午前3時。
見回りを終えたスタッフが仮眠室へと引っ込んだのを確認し、ステーションの壁にひっかけた懐中電灯を拝借する。
僕らはこそこそとネズミのように、洗濯室へと移動した。
荷物...僕のリュックサックとユノのショルダーバッグ。必要最低限のものを詰めてある...はあらかじめ運び込んであった。
懐中電灯をゲットできて、幸先良いスタートを切れそうだと思った矢先、僕は青ざめることになった。
フェイクの観葉植物の根元、フェイクの苔を剥がした中にあったはずの鍵は無くなっていたのだ。
「鍵が!
鍵が無い!」
絶望感で背筋を凍らせた僕に、ユノは「ちっちっちっ」と人差し指を振るのだ。
「俺のポケットにあるのだ」
「嘘っ!」
「LOSTが敢えて仕込んだものならば、俺たちを攪乱させることもあるだろうと思って。
チャンミンの退所を1日早めたのって、大いに怪しいだろ?
夕飯の後、回収しておいた」
「もぉ、驚かせないでよ」
ぷりぷりふくれっ面の僕は、「故障中」と書かれた洗濯機のドアを開け、その中に頭を突っ込んだ。
「やっぱりそこだろ?
消灯後に脱出しようとしたら、建物から外に出る出口が要る。
昼間の脱出ならば、この出口は要らなかった。
夕方のうちに脱出しておけばよかったな」
と、ユノは悔しそうだった。
ドラム内の正面の円形の部品を回すと、それはパコっと外れ、直径50センチの穴が現れた。
「ずっと故障中って変じゃん。
新しい洗濯機を買ったのに、壊れたものはそのままなんだ。
行くよ!」
僕は懐中電灯を首にぶら下げ、身をくねらせ、洗濯機の穴へと侵入していった。
中は長々とトンネルが奥へと続いており、洗濯機に繋がっている時点で、この穴は換気口ダクトではない。
明らかに脱出のために用意されたトンネルだった。
天井は低く四つん這いにならないといけない。
床についた手の平は汚れていない。
つい最近、誰かが通過した証拠だ。
「マズい...肩が引っかかって...!」
背後でユノは舌うちしている。
僕より肩幅が広く、筋肉で分厚い体つきのユノは、さらに大荷物で、最初の関門でつまづいている。
「荷物が邪魔なんだ」
ユノのショルダーバッグには着替えの他、除菌スプレーやティッシュ、マスク、手袋、タオルなどなど、彼にとって大事なアイテムが詰まっている。
「ここから出たら風呂に入ればいい。
ユノ!
荷物を捨てろ」
しばし迷っていたユノだったけれど、ショルダーバッグは洗濯機の外へと投げ捨てたようだった。
・
数メートルほど進むと梯子が現れ、延々と下りて行った。
その間僕らは「頑張れ頑張れ」と互いに励まし合った。
下りきった後、四つん這いで数メートル進んだ先は突き当りだった。
「あれ...?」
一瞬、このルートは囮なのかと思いかけた。
「上だ。
蓋になってる」
ユノは懐中電灯で天井を照らした。
「これ...めちゃくちゃ重いな」
鉄製にしては重かった。
「俺がやる。
場所を代ろう」
ところが通路は狭く、ユノと身体の位置を入れ替えることは難しく、もやしな僕が頑張るしかない。
「おもっ...重いっ」
僕は頭と肩で、渾身の力を振り絞って蓋を持ち上げた。
蓋を脇にずらし、梯子を登りきった瞬間、ガツン、と頭を何かに打ちつけてしまった。
「ふがっ!」
「大丈夫か!」
外でスタッフが待ち構えていて、逃亡しようとする僕の頭を殴ったのかと思った。
「う...ううっ...」
頭を抱えていると、ユノは「上に何かがある」と僕の背後から腕を伸ばし、出口を遮るものを探った。
ユノの胸に僕の背中はすっぽりとおさまっていて、ドキドキなシチュエーションだけど、今は気を引き締める時だ。
僕の頭をぶつけたものは、僕らがいつも座っていたベンチだった。
ベンチを脇にずらした途端、雨粒が頭に肩にと降りかかる。
「ここは...」
僕らは中庭に来ていた。
「凝った造りになっているなぁ」
重いはずだった、蓋の表面にはレンガが貼りつけられていている。
「ライトは消せ」
中庭に面しているのは入所者たちの部屋ばかりだが、いつスタッフは目を光らせているかしれない。
「濡れる前に!」
雨足は強い。
僕らは温室へと走った。
・
鳥籠の中のラムネは、胸の羽毛のにくちばしを埋め眠っていた。
テーブルの下にもぐり込み、夕方、目途をつけていた箇所を懐中電灯で照らした。
その灯りを遮るため、ユノは僕の背後に立った。
「これを使おう」
ユノがポケットから取り出したのは、愛用の教鞭棒だった。
「こいつを隙間に刺して...」
てこの原理でレンガのひとつが持ち上がると、周囲のレンガも次々とはがすことが出来た。
「やった...!」
レンガの下から再び鉄製の板が現れ、取っ手の下に鍵穴があった。
「ふふふ。
ここで使うんだね」
僕はパジャマの胸ポケットから取り出した鍵を、鍵穴に差し込んだ。
カチリと錠が外れる音がした。
蓋を引き上げると、穴が下へ下へと通じているようだった。
あまりの暗さに、吸い込まれそうだった。
地下へと下りる梯子がかかっている。
日の出まで2時間の空は暗く、荒野の彼方も真っ黒に塗りつぶされている。
ユノと一緒なら大丈夫だ、怖くない。
「ここを下りていくんだな。
ん?
