ユノは指導員専用の休憩部屋まで案内された。
テーブルとベンチがいくつかと冷蔵庫、壁際のカウンターにはポットとコーヒーサーバーが置かれ、窓から場内コースが一望できた。
強力な照明によって教習車や信号機が濃い影を作り、大量の虫が引き寄せられてい
る。
「ここまで押しかけてきてしまって...申し訳ないっす」
頭を下げるユノに、Kは「いいさ」と笑って言った。
「何があった?」
Kはユノに椅子に座るよう促すと、お茶を注いだ紙カップを手渡した。
「チャンミンが何かやらかしたのか?」
「“やらかす”...?」
チャンミンとは、何かを「やらかして」しまうような人物なのかと興味をそそられたが、今回はスルーすることにした。
「いえ。
俺が全部悪いんす...多分」
「そうなの?
ユノ君がチャンミンに何かするような風には見えないんだけどなぁ?」
Kはチャンミンのキャラクターを知っており、チャンミンに熱烈片想い中のユノを見てきた。
何かと屈折しているチャンミンがユノに対して失礼な言動をとることは予想できても、ユノがチャンミンを傷つけるような真似はしないだろうとみなしていたのだ。
「今朝...ポカやってしまって、せんせにどうしても謝りたいんす」
途中で萎えてしまって最後までできなかったことや、大人の玩具を見つけたことでチャンミンに恥をかかせてしまった等々、詳細までは語れない。
花火大会という名のコンパに参加した一件については、解決したとみなしていた。
「せんせと連絡を取りたいんすけど、全然電話に出てくれないんす。
朝からずっと、です」
掛け時計の針は19時を指している。
「チャンミンにはそういうところがあるかもなぁ」と、Kは思う。
「電話に気づかないとか?」
「いいえ。
電源を切ってるみたいっす。
それとも着信拒否かな、と思ったんすけど...」
「それはないと思うなぁ。
念のため、俺からも連絡を入れてみよう」
Kはブレザーからスマートフォンを取り出し、操作し始めた。
ヘソを曲げたチャンミンが、恋人からの着信を拒んでいる可能性もあると踏んだからだ。
「ああ...ユノ君が言った通りだね」
ユノが聞いた通り電源が切られているか、電話に出られない旨のアナウンスが流れるばかりだった。
「でしょう?
他に考えられる可能性としたら...あああっ!」
突然、椅子から立ち上がったユノの勢いに驚き、Kはスマートフォンを床へ取り落としてしまった。
「どうしようK先生!
事故か何かに遭ったのかもしれません!」
ユノはバリバリと髪をかきむしった。
事故の衝撃で粉々になったスマートフォン、海に水没したスマートフォン、強盗に盗まれてしまったスマートフォン...ユノの脳裏にいくつかのケースが思い浮かんだ。
「それはないない」
「ホントっすか?」
ユノは、即座に否定したKを疑わしげな目で見た。
「ああ。
運転中だから電源を切ってるのかもしれないよ?」
「なるほど」
教習指導員たるもの、運転中のスマートフォン操作は避けて当然だ。
「でも、1日中運転してるってことないでしょう?
長距離運転じゃないすか」
「そっか、そうだった!
実家に向かってる途中だったんだ。
あいつんち遠いからね。
2、3日仕事を休むって、学校に連絡があったよ」
「!?」
ユノは口に含んだお茶を吹き出した。
「実家に帰るって!?
そういう大事なことは、最初に言ってくださいよ。
俺、全然聞いてないっす」
「知ってるかと思ったんだ」
「だって、チャンミンの恋人なんだから」と、Kは心の中で付け加えた。
Kはユノに、ティッシュペーパーを取ってやった。
「...初耳っす」
ユノとチャンミンの間に不穏な空気が流れたことは確かだろうと、Kは判断した。
出立に慌て手間取るあまり、ユノへの連絡を怠った風ではないらしいと察したが、余計なストレスをユノに与えるのは止めることにした。
「チャンミンは慌てるとパニくることがあるからさ。
ユノ君に心配をかけないよう、落ち着いてから知らせようと思ったんじゃないかな?」
受付担当の職員曰く、チャンミンは要件だけを伝えるなり電話を切ってしまったそうだ。
Kの言葉を聞いて、ユノの口元が痙攣した。
「慌てるようなことなんすか?
せんせの実家で何かあったんすか?
せんせの実家とやらは、どこにあるんすか!?」
「ええっ?」
「教えてください」
チャンミンの実家は、この街から遠く離れた地にあることは知っていたが、町村番地までは把握していない。
「追いかけるつもりなのか?
今何時だと思ってる...」
「教えてください!」
Kは詰め寄るユノの勢いに負けてしまい、口を挟む隙なしだった。
「分かったよ」
Kは「この子は止めても無駄だ」と諦め、チャンミンのアドレスを呼び出した。
過去にチャンミンの実家を訪れたことがあったのだ。
「でもね、ユノ君。
不幸があったわけじゃないんだ」
詳細は知らされていないため、憶測を口にすることはできない。
「ありがとうございました」
「ユノ君、待ちなさい!」
ユノはKの制止も聞かず 部屋を飛び出していった。
「あ~あ。
いろいろ誤解してそうだな」
このパターンは以前にもあったことを、Kは思い出していた。
チャンミンに知らせてやろうと思ったが、やはり電話はつながらなかった。
「こりゃあ、バッテリー切れだな、きっと。
もしくは家に置き忘れたか」
・
ユノはチャンミンを追いかける気満々だった。
翌朝まで待てなかった。
大急ぎで帰らないといけないほどの出来事が、恋人へ連絡を入れられないほどの出来事が、チャンミンの実家で起こったに違いないのだ。
最悪の事態も考えられた。
「ちくしょう...っ」
ユノは自転車脇にしゃがみこんでしまった。
夜間になっても、アスファルトは熱をこもらせている。
特急列車、飛行機、高速バス...思いつく限りの移動手段ごとに時刻表を調べてみたが、僻地ゆえに最終便が終わっていた。
(せんせんち、どんだけ田舎なんすよ)
自転車などもってのほか、最後に残された手段は自動車だ。
(ヒッチハイクしかないかぁ)
とりあえず自転車を置くため アパートへの道を急いだ。
ペダルを漕ぐスニーカーの足が止まった。
前方に、レンタカーショップの巨大看板が目に入ったからだ。
『21時まで営業中!』とある。
店内も明るく、従業員らしき一人が車を洗っていた。
(俺、免許持ってるじゃん!)
財布の中には、ぴかぴかの免許証が入っている。
素晴らしい気づきに、ユノの目前に光の道が現れた。
(せんせ、待っててください!
俺、せんせに会いにいきます!)
(つづく)
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