(61)ぴっかぴか

 

~ユノ~

 

男は自身が優勢だと見込んだのか、脚を組み姿勢を崩した。

 

俺も負けじと椅子にふんぞり返ってもよかったが、今は姿勢を崩さないことにした。

 

「大人の対応、大人の対応」と自分を言い聞かせる。

 

「何が問題ですか?

私とチャンミンは、随分前に切れています」

 

男はピースサインをした指で、チョキンと糸を切るジェスチャーをした。

 

「別れてから以降、何年も会っていません。

この街は狭い。

『会うな』と禁じられたとしても、偶然顔を合わせてしまうことは避けられないでしょう?」

 

男の話は至極もっともで、男とチャンミンがばったり店で鉢合わせたのもその通りで、それを疑った俺にチャンミンが腹を立ててもおかしくない。

 

だが、俺が追求したいのはそこではないのだ。

 

「私が未だにチャンミンに執着しているとでも?

別れを告げたのは“私”です。

未練があるわけないでしょう?

どちらかというと、私が追いかけられていた側です。

ユノさんはひどい誤解をされている」

 

「......」

 

男はカップを取ると、コーヒーをひと口すすった。

 

節の目立たない、丸みを帯びた指をしていた。

 

胸がチリチリ焼ける。

 

「この指でチャンミンを...」と巡らせかけた想像をストップさせた。

 

「......」

 

男に言われっぱなしだったが、そろそろ言うべきことは言う頃にきていると判断した。

 

俺はオレンジジュースをひと息に飲み干し、咳ばらいをして息を整えた。

 

「あんたさぁ」

 

俺も背もたれに深くもたれかかり、脚を組んだ。

 

この時、テーブルに膝を打ち付けてしまったが、『いてっ』と声を上げるのではなく舌打ちをした。

 

「俺、脚が長いので」

 

そう言って、ズキズキ痛む膝小僧をさすりそうになるのをグッと堪えた。

 

「そうやってチャンミンのことをどうってことない風にいってるけどさぁ。

あんたの方こそ、惜しくなったんじゃねぇの?

久しぶりに会って、チャンミンがあまりにいい男だと再認識したんじゃないの?」

 

「ユノさんはなぜ、そう思われるのですか?」

 

余裕を崩さない男にムカムカする。

 

「だってさ~。

普通、元カレの今カレ...つまり俺からの呼び出しに応えるかなあ?

面倒くさいことになるって分かってるでしょ?

チャンミンがどうでもいい奴になっていたら、わざわざ時間を割かないでしょ?」

 

「......」

 

「それにさ、チャンミンのことをどうでもよくなっていたら、3回も電話をかけて寄こさないでしょ?

何か用事があったわけ?」

 

「ずいぶん過保護なんだね?」

 

「ああ、過保護さ。

過保護で束縛屋だよ」

 

言い切る俺に男はくくっと吹き出すと、「ユノさんはこれから苦労するだろうね」と言った。

 

「私と別れた後のチャンミンがどれほど荒れていたのか、人づてに聞くしかありませんでした」

 

(はあ...)

 

タクシードライバーといいこの男といい、チャンミンに関して似たようなことを言う。

 

それはおおむね事実なんだろう。

 

結局は、未練があるばっかりにチャンミンを貶めることで気を晴らしているだけだ。

 

でも、チャンミンは悪くないと擁護はできない。

 

下手な別れ方をしたチャンミンにも責任はある。

「チャンミンは若かったし、私が初めての男だった」

 

「え゛...!?」

 

(こ、こいつがチャンミンのお尻バージンを奪ったやつなのか!)

 

驚きで俺は身を乗り出した。

 

その時、俺の肘がグラスに当たってしまった。

 

「あ゛」

 

グラスいっぱいに入っていた氷水が、ざ~っと向かいの男の膝に流れ落ちた。

 

男は逃れようと腰をずらしたが、俺がこぼしてしまった水の大半が男の太ももで受け止められた。

 

「悪い」

 

こういうハプニングが起きた時、同席者はおてふきやペーパータオルを手渡したり、お店の人におしぼりの追加を頼んだりするのが普通なんだろうけど、俺は違った。

 

俺は席を立つと、ずぶ濡れになってしまった男のズボンを自らお手拭きで拭いてやた。

 

