(12)ユンホ先輩(最終話)

 

入社したばかりのことだ。

 

凄い人がいるとは聞いていた。

 

その凄い人が僕の教育係だった。

 

そして、その教育係とは入社3日経っても会えずにいた。

 

欠勤していたのだ。

 

ぎりぎりの人員で回している部署だったから、戦力に成り得ない新人は事務所で留守番だ。

 

10年前のまま更新されていないマニュアルノートを読みこんでいた時、こつん、と後頭部に何かが当たった。

 

「?」

 

振り向くとイケメンが立っていた。

 

この人がうわさの『凄い人』...ユンホ先輩だった。

 

見た目では問題児であることは分からなかった。

 

黒々とした目はきらきら輝き、口角だけちょっと上げた唇は引き結ばれ、スーツはシワひとつない。

 

とてもとても、怠け者には見えなかった。

 

その後、ユンホ先輩の「普通じゃない」ところ、理解しにくいところに次々と直面することになる。

 

僕を確かに見ているんだろうけど、どこを見ているのか分からない。

 

その曖昧感から、ユンホ先輩をとらえどころのない人だと判断した。

 

僕の頭をこつんとしたものは、見積書で折った紙飛行機だった。

 

マヂか...。

 

「お前が新入社員?」

 

「はい!

チャ、チャンミンと言います。

よろしくお願いします!」

 

就職活動で習った通りのお辞儀をした僕に、ユンホ先輩は「かったいヤツだなぁ」と呆れていた。

 

「ではチャンミン君。

昼めしを食いにいこう」

 

「ええっ!?

まだ9時ですよ?」

 

「朝メシを食っていないから腹が減ってるんだ」

 

「いや...だからって...」

 

「近くの美味い店を教えてやるんだ。

これも新人教育だ、サボりじゃない」

 

こじ付けの説得に、「噂通り、凄い人だ...」と唖然とした。

 

 

 

 

かいた汗がひいた頃、真冬の裸は寒すぎて1枚きりの掛布団にもぐりこんだ。

 

僕らは向かい合わせに横になり、僕はユンホ先輩の胸に額をくっつけていた。

 

ユンホ先輩の肌はすべすべしていた。

 

男の僕が言うのも変だけど、ユンホ先輩の男らしい匂いにくらくらしていた。

 

「先輩...変なこと、考えていないですよね?」

 

「変なこと?

なぜそう思った?」

 

「今日のユンホ先輩はいつもと違うし、冴えてるって言ってるのに疲れきっています。

僕とヤッちゃうし...。

とにかく変なんですよ」

 

「俺が変なのは、今日に始まったことじゃないだろう?」

 

「...その通りですけど。

そろそろ折れちゃうんじゃないかって、心配なんです。

先輩の病気のこともあります」

 

「調べたんだ?」

 

「いいえ。

先輩の『傾向』...みたいなものから判断したのに過ぎません」

 

「よく見てるんだな」

 

「そりゃあ...好きだからですよ」

 

「嬉しいね」

 

「何度も言わせないでくださいよ」

 

ユンホ先輩は、つんと拗ねる僕の後頭部をわしゃわしゃと撫ぜた。

 

「そろそろ休む頃合いかな、と思っているんだ」

 

「...そう...ですか」

 

入院するのかな、と真っ先に思った。

 

「俺の場合、だいたい3年から4年スパンなんだ。

世俗から離れて休養する。

ある程度回復したら、再び現実社会に帰還する。

俺の人生はこれの繰り返しなんだ」

 

「3年か4年ですか...」

 

「ああ。

休養した後の復帰は大変だ。

空白の期間を取り戻すのにね。

いっそのこと何もかも真っ白にしたくなるよ」

 

「真っ白って...変な意味じゃないですよね?」

 

「究極の世界は実に魅力的だ。

振り回されることもない、落ちた時の無気力感から逃れられることができる。

周囲に迷惑をかけるんじゃないかと恐れる必要もなくなる」

 

「先輩...」

 

「チャンミンは可愛い後輩だったよ。

俺の世話は大変だっただろ?」

 

「すぐに慣れましたから」

 

ユンホ先輩の腕が伸びてきて、僕はより深く彼の胸にすっぽりとおさまった。

 

僕らの背丈は同じくらいなのに、ユンホ先輩の方が大きく感じられるのだ。

 

後輩である僕はいつまでも小さいのだ。

 

この大小は存在感を言う。

 

「俺はチャンミンに迷惑をかけたことはあるか?」

 

僕は身構えた。

 

自身の振る舞いについて、初めて僕に問うたのだ。

 

「迷惑をかけてきたか?」

 

「ないです...全然」

 

「俺は迷惑だったか?」

 

「いいえ。

先輩はよくやってきました」

 

ユンホ先輩は遅刻早退欠勤続き、成果をあげ、豪快に見せていて...注意深く生きている人だった。

 

僕はチャンミン先輩となり、ユンホ先輩の背中を擦った。

 

「よくやってきました」

 

僕の手の平はぼこぼこと、浮き出た背骨を感じとっていた。

 

ユンホ先輩は食事をろくにとっていないようだった。

 

絶好調のユンホ先輩は、睡眠欲に加えて食欲が消えてしまうのだ。

 

総菜の夕飯にもほとんど箸をつけていなかった。

 

分厚いコートと緊張のせいで、見落としていた。

 

「ごめん。

俺はもう疲れてしまって...」

 

そうか、僕を今夜招いた理由。

 

心底の弱音を吐きたかったんだ。

 

「頑張り過ぎたんです。

もっと先輩の好きなように生きたらどうですか?

