(30)麗しの下宿人

 

処置室の用意が整うまでの間、僕らは診察室で待たされることになった。

 

手は繋いだままだった。

 

ユノの大きな手は、頼りない僕の手をすっぽりと包み込んでいる。

 

大人の男の人の手だなぁ、と思った。

 

そういえば、父と手を繋いだ記憶はない。

 

母には申し訳ないけれど、なぜだか今日はユノの存在の方が頼りになった。

 

どうやら『オメガ』になると、お尻が関係してくるらしい。

 

医師が気を遣った通り、母親であれどお尻をさらすのは恥ずかしくて仕方がなかった。

 

「緊張する」

 

「俺が付いてるから」

 

ユノの手に力がこもった。

 

「検査されるのは僕なんだよ?

いいよねぇ、ユノちゃんは」

 

「代わってあげたくても、チャミの身体は俺のじゃないからなぁ」

 

「代わってくれるの?」

 

「ああ。

だとしたら、チャミ以上に緊張するかもな。

俺ってチキンだから」

 

「チキン?」

 

「臆病、ってこと。

チャミは凄いよ。

俺だったら部屋に閉じこもって震えていそうだ。

自分を受け入れるってことは、そうそうできることじゃないんだ。

ここまで来たチャミは凄い」

 

褒めて貰えるのは嬉しいけれど、『オメガ』の正体をよく知らないから、深刻になりようがなかっただけのことだ。

 

僕がユノが親身になってくれている心強さのおかげも大きい。

 

自分が何とかできなくても、お医者さんが、母が...それからユノが何とかしてくれると、人任せなところもあった。

 

僕の家族でもなんでもないユノが、特別な検査に立ち合うことを許された。

 

そして、僕が『オメガ』であることを知っている他人は、ユノだけだ。

 

秘密の共有。

 

ゾクゾクする。

 

ユノは僕んちの下宿人に過ぎないのに、僕のためにここまでしてくれる。

 

「ユノちゃん、ありがと」

 

ユノの肩に頭をもたせかけると、彼は握っていた手を離し僕の肩を抱いた。

 

僕は心の中で、「わぁ~お」と驚きの声を上げていた。

 

喜びの悲鳴に近いものだった。

 

これまでのスキンシップを全部振り返ってみたけれど、今みたいな感情を抱くのは初めてだと思う。

 

手を繋ぐのも肩を抱かれることも初めてではないのに、今日の僕は変なんだ。

 

満員電車の中で生まれた感情がよみがえった。

 

あの時はあたふたしていて、本音をとらえることができずにいたけれど、静かで狭い診察室でふたりきりになってみて、分かったことがあった。

 

どうやら僕は「もっとくっついていたい」と願っていたようだ。

 

ユノの身体に触れたいし触れられたい。

 

ドキンドキン。

 

ユノを意識していることを悟られたくなくて、「お医者さんと何を話していたの?」と質問をを振った。

 

「俺とチャミとの関係を聞かれた」

 

「なんて答えたの?」

 

「そのまんまさ。

『チャミんちに間借りさせてもらってて、兄のように親しくさせてもらってます』って。

俺が信頼に足る人間なのかどうかを確かめたかったんだろうね」

 

「よかった~」

 

「怖いだろうけど、俺が付いてるから。

な?」

 

「...うん、頑張る」

 

「あの先生、いい人そうだし」

 

「ユノちゃんがそう言うなら、いい先生なんだね」

 

僕はユノの胸にしがみついた。

 

甘えたい気持ちがどっと溢れてきた。

 

「ギュッとして」

 

「いいよ」

 

ユノは僕を深く抱き直した。

 

「ちっせぇ肩」

 

ふっと笑ったユノの低音に鳥肌が立った。

 

「用意ができました。

こちらへ...」

 

看護師の声に驚いて、僕は慌てて身を離したのだけれど、抱き合ってる光景をバッチリ見られてしまったようだ。

 

さっと目を反らしたのがその証拠だ。

 

「処置室へどうぞ。

ここで服を脱いでくださいね」

 

背けたユノの頬が赤く染まっていて、「あ、照れてる」と思った。

 

