僕はきょろきょろと室内を見回した。
真っ赤に塗られたドア以外は、僕の部屋と同様にカーテンとリネン類は全て白、スチール製の家具は灰色。
閉め切った窓のせいで、むせかえるほどのアルコールの匂いで、酔っぱらったかのようにくらくらした。
ちなみに、ここでは飲酒禁止だ。
「窓を開けたい」とは言い出しにくい。
潔癖症の彼が、外気を取り込む行為を嫌がりそうだったから。
消毒薬を浴び、僕のパジャマは湿り気を帯びていた。
「...お前、俺に用事があるのか?」
彼は両腕を組んで窓際に仁王立ちしている。
年齢は20代後半から30そこそこ、髪色は黒、しゅっとした体形の長身の男。
漂白したかのように青ざめた肌のせいで、目の下の隈が目立つ。
何かに思い悩み苦しんでいるような、暗い眼をしていると感じたのは、彼の瞳の色が黒の中の黒をしているからだけじゃないと思う。
「...僕、君の隣の部屋なんだ。
ひとこと挨拶しようと思って...。
急にごめんね」
刺激のない平穏な暮らしを送っているせいで、新入りが来ると言ったイベントがあると、好奇心がくすぐられ、居ても立っても居られなくなる。
29歳と言えば立派な大人。
ここで暮らすうちに、僕は子供っぽい性格になったと思う。
もっとも、僕の本来の性格なんてよく分からなくなっていた。
それもこれも、ここが平和だから。
いつもと違うことが起こると、とうに忘れてしまっていた好奇心が引っ張り出され、その出来事は僕の中で「大事件」になる。
野次馬のように遠巻きに眺めていられなくなり、接近して関わろうとする。
地球に不時着した宇宙船。
そこから助け出された銀色の衣をまとった宇宙人。
いの一番に担架を持って駆けつけ、率先して治療にあたり、彼(彼女)が話す宇宙語の意味を理解しようと耳をそばたてる。
今の僕はそんな感じだ。
アルコールの香りに耐えきれなくなり、やっぱり窓を開けようとベッドから立ち上がったところ、
「俺の1メートル以内に近づくな」
びしっと拒絶の声に、僕は腰をあげかけた姿勢のまま一時停止。
彼は長い腕を真っ直ぐ伸ばし、人差し指を僕の鼻先に突きつけている。
「ごめん。
ねぇ、君ってもしかして...潔癖症?」
もしかしなくても、明々白々なんだけどね。
「潔癖症のどこが悪い?」
彼はふん、と鼻をならし、どこか威張っているみたいな口調に、僕はくすくす笑ってしまった。
「笑うところか?
失礼な男だな」
形のよい眉をひそめた表情に、可愛いなぁと思ってしまった。
僕はベッドに座り直し、身をひねって反対側を見てみると、部屋の隅に消毒液の10リットルポリタンクが数個と、オゾン発生器の緑のランプが灯っていた。
「俺をからかうつもりなら、この部屋からとっとと出て行け」
「ヤダ」
「...ヤダ、って。
お前はお子様か?」
「無邪気、と言って欲しいな。
ねえ。
潔癖症になった理由って何?
ここに入所した理由って何?
潔癖症が理由じゃないでしょ?
余程、キツイことがあったんでしょ?
それって何?」
「黙れ!
お前は俺のプライベート空間だけじゃ足りずに、心にもずかずかと土足で立ち入る無神経な奴だな。
あ~あ、部屋に入れるんじゃなかった。
出て行けよ」
「ヤダ。
僕は退屈していたんだ」
「俺はお前の暇つぶしの道具じゃない。
長旅で疲れているんだ」
「へぇ...どこから来たの?」
「どこだっていいだろう」
僕は諦めない、しつこく食い下がる。
「ねぇ。
おしゃべりしようよ。
ベッドから動かないから、ね?
君も座りなよ」
僕が座った脇をぽんぽんと叩いてしまった。
これはわざとじゃない、ついついしてしまったことで、彼の悲鳴でハッとしたのだ。
「...ごめん」
「ったくもう!
カバーを洗濯しないと!」
彼を顎をしゃくって、僕をベッドの上からどかすと、布団カバーとシーツをはがした。
その手はやはり、手袋をはめたままだ。
潔癖症の人は、何度も手を洗うせいで皮がむけて真っ赤な指先をしている、と聞いたことがある。
「手袋外して見せて?」とお願いしたかったけど、ぐっと我慢した。
イライラしている風の彼のご機嫌を、これ以上損ねてしまったら、ここを追い出されてしまうから。
おいおい見せてくれるだろう。
「おい、お前!
洗濯室まで案内しろ」
「僕の名前は『お前』じゃないよ。
ちゃんと名前を呼んでよ」
「お前の名前なんて知らん。
俺の部屋に乱入してきたお前の方から名乗るべきろう?」
「常識的に、新入りの方が先に自己紹介するものじゃないの?」
クローゼットの中も覗いてみたくなったけど、我慢した。
彼の恐怖を誘う真似はよそうと思ったんだ。
クローゼットの取っ手を触ってしまうからね。
シーツに触れた時の彼の表情ときたら、ホラー映画で殺人鬼に襲われそうになった主人公のようだったから。
「申し遅れました。
僕の名前は...」
0.5秒、思考が止まってしまった。
ここでは、自身の名前を名乗るシチュエーションがほとんどないからだ。
「チャンミンと言います。
よろしくお願いします」
僕は立ち上がり、礼儀正しくお辞儀した。
「俺は、ユノだ。
覚えたか?」
「ユノさん、だね。
覚えやすい名前だね」
「悪いか?」
「全然」
つっけんどんなユノは、ばい菌嫌いだけど人嫌いではなさそうだ。
「出て行け」と言ったくせに、文句を言いながらも僕の相手をしてくれる。
ユノと仲良くなろうと思った。
僕の好奇心をくすぐるキャラクターのようだし、神話に出てくる神様みたいに完璧な容姿をしている。
僕は気づいていた。
ユノがさっきから、部屋のドアをちらちらと覗っているのを。
だから、こう言った。
「大丈夫だよ。
皆、ノックをするから。
急に入ってくる人はいないよ。
ルールなんだ。
ただし、鍵はないからね。
盗まれたら困るような貴重品はないよね?」
「ああ。
免許証もクレジットカードも全部、取り上げられた。
家のカギも車のカギも。
徹底してるんだな。
スマホもPCもないのは辛いな」
「1週間もすれば慣れるよ」
シーツを抱えたユノは、デスクに置いた紙箱から取り出したものを、僕に投げて寄こした。
「それをはめろ」
それは、医療用ラテックス製の青い手袋だった。
ユノは未だドアを気にしている。
誰かが入室してくることを恐れているわけじゃない...その眼に嫌悪の色があったから。
「ねえ。
ドアがどうかしたの?」
「...色だ」
透明ゴーグルと黒マスクをしたユノは、「洗剤を持ってくれ」と命じた。
バスケットは5種類の洗剤ボトルでずしっと重かった。
「色?」
「赤は嫌いだ」
洗濯室に向かう廊下を、僕の後ろをユノは2メートルの間隔を置いて歩いている。
ユノは嫌いなものが多いなぁ、と思った。
嫌いなものが明確の方が、案外生きやすいのかなぁ、とも思った。
僕はと言えば、好きなものをカウントしていく生き方だ。
活字、愛用のブランケットの香り、レース模様、白米、お散歩、水泳...それから、綺麗な色とシルエットのワンピース。
(つづく)
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