(39)麗しの下宿人

 

あなたは『オメガ』です、はい分かりました、お大事に、さようなら...で帰れるわけにはいかなかった。

 

医師はプラスティック製のカードを僕に手渡すと「この部屋までのパスポートだと思ってください」と言った。

 

「パス...ポート?」

 

緑色の縁取り模様のある白いカードで、病院名と僕の名前が刻印されていた。

 

「ここは一般の人は入ることはできません。

ごく一部の...役職のついたスタッフしか存在を知りません。

その他のスタッフたちには、自由診療のカウンセラールームだと思わせてあります」

 

『オメガ』だと分かったからには、これからずっと専門家の指示に従わなければならない。

 

僕の小さな頭が理解し、心が身体を受け入れられるまで、相当な時間がかかるだろう。

 

「あの...先生。

『アルファ』は男の人だけなんですか?」

 

そして僕は、なぜなぜの海から水面に浮かんでくる疑問をひとつひとつをすくいあげ、医師やユノ、母に投げかけてゆくのだろう。

 

話の流れを無視した、唐突な僕の質問に対して、彼らはきっと丁寧に回答してくれると思う。

 

「女性の『アルファ』もいます」

 

「え...!?

女の人の『アルファ』は『オメガ』を襲わないんですか?

だって...だって、『アルファ』は妊娠させたいんでしょ?」

 

「それについての話は、おいおい説明してゆくわね。

今日はこの辺にしておきましょう。

疲れたでしょう」

 

さっきまでぐったり死んだ魚の目をしていたくせに、突如身を乗り出して質問を繰り出す僕に、医師は「落ち着いて」と繰り返した。

 

僕はとても不安定になっているみたいだ。

 

 

母が必要書類に記載をしている間、僕はユノと一緒に待合室でぼうっとしていた。

 

僕が抱えたA4サイズ封筒の中には、国と専門機関の支援内容説明書や『オメガ』の心得などをイラスト付でまとめたパンフレットが入っている。

 

「途中で落としたりなんかするなよ?」

 

ユノは僕の隣で、パンフレットの1冊(タイトルは『アルファとは?』)をぱらぱらめくっていた。

 

「するもんか!」

 

ユノが心配する通り、帰りの電車の中でこれらの1枚でも落としたら大変だ。

 

「薬はちゃんと鞄に入れたか?」

 

「うん」

 

『オメガ』の薬は処方箋を貰うのではなく、院内処方されたものをついさっき受け取ったばかりだった。

 

僕はユノの肩にもたれかかり、1枚のプリント用紙を広げた。

 

新たに『オメガ』になった者たちが、ひと月平均1〜3名ほどここを訪れるという。

 

『オメガ』だと認定された者と家族は、『オメガ』と『アルファ』の知識や生活を送る上での注意事項などを学ぶ機会が設けられる。

 

病院地下に設けられたこの場所自体が、『オメガ』を支援するためのサポートセンターだった。

 

ひとりひとりに生活指導を行う担当者がつき、メンタル面をケアするカウンセラーも常駐している。

 

ユノは僕の手元を覗き込むと、「早速来週にあるんだな」と言った。

 

「うん、3時スタートばかりだね」

 

僕が手にしたプリント用紙に、向こう2カ月間のスケジュールが記載されているのだ。

 

「終わるのが5時...。

ねぇ、ユノちゃん、アルバイトは大丈夫?」

 

「そうだなぁ...」

 

と言葉を切り、あごをさするユノは考えているようだった。

 

ユノのアルバイトは夕方から早朝にかけての勤務だ。

 

生活費をアルバイト代で賄っているユノにとって、僕の通院に付き合っていたら死活問題になってしまう。

 

「僕、ひとりでも行けるよ。

薬飲んでれば大丈夫なんでしょ?」

 

「それはそうなんだけどさ」と、ユノは僕の顔をじっと見た。

 

あまりにも長い時間見つめるものだから、僕も目を反らせずにいた。

 

睨めっこはいつもの定番の遊びだけど、ユノの正体を知った今は...遊びなんかじゃなくてもっと真剣なもの...まるで彼に捕らえられたような感覚を覚えてしまった。

 

「できる限り付き添うよ」

 

「いいの?」

 

「なんとかするから、チャミは心配すんな」

 

ユノは僕の頭をポンポンと、軽く叩いた。

 

「無理しないでね」

 

「ああ」

 

手続きを終えた母が待合室に戻ってきた時、僕はある心配事に気付いた。

 

(病院のお金はどうしよう!!)