恥ずかしがっているユノを目にして、嬉しい気持ちが押し寄せてきた。

 

「僕のことを意識しているんだな」ってくすくす笑いながら、処置室のビニール貼りのベッドに腰掛けた。

 

緊張でカチカチになったかと思えば、ユノのおかげでその強張りがほぐれたりの繰り返しだ。

 

僕はつくづく単純だ。

 

ユノの目の前で僕はズボンを脱いだ。

 

「ここは脱衣所だ」とユノと一緒にお風呂に入るときのようなつもりで、パンツも脱いだ。

 

ズボンと下着を脱いでしまった姿が滑稽で心細い。

 

(僕はどうして、こんな格好をしているんだろう?

オメガの馬鹿野郎!)

 

泣きそうな気分で、脱衣かごに畳まれていたバスタオルを腰に巻き付けた。

 

 

内診の正体を知り、抵抗心まる出しの僕に医師はこう言った。

 

「『どうしてお尻を検査するんだろう?』って、思ってるでしょう」

 

「...うん」

 

「『オメガ』になるとね、身体にたくさんの変化が現われるの。

チャンミン君の体臭もそのひとつ。

今はまだ全部が現れていないだけで、『オメガ』化が進むと、身体のあちこちが今までとは違ってくる」

 

「『オメガ』はみんなお尻を調べるの?」

 

「いいえ、男の人だけ」

 

「どうして?」

 

「女の人の場合よりも、男の人の方が変化が大きいからよ。

お尻にその変化が現われるの。

それを確かめる為に、内診させてもらえないかな?」

 

「...うん」

 

「ありがとう」

 

 

ステンレス製のコンテナの上で、金属の器具や液体の入った瓶から目が離せない。

 

痛いことをされるのではと、冷や汗が出てきた。

 

「怖い」と思った。

 

医師は青色の手袋をパツンパツンと手慣れた動作ではめた。

 

観念した僕は診察台に上がると、四つん這いになった。

 

指示通りに、両肘は床につけお尻を突き出す姿勢をとった。

 

医師は僕のお尻と対面する位置に場所を変えた。

 

ユノは診察台の脇で膝をつき、僕の手と手を重ねた。

 

「ジェルを塗るね。

冷たいけど我慢しててね」

 

「ひっ!」

 

「力を抜いて」

 

医師の指が僕の大事なところに触れた瞬間、

「...っ!」

僕の身体はびくん、と痙攣した。

 

「痛くないから、大丈夫だからね」

 

「変な感じ...それ、やだ」

 

「そうだね、変な感じがするけど、すぐに終わるからね」

 

優しく言われても、恐怖のどん底にいる僕の耳には効果ゼロ。

 

もう勘弁して、と懇願したくなるほどの間、医師の指は僕の中を探っている。

 

「ここに...」

 

医師は何かを見つけたらしい。

 

見えないことが恐怖心を煽った。

 

「息を吐いて...ゆっくり」と、ユノが耳元で囁く。

 

僕は目をつむり、唇をかみしめた。

 

「ひっ!」

 

無機質な固いものが差し込まれ、にゅうっと左右に押し開かれた。

 

「やだ...やだ...。

出して、出してよ!」

 

僕のお尻の中に何かが入っている!

 

実物は小さな物なのかもしれないが、恐怖の真っただ中にいる僕にとっては、巨大な棒を突っ込まれているかのようだった。

 

ガクガクと膝が震えている。

 

「動くと危ないからね」

 

横を向くと、すぐそばにユノの顔があった。

 

「...ふーっ...ふーっ...」

 

悲鳴を押し殺していられるのも限界だった。

 

「あともうちょっと。

あと10秒」

 

医師は励ましてくれる。

 

ぽたぽたと水滴が落ちてきた。

 

僕はユノの手を引っ張り寄せ、彼の手の甲で嗚咽を押し殺した。

 

「...っ!」

 

検査を終えるまでずっと、ユノは僕に噛まれるがままでいてくれた。

 

 

初体験の内診を終えた時、僕はポロポロ涙を流していた。

 

検査の結果、正式に『オメガ』だと診断された。

 

(つづく)

 

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