ペダルを漕ぐユノの足は緩慢だった。
大人の玩具を発端とした口論の末、チャンミンは寝室に籠ってしまい、ユノは出てゆかざるを得なくなったのだ。
「せんせ...帰ります。
鍵は後で閉めてくださいよ?」
寝室のドアに向かって声をかけたが、応答は無かった。
ユノは、子供っぽいチャンミンの言動に新鮮な思いを抱いたりもしたが、機嫌を損ねていることは事実だから、暗い気持ちになってしまう。
出社登校中の人々と次々とすれ違う。
ふらふら運転は危なっかしく、何度か車と接触しそうになったユノは、自転車から下りて歩道へ移った。
大喧嘩をしたわけはなく、チャンミンがユノに対して一方的に腹を立てている図式になっているせいで、後味が非常に悪い。
仲直りしようにも、「なぜ?」の部分が不明で謝ることもできない...そもそも、ユノ自身、チャンミンを不機嫌にさせた言動が思い当たらないのだ。
(いや。
あると言えば、ある。
決定的な原因がある!)
考えないように自分を抑えていたけれど、やはりそこに行きついてしまう。
(俺のムスコが萎えてしまったせいだ!)
ユノはため息をついた。
「はあぁぁ...」
頭を垂れ、肩を落とし...その完璧なため息に、通行人の一人はすれ違いざまに、同情の視線をユノに送った。
モーニングサービスを供するベーカリーから、パンが焼ける香ばしい匂いが通りまで香ってきた。
本来のプランでは、今日は一日チャンミンと初デートの予定だったのに...。
ユノの腹の虫が鳴いた。
(腹減ったな...)
ユノの足が向かったのはもちろん、大親友のアパートだった。
・
「一体全体、なんでまた、そんなことになった?」
まるちゃんは目を閉じ、イギリス直輸入のアールグレイの香りを楽しむと、一口中身をすすり、「やれやれ」と呆れた風にそう言った。
本日のまるちゃんも、ボサボサ頭に膝の抜けたスゥエットパンツといった姿であっても、海外モデルばりのオーラを放っていた。
Tシャツだけはパリッとシワひとつない(なぜなら、推しキャラがプリントされたTシャツだから)
「それが分かんねぇんだよ」
ユノはデニッシュパン(さっきのベーカーリーで購入したもの)にかぶりついた。
「俺にもわけわかんないよ。
急に怒り出しちゃってさ、部屋を追い出されたみたいな感じなんだ」
「失礼なこと言ったんじゃねぇの?」
この軽口にムッとしたユノは、三白眼になってまるちゃんを睨みつけて「...俺がせんせに酷いこと言うと思うわけ?」と言った。
「言うわけないわな。
すまん。
お前のせんせLOVE度はすごいからなぁ」
「いいさ。
朝からあっちぃなぁ」
ユノはトレーナーの襟もとをパタパタと扇いで言った。
今日も暑くなりそうで、外はすでに30℃近くまで上昇していたが、エアコン修理が済んだまるちゃん宅は快適空間だった(先日は大汗をかきながら、アイスキャンディを食べていた)
まるちゃんはユノを横目でちらり、と見た。
「長袖だからだよ。
脱げよ。
お前にしてはラフ過ぎる格好だな」
ユノの衣服はチャンミン宅の洗濯機の中にあるため、チャンミンから借りたスウェットの上下姿のままだった。
「あ~...これ、せんせの服」
「セックスしたのか?」
「......」
相変わらずの最短距離&直球の質問に慣れているとはいえ、チャンミンがらみのことだけに、数秒間言葉に詰まってしまった。
恋人の部屋着を着ている理由は、すなわちお泊りしたことに他ならない。
「...できなかった」
「ふ~ん」
まるちゃんはもう一口紅茶を口に含んだ。
「勃たんかったのか?」
ユノは食べかけのパンを皿に戻すと、ぼそりと「勃ったさ」と答えた。
「萎えたってわけか?」
「まるちゃん...すげぇな。
なんでわかった?」
「初めて男とヤるんだろ?
しかも、ユノはノンケときた。
いくら先生が慣れてるといっても、ユノのが役に立たんかったら無理だろう?」
「好きな奴を前にしたら興奮するに決まってるだろ?
実際、興奮したさ。
でも...」
「男の尻を前にして我に返ってしまった」
「そんなとこ」
ユノは正直に答えた。
「せんせには見抜かれてたと思う。
付き合う前から、ノンケと付き合うことを気にしてたからさ。
前もそのことで口論になった」
「あの雨の日のことだろ?
