒の水中。

 

目を閉じているのか開けているのか、俺にはもう、分からない。

 

見えるはずのないチャンミンの白い顔が、ぼうっと浮かんだ。

 

尾びれが虹色に光を放っていた。

 

チャンミンの眼が三日月型に細められた。

 

 

 

ああ、ここは静寂の極楽だ。

 

 

 


 

 

~チャンミン~

 

僕は薔薇色の雲と雲の中を、自由自在に飛んでいた。

 

遥か1,000メートル下のユノを探していた。

 

僕の身体は間もなく、雲に溶け込んでしまうだろう。

 

僕は鼻をくんくんとさせた。

 

甘くて透明な香りがすると思った瞬間、

 

「ああっ!」

 

暴力的とも言える力で、下へと引き落された。

 

ぐんぐん僕の身体は落下していく。

 

薔薇色の雲がどんどん遠くなっていった。

 

背中の衝撃は、水面が叩いたものだと瞬時に分かった。

 

僕は真っ暗闇の水の中へ中へと沈んでいった。

 

僕は人魚。

 

尾びれを大きく振って、浮上する。

 

その途中。

 

ユノの白い顔がぼんやりからクリアに、目に飛び込んできた。

 

「ユノ!」

 

ユノが水中でたゆたっていた。

 

目は閉じられている。

 

ユノの口からは、泡ひとつこぼれてこない。

 

ユノの馬鹿!

 

ユノの身体を水上へと抱いて上がる。

 

ユノは人間。

 

水の中では生きてゆけない。

 

あの本とノートを見つけた時、ユノが何をしようとしていたかを知った。

 

ユノは魂を手放すつもりだったのだ。

 

人魚には魂がない。

 

ユノは人魚になろうとしていたのだ。

 

僕と共に、広大な海で暮らすために。

 

ノートに書かれていたのは人魚になるためのレシピだ。

 

僕は魂のある人間のユノが好きだったのに。

 

ユノと共に、地上で暮らしてゆきたかったのに。

 

ユノの馬鹿野郎!

 

僕はそんなこと、望んでなかったのに。

 

ユノの頭を抱きしめて、僕は泣いた。

 

おいおい泣いた。

 

かつて薔薇色だった、ユノの唇にキスをした。

 

「ユノ...」

 

ユノのまぶたが開いた。

 

尾びれの光が水中から放たれ、ユノの顔を照らしたのだ。

 

僕の腕の中で、ユノがほほ笑んだ。

 

「...あ」

 

尾びれが放つ発光体が2つになっていた。

 

「そうだよ。

...そうなんだ」

 

 

 

 

ユノは人魚になっていた。

 

 

 

 

 

「ユノの馬鹿」

 

「機嫌を直して」

 

「ユノの馬鹿!」

 

僕はぷんぷんに怒っていた。

 

同時に、嬉しくてたまらなかった。

 

「いいことを教えてあげる」とユノは言った。

 

泳ぎが下手なユノの手を引いて、海を目指していた。

 

「何?」

 

「チャンミンが怒っている理由は分かっている。

俺を止めようとしてくれてたんだね?」

 

「そうだよ。

死に物狂いだったんだよ?」

 

「わかってる。

チャンミンが喜ぶことを教えてあげる」

 

僕らは泳ぎを止め、互いの腕をつかんで向かい合った。

 

「俺は人間で魂があった。

人魚には魂がない。

でもね。

人間に愛された人魚には、魂が宿るんだって」

 

「知ってるよ。

ユノの本に書いてあった」

 

「俺に愛されたチャンミンには、魂が宿っているんだよ」

 

「...そっか!」

 

「これを聞いたら、もっとチャンミンの機嫌が直るよ。

絶対に」

 

ユノの言葉に、既に歓喜していた僕は、声を出せずに頷くのがやっと。

 

「魂が宿ったチャンミンから愛されて、人魚となった俺にも魂があるってこと。

俺たちは魂を宿した人魚となったんだ」

 

「...ユノの馬鹿」

 

「馬鹿なことをしでかすほど、チャンミンを愛してるってことだ」

 

「...僕も、同じ気持ち。

愛してる」

 

