入社したばかりのことだ。
凄い人がいるとは聞いていた。
その凄い人が僕の教育係だった。
そして、その教育係とは入社3日経っても会えずにいた。
欠勤していたのだ。
ぎりぎりの人員で回している部署だったから、戦力に成り得ない新人は事務所で留守番だ。
10年前のまま更新されていないマニュアルノートを読みこんでいた時、こつん、と後頭部に何かが当たった。
「?」
振り向くとイケメンが立っていた。
この人がうわさの『凄い人』...ユンホ先輩だった。
見た目では問題児であることは分からなかった。
黒々とした目はきらきら輝き、口角だけちょっと上げた唇は引き結ばれ、スーツはシワひとつない。
とてもとても、怠け者には見えなかった。
その後、ユンホ先輩の「普通じゃない」ところ、理解しにくいところに次々と直面することになる。
僕を確かに見ているんだろうけど、どこを見ているのか分からない。
その曖昧感から、ユンホ先輩をとらえどころのない人だと判断した。
僕の頭をこつんとしたものは、見積書で折った紙飛行機だった。
マヂか...。
「お前が新入社員?」
「はい!
チャ、チャンミンと言います。
よろしくお願いします!」
就職活動で習った通りのお辞儀をした僕に、ユンホ先輩は「かったいヤツだなぁ」と呆れていた。
「ではチャンミン君。
昼めしを食いにいこう」
「ええっ!?
まだ9時ですよ?」
「朝メシを食っていないから腹が減ってるんだ」
「いや...だからって...」
「近くの美味い店を教えてやるんだ。
これも新人教育だ、サボりじゃない」
こじ付けの説得に、「噂通り、凄い人だ...」と唖然とした。
・
かいた汗がひいた頃、真冬の裸は寒すぎて1枚きりの掛布団にもぐりこんだ。
僕らは向かい合わせに横になり、僕はユンホ先輩の胸に額をくっつけていた。
ユンホ先輩の肌はすべすべしていた。
男の僕が言うのも変だけど、ユンホ先輩の男らしい匂いにくらくらしていた。
「先輩...変なこと、考えていないですよね?」
「変なこと?
なぜそう思った?」
「今日のユンホ先輩はいつもと違うし、冴えてるって言ってるのに疲れきっています。
僕とヤッちゃうし...。
とにかく変なんですよ」
「俺が変なのは、今日に始まったことじゃないだろう?」
「...その通りですけど。
そろそろ折れちゃうんじゃないかって、心配なんです。
先輩の病気のこともあります」
「調べたんだ?」
「いいえ。
先輩の『傾向』...みたいなものから判断したのに過ぎません」
「よく見てるんだな」
「そりゃあ...好きだからですよ」
「嬉しいね」
「何度も言わせないでくださいよ」
ユンホ先輩は、つんと拗ねる僕の後頭部をわしゃわしゃと撫ぜた。
「そろそろ休む頃合いかな、と思っているんだ」
「...そう...ですか」
入院するのかな、と真っ先に思った。
「俺の場合、だいたい3年から4年スパンなんだ。
世俗から離れて休養する。
ある程度回復したら、再び現実社会に帰還する。
俺の人生はこれの繰り返しなんだ」
「3年か4年ですか...」
「ああ。
休養した後の復帰は大変だ。
空白の期間を取り戻すのにね。
いっそのこと何もかも真っ白にしたくなるよ」
「真っ白って...変な意味じゃないですよね?」
「究極の世界は実に魅力的だ。
振り回されることもない、落ちた時の無気力感から逃れられることができる。
周囲に迷惑をかけるんじゃないかと恐れる必要もなくなる」
「先輩...」
「チャンミンは可愛い後輩だったよ。
俺の世話は大変だっただろ?」
「すぐに慣れましたから」
ユンホ先輩の腕が伸びてきて、僕はより深く彼の胸にすっぽりとおさまった。
僕らの背丈は同じくらいなのに、ユンホ先輩の方が大きく感じられるのだ。
後輩である僕はいつまでも小さいのだ。
この大小は存在感を言う。
「俺はチャンミンに迷惑をかけたことはあるか?」
僕は身構えた。
自身の振る舞いについて、初めて僕に問うたのだ。
「迷惑をかけてきたか?」
「ないです...全然」
「俺は迷惑だったか?」
「いいえ。
先輩はよくやってきました」
ユンホ先輩は遅刻早退欠勤続き、成果をあげ、豪快に見せていて...注意深く生きている人だった。
僕はチャンミン先輩となり、ユンホ先輩の背中を擦った。
「よくやってきました」
僕の手の平はぼこぼこと、浮き出た背骨を感じとっていた。
ユンホ先輩は食事をろくにとっていないようだった。
絶好調のユンホ先輩は、睡眠欲に加えて食欲が消えてしまうのだ。
総菜の夕飯にもほとんど箸をつけていなかった。
分厚いコートと緊張のせいで、見落としていた。
「ごめん。
俺はもう疲れてしまって...」
そうか、僕を今夜招いた理由。
心底の弱音を吐きたかったんだ。
「頑張り過ぎたんです。
もっと先輩の好きなように生きたらどうですか?
