(29)麗しの下宿人

 

連れていかれた先は市民病院だった。

 

大学病院や研究所など特別なところに連れていかれるかと想像していたから、拍子抜けした。

 

駐車場入り口に「満車」の看板が立っており、ガードマンのおじさんが怒りをぶつける運転手に頭を下げていた。

 

増築を繰り返したせいで統一感のない外観をしている。

 

院内に入った途端、汗がすっとひいた。

 

診察科目の案内プレートには、内科、整形外科、泌尿器科、心療内科...僕がかかりつけ病院と大して変わりがない。

 

院内は患者たちで混雑しており、待合用のベンチはどれも塞がっていた。

 

患者たちのざわめきは、高い天井の方へと吸い込まれていく。

 

身体が弱かった幼少期は近所の市民病院に入院していたが、そこは天井が低く圧迫感のある病室だった覚えがある。

 

「綺麗なとこだね」

 

「中央棟を改装したんだそうよ」

 

『オメガ』科がある病院とは、山奥にあり、まるで廃墟のような外観をしており、無表情の看護師、染みだらけの白衣を着た猫背の医師...僕のイメージはこうだった。

 

ところが実際は、明るく綺麗な建物だったり、アナウンスの声は聴き取りやすく行儀がよい。

 

これからどんな話を聞かされるか予想もつかないこともあって、僕の緊張感は和らいでいた。

 

「ユノさん、ありがとうございます。

助かりました」

 

母は恐縮しながらも、ユノの同行に感謝していた。

 

母によると、10年以上前までこの病院に通院し、診察や薬の処方を受けていたそうだ。

 

現在は服薬を必要としない点が不思議だと思った。

 

道中訊ねてみたけれど、その理由は母の口から説明しにくいそうだったから、より不思議に思った。

 

「あれ?

受付しなくていいの?」

 

総合案内カウンターを通り過ぎる母を後ろから呼び止めた。

 

母は「連絡は済ませてあるから」と迷いない足取りで、売店とリハビリテーション室も通り過ぎた。

 

コンビニエンスストア並みに充実した売店に気をとられた僕に、ユノは「後で好きなもの買ってやるよ」と笑った。

 

駅からずっと、ユノは1歩斜め後ろから僕の背後をガードするように歩いている。

 

(僕のことを守ってくれている)

 

売店を覗き見るほどの余裕があったのは、ユノの存在に頼りきっていたこともある。

 

残念なことに、電車内で繋がれた手は改札前で離されてしまった。

 

僕らは立ち入り禁止のロープの脇をすり抜け、関係者専用のエレベーターに乗り込んだ。

 

母が押したのは地下階へのボタンだった。

 

エレベーターに乗っていたのはわずかで、降り立ったところはおそらく地下2階か3階ほどだろう。

 

いよいよ緊張感が湧いてきて、全身が強張ってきた。

 

扉の真正面は突き当りになっていて、中央にのっぺらぼうなドアがあった。

 

母はドア脇のインターフォンを押した。

 

「どうぞ」と返答があった後、僕らはドアを開けて入室した。

 

グレーの床に有孔ボードの壁、配管がむき出しの天井、点滅する直管蛍光灯...殺風景な部屋を予想していたところ、ここは好感の持てる場所だった。

 

床は暖色のカーペット敷きで、目に優しいやわらかな光、手入れの行き届いた観葉植物、壁には水彩画が飾られている。

 

鼻をくんくんさせると、爽やかないい香りがした。

 

待合室にありがちなTVも雑誌ラックもなかった。

 

耳をすますと、オルゴール音楽が流されていた。

 

ここがどんなサービスを売る場所なのか、説明されなければすぐには分からないだろう。

 

(萎縮した『オメガ』たちをリラックスさせるために、予算をつかってコーディネイトされたのだろうと、ずっと後になって気付いた)

 

「凄いね。

病院じゃないみたい」

 

インターフォンに応えて出迎えた看護師を見て、ここが病院だということを思い出したくらいだ。

 

「この方は...?」

 

看護師が、僕らに同行してきたユノに対して不審そうな視線を注いでいたため、母は慌てて「『オメガ』ではないか?と知らせてくれたのが彼だったのです」と、母は看護師に説明していた。

 

原則として、この診療科に入室を許されるのは家族、本人と『特別な関係にある者』に限られるらしい。

 

ユノは単なる下宿人。

 

でも、僕とユノはとても仲がよい。

 

