(オメガの本...。
きっとどこかにあるはずだ)
本の在りかを訊ねようと1階カウンターに近づきかけた瞬間、僕は180度、くるりと向きを変えた。
僕がカウンターにやってくるのを待っていた風のお姉さんは「あれ?」と思っただろうな。
『オメガについて書かれた本はどこにありますか?』...質問したらいけない気がした。
『オメガ』というワードは、気軽に口にしてはいけない気がした。
とても希少な存在だけど、ユノのように知っている人はいるのだ。
本の在りかを訊ねたりなんかしたら、カウンターのお姉さんに「この少年はオメガなのでは?」と疑われるかもしれない。
(あのお姉さんが、オメガを知っている人だった場合の話だけど)
1階が絵本、2階がこの図書館のメイン階(さっきまで僕が宿題を仕上げていたところ)、2階より上は行ったことはないが、案内板によると専門書が多くそろえられているようだ。
(ここだ)
3階まで階段を駆け上がり両開き扉を開けると、受付カウンター、大テーブル、書架の順で2階と変わらない配置の部屋だった。
書架の高さや間隔が高く狭く設置されており、そこに収められている書籍も、地味な装丁のものばかりなようだ。
インクと紙の匂いに満ちていて、ここにいるだけで頭がよくなりそうだった。
圧倒的に利用者が少なく、1階、2階とは全く異なる空間だった。
この部屋には子供はひとりもいない。
受付カウンターには50代くらいの女性がいる。
おどおどと入室してきた僕に、「おや?」といった表情になった。
僕は利用階を間違えて、迷い込んでしまった子に見えただろう。
見張っているような視線をチクチク感じながら、僕は書架に近づいた。
(どこかな...)
ここに、大学の教授や研究者がまとめた専門書があるかもしれない。
僕はごくん、と唾を飲みこんだ。
分類など分からないけれど、『オメガ』の文字を頼りに端っこから探してゆこうと思った。
(オメガ、オメガ...)
最上段の棚は高すぎて、いくら背伸びしてもタイトルを読むことができない。
そこで僕は、通路の端に立てかけてあった脚立を引きずっていく。
「そこのあなた」と後ろから声をかけられた。
驚きのあまり、悲鳴を上げそうになった。
「は、はい!」
カウンターにいた女性司書だった。
「どんな本を探しているのかな?
分かる?」
「えっと...えっと...」
「宿題の調べ物?」
悪いことをしているのを見咎められたかのような気分に襲われた。
「あの...その」
僕は後ずさりした。
「一緒に探してあげましょうか?」
それが彼女の仕事であり、好意で言ってくれていたんだろうけど、余計なお世話だった。
「どんな本を探しているの?」
「......」
「...あっ!
あなた!」
僕は彼女の呼びかけを無視して、部屋を飛び出した。
階段を駆け下りる。
ドキドキドキドキ。
『オメガの本を探してください』...とてもじゃないけれど、頼めないよ。
早くこの場から立ち去りたくて、足がもつれて転げ落ちないよう、手すりに手を滑らせ、ステップだけを見て階段を下りた。
踊り場でターンをした時、下からやってきた人とぶつかってしまった。
「すみません!」
ぶつかってしまった人の顔も見ず、足元に視線を落としたまま謝った。
僕は会釈をして、その人の脇をすり抜けようとした。
ところが、僕の身体は頑として、その先へ進むことができなかった。
「あっ!?」
二の腕が痛い。
腕を掴まれたのだ。
「君って...」
言葉と同時に、僕の耳たぶに熱い空気が吹きかかった。
「...っ!」
僕は首をすくめた。
怖気が走り、首にかけただけのタオルを喉元にかきよせた。
僕の腕をつかむのは絶対に男の人だ。
声の感じから、おじさんではないと思う。
僕の頭はその人のお腹辺りで、履いているスニーカーが大きかった。
「もしかして...?」
その人の顔の距離が近い。
ぎゅっと心臓が縮んだ。
これは、恐怖だ。
叫び声すら出ない。
顔を上げることもできない。
よって、手の持ち主の顔を確認することもできない。
彼と眼を合わせたらいけない気がする。
「おい!」
僕はその人の手をふり払った。
転げ落ちる勢いで、階段を駆け下りた。
「待てよ!」
早く沢山の人がいる2階にたどり着きたい一心だ。
彼に首根っこを掴まれそうな気配を感じた丁度その時、2階から高校生集団が階段を上がってきたのだ。
助かった。
その高校生集団に、男の人は行く手を阻まれたようだった。
「君!」
僕は図書館を飛び出して、酷暑の帰路についた。
・
「はあはあはあ...」
帰り道は下り坂だったから助かった。
何度も後ろを振り返って、彼が追ってこないことを確かめた。
最初から真剣に追いかけるつもりはなかったようだ。
そうでなければ、とっくの前に僕は捕まっていただろう。
ぜえぜえと肺を酷使したせいか、呼吸に痰と血の味が混じっている。
暑さも喉の渇きも忘れていた。
桜の家を曲がると、僕らの下宿屋が前方に見えてくる。
あとちょっとだ。
門扉まであと10メートルのところで、
「お~い、チャ~ミ~」
前方上から声が降ってきた。
窓を開け、欄干に腰をひっかけたユノが、僕に向かって手を振っていた。
「ユノっ...ユノちゃん!」
僕は息が切れていて、掠れて悲鳴じみた声しか出せない。
だらだら滴り落ちる汗が沁みて、目がしょぼしょぼする。
「チャミ!?」
僕のただ事じゃない様子に気付いたようだ。
「待て、待ってろよ。
すぐ行く」
窓の中へユノの姿が引っ込んだ。
そして、驚くほどの速さで、僕のもとまでやって来たのだ。
僕は建物の中に入ろうとはせず、その場でユノが来るのを待っていた。
「どうした?
チャミ?」
ユノはしゃがんで僕の目線と合わせ、唇をぶるぶる震わす僕を覗き込んだ。
「何があった?」
「...っ...っ...」
「痛いことされたのか?」
「ううん」
「本当だな?
嘘ついてないな?」
「うん」
ユノは怪我がないか、僕の身体をあらためた。
「おいおい、チャミ~。
涙が出てるぞ?
どうしたんだよ?」
ユノの方こそ、泣きそうに顔をゆがめている。
「怖かった...」
「怖かった!?」
「あのねっ...あのね、ユノちゃん。
あのね」
僕はもう大丈夫だ。
ユノが側にいる。
緊張が一気にほどけ、おしっこをお漏らししそうだった。
「中に入ろうか?」と、ユノは僕の背に手を添えた。
「待って」
僕はユノの手をすり抜けて、門扉の外に出ると、念押しで桜の家の辺りを確認した。
真夏の平日、中途半端な時間帯、通りには車も通行人もいない。
「...チャミ?」
僕はユノの手を取り、今度は僕が下宿屋の中へと先導した。
よほど慌てていたのだろう、ユノは裸足だった。
・
ユノは片手で自身の鼻を塞いでおり、彼のこめかみには青筋が立っていた。
やっぱりタオルだけじゃ不完全なんだ。
「ごめん、ユノちゃん。
すぐに冷やすから...」
首筋に手をやると、ぬるりと汗に濡れた肌に直接触れた。
「あ...」
タオルがない。
どこかに落としてきたのだ。
道中か、図書館か。
(つづく)
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