(57)虹色★病棟

 

 

ユノは枕元の僕に気づくと、包帯を巻かれた僕の手を触れるか触れないかのタッチで撫ぜた。

 

「痛むか?」

 

「平気」

 

分厚く巻かれた包帯のせいで仰々しいけれど、縫う必要のない切り傷だった。

 

消毒薬の匂いがほのかにする包帯は真っ白で、血液の付着したパジャマは只今、洗濯中だ。

 

「無様なところ見せてしまった」

 

ユノは語り始めた。

 

 

 

 

 

「俺は身なりも住まいもすげぇ汚い子供だった。

 

父親と2人で暮らしていたマンションの部屋は文字通りゴミ溜めで、足の踏み場もないほど散らかっていた。

 

これが普通だと思ってた。

 

父親は超仕事人間でほとんどマンションに帰ってこなかった。

 

高給取りのくせに、テレビの故障に何年も気付かないくらい、家族と衣食住に無頓着だった。

 

俺...なに食って生きてたんだろうな。

 

こうやって今生きてるってことは、インスタントなもので命を繋いでいたんだろうね。

 

当時も今も、食べているものは変わりがないってことさ。

 

俺の母親が早々と、父親から離れていっても仕方がない。

 

保育園も幼稚園も行ったことがなかった。

 

集団生活デビューが小学校で、入学式は欠席...父親は万年仕事だから。

 

これでスムーズに友人ができるはずもない。

 

社会性が著しく低く育ったせいで、比較しようにもよその家がどんなだかも知らなかった。

 

俺は綺麗にすることの知恵も甲斐性もない、小さな子供だった。

 

今思えば、学校に通っていたことが奇跡だよな。

 

以前話しただろ?

 

ひとりの女子が、俺の口に手を触れてしまった件のことを。

 

その手をすげぇ不潔がってて、俺はショックを受けたって話。

 

その時、『あ、俺って臭いんだ、汚いんだ』って初めて自覚した。

 

俺は正真正銘の薄汚い子供だったから、その子の反応は特別なものじゃないのに、いざ目の当たりにするとショックを受ける。

 

こんなささいなことが、最初の傷になる。

 

ガラス板に打たれた小さな楔。

 

薄汚い成りをしている自覚ができてからは、こそこそっと生きていた。

 

周囲の言葉や仕草に対して過敏になっていった。

 

どれだけ気を付けていても、『汚い』と眉をひそめられることはある。

 

誰だってあることだろうけど、幼い俺は『俺だけが汚い』と思い込んでしまったんだなぁ。

 

その度に、心に打たれた楔から放射線状にヒビが広がっていった」

 

 

「親が潔癖だったって言ってなかったけ?」

 

 

「それは父親の再婚相手で、俺の二番目の母さんになった人がそうだったんだ。

 

超が付く清潔好きな人だ。

 

汚と清がどういう縁でくっついたのかは謎だ。

 

汚い俺を見て二番目の母さんは、ゾッとしたのだろう。

 

俺を全身丸洗いする勢いで、ピカピカに洗浄した。

 

二番目の母さんに倣って、清潔にする作業手順を身に付けた。

 

これが当たり前の行為だと、俺は刷り込まれた。

 

俺は素直だったんだ。

 

床も壁も白、家具は全て洒落た白い家具まとめられていた。

 

父親の再婚で新しい弟もできた。

 

二番目の母親の連れ子だ。

 

母親によく似て、彼は超が付く清潔好きだった...清潔好きにならざるを得なかったんだろうね。

 

だから、彼女は肘や膝を垢で真っ黒にさせた継子が、息子に近づくことを好まなかった。

 

じわりじわりと俺は傷ついていった。

 

彼らは『清潔好き』であって、強迫観念からくる『潔癖症』とは違う...これが但し書きだ」

 

 

「......」

 

 

「極めつけは鼻血だ。

 

これが決定的だったな。

 

新しい弟に『臭い』と言われたんだ。

 

発言にムカついた俺は、彼に飛びかかった。

 

彼にしてみたら、汚い雑巾を投げつけられた思いだったんだろう。

 

俺は彼から渾身の蹴りを受け、勢いでコーヒーテーブルに顔を打ちつけた。

 

真っ白なラグだった。

 

俺の鼻血で赤く汚れていった。

 

 

俺を心配する前に、二番目の母親はラグの汚れに悲鳴をあげた。

 

その日、久しぶりに早く帰宅していた父親は、こう言った。

 

『汚いな。

今すぐ顔を洗ってこい』

 

ラグは捨てられた。

 

かつて学校の教室で打たれた楔から、数年かけて広がっていったヒビ。

 

ラグを真っ赤な血で汚した事件の一打で、俺のガラスは粉々に砕けた」

 

 

僕は反射的に部屋のドアを見た。

 

 

「ねぇ、ユノ。

僕の血を見て、『汚い』と思った?」

 

「いいや。

床にぽたぽた垂れるとこが怖かった。

根深いものだから、そうそう簡単には克服できないだろうね」

 

「そのままでいいよ。

赤いものは塗り替えればいいし、僕も怪我をしなければいい」

 

「チャンミンはやっぱり優しいね」

 

ユノは布団から手を伸ばすと、僕の頭を撫ぜた。

 

「迷惑かけついでに、チャンミンの助言が欲しいんだけど?

LOSTを出る前に解決したいことがある」

 

「いいよ」

 

 

ユノはベッドから出ると、クローゼットからスーツケースを引きずり出した。

 

留め具を外して蓋を開けると、バスタオルに包まれた段ボール箱が収まっていた。

 

「結婚指輪?」

 

「ああ」

 

ずっと以前に、ユノから一組の結婚指輪を見せてもらっていた。

 

段ボール箱を開けるとひと回り小さい段ボール箱があった。

 

「手元に置き続けるべきなのか、手放すべきなのか分からなくて...。

迷っているのではなくて、分からないんだ。

気持ちの答えは出ているんだけどさ、こういう実体のやり場が分からない。

で、チャンミンと一緒に考えようと思ったわけさ」

 

「おっけ」

 

段ボール箱を開けるとタオルにくるまれたポーチがあり、その中にお菓子の空き缶があった。

 

さらに空き缶を開けると、ビニール製のジッパー袋に入れられたガラス瓶があった。

 

その中に2つの指輪があるはず...だった。

 

ガラス瓶の中は空っぽだった。

 

 

「無くなってる...」

 

僕らの周りでは、魔法じみた非現実的なことが起きている。

 

婚約指輪が喉を滑り落ちる感触を、僕ははっきりと覚えていた。

 

ユノからの『チャンミンの中から指輪は消えた』の呪文に、飲み込んでしまった婚約指輪は姿を消した。

 

ユノ曰く、小箱の鍵とは婚約指輪と同意なんだそうだ。

 

「なるほどね」

 

ユノは小瓶を窓からの日差しにかざした。

 

壁にちらちらと、小瓶を通り抜けた光が揺れていた。

 

見事なまでに空っぽだった。

 

「指輪を手元に置き続けているのは、感情のやり場を保つためだと、と話したと思う。

でも...指輪という実体がなくても、今の俺の気持ちはしゃんとしている」

 

「もしかして...。

最初から指輪なんて無かったりして」

 

「そうかもね」

 

僕はユノの背中を抱きしめた。

 

 

(つづく)

 

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