 

僕んちは母子家庭だ。

 

週に1度の通院に、検査や薬の処方もある。

 

『オメガ』になってしまった息子を抱えて、母はもっと頑張らないといけない。

 

ところが、この心配は杞憂に終わった。

 

『オメガ』は国の支援サポートを受けられるため、通院費や薬代は無料と至れり尽くせりなんだとか。

 

「今日はお疲れ様」

 

医師はエレベータの前まで僕ら3人の見送ってくれるという。

 

「制限のある生活を送らなければならない『オメガ』は 平均的に収入が低い傾向にあります。

だから、国をあげて支援をするのです。

...最初に話したように、『オメガ』は貴重な存在なので絶やすことができないのです」

 

「どうして?」

 

僕の問いかけに、医師はこう言った。

 

「全部説明したら、明日の朝までかかってしまいそうね。

それについても、これから知ってゆきましょう。

チャンミン君が知らないといけないことは、まだまだ山ほどありますからね」

 

そうなのかぁ。

 

これからの僕には、今日のように新しい情報を得てはその都度ショックを受ける...その繰り返し...そんな生活が待っているのか。

 

僕は無意識に、ユノのシャツの裾を握っていた。

 

僕はこの時、ふと湧き上がった質問を医師に投げかけてしまった。

 

なぜこの疑問が浮かんだのか、なぜ今なのか?

 

きっと、気持ちが不安定になっているのと、なぜなにの感情に支配されていたせいだと思う。

 

「先生は『ベータ』ですか?」

 

母とユノは僕の質問にギョッとしたようだった。

 

それはそうだろう、あまりで唐突で無神経な内容に、「チャンミン!」と母は小声でたしなめた。

 

ユノもとっさに、僕の肘をつかんだ。

 

ところが医師は、

 

「私は『ベータ』」ではありません」

と、1秒のためらいもなくそう答えたのだ。

 

「!」

 

母は口を覆い、絶句していた。

 

ユノへ驚きの視線を投げかけたら、彼も見開いた目で僕を見返した。

 

僕は息を吸い込んだまま、呼吸を止めたままだった。

 

僕ら3人とも、予想外の答えに驚嘆するがあまり、しばらく一時停止していた。

 

3人を代表して僕は訊ねた。

 

「先生は、『オメガ』ですか?

『アルファ』ですか?」

 

「さあ...どちらでしょう?」

 

医師は僕らを試すような、イタズラを仕掛ける子のような笑みを浮かべるだけだった。

 

「えっと...分からない」

 

「お母さんは、どう思われます」

 

「...どうでしょう。

ごめんなさい、分からないわ」

 

「じゃあ、ユノさんは?」

 

医師の問いかけにユノは首を振った。

 

「ね?

教えられないと分からないものでしょう?

『オメガ』や『アルファ』であるあなたたちでさえ、私の属性を見破ることができない。

すべて薬のおかげです」

 

「...」

 

「ユノさん。

最近は『アルファ』対応の薬が開発されたことをご存知ですか?」

 

「いいえ...ずっと診てもらっていないんで、情報には疎くなっています。

『アルファ』用の薬があるという噂は聞いたことはありましたが、まだ実験段階にあるとかいないとか」

 

「いよいよ認可されたようです。

紹介文を書くから、その時は言ってね」

 

「『アルファ』用の薬があるの!?」

 

驚きの声を上げる僕に、医師はユノから僕の方を視線を移した。

 

「性的衝動を抑えるものです」

 

「......」

 

「そのことよりも、チャンミン君。

まずはあなたよ。

絶対に薬を飲み忘れたらだめよ」

 

結局、医師が『オメガ』なのか『アルファ』なのか分からずじまいで済んでしまった。

 

 

(つづく)

 

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