(後編)青春の瞬き

 

 

「シム君、成績いいよね」

 

「君の次にね。

余裕があるんだね」

 

ゲーム機をあごでしゃくった。

 

球技大会をサボって、試験勉強をするわけでもなく、ゲームだなんて余裕たっぷりじゃないか。

 

チョンユンホにジェラシーを覚えた。

 

陰でこそこそ勉強している自分が、恥ずかしく思えた。

 

「これはね、息抜きなんだ。

俺、大げさじゃなく一日6時間以上は勉強してるんだよ。

これには、学校の授業は含めてないぞ。

休みの日は、一日中。

俺はがり勉だよ。

人一倍勉強しているから、テストの結果がいいだけのこと。

シム君は、もともと頭がよさそうだね」

 

「そんなことないよ」

 

「参加できない球技大会で、もどかしい思いしてストレス溜めたら、試験勉強に影響が出るだろ?

だから、ゲームしてるわけ」

 

チョンユンホは少しだけ哀しそうな表情だった。

 

 

 

 

「どっちがいい?」

 

自販機で買ってきたジュースを、ユンホに差し出した。

 

「お茶は売切れていた。

オレンジジュースとリンゴジュース、好きな方選んで」

 

「シム君が先に選んでよ。

俺、どちらも好きだから」

 

『どちらでもいい』じゃなくて、両方好きと言ったのが新鮮だった。

 

「シム君、弁当は?」

 

「売店で適当に買ってくるつもりなんだけど?」

 

「売店なんか行ったら、友達に見つかるぞ。

午後からの試合に引っ張り出されるぞ」

 

「それは嫌だなぁ」

 

「俺の弁当分けてあげるよ」

 

「悪いよ」

 

「お菓子もいっぱいあるから、大丈夫」

 

「ありがとう」

 

「足りなかったら、あとでタコヤキ食べに行こうよ」

 

「駅前の?」

 

「行こ行こ」

 

僕らは顔を見合わせた。

 

「うん」

 

ユンホの前で、僕は初めて笑顔を見せた。

 

 

 

 

参考書もノートも、バッグの中だ。

 

僕は勉強なんてどうでもよくなっていた。

 

今日はやらない。

 

「シム君っていつも渡り廊下にいるだろ?」

 

ユンホの指摘通り、渡り廊下の手すりにもたれ、ぼーっとすることが多かった。

 

使い過ぎた脳みそを、そよ風に吹かれて冷却したくて。

 

休憩時間の教室で、試験直前の殺気立った空気に飲み込まれそうで、僕はその場を離れるのだ。

 

「シム君のさ」

 

ユンホが指で僕のうなじに触れた。

 

ぞわっと電流が背筋を流れた。

 

「ここが、くるん、ってなってる」

 

僕の髪はくせ毛で、耳の後ろの髪が内巻きにカールしている。

 

「渡り廊下ですれ違った時、シム君、手すりにもたれてぼーっとしていた。

その時に見たんだ、くるんを。

可愛いなぁ、って思ってたんだ」

 

男から可愛いと言われて、僕は返答に困ってしまう。

 

「喜んでいいのか、悪いのか...」

 

ユンホにはからかっているつもりは、全くないようだった。

 

しごく真面目にそう言っているのだ。

 

「可愛いかった」

 

うっとりそう言ったユンホは、僕を見てふわりと笑った。

 

「そこ?」

 

僕は照れ隠しに咳ばらいをした。

 

「うん、『そこ』

シム君って背も高いし、勉強もできるし、かっこいい」

 

ユンホの声は、低いのに甘く優しい。

 

「かっこいいって部分はどうかと思うけど...身長に関してはそうだね」

 

「それなのに...髪の毛がくるん、ってしてて」

 

笑顔のユンホの歯が白くて、清潔そうな口元だった。

 

ユンホこそ、笑顔がめちゃくちゃ可愛かった。

 

「そこが、いいなって思ったんだ」

 

「そこ?」

 

僕も吹き出した。

 

「テスト結果の表に、俺の左側に並んでるシム君には注目してたんだ」

 

肩が触れ合わんばかりに接近した僕らの間に、ピンと緊張した空気が流れた。

 

ユンホの印象的な眼...濃いまつ毛で弓型にふちどられた上まぶたはすっきりとしている...その下の黒い瞳は濡れ濡れとしている。

 

僕はユンホの後ろを、テストの点数を競って追いかけていた。

 

競っていたつもりは僕の方だけで、ユンホの方はそんなつもりはなかったと思う。

 

ユンホの眼に吸い寄せられて、僕は頬を傾けた。

 

彼の白い顔に、そこだけ紅く色づいた唇が間近に迫った。

 

 

 

 

制服に着替えて、表彰式が行われているグラウンド脇を避けて、裏門から外へ出た。

 

ユンホのバックを、僕の自転車のカゴに入れてやった。

 

トートバッグの重さに、彼も必死に勉強をしている身なんだと実感した。

 

