「殴っていい」
ユノは僕の上から下りると、両手をだらりと落とし、頬をさしだすように顎をあげた。
「チャンミン...俺を責めていい。
まさかチャンミンだったとは...知らなかった...知らなかったとはいえ。
チャンミンの婚約者を、実は俺が奪っていた。
俺を許せなくて当然だ」
「......」
「今さら『彼』を非難することはできないから...。
彼はもう...」
「...あ...!」
数カ月前にこの世を去った...。
ボロボロになって入所してきたユノを思い出した。
...そういうことか。
『彼』...僕の元婚約者であり、かつユノの結婚相手...はもう、この世にはいないことを。
『彼』は婚約までした僕を苦しめ、結婚までしたユノを悲しませて去っていった。
「そもそも、恋人がいる男を好きになった俺が悪い。
まさか、その恋人ってのがチャンミンだったとは...。
許せなくて当然だ。
な、チャンミン?」
「...殴れるかよ」
僕はぷい、と顔を背けた。
窓の向こうは真っ赤な空で、明日は予報通り雨が降るだろう。
僕は伏せていた身体を起こし、座り直してユノと対面した。
「許せない気持ちは分かるけど、俺はこれ以上謝らないことにした」
「は?」
ユノの意外過ぎる発言に、僕は理解が追い付かなかった。
「今から俺は都合のよいことを言うぞ」
「?」
「今彼の前彼と俺の前彼が同一人物だった。
『彼』は俺たちの間を通り過ぎていったんだ。
たまたま俺たちは同じ男を好きになっただけだ。
彼が縁を作った...そう思えないか?」
苦し気に顔をゆがめたユノと目を合わせた。
その目は真っ赤だった。
「...確かにその通りだけど」
「この先ずっと、詫びをいれ続ける関係にはしたくないし、チャンミンも辛いだろう?」
「まあ...そうだけど。
でもそれってさ、とんでもないネタが上がったのに、僕らは変わらず一緒にいる前提の話でしょ?」
「チャンミンは、俺から離れたくなったのか?
愛していた前カレを奪ったのは今カレだって知って、嫌になったか?」
ユノは僕から目を離さない。
ベッドをきしませさらに僕に近づくと、手袋をはめていない指が僕の頬に触れた。
このように、ユノが素手で僕に触れてくれることが、もはや当たり前の関係に進展していた。
ユノは潔癖症。
彼の変化に、喜びのあまり打ち震えた時のことを思い出せ。
前カレ、元婚約者、同棲相手、出て行った恋人、結婚したカレ、亡くなった彼...。
ユノの指は震えてもおらず、興奮のあまり熱くなっていた僕の頬に、ほんのり冷たかった。
「嫌に...なっていないかも。
ビックリしただけ...なのかも」
「俺もビックリした。
世の中の狭さに、怖くなった。
まさかまさかのまさかだよ」
「そして、『彼』はもうこの世にはいない。
...ユノ。
彼と暮らしていた時、彼は幸せそうだった?」
「...え?」
「以前は、僕を捨てた罪で不幸になればいい、と思っていた。
僕の息の根を止めんばかりに苦しめた張本人だから。
でもさ。
彼ばかり責めていたけれど、僕にも絶対落ち度はあるんだ。
僕じゃ物足りなかったり、僕が嫌になったから去っていったんだ。
僕なんかよりユノがいいと思ったから去っていった」
まぶたの奥がぐっと熱くなり、ぷっくりと涙が膨らんだ。
僕が失ったのは、彼という肉体と婚約という約束、築いた思い出と、未来への期待...そして僕自身の自信だ。
「...チャンミン...馬鹿。
そんなんじゃねえよ」
目尻の窪みに蓄えきれなくなった涙が、すっと顎まで流れ落ちた。
「本音を聞きたくても、『彼』はもういない。
あーでもないこーでもないと答えを探って、『彼』を責めたり、自信を無くすことしかできない。
そんなの嫌だよ。
LOSTに入学し直さなきゃいけなくなる」
「......」
「でもね、『謝らない』ってユノの言葉を聞いて、違う思いが湧いてきたんだ。
ユノと居て...『彼』は幸せだっただろうなぁ、って思った」
「チャンミンは聖母様だな。
逆の立場だったら、チャンミンをボコボコにしていたかも」
「ええっ!?」
「冗談。
今の俺は、チャンミンが大事だから。
『彼』は...そうだなぁ...楽しそうだったよ。
チャンミンをほっぽりだしてきたんだから、負い目を抱き続けていただろうね。
俺もそうだ。
チャンミンから彼を引き離した張本人なんだから。
以前、『許されない関係』と言ったわけは、それなんだ」
さよならも言わずに去っていった行為が許せなかったけれど、さよならを告げにくい重さが、僕にあったのだろう。
「僕、自分の心を調べてみたんだ。
今の僕にはどす黒い喪失の小箱はもう存在しない。
だから、今の新発見には驚いたし腹が立ったけど、冷静になってみると、さほどのショックは受けていないみたいだ。
ユノばかり責めてしまってゴメン。
ユノにしてみても、結婚相手の前彼が僕だったなんて...ビックリ仰天だよね」
「ああ」
「過去は過大評価しがちと言うよね?
彼との過去を軽んじるつもりはないけれど、僕の中ではもう、彼は卒業したんだ。
ひとりの男をを2人の男が奪い合ってるって話、世の中にはよくある話じゃないか」
「う~ん、ありがちパターンだけど、俺たちはライバルが誰なのか認識していなかったからなぁ。
ん?
チャンミン、眠いのか?」
さっきからあくびが止まらない。
「とろとろの目をしているぞ。
疲れが出たんだな。
チャンミンは俺のために、話を聞いてくれたり、脳ミソ使って計画を立てたり、よく頑張ってる。
夕飯まで休んでいろ」
「でも...出口を探さなきゃ」
「明日明後日と2日あるんだ。
...それらしいところを見つけたかもしれないんだ」
「ホントに!?」
「明日、確認しに行こう。
ほら、寝ろ寝ろ」
ユノは僕の胸を押し無理やり寝かすと、毛布を肩にかけてくれた。
おでこにキス、というオマケもくれた。
部屋を出かけたユノが振り返った。
「俺たち一緒に、ここを出るんだよな?
ここにひとりで残されたくない」
「もちろん」
僕にとって、ユノの夫は顔無しの存在だった。
それは、ユノも同様だったろう。
ふわっとした存在だった僕らの『彼』が、質量を持つ亡霊となった。
僕らはきっとこの先、『彼』の亡霊に苦しみ続けると思う。
無いモノの存在感は、有るものよりも強烈だ。
でも...僕は思うのだ。
失った恋よりも、これからの恋の方が強烈だと証明したい。
いつか、ユノが言ったように、僕らの縁を結んでくれたと思えるようになれたらいいな、と思った。
(つづく)
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