「疲れた...」
ガールフレンドのQを自宅まで送ってやったユノの口から、本音がぽろりとこぼれた。
約束通りファミレスで夕飯をおごってやり、アルバイトの時間が迫っていることを理由に、2時間で解放された。
疲れた身体に鞭打って、元来た道を自転車で引き返した。
午後10時からコンビニエンスストアの深夜バイトがある。
アパートに帰宅して仮眠をとったら、大学で2時限授業を受け、それから一日の一大イベント、『チャンミンせんせに会いにいくため』に自動車教習所へ行く。
コンビニエンスストアの他に、ファミリーレストランで掛け持ちバイトをしていた。
それもすべて、チャンミンせんせのため。
もともと免許取得費用は自前で用意していたのだが、これまでの補修教習と再試験費用は別口だ。
恋は盲目。
卒業検定の見極め見送りをチャンミン告げられた今日、ずっと心に温めてきたお願いごとを口にしたのだった。
・
時間を巻き戻してみよう。
教習車が車庫に戻り、ユノにとっての夢の50分ドライブデートが終了した。
「お疲れ様でした」
チャンミンは教習簿をユノに返そうとしたが、彼は受け取りもせず運転席に座ったままだ。
「ユノさん?」
「......」
チャンミンは様子のおかしいユノを覗き込み、彼の肩に手をのせようかわずかに迷った。
ユノは大きく深呼吸をし、勇気を振り絞ってそのお願いごとを口にしたのだった。
「チャンミンせんせ」
「はい?」
「れ、れ...れ、連絡先...教えて下さい」
(教習前にチャンミンのどもりを笑ったユノこそ、ひどいどもり方だ)
「......」
チャンミンの反応が怖くて、顔を見ていられなくて、ユノはハンドルのクラクションマークを凝視していた。
(チャンミンせんせは大人の男だから、俺みたいな学生風情を相手にしてくれないんだ。
ところでせんせはいくつなんだろう?
28歳くらい?
30歳を超えているのかなぁ)
20歳のユノはチャンミンと同様に、年齢差を気にかけていたのだ。
「......」
チャンミンは返答に困っていた。
(教えてあげたい...でも、今の立場だと、教えてあげることはできない)
指導員と教習生間の連絡先の交換は御法度なことを、ユノは知らないようだった。
好意があることをオープンにしてきたくせに、ユノには臆病なところがあり、チャンミンに連絡先を尋ねることができずにいたのだ。
(せんせ...何か言ってくださいよ)
無言のチャンミンに、ハンドルを握るユノの手の平は汗でベタベタ、鼓動は狂ったように早くて、押しつぶされそうに胸が苦しかった。
「...せんせ?」
次の教習までの10分間は休憩時間で、教習車から下車した者達がぞろぞろと、校舎や車庫裏の喫煙コーナーへと移動している。
休憩時間にずれこんで、指導員と教習生が教習車にとどまっている光景は、周囲には不自然に映る。
ユノはハンドルに上半身を預けたまま、視線だけをそろりと持ち上げて、助手席のチャンミンの様子を窺った。
ユノの目は切れ長で、すっきりクールな印象だが、上目遣いとなると印象ががらりと変わる。
「......」
チャンミンの心臓はドキン、と大きく跳ねた。
「くぅ~ん」と哀し気に鳴くずぶ濡れの仔犬のようで、今すぐ教習簿の隅に自身の番号を書きたい衝動に襲われた。
いつもの二人のやりとりだと、ユノからのおねだりを受けてチャンミンは、「駄目に決まってるでしょう?」とばっさりと断っていた。
「ユノさん...。
僕の連絡先をあなたに教えてあげることはできません」
チャンミンの言葉に、答えは8:2だと予想していたユノは、「やっぱりなぁ」とつぶやいた。
「...そ、そうすか」
ユノはチャンミンから顔を背けると、シートベルトを外して、ドアを開けた。
「ですよね?
すみません、変なこと言って」
「そんなっ...ユノさん。
変なことだなんて、思っていませんよ」
「いえ...いいんです。
せんせとご飯を食べにいきたいなぁ...なあんて思っただけです」
(ご飯を食べに行きたいって...可愛いこと言うんだなぁ、この子は)
ユノの言葉に、チャンミンの胸はきゅっとなる。
「俺みたいなガキと、プライベートに会うなんて、変ですよね。
すんません、忘れてください」
「いえっ...そうじゃなくて...」
ユノのおねだりが、年上のチャンミンに懐いていたものなのか、それとも、かなり突っ込んだ意味合いのアピールなのか、どちらに受け取ればいいのか...チャンミンは迷っていたのだ。
困っていたのは、「断りたいのに、上手に断る言葉が見つからない」からではなくて、「嬉しくて応えてやりたいのだけど、今は断らざるをえない」からだったのだ。
チャンミンは、今さっきのユノの姿をプレイバックしてみた。
ハンドルを握りしめた手はわずかに震えていて、チャンミン並みに大きな身体を小さくすぼめて、見上げた眼は涙目になっていた。
(いつものふざけた雰囲気じゃなくて、あれは意を決したものだった。
『チャンミンせんせ、電話番号教えてよ。飲みに連れてってよ』的なものじゃなかった。
彼の担当指導員であり10歳以上年上の僕は、どう対応すればいいのだろう)
個人情報を教えてあげられないルールがあるせいだと、直ぐに説明してあげればいいものを、もたもたしていたチャンミンせいで、ユノの落胆度は増していった。
「お疲れ様でしたっ!」
ユノはチャンミンの手から教習簿をひったくり、教習車から下りようと身体をひねった。
「ユノさんっ!」
チャンミンはユノの肩をがしっと掴んだ。
「せんせ?」
教習中の肩ポンポンとは比べものにならない力強さに驚いて、ユノの目の奥から湧き出そうになっていた涙がひっこんだ。
「『教えたくない』じゃなくて、『教えられない』だけです」
「?」
チャンミンはユノの肩から手を放し、「すみません、痛かったですよね」と謝った。
「うちの学校では、指導員と教習生の連絡先の交換は禁止なのです」
「そうなんすか!?」
「『入校のしおり』に書いてあります。
ユノさんのことだから、読んでいませんよね?」
チャンミンの問いに、ユノはこくりと頷いた。
「電話番号なりメールアドレスなり交換してはダメと、規則があるのです。
だから僕は、『できない』と言ったのです」
「なあんだ」
固く悲壮的だったユノの表情も、和らいできた。
「俺が嫌だ、っていう意味じゃなかったんですね」
「嫌だったら、ずっと前にユノさんの担当から外れてましたよ」
「あ、そうですね。
チャンミンせんせは俺のことをずーっと、世話してくれてましたもんね」
「そうですよ、感謝してください。
いいですか、僕とユノさんは『指導員と教習生』です。
指導員と教習生は連絡先の交換はしてはいけません。
『指導員と教習生の関係である限り』、僕はユノさんに教えたくても教えてあげられません。
逆に、ユノさんから電話番号が書かれたメモ用紙を貰っても、中身も見ずにシュレッダー行きにします」
(シュレッダー!?
徹底してるなぁ...。
燃やされてもそれはそれで怖いよなあ)
チャンミンが言葉の裏に潜ませた含みを、ユノが気付いたかどうかは...。
キーンコーンカーンコーン。
次の教習時間のチャイムが鳴った。
(つづく)
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