(37)チャンミンせんせ!

 

 

教習車は校門を抜け、学校建屋へのスロープを上り、乗降場所に停車した。

 

ユノの運転は丁寧で、シートベルトが胸に食い込んでしまうような、荒っぽいブレーキ操作はもうしない。

 

「ふうぅぅ...」

 

大きく深呼吸をすると、緊張で強張っていた全身から力が抜けた。

 

1時間、ハンドルをきつく握りっぱなしの手は汗でぬるぬるし、なかなか緊張からほどけてくれない。

 

「...せんせ...どうすか?

“見極め”に進めそうすか?」

 

ハンドルを握ったままのユノは、そろりと助手席のチャンミンの顔色を窺った。

 

(俺は次の卒検を受検したいんだ!

これ以上、補習を受けたくないのだ!

せんせと早く恋を始めたいのだ!)

 

今日はチャンミンによる最後の教習だった。

 

これまで何百人と教え子たちを卒業させてきたチャンミン。

 

教習指導員人生の中で最も教えがいがあり、指導に熱が入った(...恋もしちゃった)教え子が、いよいよ巣立つとき。

 

(ようやくここまで到達できた。

あ~、よかった。

でも、とても寂しい。

寂しくて泣きそうだ)

 

チャンミンは達成感と寂寥感が半々という、複雑な心境だった。

 

ふと、ユノへ少し意地悪をしてみたくなり、顎をつまんで「う~ん」と唸ってみせた。

 

「えっ!?

駄目っすか!?

どこが、どこが悪かったっす!?」

 

今日の教習で“見極め”に進めるとばかり思っていたユノだった。

 

ユノの頭の中にカレンダーが現れた。

 

(補習となると今週はバイトが詰まっているから、来週しか受けられない。

来週中に“見極め”に進めたとしても、卒検は再来週になってしまう...!

不合格だったりして、その後の補習が1時限じゃ足りなければ、卒検はもっと後ろにずれこんでしまう!

せんせと始める恋愛が延期になってしまう!)

 

(※ユノの中では、チャンミンと交際することは既定事項となっていた。

まるちゃんとの会話のおかげで、愚かな自分があぶり出され、意識と感情の再確認をしたところ、『せんせがすげぇ大好き』の結論にたどり着いた。

チャンミンの発言を、以前は誤った基準...男が好きな貴方を好きだと告白している俺は男なんだから、OKしてくれるでしょ?精神...で捉えていたのが嘘のよう。

今では、チャンミンに向ける恋心は雲一つない快晴の空のよう。

ポジティブの塊となったユノは、チャンミンからよい返事をもらえるハズだと思っていた。

「OKして当然」と、「OKがもらえるハズだ」とは、意味合いが大きく違う)

 

深刻な表情で空を睨み、考え込み始めたユノに、チャンミンは慌てた。

 

「いいえ、とても素晴らしかったです!」

 

チャンミンのジョークが、早急な卒業を目指すユノにはハード過ぎたのだ。

 

「ユノさんの運転が上手くなって、僕は嬉しいです。

でも、これが最後だと思うと...こんなことを担当が言うべきではありませんが...寂しくなってしまって...」

 

チャンミンは首筋を真っ赤にさせて、ユノから目を反らしてそう言った。

 

「チャンミンせんせ...」

 

ユノの手がそろりと、チャンミンの膝の上の手に伸びた。

 

(ダメダメ!

教習車内でルールを破らせて、せんせを困らせたら駄目だ!)

 

と、心にセーブをかけつつも、その手を真っ直ぐ引っ込めるのもつまらない。

 

いたずら心がむくむく湧いてきたユノは、人差し指でチャンミンの手の甲をひと突きしてみた。

 

「ひゃん!」

 

チャンミンの小さく悲鳴をあげてのリアクションに、ユノの方が驚きの声をあげてしまったのだ。

 

「せんせ~、ビックリし過ぎ」

 

「そりゃ驚くでしょう」

 

チャンミンは手の甲をさすっている。

 

手の甲をひと突きされただけなのに、溜めに溜まった静電気が、一点にびりっと刺さったかのように、いつまでもジンジンした。

 

(僕はユノを意識している。

僕の身体は敏感になっている。

ほんのちょびっと触られただけなのに。

クラッチタイミング練習の頃が信じられない。

今やったら、反応してしまいそうだ!)