遅刻も早退も、欠勤しなくても済むような環境にいくのはどうですか?
人が少ない環境に?」
「......」
突如、ふつふつと怒りが湧いてきた。
毎度のことながら、僕は認識能力が鈍くて、それへの反応もワンテンポ遅いのだ。
「『好きだった』ってどういうことですか!?」
僕はむくっと半身を起こし、ユンホ先輩を睨みつけた。
「え?」
「過去形だったじゃないですか!
『好き』って言われても、素直に喜べないですよ!
意味深なこと言って、僕を心配させないで下さいよ!」
「チャンミン...」
「こっそり会社を辞めて、どこかへ行っちゃうつもりだったんでしょう?
し、死ぬつもりだったんでしょう?」
肯定の証拠に、ユンホ先輩は無言だった。
「僕はね、シーソーみたいなユンホ先輩がいいんです!」
僕がいるじゃないですか...。
...っく」
泣き落としなんてしたくない、にじんだ涙をごしごし拭った。
「『好きだった』なんて二度と言うんじゃねぇ!
...じゃなくて、二度と言うんじゃねぇですよ!
過去形なんて聞きたくねぇ...ですよ!」
頭に血がのぼった自分を止められない。
「先輩は僕とヤったんです!
先輩だって男が好きなくせに!
ずっと告白できなかった自分が馬鹿みたいですよ!」
僕はユンホ先輩の肩をぐらぐらと揺すった。
「僕は先輩が好きです!
僕と付き合う運命です!」
「...チャンミン、お前...」
「会社を辞めるなら堂々と辞めろ!
いつもの先輩でいてくださいよ!」
ユンホ先輩に伝えるべきことを順に、羅列していった。
僕の言葉は全部、ホントウのことなんだ。
ユンホ先輩の真似をしたんだ。
「分かった、分かったよ」
ユンホ先輩も起き上がり、「鼻水が出てる」と掛布団で拭いてくれた。
外灯の灯りがユンホ先輩の肉体の凹凸を、ぼんやり照らしていた。
彫刻みたいに細く引き締まっていて美しすぎて、さらにユンホ先輩のことが好きになった。
僕はユンホ先輩の前だと、自由に素直に振舞える。
これってなかなか凄いことだ。
・
僕はスイッチが切れてしまったユンホ先輩の腰を抱き、駅に向かっていた。
僕のボストンバッグには、殺虫剤のスプレーと抱っこサイズのぬいぐるみが入っている。
僕は7年勤めた会社を辞めた。
ユンホ先輩とセックスをした翌日に。
非常識過ぎて笑ってしまうよ。
特急列車の中でぐったりとしているユンホ先輩に構わず、僕はビールを飲み駅弁を食べた。
「先輩、あーんしてください」
素直に開いたユンホ先輩の口の中に、ミカンのひと房を押し込んだ。
ユンホ先輩はもぐもぐと咀嚼している。
「チョコレート、食べますか?」の問いには答えなかった。
スイッチが入ったユンホ先輩は凄いと知っている僕は、スイッチが切れた彼を心配していなかった。
ユンホ先輩なら場所が変わっても、いい結果を生んでくれるはずだから。
・
発見したこと。
ユンホ先輩は「好き」と口にすることに、猛烈な照れを感じる人らしい。
お客に暴言を吐けた人なのにね。
僕は耳をそばだてる。
僕の上になり下になり腰を揺らし、絶頂の刹那、ユンホ先輩が口走る言葉。
切なく甘い声音の「好きだ」を、僕は絶対に聞き漏らさない。
そして、ユンホ先輩は数年も数カ月も前のエピソードを小出ししては、僕をきゅんとさせる。
「チャンミンに眼を見せた時があっただろ?」
「はい」
はっきりと覚えている。
あれは入社3年目の夏、倉庫内での出来事だった。
「お前の茶色い眼が綺麗で感動した」
「...え!」
「泣きそうになってしまって...焦点を散らしていた」
「...もしかして、その時に僕に惚れちゃいましたか?」
「さあ、どうだったかなぁ?」
とぼけたユンホ先輩は照れを隠すために、カーテンにへばりついた蝉の抜け殻を僕に向かって投げて寄こす。
僕は悲鳴をあげて飛び退る。
ここは虫の王国。
もうすぐ初夏の季節だった。
・
ユンホ先輩はことあるごとに、「いい加減、敬語はよせよ」と言う。
僕は毎回「それは出来ませんね」とつっぱねる。
僕はこの先もずっと、ずっと、ユンホ先輩を「先輩」と呼び続けるだろう。
僕にとってユンホ先輩は、永遠に「ユンホ先輩」なんだから。
(おしまい)