(1)虹色★病棟

 

 

僕らは走っていた。

 

くるぶしまで浸かった裸足は、凍えそうだった。

 

固く握りしめた彼の手。

 

温かく頼もしい...愛しいその手が僕を導いてくれる。

 

かれこれ30分以上、僕らは走っていた。

 

天井からぽたぽた落ちる水で、僕らのパジャマはぐっしょりと濡れている。

 

水を蹴散らすパシャパシャ音が反響している。

 

前方に白い光。

 

あともう少し。

 

もうすぐだ!

 

 

 


 

 

 

新入りがやって来るとの情報を聞きつけて、僕はロータリーを見下ろせる窓前に陣取っていた。

 

外は雨がしとしと降っていた。

 

嵌め殺しの窓ガラスは白く曇っていて、くっつけた鼻先が水滴で濡れた。

 

気温が低いらしい。

 

僕と同様に、食堂兼娯楽室をうろつく者たち。

 

スーツを着た者、ジャージやスウェットの上下の者、Tシャツとチノパンの者、タンクトップ姿や冬物ニットを着た者、そしてパジャマ姿...とにかく、皆思い思いの恰好をしている。

 

暇を持て余している僕らは、情報に飢えていた。

 

ここにはテレビもない、通信機器も使用禁止、新聞もない。

 

せいぜい、『食中毒に注意』だとか『防災週間』のポスターや、給食の月間メニュー表が貼ってある程度で、これらもすみずみまで読みこんでしまった。

 

僕と同じ部屋だといいなぁ。

 

先月ここを出て行った同室の奴が変人過ぎて、ホッとした束の間、今度はひとりが寂しくなってきていたところだったのだ。

 

僕はとっておきの洋服を着ていた。

 

視線を落とすとピカピカに磨いたワンストラップの革靴、黒のソックス。

 

僕の恰好を見ても、眉をひそめる奴はここには誰もいない。

 

それでも急に不安になってきて、洗面所の鏡に顔を映す。

 

水で濡らした指で前髪を梳かしつけた。

 

「よし!」

 

食堂までとって引き返した時、そこはざわついた雰囲気だったため、窓辺を離れた1分を悔やんだ。

 

どんな車で現れ、ひとりなのか連れがいるのか、荷物は多いのか手ぶらに近いのか。

 

安全で快適なここから窓の外を見下ろし、その者がここに案内されるまでの数分間、第一印象をもとに想像の世界で遊べるのに。

 

いきなり近くで見てしまったら、刺激が強すぎるからね。

 

エントランスにぞろぞろと移動していく者たちに、僕も加わった。

 

エレベーター前すぐに、透明アクリルがはめ込まれたエントランスドアがあるのだ。

 

2メートル近くある大男のせいで、前が見えない。

 

大男と肥満男の間に身体をねじこもうとしたけど、やせっぽっちの僕は簡単に押し返されてしまった。

 

僕は諦めて後退し、壁にもたれて待つことにした。

 

胸がドキドキする。

 

新人はどんな人物なんだろう?

 

若いのかな、しゅっとした人かな、それとも根暗な奴かな。

 

人並みがざっと左右に分かれた。

 

スタッフに伴われたのは若い男だった。

 

しゅっとした身体付きだった。

 

初夏に近い季節なのに、薄手のコートを着ていた。

 

足元に視線を移す...僕は靴にうるさいのだ。

 

どんなにイケた格好をしていても、ちぐはぐな靴やかかとがすり減ったものを履いてる奴はいやなのだ。

 

その男の靴は、爪先がしゅっとしたサイドゴアのショートブーツを履いていた。

 

視線をゆっくり上げていく。

 

世界は緑あふれる季節なのに、手袋をはめていた。

 

さらに、視線を上昇させた末...僕はショックを受けた。

 

「!!」

 

その男は異様だった。

 

黒いマスクをしていたのは、別段おかしなことじゃない。

 

僕的に衝撃だったのは、透明ゴーグルを装着していたのだ。

 

僕は再び、自分のワンストラップシューズに視線を落とした。

 

これ以上、その男を見ていられなかったからだ。

 

身体を動かす度、スカートの裾がひらひら揺れた。

 

綺麗なブルーに、白い星屑が散ったコットン素材。

 

何だよ...せっかく、とっておきのワンピースを着ていたのに...。

 

あんな変人、同じ部屋だったら最悪だ。

 

身をコートに包み、手袋、ゴーグル、マスク。

 

まるで周囲の物も空気も、ばい菌だらけなんだと思っているのだろうか?

