ユノは枕元の僕に気づくと、包帯を巻かれた僕の手を触れるか触れないかのタッチで撫ぜた。
「痛むか?」
「平気」
分厚く巻かれた包帯のせいで仰々しいけれど、縫う必要のない切り傷だった。
消毒薬の匂いがほのかにする包帯は真っ白で、血液の付着したパジャマは只今、洗濯中だ。
「無様なところ見せてしまった」
ユノは語り始めた。
・
「俺は身なりも住まいもすげぇ汚い子供だった。
父親と2人で暮らしていたマンションの部屋は文字通りゴミ溜めで、足の踏み場もないほど散らかっていた。
これが普通だと思ってた。
父親は超仕事人間でほとんどマンションに帰ってこなかった。
高給取りのくせに、テレビの故障に何年も気付かないくらい、家族と衣食住に無頓着だった。
俺...なに食って生きてたんだろうな。
こうやって今生きてるってことは、インスタントなもので命を繋いでいたんだろうね。
当時も今も、食べているものは変わりがないってことさ。
俺の母親が早々と、父親から離れていっても仕方がない。
保育園も幼稚園も行ったことがなかった。
集団生活デビューが小学校で、入学式は欠席...父親は万年仕事だから。
これでスムーズに友人ができるはずもない。
社会性が著しく低く育ったせいで、比較しようにもよその家がどんなだかも知らなかった。
俺は綺麗にすることの知恵も甲斐性もない、小さな子供だった。
今思えば、学校に通っていたことが奇跡だよな。
以前話しただろ?
ひとりの女子が、俺の口に手を触れてしまった件のことを。
その手をすげぇ不潔がってて、俺はショックを受けたって話。
その時、『あ、俺って臭いんだ、汚いんだ』って初めて自覚した。
俺は正真正銘の薄汚い子供だったから、その子の反応は特別なものじゃないのに、いざ目の当たりにするとショックを受ける。
こんなささいなことが、最初の傷になる。
ガラス板に打たれた小さな楔。
薄汚い成りをしている自覚ができてからは、こそこそっと生きていた。
周囲の言葉や仕草に対して過敏になっていった。
どれだけ気を付けていても、『汚い』と眉をひそめられることはある。
誰だってあることだろうけど、幼い俺は『俺だけが汚い』と思い込んでしまったんだなぁ。
その度に、心に打たれた楔から放射線状にヒビが広がっていった」
「親が潔癖だったって言ってなかったけ?」
「それは父親の再婚相手で、俺の二番目の母さんになった人がそうだったんだ。
超が付く清潔好きな人だ。
汚と清がどういう縁でくっついたのかは謎だ。
汚い俺を見て二番目の母さんは、ゾッとしたのだろう。
俺を全身丸洗いする勢いで、ピカピカに洗浄した。
二番目の母さんに倣って、清潔にする作業手順を身に付けた。
これが当たり前の行為だと、俺は刷り込まれた。
俺は素直だったんだ。
床も壁も白、家具は全て洒落た白い家具まとめられていた。
父親の再婚で新しい弟もできた。
二番目の母親の連れ子だ。
母親によく似て、彼は超が付く清潔好きだった...清潔好きにならざるを得なかったんだろうね。
だから、彼女は肘や膝を垢で真っ黒にさせた継子が、息子に近づくことを好まなかった。
じわりじわりと俺は傷ついていった。
彼らは『清潔好き』であって、強迫観念からくる『潔癖症』とは違う...これが但し書きだ」
「......」
「極めつけは鼻血だ。
これが決定的だったな。
新しい弟に『臭い』と言われたんだ。
発言にムカついた俺は、彼に飛びかかった。
彼にしてみたら、汚い雑巾を投げつけられた思いだったんだろう。
俺は彼から渾身の蹴りを受け、勢いでコーヒーテーブルに顔を打ちつけた。
真っ白なラグだった。
俺の鼻血で赤く汚れていった。
俺を心配する前に、二番目の母親はラグの汚れに悲鳴をあげた。
その日、久しぶりに早く帰宅していた父親は、こう言った。
『汚いな。
今すぐ顔を洗ってこい』
ラグは捨てられた。
かつて学校の教室で打たれた楔から、数年かけて広がっていったヒビ。
ラグを真っ赤な血で汚した事件の一打で、俺のガラスは粉々に砕けた」
僕は反射的に部屋のドアを見た。
・
「ねぇ、ユノ。
僕の血を見て、『汚い』と思った?」
「いいや。
床にぽたぽた垂れるとこが怖かった。
根深いものだから、そうそう簡単には克服できないだろうね」
「そのままでいいよ。
赤いものは塗り替えればいいし、僕も怪我をしなければいい」
「チャンミンはやっぱり優しいね」
ユノは布団から手を伸ばすと、僕の頭を撫ぜた。
「迷惑かけついでに、チャンミンの助言が欲しいんだけど?
LOSTを出る前に解決したいことがある」
「いいよ」
・
ユノはベッドから出ると、クローゼットからスーツケースを引きずり出した。
留め具を外して蓋を開けると、バスタオルに包まれた段ボール箱が収まっていた。
「結婚指輪?」
「ああ」
ずっと以前に、ユノから一組の結婚指輪を見せてもらっていた。
段ボール箱を開けるとひと回り小さい段ボール箱があった。
「手元に置き続けるべきなのか、手放すべきなのか分からなくて...。
迷っているのではなくて、分からないんだ。
気持ちの答えは出ているんだけどさ、こういう実体のやり場が分からない。
で、チャンミンと一緒に考えようと思ったわけさ」
「おっけ」
段ボール箱を開けるとタオルにくるまれたポーチがあり、その中にお菓子の空き缶があった。
さらに空き缶を開けると、ビニール製のジッパー袋に入れられたガラス瓶があった。
その中に2つの指輪があるはず...だった。
ガラス瓶の中は空っぽだった。
・
「無くなってる...」
僕らの周りでは、魔法じみた非現実的なことが起きている。
婚約指輪が喉を滑り落ちる感触を、僕ははっきりと覚えていた。
ユノからの『チャンミンの中から指輪は消えた』の呪文に、飲み込んでしまった婚約指輪は姿を消した。
ユノ曰く、小箱の鍵とは婚約指輪と同意なんだそうだ。
「なるほどね」
ユノは小瓶を窓からの日差しにかざした。
壁にちらちらと、小瓶を通り抜けた光が揺れていた。
見事なまでに空っぽだった。
「指輪を手元に置き続けているのは、感情のやり場を保つためだと、と話したと思う。
でも...指輪という実体がなくても、今の俺の気持ちはしゃんとしている」
「もしかして...。
最初から指輪なんて無かったりして」
「そうかもね」
僕はユノの背中を抱きしめた。
(つづく)
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