遅刻も早退も、欠勤しなくても済むような環境にいくのはどうですか?

人が少ない環境に?」

 

「......」

 

突如、ふつふつと怒りが湧いてきた。

 

毎度のことながら、僕は認識能力が鈍くて、それへの反応もワンテンポ遅いのだ。

 

「『好きだった』ってどういうことですか!?」

 

僕はむくっと半身を起こし、ユンホ先輩を睨みつけた。

 

「え?」

 

「過去形だったじゃないですか!

『好き』って言われても、素直に喜べないですよ!

意味深なこと言って、僕を心配させないで下さいよ!」

 

「チャンミン...」

 

「こっそり会社を辞めて、どこかへ行っちゃうつもりだったんでしょう?

し、死ぬつもりだったんでしょう?」

 

肯定の証拠に、ユンホ先輩は無言だった。

 

「僕はね、シーソーみたいなユンホ先輩がいいんです!」

僕がいるじゃないですか...。

...っく」

 

泣き落としなんてしたくない、にじんだ涙をごしごし拭った。

 

「『好きだった』なんて二度と言うんじゃねぇ!

...じゃなくて、二度と言うんじゃねぇですよ!

過去形なんて聞きたくねぇ...ですよ!」

 

頭に血がのぼった自分を止められない。

 

「先輩は僕とヤったんです!

先輩だって男が好きなくせに!

ずっと告白できなかった自分が馬鹿みたいですよ!」

 

僕はユンホ先輩の肩をぐらぐらと揺すった。

 

「僕は先輩が好きです!

僕と付き合う運命です!」

 

「...チャンミン、お前...」

 

「会社を辞めるなら堂々と辞めろ!

いつもの先輩でいてよ!」

 

ユンホ先輩に伝えるべきことを順に、羅列していった。

 

僕の言葉は全部、ホントウのことなんだ。

 

ユンホ先輩の真似をしたんだ。

 

「分かった、分かったよ」

 

ユンホ先輩も起き上がり、「鼻水が出てる」と掛布団で拭いてくれた。

 

外灯の灯りがユンホ先輩の肉体の凹凸を、ぼんやり照らしていた。

 

彫刻みたいに細く引き締まっていて美しすぎて、さらにユンホ先輩のことが好きになった。

 

僕はユンホ先輩の前だと、自由に素直に振舞える。

 

これってなかなか凄いことだ。

 

 

 

 

 

僕はスイッチが切れてしまったユンホ先輩の腰を抱き、駅に向かっていた。

 

僕のボストンバッグには、殺虫剤のスプレーと抱っこサイズのぬいぐるみが入っている。

 

僕は7年勤めた会社を辞めた。

 

ユンホ先輩とセックスをした翌日に。

 

非常識過ぎて笑ってしまうよ。

 

特急列車の中でぐったりとしているユンホ先輩に構わず、僕はビールを飲み駅弁を食べた。

 

「先輩、あーんしてください」

 

素直に開いたユンホ先輩の口の中に、ミカンのひと房を押し込んだ。

 

ユンホ先輩はもぐもぐと咀嚼している。

 

「チョコレート、食べますか?」の問いには答えなかった。

 

スイッチが入ったユンホ先輩は凄いと知っている僕は、スイッチが切れた彼を心配していなかった。

 

ユンホ先輩なら場所が変わっても、いい結果を生んでくれるはずだから。

 

 

発見したこと。

 

ユンホ先輩は「好き」と口にすることに、猛烈な照れを感じる人らしい。

 

お客に暴言を吐けた人なのにね。

 

僕は耳をそばだてる。

 

僕の上になり下になり腰を揺らし、絶頂の刹那、ユンホ先輩が口走る言葉。

 

切なく甘い声音の「好きだ」を、僕は絶対に聞き漏らさない。

 

そして、ユンホ先輩は数年も数カ月も前のエピソードを小出ししては、僕をきゅんとさせる。

 

「チャンミンに眼を見せた時があっただろ?」

 

「はい」

 

はっきりと覚えている。

 

あれは入社3年目の夏、倉庫内での出来事だった。

 

「お前の茶色い眼が綺麗で感動した」

 

「...え!」

 

「泣きそうになってしまって...焦点を散らしていた」

 

「...もしかして、その時に僕に惚れちゃいましたか?」

 

「さあ、どうだったかなぁ?」

 

とぼけたユンホ先輩は照れを隠すために、カーテンにへばりついた蝉の抜け殻を僕に向かって投げて寄こす。

 

僕は悲鳴をあげて飛び退る。

 

ここは虫の王国。

 

もうすぐ初夏の季節だった。

 

 

 

 

ユンホ先輩はことあるごとに、「いい加減、敬語はよせよ」と言う。

 

僕は毎回「それは出来ませんね」とつっぱねる。

 

 

僕はこの先もずっと、ずっと、ユンホ先輩を「先輩」と呼び続けるだろう。

 

 

僕にとってユンホ先輩は、永遠に「ユンホ先輩」なんだから。

 

 

 

(おしまい)

 

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