 

でも、ゴーグル奥の目の眼力が凄かった。

 

視線の矢が僕の瞳にまともに刺さった...そんな感じだった。

 

 

 

 

僕は脱いだワンピースを、ハンガーにかけクローゼットに吊るした。

 

「...なんだよ...変な奴」

 

パジャマに着替え、ベッドの上で両膝を抱えた。

 

閉めたドアの向こう、廊下に意識を集中させた。

 

僕の部屋のドアがノックされたら、どうしよう!

 

「今日から、彼が同室ですよ」って。

 

落ち着かなくて、ベッドから下りた僕はスリッパを履き、10センチだけ開けたドアの隙間から廊下の様子を窺った。

 

廊下には誰もおらず、左手はステーションカウンターが、右手は行き止まりでバルコニーに続くドアがある。

 

今、空室になっているのは、僕の部屋とその隣と、2号通路の方の一番端だけのハズ。

 

「わ!」

 

ステーションの角から、2人のスタッフと共に、ゴーグル男がこちらにやって来る!

 

僕はというと、ドアの隙間を5センチまで閉めて、廊下の様子を探る。

 

こちらに近づいてくる3人。

 

スタッフの薄ピンク色の制服、男のグレー色のコート。

 

どんな顔をしているかは、ゴーグルとマスクで分からないけれど、高い鼻梁の感じから...容姿が整っている確率は高そうだ。

 

僕の部屋を通り過ぎる瞬間...。

 

「わ!」

 

ゴーグル男と覗き見男(僕のことだよ)の目が合った。

 

「わ!」

 

レーザービームのような視線だった。

 

慌てた僕は俯いて、自身のふわもこファーの真っ白いスリッパに見入っているフリをした。

 

僕の部屋を通り過ぎた...ということは。

 

「!」

 

隣の部屋だ!

 

僕のハートはふわふわっと浮上した。

 

ゴーグル男が気になって仕方ない。

 

顔を見てみたい!

 

室内の説明を終えたスタッフたちが、ステーションに戻ってしまうまで待った。

 

周囲に誰もいないことを確認し、僕は部屋を出た。

 

ひと息ついたのち、隣室の赤色にペンキを塗られたドアをノックした。

 

「どうぞ」

 

優しそうな声だ。

 

緊張で汗ばんた手を、パジャマのズボンで拭いた。

 

「し、失礼します...」

 

声が震えてしまった。

 

おずおずドアを開けると、むわっと消毒液の香りに包まれた。

 

室内に足を踏み入れるなり、

 

「ストップ!」

 

と、鋭い声が飛んできて、それに従い僕は直立不動となる。

 

足元に視線を落とすと、真新しい黄色の梱包テープが、灰色のリノリウムの床に真一文字に貼ってある。

 

僕の爪先から手前と、室内へとを区切る境界線のようだ。

 

デスクに置かれた加湿器みたいなところから、しゅんしゅんと白い蒸気が噴き出ている。

 

「そこで待ってろ」

 

「...はい」

 

あの男はゴーグルと黒マスクを外して、ぱりっと糊のきいた薄水色のパジャマに着替えていた。

 

そして、ベッドカバーにスプレーを吹きかけているところだった。

 

白亜の王子様だった。

 

神話に登場する美貌の神様だ。

 

こんな...綺麗な人が...いるなんて!

 

呆けて立ち尽くした僕に、王子様は近づくとスプレーの噴出口を僕に向けた。

 

「!!!」

 

「悪い。

しっかり除菌しないと」

 

全身しっとりと濡れるほど、消毒薬をふりかけられ、「この上に座って」と促された。

 

僕はそろりと、ベッドに敷いたタオルの上に腰かけた。

 

なるほど...。

 

この王子様は...極度の潔癖症なのかもしれない!

 

 

 

 

以上が、僕とユノの恋物語のスタート場面だ。

 

その一か月かそこらの後に、僕らはキスを交わすまでの仲に進展した。

 

ユノは、第一印象は衝撃的だったけど、それだけに魅力と謎の多い男だったんだ。

 

 

(つづく)

 

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