(60)ぴっかぴか

 

~チャンミン~

 

僕は立ち上がり、とぼとぼと歩いていた。

 

目尻に溜まった涙を拭った。

 

ユノんちで過ごしたのは2時間ほど。

 

表通りは自動車や店舗の灯りで明るく、週末前日でもあっていい具合に酔っ払ったグループが店先に滞留している。

 

いつもなら酒場に向かい、しこたま飲んでぱぁ~っと発散するのだけれど、この一件については酒で誤魔化したら駄目なような気がする。

 

不思議なことに、ユノとはもう、これっきりだとは思えなかった。

 

言い争いをしたからと言って、「はい、お終い」とは全然思わなかった。

 

(これが喧嘩かぁ)

 

かつての僕は、縋りついてくる男に「うっとおしい」と冷たく言い放ち、2度と振り返らなかった。

 

一方が怒り嘆いているだけでもう一方の僕は冷静そのものだから、喧嘩にすらなっていなかった。

 

激高した奴に頬を張られることもあったけれど、彼らの眼には「やっちまった...」と、暴力を振るってしまったことへの咎めの色がある。

 

僕はそんな彼らに蔑みの視線をくれてやる。

 

何が何でも、立場的に僕が上だった。

 

今夜、僕は恋人と喧嘩をした。

 

ユノから酷いことを沢山言われたのに、全部ぶちまけてくれたことが嬉しかった。

 

「もっと叱って!」と思ってしまうあたり、僕にはMっ気があるよね。

 

僕の歩幅は徐々に広くなっていった。

 

この辺りがユノの家とユノと出逢った店との中間地点にあたり、彼はその店から泥酔した僕を背負って来たのだ。

 

ユノと出逢った頃よりも、日暮れ時間が早くなっていた。

 

「あっちぃ」

 

早歩きしたことで身体が温まり、顎先から滴ってきた汗をTシャツの襟元で拭いた。

 

ユノんちのシャンプーで洗った髪はパサついているし、長めの後ろ髪が汗でうなじに張り付いていて気持ちが悪い。

 

目元にかかる前髪もうっとおしい。

 

(もうやだ。

リフレッシュしたい)

 

乱暴に髪をかき上げた。

 

「......」

 

僕は雑居ビルとビルとの隙間に引っ込むと、手にしていたスマートフォンに表示された番号をしばし睨みつけた。

 

「......」

 

(黙って立ち去るだけじゃ、あいつには伝わっていなかったんだ。

 

ビシッとはっきり言ってやるしかない。

 

『2度と連絡してくるな、ば~かば~か』って)

 

僕は発信ボタンを押した。

 


 

~ユノ~

 

「あんたがチャンミンの“元カレ”さんですか?」

 

目の前の男は、灰色のスーツ姿の中年男だった。

 

別れるなり記憶が薄れてしまうような、ぱっとしない見た目の男だった。

 

“あの”チャンミンの相手としては不釣り合いなほど、普通の男だった。

(身体の関係“だけ”を求めていたって言ってたから、見た目は関係ないのか...)

 

夕刻後の店内は、仕事帰りの客たちでほどほどに混雑していた。

 

俺たちはグラスビールとオレンジジュース(俺)を前に対面して席についていた。

 

「『元カレ』?

そんな大層なものじゃないですよ。

ははは」

と、男は困り顔で手を振った。

 

「チャンミンと付き合っていたのは、確かですよね?」

 

「まあ...そうですね。

あれが付き合っていたというならば」

 

どう受け取るか、聞き手にゆだねる含みのある言い方に、俺はムカッとした。

 

「昔の話です」

 

男はコーヒーをひと口飲むと、音をたてずにカップをソーサーに戻した。

 

俺は男の唇や指の動きを目で追った。

 

「エロい」と思った。

 

男の仕草や言葉遣い、醸し出す雰囲気からエロスの匂いを嗅ぎ取っていた。

 

(例えば風俗店のオーナー兼店長兼マネージャーのような雰囲気。

行ったことも会ったこともないのに、イメージだけで決めつける俺の偏見といったら)

 

平凡で無害そうな奴に限って、エロ方面が凄いという聞いたことがある。

(それって何情報?覚えていない)

 

いずれにせよ、チャンミンの何番目かの元カレであることは確実だ。

 

 

チャンミンのスマートフォンを鳴らしたのはこの男なのだ。

 

ついつい電話に出てしまった俺は、とっさに対面する約束を取り付けた。

 

その後、チャンミンと喧嘩をしてしまい、スマホを覗き見たことをバラしてしまい、怒った彼は俺んちを飛び出してしまった。

(そして、翌日の今日になっても連絡ひとつよこさない)

 

この男と会っていることは、チャンミンには内緒だ。

 

恨みを買うような別れ方を繰り返してきたということは、きれいに別れてこなかったということだ。

 

チャンミンを全く疑っていなかったと言い切れないが、昨日の俺はやり過ぎた。

 

嫉妬心に駆り立てられ、酷いことを言ってしまった。

 

嫉妬心!

 

過去は過去、過去があったからこそ今の彼がある...そんな台詞は綺麗ごと。

 

チャンミンの過去は大いに気になる。

 

『運命の相手』を連呼しておきながら、オトコ関係が派手だった奴だと知っておきながら、俺はやっぱり平気じゃなかったのだ。

 

嫉妬心でメソメソしない代わりに、チャンミンが過去の男たちに因縁をつけられるようなことがある度に、俺が1個1個潰していこうと決意したのだ。

 

束縛強めの重い男。

 

カッコ悪いこと甚だしいが、これが俺という男。

 

恋愛の仕方にカッコいいも悪いもないのだ。

 

 

「あなたがチャンミンの『今カレ』と伺いました。

チャンミンから私に話があるのなら分かりますが、ユノさんの方から私に言いたいことがあるようですね

チャンミンに近づくな、とでも仰りたいのですか?」

 

「ああ、その通り」と答えた俺に、男はくすりと笑みを漏らした。

 

「ユノさんは何か勘違いをされている。

“私の方から”チャンミンに会ったのではありません。

偶然、会ったのです」

 

疑わし気な俺の表情を見てとった男は、続けて言った。

 

「私は遠方にいたのですが、最近こちらに戻ってきましてね。

当時行きつけだった店が未だあって驚きました。

久しぶりに顔を出してみたら、偶然チャンミンに会いました。

ユノさんはまさか、“チャンミンの方から”私にコンタクトを取ったのでは、と疑ってはいないでしょうね?」

 

(うっ...)

 

図星だったが、俺は平静さを崩さないことに努めた。

 

「チャンミンが会いに行ったかどうかは、俺は問題にしていません」

 

本音は言葉と裏腹だったが、この男に悟られるわけにはいかぬ、と気持ちを引き締めた。

 

(つづく)

 

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