ユノの胸に抱きついた。

 

「全財産をかけた俺の壮大な計画だったんだ。

驚かそうと思って」

 

「僕も命がけだった」

 

「そうだね。

人魚のくせに、外を出歩くなんて」

 

「僕には足がないもん」

 

「そうだね。

チャンミンの本来の棲み家は、水の中だ」

 

「これからのユノの棲み家も、水の中だよ。

一緒に暮らせるね」

 

「ご機嫌が直ったみたいで、俺は安心したよ」

 

「ねえ、ユノ。

僕からもユノが喜ぶことを教えてあげる」

 

「へぇ。

何なに?」

 

「人魚はとても儚く弱いけど、人間には出来ないこともできるんだよ」

 

ユノの耳元で囁いた。

 

「ユノの赤ちゃんを産みたい」

 

ユノの目が真ん丸になった。

 

 

(おしまい)

 

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(2)泡となって薔薇色の雲になる

 

 

~チャンミン~

 

ユノに電話をかけようかかけまいか、さっきから迷っている。

 

寂しくて、ユノの声が聞きたくなったのだ。

 

西日でプールがオレンジ色に染まっている。

 

手持ち無沙汰で、夕飯はとっくに済ませてしまった。

 

「よいしょ」

 

僕は特別製車いすに、よじのぼった。

 

寂しくって、ユノの部屋に遊びに行こうと思ったのだ。

 

最近のユノは、僕が眠ると毛布を抜け出して部屋に行ってしまうのだ。

 

僕は薄目を開けて、プールサイドを離れるユノの背中を不安な気持ちで見つめていた。

 

そして、朝方になると僕の隣に戻り、まるでずっとそこで眠っていたかのように目を覚ますふりをするのだ。

 

僕も騙されたふりをしている。

 

ユノが何をしているのか、興味があったのだ。

 

段差ごとに設けられたスロープを上がる。

 

「よいしょ、よいしょ」

 

車輪は滑らかに回る。

 

エレベーターに乗って2階まで行き、ユノの部屋までたどり着く。

 

僕の隣で眠るようになって用無しとなったベッド、大きな本棚、ダンベル、何冊もの本が積まれたデスク。

 

僕が撮ったユノの写真が飾られていた。

 

ユノは毎週、クルーザーに乗せて僕を海に連れていってくれた。

 

その時の写真だ。

 

デスクには、本が何冊も、ページが開いたままのノートと、ボールペンがあった。

 

伏せて置かれた本の一冊を手に取った。

 

びっしりと細かい文字がページを埋めている。

 

付箋が何枚も貼ってあった。

 

付箋を頼りにページをめくる。

 

指が止まった。

 

「...うそ」

 

ユノの文字が並んだノートもめくった。

 

全身が氷になったかのように、一瞬で冷えた。

 

「嘘だ...」

 

僕は本もノートも放り出して、車いすの方向を変えた。

 

「よいしょ、よいしょ」

 

廊下を走る。

 

ユノ...。

 

ユノが...!

 

エレベーターに乗って1階へ、スロープでプールのある中庭まで下りた。

 

ユノが僕の為に置いていった、プールサイドの携帯電話に手を伸ばした。

 

「何かあったらすぐにすっ飛んで来るよ」と、ユノは言っていた。

 

それをつかんだその時、車いすがぐらりとかしいだ。

 

「ああっ!」

 

携帯電話がプールに落下してしまった。

 

プールに飛び込み、底に沈んだそれを救出する。

 

「...ああ...なんてこと」

 

ディスプレイが真っ暗になっていた。

 

ボタンを押しても、うんともすんともいわなくなっていた。

 

「...ユノ」

 

こうしていられない!

 

スロープを上り、エレベーターに乗り、ユノの部屋へ引き返す。

 

「よいしょ、よいしょ」

 

ユノのクローゼットを漁り、ユノのコートを羽織った。

 

うろこだらけの下半身は毛布でくるんだ。

 

デスクからユノのノートを取って、背もたれの隙間に押し込んだ。

 

ユノのへそくりを隠してある戸棚から、紙幣をくすねてコートのポケットに入れた。

 

僕の不安は膨らむ。

 

戸棚の中にぎっしり詰まっていた紙幣が、ほとんど無くなっていた。

 

「よいしょ、よいしょ」

 

必死で車輪を動かした。

 

僕の目から涙がボロボロこぼれ落ちた。

 

ユノ!

