(2)ユンホ先輩

入社2年目の冬のことだ。

午前中は確かにいたはずのユンホ先輩が、姿を消していることに気づいた。

僕は即座に、「逃げ出したな...」と思った。

月に1度の棚卸の日だったのだ。

面倒なことを前にすると、5回に1回は堂々と逃げ出す、ユンホ先輩に慣れっこになっていた。

「ったく...自由人なんだから」

無人の事務所で僕は大きなため息をつき、乱暴に席を立った。

 

 

2人分の量を僕1人でこなさないといけない、終業時間を待たずに作業を開始することにした。

スーツにシワや汚れがついたら困るから、用意してきたジャージの上下に着がえた。

倉庫内はしんしんと冷え切っていた。

上から済ませようと回廊へと上がり、天井にまで積まれた介護用オムツの箱をカウントしていった。

途中で数が分からなくなっては舌打ちし、かじかむ指にも苛立ってきた。

2階を終え、次は1階だ。

見上げ続けていたことで痛む首をさすりさすり、階段を下りた。

カンカンと金属的な音が、終業時間間際の倉庫内に鳴り響く。

ひとりコツコツと、与えられた業務を真面目にこなす自分が馬鹿馬鹿しく思われた。

嫌なモノは嫌だと正直になれる人...ユンホ先輩みたいな人物になれればいいのに...。

...駄目か。

ユンホ先輩はやる時はやる人だ、凡人の僕が彼を真似したら、単なるナマケモノになるしかない。

あると思った最後の1ステップが無く、そのつもりで下ろした足裏にずん、と重力を感じた。

かくんと膝の力が抜け、前のめりによろけてしまった。

転ぶ...!?

埃だらけのコンクリート床に、顔面から衝突するところだった。

...転ばなかった!

僕は誰かの胸に抱きとめられていた。

つんのめった僕の頭は、その人の肩にぶつかって、なぜだか直ぐにユンホ先輩だと分かった。

「わっ!」

僕の勢いが強すぎて、ユンホ先輩を後ろへ突き倒してしまった。

「...ユンホ先輩。

帰ったんじゃなかったんですか?」

「可愛い後輩がいるのに、帰るわけないだろ~」

「...明日はきっと、雨が降りますね」

「明日の降水確率はゼロパーセントだ。

...あのさ、俺の上から下りてくれないかな?」

尻もちをついたユンホ先輩を、組み敷く格好になっていた。

「すみません!」

...ひゃあ!」

「『ひゃあ!』って...悲鳴が可愛いんだけど?」

ユンホ先輩、飛び起きようとした僕のお尻を撫ぜたのだ。

「男に組み敷かれるのも、悪いもんじゃないね。

ほら。

チャンミンのチンが俺のチンに当たってる」

「なに言ってるんですか!?」

僕は即、股間を押さえた。

かっかと頬が熱い。

ユンホ先輩は下ネタが大好きな男だった。

「セ、セクハラですよ!」

「俺に触られて、嫌か?」

「ビックリするじゃないですか!?」

「嫌ではないんだぁ...ふぅん」

「変なこと、言わないでください!」

倉庫内にあははは、と笑うユンホ先輩の笑い声が響き渡った。

さっきの衝撃で床に散らばってしまったものを、ユンホ先輩と一緒に拾い集めた。

これらはきっと、ユンホ先輩が用意してくれた差し入れだ。

ユンホ先輩は「ほれ」と、スーツのポケットから熱々の缶コーヒーを出し、投げてよこした。

「ありがとうございます」

僕らは段ボールを敷いた床に並んで座り、砂糖たっぷりの甘いコーヒーをすすった。

空腹だった僕は、買い物袋の中身が気になった。

「...それ?

食べないんですか?」

「あ~、これは俺の夕飯」

「え~、差し入れじゃないんですか?」

「悪い悪い。

欲しければやるぞ?

天丼だけどいいのか?」

「いただきます。

棚卸を1人でやった僕へのご褒美です」

ユンホ先輩に遠慮はいらない。

1人でやらされたことに腹を立てていたから余計に。

「お昼から行方不明でしたよね?

どこに行ってたんですか?」

咎めの口調で尋ねた。

「新規開拓」

「...嘘つかないで下さい」

「ホント」

ユンホ先輩は本当のことしか口にしない人物であることを、思い出した。

「俺もね、やることはやってるの。

ある日突然、美味しい仕事が降って湧いてくるわけないだろ?」

ユンホ先輩の固い口調に驚いたけれど、今のは僕が悪かった。

ちょっとだけユンホ先輩を馬鹿にしていた空気が、彼に伝わったからだと思う。

 

 

ユンホ先輩は遅刻早退、欠勤の常習者だ。

体調不良や電車の遅延の場合は仕方がない。

それ以外の口実は、例えば、通勤中に交通事故に遭遇し、けが人に付き添って救急車に乗り込んだ、とか。

祖母が亡くなった、実家の猫が産気づいたなどなど、挙げだしたらキリがないほど、バリエーションは豊かだった。

亡くなった祖母が3人目となったとき、王道でバレバレな大嘘の口実に、入社2年目だった僕は呆れかえっていた。

ところが...全部、本当のことだった。

交通事故の件の場合、後日礼状が届き、菓子折りを携えた女性が訪ねてきた。

産気づいた猫の場合、ユンホ先輩から7匹の子猫の写真を見せてもらった。

祖母については?

「俺の母親が再婚するたび、俺の祖父母が1組ずつ増えるわけ。

俺って懐っこいから、血が繋がっていなくても、みんなに可愛がられてね。

今でも交流があるんだ」

「そうだったんですか...」

何かと誤解されても仕方がない僕の先輩。

「祖母が3人...本当の話だよ」

これまで2年間、ユンホ先輩に向けていた軽蔑の気持ちを見透かされていたんだ。

「...先輩?」

ユンホ先輩の肩がひくひくと震えていた。

亡くなったお祖母ちゃんを思い出しているんだろうな。

背中をさすってあげたかったけれど、遠慮があって出来ずにいた入社2年目の僕だった。

 

(つづく)