「いや...いいです...ユノさん。

構いませんから...大丈夫ですから」

 

「そういうわけにはいかないですって」

 

俺は男の制止を構わず、おしぼりで濡れた個所をごしごしとこすったり、とんとん叩いた。

 

「シミになってしまいますよ」

 

俺の手を退けようとする男の手を、振り払った。

 

こんな奴相手に甲斐甲斐しくする必要はないから、これは90%嫌がらせの行為だ。

 

「やめてください!」

 

男の大きな声に、俺たちは店内の客たちの注目を浴びてしまった。

 

「大丈夫ですから!」

 

「...でも、今のまんまじゃお漏らししたみたいに見えますよ?

ヤバくないですか?」

 

「...時間が経てば乾くでしょう」

 

男のグレー色のズボンに、太ももから股間にかけて黒いシミが広がっていた。

 

男は「大丈夫です、このままで構いません」と手を振り、俺に席に戻るよう促した。

 

俺はオレンジジュースを、男は新しく運ばれてきた水を飲んだ。

 

「...話に戻りましょうか?」

 

「えっと...どこまで話しましたっけ?」

 

「チャンミンの初体験があんただった、って話」

 

「そうでしたね。

チャンミンは私とのセックスに夢中になってしまったようです。

身も心も私に捧げていました。

転勤先まで追いかけてきました。

重荷になってきました」

 

(くっそぉ~)

 

俺は奥歯を噛んでやり過ごした。

 

「チャンミン

別れが受け入れ難かったのでしょう。

一晩中、玄関の前に居座っていましたよ」

 

マウントをとろうと、別れた男の恥部をさらす行為のカッコ悪いことといったら。

 

「ふ~ん、そうですか」

 

この男、最後まで大人な態度を貫くかと思いきや、本音がチラチラと見せ始めた。

 

さっきの判断通り、大した男ではない、とみた。

 

この男がチャンミンの『初めての男』...人生においての重要パーソン。

 

チャンミンはこの男に真剣に恋をしフラれ、恋をすることがトラウマになり、「もう誰にも恋をしない!と心に決めた。

 

チャンミンの恋愛傾向を形作ったのがこの男だ。

 

そんな奴が俺と付き合ってくれたことに、俺は誇りを持っていい。

 

「ところで、ユノさん。

チャンミンは今も、私からの贈り物を大事にしているようですか?」

 

「何がです?」

 

男は耳たぶに触れて、「ダイヤモンドがはめ込まれた丸い形の...」

 

(やっぱり...)

 

俺と知り合った日、チャンミンの耳を飾っていたアレはこの男から贈られたものだったようだ。

 

「ああ...あれですか。

チャンミンの奴、質にいれちゃったんですよ」

 

「え゛...?」

 

今度は男が驚く番だった。

 

「買い取りに出しちゃったんですよ。

俺は駄目だって止めたんですけどね」

 

「......」

 

「いいモノだったんで、いい値段で売れました。

で、焼肉食って、温泉行って、まだまだ使いきれなくて困ってるところなんすよ。

残念でした!」

 

(チャンミンだったら、あっかんべぇをしていただろう)

 

男は「...そう...ですか」とつぶやき、がくっと肩を落とした。

 

忘れられなくて大事に保管している、もしくは常に装着しているのとでも予想していたのだろう。

 

この男に、俺と会う前まで身に着けていたことを教えてやるわけにはならぬ。

 

「私もチャンミンに尽くしたところはあった。

私なりに無理をして手に入れたものでした。

贈った時のチャンミンの喜ぶ顔は未だに忘れられませんね」

と、男は遠い目をする。

 

(今度は思い出に浸りかけたのか?)

 

それにしても、この男は暇なのか?

 

元カレの今カレとの対談に、最後まで付き合うつもりなのか。

 

俺の質問にぺらぺらと気安く答え、放っておいたらHの内容まで教えてくれそうだ。

 

「こいつ、ズボンが乾くまで店を出られないんだよなぁ」と思いかけたとき。

 

「ユノ!!」

 

背後から降ってきた声に振り向き、俺は絶句した。

 

「チャンミン!?」

 

男の薄い唇に「にたり」と笑みが浮かんだことに、俺たちは気づいていなかった。

 

(つづく)

 

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