 

ユノ!

 

ユノの馬鹿野郎!

 

門扉を抜けて、アスファルトの道路に出た。

 

自分ひとりで外に出るのは初めてだった。

 

どこをどう行けばいいのか、海へ行く道中何度も見たことがあるから、少しは分かっている。

 

空はすっかり暗くなっていた。

 

毛布の端から尾びれがのぞいていて、慌てて隠す。

 

僕の正体は誰にも知られてはいけないのだ。

 

大騒ぎになる。

 

「よいしょ、よいしょ」

 

歩道を猛スピードで車いすを走らせる姿は、そんなに珍しいのかな。

 

通り過ぎる者たちが好奇な視線を向ける。

 

バスだ、バスに乗ろう!

 

ポケットの中の紙幣を握りしめた。

 

停留所に停車したバスの行き先を確認して、「ついてる!」と思った。

 

だけど、車いすの僕はステップを上がれない。

 

それに...帰宅ラッシュで、バスは混雑していた。

 

親切な人が声をかけてくれたけど、いつ毛布がめくれて尾びれがむき出しになってしまうか知れない。

 

僕は首を振って、停留所を離れた。

 

タクシーは?

 

駄目だ、抱っこして乗せてもらっても、やっぱり尾びれを見られてしまうだろう。

 

こみ上げる涙をゴシゴシこすった。

 

泣いてる間があったら、先へ進むんだ。

 

「よいしょ、よいしょ」

 

指の付け根にできた豆が潰れて痛かった。

 

僕は構わず、車輪を回転させる。

 

胸が痛くなってきた。

 

水から上がっていられる時間の限界が近づいてきている。

 

「よいしょ、よいしょ」

 

公園の前にさしかかった時。

 

「あ...!」

 

ピクニックした場所。

 

僕とユノが寝そべって空を見上げた広場は、この公園にある。

 

そういえば、ここを突っ切っていけば、近道できるんだった!

 

街灯がぽつん、ぽつんと灯るだけの、誰もいない真っ暗な公園に車いすを差し向けた。

 

「よいしょ、よいしょ」

 

車輪が地面のレンガにとられて、ガタガタと揺さぶられる。

 

ユノ...。

 

ユノに会わなくっちゃ。

 

今すぐ!

 

胸が痛い。

 

車輪を止め、僕は胸を押さえて大きく喘いだ。

 

いつの間にか露わになっていた尾びれが、街灯に透けて見えた。

 

急がないと!

 

泡になってしまう。

 

泡になって消えてしまう。

 

ユノに会いたい。

 

「ふぅ」

 

震える手で車輪をつかみ、前へ進む。

 

「よいしょ...よいしょ」

 

ここを抜ければ、ユノに会えるかもしれない。

 

間に合えば。

 

「...っく...!」

 

胸の痛みに身をよじらせた。

 

ひと息ついて、力を振り絞って車輪を前へ前へと回転させる。

 

「よいしょ、よいしょ」

 

広場を縁どる段差に車輪がぶつかり、つんのめり、僕の身体は大きく前に傾いた。

 

車椅子ごと地面にたたきつけられた。

 

僕は芝生の上に転がっていた。

 

「...っう...」

 

あの日は柔らかだった葉先が、固く鋭いものとなり、僕の頬を刺した。

 

「...ユノ...」

 

陸地に打ち上げられた一匹の人魚。

 

本来ならいるべきではない場所に、人魚がいた。

 

胸の痛みは耐えられないところまできていた。

 

潮の香りじゃなく、草と土の香りがした。

 

 

 


 

 

~ユノ~

 

こんな記述を読んだことがある。

 

泡となって消えてしまう人魚には、魂がないのだとか。

 

人間に愛された人魚には魂が宿るとも。

 

チャンミンに魂がないなんて、俺は信じない。

 

俺に愛されているチャンミンには、魂が宿っているはずなのだから。

 

 

(後編につづく)

 

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