(3)チャンミンせんせ!

 

 

 

「疲れた...」

 

ガールフレンドのQを自宅まで送ってやったユノの口から、本音がぽろりとこぼれた。

 

約束通りファミレスで夕飯をおごってやり、アルバイトの時間が迫っていることを理由に、2時間で解放された。

 

疲れた身体に鞭打って、元来た道を自転車で引き返した。

 

午後10時からコンビニエンスストアの深夜バイトがある。

 

アパートに帰宅して仮眠をとったら、大学で2時限授業を受け、それから一日の一大イベント、『チャンミンせんせに会いにいくため』に自動車教習所へ行く。

 

コンビニエンスストアの他に、ファミリーレストランで掛け持ちバイトをしていた。

 

それもすべて、チャンミンせんせのため。

 

もともと免許取得費用は自前で用意していたのだが、これまでの補修教習と再試験費用は別口だ。

 

恋は盲目。

 

卒業検定の見極め見送りをチャンミン告げられた今日、ずっと心に温めてきたお願いごとを口にしたのだった。

 

 

 

時間を巻き戻してみよう。

 

教習車が車庫に戻り、ユノにとっての夢の50分ドライブデートが終了した。

 

「お疲れ様でした」

 

チャンミンは教習簿をユノに返そうとしたが、彼は受け取りもせず運転席に座ったままだ。

 

「ユノさん?」

 

「......」

 

チャンミンは様子のおかしいユノを覗き込み、彼の肩に手をのせようかわずかに迷った。

 

ユノは大きく深呼吸をし、勇気を振り絞ってそのお願いごとを口にしたのだった。

 

「チャンミンせんせ」

 

「はい?」

 

「れ、れ...れ、連絡先...教えて下さい」

 

(教習前にチャンミンのどもりを笑ったユノこそ、ひどいどもり方だ)

 

「......」

 

チャンミンの反応が怖くて、顔を見ていられなくて、ユノはハンドルのクラクションマークを凝視していた。

 

(チャンミンせんせは大人の男だから、俺みたいな学生風情を相手にしてくれないんだ。

ところでせんせはいくつなんだろう?

28歳くらい?

30歳を超えているのかなぁ)

 

20歳のユノはチャンミンと同様に、年齢差を気にかけていたのだ。

 

「......」

 

チャンミンは返答に困っていた。

 

(教えてあげたい...でも、今の立場だと、教えてあげることはできない)

 

指導員と教習生間の連絡先の交換は御法度なことを、ユノは知らないようだった。

 

好意があることをオープンにしてきたくせに、ユノには臆病なところがあり、チャンミンに連絡先を尋ねることができずにいたのだ。

 

(せんせ...何か言ってくださいよ)

 

無言のチャンミンに、ハンドルを握るユノの手の平は汗でベタベタ、鼓動は狂ったように早くて、押しつぶされそうに胸が苦しかった。

 

「...せんせ?」

 

次の教習までの10分間は休憩時間で、教習車から下車した者達がぞろぞろと、校舎や車庫裏の喫煙コーナーへと移動している。

 

休憩時間にずれこんで、指導員と教習生が教習車にとどまっている光景は、周囲には不自然に映る。

 

ユノはハンドルに上半身を預けたまま、視線だけをそろりと持ち上げて、助手席のチャンミンの様子を窺った。

 

ユノの目は切れ長で、すっきりクールな印象だが、上目遣いとなると印象ががらりと変わる。

 

「......」

 

チャンミンの心臓はドキン、と大きく跳ねた。

 

「くぅ~ん」と哀し気に鳴くずぶ濡れの仔犬のようで、今すぐ教習簿の隅に自身の番号を書きたい衝動に襲われた。

 

いつもの二人のやりとりだと、ユノからのおねだりを受けてチャンミンは、「駄目に決まってるでしょう?」とばっさりと断っていた。

 

「ユノさん...。

僕の連絡先をあなたに教えてあげることはできません」

 

チャンミンの言葉に、答えは8:2だと予想していたユノは、「やっぱりなぁ」とつぶやいた。

 

「...そ、そうすか」

 

ユノはチャンミンから顔を背けると、シートベルトを外して、ドアを開けた。

 

「ですよね?

