入社2年目の冬のことだ。
午前中は確かにいたはずのユンホ先輩が、姿を消していることに気づいた。
僕は即座に、「逃げ出したな...」と思った。
月に1度の棚卸の日だったのだ。
面倒なことを前にすると、5回に1回は堂々と逃げ出す、ユンホ先輩に慣れっこになっていた。
「ったく...自由人なんだから」
無人の事務所で僕は大きなため息をつき、乱暴に席を立った。
・
2人分の量を僕1人でこなさないといけない、終業時間を待たずに作業を開始することにした。
スーツにシワや汚れがついたら困るから、用意してきたジャージの上下に着がえた。
倉庫内はしんしんと冷え切っていた。
上から済ませようと回廊へと上がり、天井にまで積まれた介護用オムツの箱をカウントしていった。
途中で数が分からなくなっては舌打ちし、かじかむ指にも苛立ってきた。
2階を終え、次は1階だ。
見上げ続けていたことで痛む首をさすりさすり、階段を下りた。
カンカンと金属的な音が、終業時間間際の倉庫内に鳴り響く。
ひとりコツコツと、与えられた業務を真面目にこなす自分が馬鹿馬鹿しく思われた。
嫌なモノは嫌だと正直になれる人...ユンホ先輩みたいな人物になれればいいのに...。
...駄目か。
ユンホ先輩はやる時はやる人だ、凡人の僕が彼を真似したら、単なるナマケモノになるしかない。
あると思った最後の1ステップが無く、そのつもりで下ろした足裏にずん、と重力を感じた。
かくんと膝の力が抜け、前のめりによろけてしまった。
転ぶ...!?
埃だらけのコンクリート床に、顔面から衝突するところだった。
...転ばなかった!
僕は誰かの胸に抱きとめられていた。
つんのめった僕の頭は、その人の肩にぶつかって、なぜだか直ぐにユンホ先輩だと分かった。
「わっ!」
僕の勢いが強すぎて、ユンホ先輩を後ろへ突き倒してしまった。
「...ユンホ先輩。
帰ったんじゃなかったんですか?」
「可愛い後輩がいるのに、帰るわけないだろ~」
「...明日はきっと、雨が降りますね」
「明日の降水確率はゼロパーセントだ。
...あのさ、俺の上から下りてくれないかな?」
尻もちをついたユンホ先輩を、組み敷く格好になっていた。
「すみません!」
...ひゃあ!」
「『ひゃあ!』って...悲鳴が可愛いんだけど?」
ユンホ先輩、飛び起きようとした僕のお尻を撫ぜたのだ。
「男に組み敷かれるのも、悪いもんじゃないね。
ほら。
チャンミンのチンが俺のチンに当たってる」
「なに言ってるんですか!?」
僕は即、股間を押さえた。
かっかと頬が熱い。
ユンホ先輩は下ネタが大好きな男だった。
「セ、セクハラですよ!」
「俺に触られて、嫌か?」
「ビックリするじゃないですか!?」
「嫌ではないんだぁ...ふぅん」
「変なこと、言わないでください!」
倉庫内にあははは、と笑うユンホ先輩の笑い声が響き渡った。
さっきの衝撃で床に散らばってしまったものを、ユンホ先輩と一緒に拾い集めた。
これらはきっと、ユンホ先輩が用意してくれた差し入れだ。
ユンホ先輩は「ほれ」と、スーツのポケットから熱々の缶コーヒーを出し、投げてよこした。
「ありがとうございます」
僕らは段ボールを敷いた床に並んで座り、砂糖たっぷりの甘いコーヒーをすすった。
空腹だった僕は、買い物袋の中身が気になった。
「...それ?
食べないんですか?」
「あ~、これは俺の夕飯」
「え~、差し入れじゃないんですか?」
「悪い悪い。
欲しければやるぞ?
天丼だけどいいのか?」
「いただきます。
棚卸を1人でやった僕へのご褒美です」
ユンホ先輩に遠慮はいらない。
1人でやらされたことに腹を立てていたから余計に。
「お昼から行方不明でしたよね?
どこに行ってたんですか?」
咎めの口調で尋ねた。
「新規開拓」
「...嘘つかないで下さい」
「ホント」
ユンホ先輩は本当のことしか口にしない人物であることを、思い出した。
「俺もね、やることはやってるの。
ある日突然、美味しい仕事が降って湧いてくるわけないだろ?」
ユンホ先輩の固い口調に驚いたけれど、今のは僕が悪かった。
ちょっとだけユンホ先輩を馬鹿にしていた空気が、彼に伝わったからだと思う。
・
ユンホ先輩は遅刻早退、欠勤の常習者だ。
体調不良や電車の遅延の場合は仕方がない。
それ以外の口実は、例えば、通勤中に交通事故に遭遇し、けが人に付き添って救急車に乗り込んだ、とか。
祖母が亡くなった、実家の猫が産気づいたなどなど、挙げだしたらキリがないほど、バリエーションは豊かだった。
亡くなった祖母が3人目となったとき、王道でバレバレな大嘘の口実に、入社2年目だった僕は呆れかえっていた。
ところが...全部、本当のことだった。
交通事故の件の場合、後日礼状が届き、菓子折りを携えた女性が訪ねてきた。
産気づいた猫の場合、ユンホ先輩から7匹の子猫の写真を見せてもらった。
祖母については?
「俺の母親が再婚するたび、俺の祖父母が1組ずつ増えるわけ。
俺って懐っこいから、血が繋がっていなくても、みんなに可愛がられてね。
今でも交流があるんだ」
「そうだったんですか...」
何かと誤解されても仕方がない僕の先輩。
「祖母が3人...本当の話だよ」
これまで2年間、ユンホ先輩に向けていた軽蔑の気持ちを見透かされていたんだ。
「...先輩?」
ユンホ先輩の肩がひくひくと震えていた。
亡くなったお祖母ちゃんを思い出しているんだろうな。
背中をさすってあげたかったけれど、遠慮があって出来ずにいた入社2年目の僕だった。
(つづく)