怖いのか?
俺がついているからな」
ユノは僕をぎゅっと1秒抱きしめた。
転落しないよう握る手すりは冷たくて、何階建てのビルなんだ?と思う程、延々と梯子を下りていった。
懐中電灯の灯りは闇に吸い込まれ、ゴールが分からない。
緊張と不安で鼓動が早い。
「つめたっ!」
突然、片足がじゃぶんと冷たく濡れて、悲鳴をあげてしまった。
「着いたよ」
梯子を下りたったそこは、地下道のようだった。
「...すごいね」
前方へ延々と伸びる道はコンクリート製で、天井や壁から染み出た水で、地面には水が溜まっている。
「これ...まさか下水道管じゃないよな」
ユノは水の正体を探ろうと、懐中電灯で足元を照らしている。
ユノはここまでよく頑張った。
ユノにしてみたら、汚物のプールに飛び込み、全身ばい菌に侵される感覚に襲われているのだと思う。
「それは無いと思う。
地下道の出発点がこの梯子だもの。
脱出のために用意された道だと思う」
「...だよな。
先を急ごう。
後を追ってくるかもしれない」
僕らは手を繋いだ。
・
僕らは走った。
くるぶしまで浸かった裸足が凍えそうだった。
固く握りしめたユノの手。
温かく頼もしい...愛しいその手が僕を導いてくれる。
道は果てがない。
ユノは何度も振り返り、僕を励ますように握りしめる指に力をこめた。
天井からぽたぽた落ちる水で、僕らのパジャマはぐっしょりと濡れている。
水を蹴散らすパシャパシャ音が反響している。
「粋なことをしてくれるね」
「ホントだよ」
洞窟の天井には照明が設置されており、進むごとに色が変化している。
赤。
橙。
黄。
「脱出成功した僕らを祝福してくれてるの?」
「かもね」
トンネルはいつまでも長く続いていて、荒野の下を貫いているのか、それとも街なのか検討がつかないけれど、ユノと一緒ならどちらでも構わない。
ここまで来てしまえば、追うものなどいないだろうけど、僕らは先を急いでいた。
緑。
青。
小休止を挟みながら、僕らは駆けた。
「エネルギー補給だ」と、ユノからキャンディーを口の中に放りこまれた。
へとへとに疲れていた僕は、キャンディの色なんてもう、どうでもよくなっていた。
「さあ、行くぞ」
「うん」
藍。
紫。
ついに地下道は行き止まりになった。
梯子があり、僕らは1段1段、疲れ切った手足で上っていった。
この先がゴールだと、僕らには分かった。
1段上る度、真っ白な光が、穴倉の僕らを明るく照らしていく。
あともう少し。
もうすぐだ!
僕らは泥だらけだった。
「頑張れ」
まぶしく目を射ったのは、真っ白な朝日だった。
先に到達していた僕は、後からくるユノの手を引っ張った。
「わぁ...」
「綺麗だな...」
「うん」
「綺麗だ」
「うん」
ユノのまつ毛の先が、朝日を受けて透明に光っていた。
雨上がりで空気は澄んでいた。
「ご苦労様」
僕は携えていたメレンゲの箱の蓋を開けた。
淡い桃色のこの箱に、ラムネを入れてここまで連れてきたのだ。
僕らが初めて心を通じ合わせたあの日、そこにラムネがいた。
メレンゲの箱からラムネを出してやった。
「好きなところへ行きな」
ラムネは羽ばたくと、空彼方ではなくユノの頭のてっぺんに、ちょこんと飛び乗った。
「ユノと居たいって言ってるよ」
「そうかな?」
ユノは照れくさそうに笑った。
ふり返った彼方には街並みが霞んで見えた。
僕らは十分、多くのものを失った。
同時に、それを上回るものを手に入れた。
さよならLOST。
僕らは何も失うつもりはない。
(おしまい)