すみません、変なこと言って」

「そんなっ...ユノさん。

変なことだなんて、思っていませんよ」

 

「いえ...いいんです。

せんせとご飯を食べにいきたいなぁ...なあんて思っただけです」

 

(ご飯を食べに行きたいって...可愛いこと言うんだなぁ、この子は)

 

ユノの言葉に、チャンミンの胸はきゅっとなる。

 

「俺みたいなガキと、プライベートに会うなんて、変ですよね。

すんません、忘れてください」

 

「いえっ...そうじゃなくて...」

 

ユノのおねだりが、年上のチャンミンに懐いていたものなのか、それとも、かなり突っ込んだ意味合いのアピールなのか、どちらに受け取ればいいのか...チャンミンは迷っていたのだ。

 

困っていたのは、「断りたいのに、上手に断る言葉が見つからない」からではなくて、「嬉しくて応えてやりたいのだけど、今は断らざるをえない」からだったのだ。

 

チャンミンは、今さっきのユノの姿をプレイバックしてみた。

 

ハンドルを握りしめた手はわずかに震えていて、チャンミン並みに大きな身体を小さくすぼめて、見上げた眼は涙目になっていた。

 

(いつものふざけた雰囲気じゃなくて、あれは意を決したものだった。

『チャンミンせんせ、電話番号教えてよ。飲みに連れてってよ』的なものじゃなかった。

彼の担当指導員であり10歳以上年上の僕は、どう対応すればいいのだろう)

 

個人情報を教えてあげられないルールがあるせいだと、直ぐに説明してあげればいいものを、もたもたしていたチャンミンせいで、ユノの落胆度は増していった。

 

「お疲れ様でしたっ!」

 

ユノはチャンミンの手から教習簿をひったくり、教習車から下りようと身体をひねった。

 

「ユノさんっ!」

 

チャンミンはユノの肩をがしっと掴んだ。

 

「せんせ?」

 

教習中の肩ポンポンとは比べものにならない力強さに驚いて、ユノの目の奥から湧き出そうになっていた涙がひっこんだ。

 

「『教えたくない』じゃなくて、『教えられない』だけです」

 

「?」

 

チャンミンはユノの肩から手を放し、「すみません、痛かったですよね」と謝った。

 

「うちの学校では、指導員と教習生の連絡先の交換は禁止なのです」

 

「そうなんすか!?」

 

「『入校のしおり』に書いてあります。

ユノさんのことだから、読んでいませんよね?」

 

チャンミンの問いに、ユノはこくりと頷いた。

 

「電話番号なりメールアドレスなり交換してはダメと、規則があるのです。

だから僕は、『できない』と言ったのです」

 

「なあんだ」

 

固く悲壮的だったユノの表情も、和らいできた。

 

「俺が嫌だ、っていう意味じゃなかったんですね」

 

「嫌だったら、ずっと前にユノさんの担当から外れてましたよ」

 

「あ、そうですね。

チャンミンせんせは俺のことをずーっと、世話してくれてましたもんね」

 

「そうですよ、感謝してください。

いいですか、僕とユノさんは『指導員と教習生』です。

指導員と教習生は連絡先の交換はしてはいけません。

『指導員と教習生の関係である限り』、僕はユノさんに教えたくても教えてあげられません。

逆に、ユノさんから電話番号が書かれたメモ用紙を貰っても、中身も見ずにシュレッダー行きにします」

 

(シュレッダー!?

徹底してるなぁ...。

燃やされてもそれはそれで怖いよなあ)

 

チャンミンが言葉の裏に潜ませた含みを、ユノが気付いたかどうかは...。

 

キーンコーンカーンコーン。

 

次の教習時間のチャイムが鳴った。

 

 

(つづく)

 

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