~チャンミン~
シヅクは抵抗もせず、おとなしく僕の腕の中におさまっていた。
僕は、小刻みにふるえるシヅクの背中をさすった。
憎まれ口を叩く、いつも元気なシヅクの声が今では弱弱しくて、僕の胸は痛くなる。
(ごめん、シヅク。
僕がぼんやりしていたばっかりに…)
気温も低く、お互いずぶ濡れで、さすったくらいじゃ彼女を十分に温めてあげられないけど。
今はこうしてあげるのが精いっぱいだ。
僕のせいでシヅクをこんな目に遭わせてしまって、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
さっきまで興奮状態で寒さどころじゃなかった僕も、Tシャツ1枚で足元から這い上がる寒気で震えていた。
シヅクのニット越しに、シヅクの体温がじわじわと、凍り付きそう僕の身体にじわじわと伝わってくる。
くっついているとあったかいな。
僕のあごの下にシヅクの濡れた髪があって、視線を落とすと彼女の鳥肌の立った細い首。
知らず知らずのうちに、シヅクを観察してしまう。
シヅクの耳たぶには、ピアスの穴。
先週、僕の家にシヅクを招いた時、珍しくピアスをしていたっけ。
そのピアスが、マフラーにひっかかってしまって、不器用なシヅクを見かねて僕が代わりに取ってあげようとして、それから...。
それから...?
瞬間、首と頬が熱くなってきた。
シヅクにキスしたこと思い出してしまった。
「私らはいい年した大人なわけ!いちいち謝るな」って怒ってたよな。
キスひとつで、しつこく思い出してみては赤面している僕は、シヅクの言う通り「お子様」なんだろうな。
水中に浸かった太ももから足先までは、じんじんと痛いほどなのに、胸や腕はこのように暖かくて。
そういえば、シヅクを抱きしめるのはこれが初めてだ。
換気ダクト口から放水していた水の勢いが、若干弱まってきたようだ。
シヅクは身体の前で固く交差していた手をほどいた。
(お!)
シヅクのほどいた手が、そのまま僕の背中にまわされる。
そして、シヅクの温かい息が僕の胸の一か所を温めた。
僕の背中に回されたシヅクの手を意識した。
(なんだか感動する)
僕を子供扱いばかりしているシヅクが僕を頼っている。
ちょっと嬉しかったりして。
どうか僕の体温が、シヅクのかじかんだ手の平を温めますように。
シヅクに対して腹を立てていた気持ちは、どこかへ行ってしまっていた。
あの時、シヅクはカイ君の隣を歩いていたけど、今はこうして僕の腕の中にいる。
「少しはマシになった?」
「うん」
シヅクは僕の胸に、頬をぴったりとくっつけたまま頷いた。
「落ちてくる水も落ち着いてきたみたいだよ」
「うん」
「水が引かないとドアを開けられないからさ。
シヅク、ちょっとだけ頑張ってくれるかな?」
「動かすんだろ?」
「少しは身体は動く?」
「うーん、5分位なら」
「ぷっ、5分って...根拠は?」
「あのな、下半身の感覚がないわけ。
キンキンに凍り付いてるわけ」
「そうだよね、ごめん」
僕の腕の中で、シヅクは僕を見上げる。
「あらら、チャンミン君、顔が赤いよ」
いつもは目を細めてニヤニヤ顔で僕をからかうシヅクなのに、今のシヅクはかすかにほほ笑んだだけ。
「そうかな?」
寒さで震えているシヅクが可愛らしい。
新鮮な思いでシヅクを見下ろしていると、
「すごいね、こんな時にTシャツ1枚でさ。
やっぱ鍛えてると、熱量が違うのかな」
「寒いに決まってるだろ!」
まだ少し勢いが足りないけれど、いつものシヅクに戻っている。
もうしばらくの間、こうしていたかったのに。
少しだけ残念。
我ながら大胆な行動をしてしまったことに考えが及んだら、カッと首が熱くなってきた。
「意味わかんないこと言ってないで。
ほら、手伝って!」
僕は腕を開いて、シヅクの肩を押し出した。
「ちぇっ」
シヅクは口をゆがめて、渋々といった風に発電機の脇に立つ。
僕もシヅクの向かい側に立って、フレームを握る。
相当重い。
持ち上げるのは無理だけど、引きずれば何とかなりそうだ。
氷のように冷えた鉄に、シヅクからもらった体温が吸い取られるようだ。
「チャンミン」
「ん?」
「ありがとな」
「何が?」
「あのなぁ、チャンミン。
毎度のことだが、いちいちすっとぼけるのはおやめ」
あきれた表情のシヅクの顔が赤くなっていた。
「シヅクも顔が赤くなってるよ」
シヅクも照れていることがわかって、僕はなぜか嬉しかった。
