(25)チャンミンせんせ!

 

 

ユノは親友まるちