処置室の用意が整うまでの間、僕らは診察室で待たされることになった。
手は繋いだままだった。
ユノの大きな手は、頼りない僕の手をすっぽりと包み込んでいる。
大人の男の人の手だなぁ、と思った。
そういえば、父と手を繋いだ記憶はない。
母には申し訳ないけれど、なぜだか今日はユノの存在の方が頼りになった。
どうやら『オメガ』になると、お尻が関係してくるらしい。
医師が気を遣った通り、母親であれどお尻をさらすのは恥ずかしくて仕方がなかった。
「緊張する」
「俺が付いてるから」
ユノの手に力がこもった。
「検査されるのは僕なんだよ?
いいよねぇ、ユノちゃんは」
「代わってあげたくても、チャミの身体は俺のじゃないからなぁ」
「代わってくれるの?」
「ああ。
だとしたら、チャミ以上に緊張するかもな。
俺ってチキンだから」
「チキン?」
「臆病、ってこと。
チャミは凄いよ。
俺だったら部屋に閉じこもって震えていそうだ。
自分を受け入れるってことは、そうそうできることじゃないんだ。
ここまで来たチャミは凄い」
褒めて貰えるのは嬉しいけれど、『オメガ』の正体をよく知らないから、深刻になりようがなかっただけのことだ。
僕がユノが親身になってくれている心強さのおかげも大きい。
自分が何とかできなくても、お医者さんが、母が...それからユノが何とかしてくれると、人任せなところもあった。
僕の家族でもなんでもないユノが、特別な検査に立ち合うことを許された。
そして、僕が『オメガ』であることを知っている他人は、ユノだけだ。
秘密の共有。
ゾクゾクする。
ユノは僕んちの下宿人に過ぎないのに、僕のためにここまでしてくれる。
「ユノちゃん、ありがと」
ユノの肩に頭をもたせかけると、彼は握っていた手を離し僕の肩を抱いた。
僕は心の中で、「わぁ~お」と驚きの声を上げていた。
喜びの悲鳴に近いものだった。
これまでのスキンシップを全部振り返ってみたけれど、今みたいな感情を抱くのは初めてだと思う。
手を繋ぐのも肩を抱かれることも初めてではないのに、今日の僕は変なんだ。
満員電車の中で生まれた感情がよみがえった。
あの時はあたふたしていて、本音をとらえることができずにいたけれど、静かで狭い診察室でふたりきりになってみて、分かったことがあった。
どうやら僕は「もっとくっついていたい」と願っていたようだ。
ユノの身体に触れたいし触れられたい。
ドキンドキン。
ユノを意識していることを悟られたくなくて、「お医者さんと何を話していたの?」と質問をを振った。
「俺とチャミとの関係を聞かれた」
「なんて答えたの?」
「そのまんまさ。
『チャミんちに間借りさせてもらってて、兄のように親しくさせてもらってます』って。
俺が信頼に足る人間なのかどうかを確かめたかったんだろうね」
「よかった~」
「怖いだろうけど、俺が付いてるから。
な?」
「...うん、頑張る」
「あの先生、いい人そうだし」
「ユノちゃんがそう言うなら、いい先生なんだね」
僕はユノの胸にしがみついた。
甘えたい気持ちがどっと溢れてきた。
「ギュッとして」
「いいよ」
ユノは僕を深く抱き直した。
「ちっせぇ肩」
ふっと笑ったユノの低音に鳥肌が立った。
「用意ができました。
こちらへ...」
看護師の声に驚いて、僕は慌てて身を離したのだけれど、抱き合ってる光景をバッチリ見られてしまったようだ。
さっと目を反らしたのがその証拠だ。
「処置室へどうぞ。
ここで服を脱いでくださいね」
背けたユノの頬が赤く染まっていて、「あ、照れてる」と思った。
恥ずかしがっているユノを目にして、嬉しい気持ちが押し寄せてきた。
「僕のことを意識しているんだな」ってくすくす笑いながら、処置室のビニール貼りのベッドに腰掛けた。
緊張でカチカチになったかと思えば、ユノのおかげでその強張りがほぐれたりの繰り返しだ。
僕はつくづく単純だ。
ユノの目の前で僕はズボンを脱いだ。
「ここは脱衣所だ」とユノと一緒にお風呂に入るときのようなつもりで、パンツも脱いだ。
ズボンと下着を脱いでしまった姿が滑稽で心細い。
(僕はどうして、こんな格好をしているんだろう?
オメガの馬鹿野郎!)
泣きそうな気分で、脱衣かごに畳まれていたバスタオルを腰に巻き付けた。
・
内診の正体を知り、抵抗心まる出しの僕に医師はこう言った。
「『どうしてお尻を検査するんだろう?』って、思ってるでしょう」
「...うん」
「『オメガ』になるとね、身体にたくさんの変化が現われるの。
チャンミン君の体臭もそのひとつ。
今はまだ全部が現れていないだけで、『オメガ』化が進むと、身体のあちこちが今までとは違ってくる」
「『オメガ』はみんなお尻を調べるの?」
「いいえ、男の人だけ」
「どうして?」
「女の人の場合よりも、男の人の方が変化が大きいからよ。
お尻にその変化が現われるの。
それを確かめる為に、内診させてもらえないかな?」
「...うん」
「ありがとう」
・
ステンレス製のコンテナの上で、金属の器具や液体の入った瓶から目が離せない。
痛いことをされるのではと、冷や汗が出てきた。
「怖い」と思った。
医師は青色の手袋をパツンパツンと手慣れた動作ではめた。
観念した僕は診察台に上がると、四つん這いになった。
指示通りに、両肘は床につけお尻を突き出す姿勢をとった。
医師は僕のお尻と対面する位置に場所を変えた。
ユノは診察台の脇で膝をつき、僕の手と手を重ねた。
「ジェルを塗るね。
冷たいけど我慢しててね」
「ひっ!」
「力を抜いて」
医師の指が僕の大事なところに触れた瞬間、
「...っ!」
僕の身体はびくん、と痙攣した。
「痛くないから、大丈夫だからね」
「変な感じ...それ、やだ」
「そうだね、変な感じがするけど、すぐに終わるからね」
優しく言われても、恐怖のどん底にいる僕の耳には効果ゼロ。
もう勘弁して、と懇願したくなるほどの間、医師の指は僕の中を探っている。
「ここに...」
医師は何かを見つけたらしい。
見えないことが恐怖心を煽った。
「息を吐いて...ゆっくり」と、ユノが耳元で囁く。
僕は目をつむり、唇をかみしめた。
「ひっ!」
無機質な固いものが差し込まれ、にゅうっと左右に押し開かれた。
「やだ...やだ...。
出して、出してよ!」
僕のお尻の中に何かが入っている!
実物は小さな物なのかもしれないが、恐怖の真っただ中にいる僕にとっては、巨大な棒を突っ込まれているかのようだった。
ガクガクと膝が震えている。
「動くと危ないからね」
横を向くと、すぐそばにユノの顔があった。
「...ふーっ...ふーっ...」
悲鳴を押し殺していられるのも限界だった。
「あともうちょっと。
あと10秒」
医師は励ましてくれる。
ぽたぽたと水滴が落ちてきた。
僕はユノの手を引っ張り寄せ、彼の手の甲で嗚咽を押し殺した。
「...っ!」
検査を終えるまでずっと、ユノは僕に噛まれるがままでいてくれた。
・
初体験の内診を終えた時、僕はポロポロ涙を流していた。
検査の結果、正式に『オメガ』だと診断された。
(つづく)