駅までの道のりを、僕は自転車をひいて、ユンホはその隣を歩いた。

 

いろんな話をした。

 

それぞれが通っている予備校の、ユニークな講師のこと。

 

解答欄を1段ずらしてしまった夢をみたこと。

 

誤植のせいで永遠に解けない問題のこと。

 

駅前で、やけどしそうに熱いタコヤキを2人で分け合った。

 

ソースが唇の端についたユンホを見て笑って、シャツの胸元をソースで汚した僕を笑った。

 

ユンホが差し出した水色のハンカチで拭いたら、ますます汚れが広がってしまって、可笑しくて2人で笑いこけた。

 

頭の中の公式と単語がこぼれ落ちないよう、常に補充し続けていた僕ら。

 

眉間にしわをよせ、全身が緊張状態だった僕らが得た、つかの間の小休止だった。

 

駅についても離れがたくて、学校まで引き返す道中もずっと話をした。

 

「今日は予備校を休む」

 

ちろりと舌を覗かせて、ユンホは笑った。

 

僕の方も忘れていた。

 

「明日から頑張るから、大丈夫」

 

日が暮れて、お互いそろそろ帰宅しなければならない時間が迫っていた。

 

「じゃあ、ね」

 

「今日は楽しかったー。

それじゃあ、お互い頑張ろう」

 

改札口へ向かうユンホの手首を、僕は捉えた。

 

もう一度、と思ったんだ。

 

顔を近づけると、ユンホも伏し目になって僕を待ち受けていた。

 

唇同士が触れ合うだけ。

 

清く、尊いキスだった。

 

 

 

 

ユンホと会話を交わしたのは、あの日限りだった。

 

理数系校舎に繋がる渡り廊下をうろついて、彼の姿を探した。

 

休み時間、行きかう生徒たちの中に、彼に似たシルエットを見つけると、思わず顔を伏せてしまった。

 

恥ずかしかった。

 

ガリ勉なのに、そうは見えないユンホの姿をずっと探していた。

 

翌週行われた期末試験結果が張り出されたとき、僕の名前は一番右端にあった。

 

あり得ないと思って、連なる名前を順に追って探した。

 

ユンホの名前がなくなっていた。

 

 

 

 

猛烈な受験勉強にも関わらず、僕は第一志望を落とし、第二志望校へ進学した。

 

浪人生ができるほど、僕の家は経済的余裕がなかった。

 

得たものがあったのかなかったのか、よく分からない高校生活だった。

 

ひたすら机に向かっていた3年間だった。

 

何かを始めるための、準備期間だったんだろうか。

 

進学できた暁に、その何かを始められたのだろうか。

 

意識しないうちに、始まっていたんだろうか。

 

延々と続くかのように思われた重苦しく黒い道程で、

 

ユンホと過ごした数時間が、ポツンと瞬く光だった。

 

そう振り返られたのは、ずっとずっと後のこと。

 

渡り廊下の灰色の床と、白い靴下と白い上履き、制服のズボンの裾。

 

わんわんと蝉の鳴き声が降り注ぎ、グラウンドからの笛と歓声。

 

手の平をついた苔むしたコンクリートの湿った感触。

 

頬を斜めに傾けた先の、彼の紅い唇。

 

彼の汗の香り。

 

これら映像と感覚が、僕の記憶に焼き付いている。

 

 

 


 

 

得意先に無事サンプル品を届け終え、普段利用しない駅に向かっていた。

 

初夏を迎え、ネクタイに締め付けられた首まわりが暑苦しかった。

 

信号が変わり、横断歩道を渡る。

 

ぎらぎらと照り付ける日光が、シャツの背中を濡らしていく。

 

彼だとひと目でわかった。

 

ストライプシャツに細身のブラックデニムを履いていた。

 

色白なのは変わらないが、肩のラインががっちりとしていた。

 

雑踏の音が消え、彼の姿に吸い寄せられた。

 

涙が出そうなくらい、綺麗だった。

 

僕と目が合ったとき、彼の目が見開いた瞬間を見逃さなかった。

 

僕は渡りかけた横断歩道を戻って、こちらへ渡ってきた彼と合流した。

 

「ユンホ君...」

 

「シム君...?」

 

パッと笑った口元から、白い歯がこぼれる。

 

僕の額から汗が噴き出していた。

 

暑さだけが原因じゃない。

 

「暑いなぁ」

 

ユンホが差し出した水色のハンカチを受け取った。

 

「急いでる?」

 

「30分くらいなら」

 

「冷たいものでも、飲もうか?」

 

「シム君の方こそ、大丈夫なの?

仕事中じゃないの?」

 

「30分くらい大丈夫!」

 

始まるか始まらないかなんてわからないだろう?

 

声をかけなければ、何も始まらないだろう?

 

 

まぶしいのは、ぎらつく太陽の光だけじゃない。

 

 

ユンホの瞳の中に見つけていた。

 

 

見失ってしまったはずの、あの時の瞬く光を。

 

 

 

(おしまい)

 

 

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