兄弟とも友人とも一言では言い表せない間柄だからこそ、『特別な関係』だと思っていた。

 

僕とユノは『特別な関係』にある。

 

『オメガ』になりたての僕は幼く無知だった為、『特別な関係』の裏に隠された真の意味など知りようがなかった。

 

待合用のベンチに座る間もなく、名前を呼ばれた。

 

もっとも、待合室には僕らしかいなかった。

 

診察室へは僕と母だけが通され、ユノは家族ではないことを理由に待合室に残された。

 

とたんに心細くなって、ユノの方を振り返った。

 

おそらく、半べそをかいた表情を見せていたのだと思う。

 

「頑張れ」というように、ユノは目頭で励ましてくれた。

 

僕は渋々頷いた。

 

同行してもらえなくて寂しかった。

 

 

医師はショートヘアの、さばさばとした感じの中年の女の人だった。

 

ギョロ目で髭の生えた恐ろし気な医者は嫌だったから、「あなたがチャンミン君ね、よろしく」と握手を求められて、ちょっとだけ気持ちが楽になった。

 

とは言え、いきなり捕獲された野良猫のような気分の僕は、こぶしを握っていないと震えているのがバレてしまいそうだったし、手の平も汗でぐしょぐしょだった。

 

「大丈夫よ、力抜いてね」

 

医師はニカっと笑顔を見せ、傍らのバインダーをひろげると、質問を読み上げていった。

 

オメガだと自覚したのはいつ頃か?

 

具体的にどのような変化があったのか?

 

声がカスカスでまともに答えられずにいる僕に代わって、母が答えた。

 

最初の質問に、母は一瞬迷ったようだ。

 

僕が『オメガ』だと気付いたのは、他人であるユノだったからだ。

 

僕本人でも母親自身でもない。

 

母自身が僕の変化に気付かなかったし、ユノの気付きのおかげで今、僕はここにいる。

 

いきさつを聞いた医師は「そういうことか...」とつぶやき、「後で彼に話を聞かせてもらおうか」と言った。

 

「今日は簡単な検査をしましょう。

まずは血液検査と内診ね」

 

「内診とは何だろう?」首を傾げていると、母が「内診の間、私も付き添っていいですか?」と申し出た。

 

すると、医師は「チャンミンくんは男の子だから、お母さんの付き添いを恥ずかしいと思うかも」と迷った風に答えたのだ。

 

「『内診』って何?」

 

「内診とはね、君のお尻の中を診ることなんだ」と、医師は申し訳なさそうに言った。

 

その回答に僕は愕然とした。

 

「お尻!?

お尻って...お尻って...!」

 

「そうなんだ。

パンツを脱がないといけない。

君のお尻の中を見せてもらうことを内診というんだ。

どうかな?

お母さんの付き添いは抵抗があるんじゃないかな?」

 

でも、ひとりで受けるのは怖かった。

 

「......」

 

12歳にもなれば羞恥心も大人並みで、母の付き添いは抵抗がある。

 

(女の人にお尻の穴を見られるなんて!)

 

女の医者だから余計に嫌だった。

(高熱が出た時に、母に座薬を入れてもらったことはあるけれど、母と他人は全く違う)

 

僕は閃いた。

 

「じゃあ、ユノちゃん...一緒に来てくれたあの男の人ならばいいですか?」

 

医師は僕の申し出に即答せず、迷っている風に見えた。

 

「許可する前に、ユノさんと言う人と話をさせてください」

 

ユノは僕と母と入れ替わりに診察室へ入っていった。

 

医師の話が長引いているのか、15分以上経つのにユノが診察室から出てこない。

 

ユノを待つ間飲み物を勧められ、母はお茶を僕はオレンジジュースを飲んでいた。

 

時計の分針が半周廻ったところでユノが出てきた。

 

「...ユノちゃん?」

 

どんな話をしてきたのだろう。

 

ユノの表情からはうかがい知れなかった。

 

「今から検査だってよ。

俺も一緒に居ていいって許可が出たよ」

 

「うん」

 

「よかったわね」とホッとした母の表情を見る限り、『内診』とは付き添ってあげたくなる位の心細くなる検査のようだ。

 

診てもらう場所が場所だからなぁ...。

 

でも、ユノが一緒にいてくれるのなら心強い。

 

大きくなったおちんちん以外ならば、今のところ何を見られたって恥ずかしくない。

 

「おいで」

 

僕は立ち上がり、差し出されたユノの手を握った。

 

(つづく)

 

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