ユノがバッグを忘れて行った時の?」
「あったなぁ、そんなこと」
当時は、チャンミンに心が届けと一心になっていた頃で、日に日にと心の距離が縮まる体感が確かにあった。
(けれども...今も変わらず探り合いの恋だ)
「あ~あ」
ユノはごろんと仰向けに寝転がった。
「まるちゃん...恋愛にセックスは必要なのだろうか?」
「ユノや~、急にどうしちゃったんだ?
もっと気楽に恋愛してたじゃん」
「う~ん。
せんせを前にすると、普通じゃいられなくなるんだ。
せんせを好きになったのも...そうだなぁ...性別を超えたんだろうな、うん」
「なるほどね。
性別を超えた愛情ならば、性欲はどうなるのか訳がわかんなくなってるわけね」
「まあ...そういうわけだ」
ユノはまるちゃんの側ににじりより、「で、セックスは必要なのか?」と再度尋ねた。
「必要ではない。
でも、それの優先順位が高い奴もいる。
先生はそのタイプなわけ?」
ユノは、大人の玩具や、下半身に顔面を埋めたチャンミンを思い出しながら、「どちらかというと、そうかもしれない」と答えた。
「そうなんじゃないかと思ったさ」
まるちゃんの言葉に、ユノは跳ね起きた。
「なんで分かった?」
「見るからにそうだろ?
ああいう朴訥で生真面目そうな奴は、うちに燃えたぎるものを秘めてるものなんだって」
「じゃあ、俺のが役に立たなかったから、せんせはがっかりしてるんだな」
「ユノや~」
まるちゃんはユノの額を突いた。
「先生の気持ちを勝手に想像するなって。
先生に直接訊いてみな」
ユノは突かれた額をこすりながら、「せんせは今、俺の顔見たくないみたいなんだよなぁ」とぼやいた。
「俺、せんせんちから追い出されたから、今まるちゃんちに居るわけ」
「先生に出て行け、って言われたのか?」
「雰囲気的に」
「なおさら当人に訊いてみなよ。
人の気持ちを読み取ってやるのも優しさかもしれんが、お前たちの場合、それが逆効果になってんじゃね?」
まるちゃんは立ち上がると、その場にごろりと横たわった。
枕代わりのクッションは、胸の大きな萌えアニメ女子がプリントされている。
「あのさ。
俺は徹夜してんだ。
今から寝るから、帰ってくれ」
しっしっと手を振られたが、ユノは気分を害する気配はない。
「わかった。
邪魔して悪かったな」
ユノはまるちゃんに炬燵の上掛けを放ってやった。
「なあ」
「ん?」
「一度、先生がどんな性格をしていそうか、じっくり考えてみな」
ユノはこれまで、ユノなりにチャンミンを見つめてきたつもりだった。
「先生は30過ぎの大人かもしれんが、悩み多き少年だと思って接してやりな。
でもなぁ、年食ってる分素直じゃないから、一筋縄じゃいかんし、ユノがノンケだってことをめちゃくちゃ気にしてると思う。
ユノも先生がゲイだってことを、なんだかんだ言ってても気にしてる」
まるちゃんはそこまで言うと、「じゃあな」とユノに背を向けたまま手を振った。
「ああ。
まるちゃん、ありがとな」
(まるちゃんと話していて、わかったことがある。
俺とせんせに必要なのは、会話だ)
ユノは自分に言い聞かせるように、何度も頷いた。
(セックスがどうのこうのじゃない!)
ユノは愛車にまたがりペダルを漕ぎ始めた。
・
(やってしまった...)
チャンミンは枕に顔を埋め、「馬っ鹿じゃね」ともごもごつぶやいた。
ユノへフォローの言葉をかけてあげねばならない時に、怒りと不信の言葉をぶつけてしまったのだ。
今も昔も変わらず、ささいなことで感情的になってしまう自分が恥ずかしかった。
ユノを一方的に責めてしまったのも、今回で二度目だった。
(ユノに連絡しよう。
『ごめん』って言おう)
もそもそと起きだした、リビングに置いていたスマートフォンを手に取った。
ちょうどその時、震え出したスマートフォンに表示された名前に首を傾げた。
「もしもし?
...えっ...!?」
チャンミンの顔が青ざめた。
(つづく)
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