 

「すみません、悪ふざけしちゃいました」

 

「“見極め”でも卒検でも、落ち着いて運転すれば大丈夫です。

最初とは比べ物にならない程、上達しました」

 

チャンミンから「触らないで!」と叱られなかったことに、ユノの調子は狂う。

 

「せんせのおかげです...くっ...。

俺、こんなに運転が下手だったなんて、知らなかったっす。

せんせにはすげぇ、迷惑かけて...全然、うまくならないしさ。

何度もせんせの寿命を縮めたし...一度はひき殺しそうになったしさ。

せんせはちょいちょい毒のあること言うしさ。

中途半端な慰め言葉を言わないのが高ポイントだしさ。

ビシっとしてるのに、たまに後ろの髪の毛はねてたりさ。

靴下やネクタイがやたら可愛いしさ。

ペンをくるくるしてて、俺の急ブレーキでマットに落としちゃって、せんせはすげぇ焦って探すんだけど見つからなくて、俺の急発進でダッシュボードにおでこをぶつけたり...」

 

ユノは涙をこらえて羅列していった。

 

(他にもいっぱいありますよ。

恥ずかしくて言えないけど。

せんせったら、すげぇ綺麗な顔をしてるんだ。

何度も見惚れた。

照れたり、困ったり、ムッとしたり...いろんな表情が見たかった)

 

「よく覚えてますね」

 

チャンミンは、ユノが挙げていく出来事に腹をたてることなく、くすくす笑っていた。

 

「当たり前っすよ。

せんせとの教習は全~部、いい思い出です。

思い出をつくるために、免許取りにきたんじゃないんですけどね」

 

ユノは言おうか言うまいか迷ったが、チャンミンとの最後の教習だからと、思い切って口にすることにした。

 

「俺、せんせに会いたくて、この学校に入学したんですからね」

 

「知ってます」

 

チャンミンは、照れて顔を赤くさせることなく、さらりと事実を述べた。

 

(う~ん。

判断に迷う反応だ。

...そっか。

ここは教習車の中で、今は教習中。

せんせと俺は、先生と生徒。

プライベートじゃない。

危なかった、つい落ち込んでしまうところだった)

 

「ですよね?

ははっ」

 

車庫前には、教習を終えて戻ってきた教習車が並び始めている。

 

指導員からアドバイスを受け、次の予約を取り終えた教習生から降車していっている。

 

チャイムが鳴った。

 

「ユノさん」

「?」

 

ユノは、差し出されたチャンミンの手に一瞬、まごついてしまった。

 

「握手です。

握手しましょう」

 

「は、はい...」

 

ユノはおずおずと、遠慮がちにチャンミンの手を握った。

 

「今までお疲れ様です。

ユノさんなら大丈夫。

僕は遠くから応援しています」

 

チャンミンの細く長い指と、薄い甲に、ユノはキュンとした。

 

(せんせの手...可愛い!)

 

ぽぉっと夢心地になったユノは、チャンミンに急かされるまで、運転席に居座っていた。

 

 

3日後。

 

「チャンミン君」

 

事務所で採点中だったチャンミンは、先輩指導員に手招きされた。

 

(ユノのことだ)

 

チャンミンは、彼にユノの“見極め”をお願いしていたのだ。

 

「は、はい」

 

結果が悪かったのだろうと、沈みかけた気分で席を立った。

 

「どうでしたか、彼は?」

 

“見極め”は、つい前の時限で行われ、学校かバイトの予定があったのか、ユノは帰宅してしまって不在だった。

 

「ユノ君だけど...」

 

「駄目でしたか。

彼は緊張しぃな子なので」

 

クラッチの踏み方がうまくいかず、緊張度が高まるあまり泣いてしまった事があった。

 

「いや、駄目じゃないよ。

バッチリだったんだ」

 

「そうなんですか!?」

 

「よくあそこまで仕上げたね。

途中で放り出さずに、辛抱強く指導した結果だね」

 

「いえ...彼の努力の結果です。

途中でヤル気を失って、退校してしまう教習生が多いのに、彼は補習を受けてくれましたから」

 

チャンミンは、そう言って謙遜した。

 

ユノは早く卒業をしたい、チャンミンからいい返事を貰いたい一心だった。

(ヤル気スイッチが入り、運転テクニックに関する潜在能力が卒業間近になってやっと、顔を出したのかもしれない)

 

チャンミンはユノのヤル気スイッチが入ったきっかけが、自分であることをちゃんと認識していた。

 

あらためてユノの素直さに感心し、適当なことは口にしてはいけないと、気を引き締めた。

 

(ユノが真正面からぶつかってくるのなら、僕もそれ相応のリアクションを示さないと)

 

 

(つづく)

 

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