「チャンミンのくせに生意気だぞ」
「ははっ」
「僕が引っ張るから、シヅクは押すんだ」
「オッケー」
2人とも太ももまで水に浸かった上での力作業。
「いくよ」
「くーっ!」
一息つく。
「もうちょっと」
「おーもーいー!」
力が入りにくくて手こずったが、掛け声に合わせて力をこめているうち、数センチずつギシギシきしみながら移動させることができた。
「抜けてる!」
50センチほど移動させた時、シヅクが目を輝かせて僕を見た。
発電機があった場所に向かって、水が流れ込んでいくのが分かった。
吸い込まれていく水が、水面に水流の渦を作っている。
「やった!」
僕とシヅクはお互い手を握って上下に振る。
「助かったぁ!」
突然、シヅクがへなへなと水中に沈みかける。
「わぁ!シヅク!」
僕は慌ててシヅクの手を引っ張り上げた。
安堵のあまり腰が抜けたみたいだ。
僕は身をかがめて、シヅクの腰に腕をまわし、自分の肩の上に担ぎ上げた。
「おい、私は荷物じゃないんだぞ」
文句を言うシヅク。
(強がっていたんだな。
ホントは怖くてたまらなかったんだな)
「水の中から出よう。
ドアが開くまで、しばらくかかる。
僕も寒い」
僕も限界だった。
入口ドアのステップよりも高い場所はないかと、周囲を見回す。
「あそこまで移動しようか」
室内に並ぶタンクのうち、1つだけ背丈が低いタンクがある。
低いとはいえ2メートルはある。
「ほらシヅク、端を持って」
「よいしょっと」
シヅクをタンクの上に載せてから、僕もよじ登る。
タンクはつるつる滑るのと、足がかりがないから懸垂の要領で身体を持ち上げる。
「鍛えた筋力が活かされたね」
「よいしょっ」
タンクは、高さ2メートル、直径1メートルの円筒形のもの。
幸いタンクの背面は、壁に接している。
「狭いから、気を付けて」
僕はシヅクを突き落とさないよう、用心しながらタンクの上に両脚をおさめた。
「高いなぁ。
怖いなぁ。
私は高いところが苦手なんだよ」
シヅクは、下を見ないよう顔をそむけて目をつむっている。
「下は水だから、
万が一落ちても大丈夫だよ」
「ばっかもん!
そういう問題じゃないんだよ」
「落ちないよう気を付けなくちゃ」
「ほこりだらけだし」
シヅクが真っ黒になった手を僕に見せる。
たっぷりとほこりが堆積していたから、僕らの濡れた洋服は容赦なく汚れてしまう。
「狭いな」
タンク上部は面積1メートル、天井まで1.5メートル。
シヅクは中腰、僕は膝立ちでバランスが悪い。
落ちないように互いに二の腕をつかんでいる格好だ。
「この姿勢はキツいぞ」
「シヅクはここにいなよ。
僕は下にいるから」
「馬鹿野郎!
あんたが凍死するぞ」
「どうしよっか...」
「よし!
チャンミン、あんたは壁際に行って」
シヅクと場所を入れ替える。
「オッケー...いてっ!」
ふいに上げた頭を、コンクリートの天井にぶつけてしまった。
「ううぅぅ」
「大丈夫か?」
頭頂部を抱えていると、シヅクはぶつけた箇所を撫でまわし、触った手のひらに目を凝らした。
「安心しろ、チャンミン。
血は出ていない。
のっぽな自分を忘れるじゃないぞ」
そろそろと、シヅクと場所を入れ替える。
「あんたがまず座るんだ」
そろそろと腰を下ろした。
「もうちょっと脚を広げな」
「よっこらしょ」
広げた僕の太ももの間に、シヅクが腰を下ろした。
(近い近い近い!)
僕は手のやり場に困って、迷った挙句タンクの淵をつかんだ。
「チャンミン、私を突き落とすなよ」
「当たり前だろ」
シヅクの片手が伸びて、僕の手首をつかむとぐいっと彼女のウエストに巻きつかせた。
「!」
「つかんでて。
手を離すなよ。
私はとにかく、高いところが苦手なんよ」
「う、うん」
シヅクのウエストで組んだ僕の手の平が、汗ばんできた。
ぽたぽたと未だ天井からしたたり落ちる水音が、コンクリート造りの部屋に反響する。
しばらくの間、僕らは無言だった。
「...チャンミン」
「ん?」
「照れるな照れるな」
「なっ...!」
シヅクにバレていた。
僕の両足の間の柔らかいシヅクの身体とか、
僕の手の下のシヅクのウエストのくびれとか、
目前に伸びるシヅクのうなじとか、
意識し出すと、僕の心拍数は上がっていく。
すっかり寒さを忘れてしまった。
僕は相当、困惑していた。
僕には刺激が強すぎた。
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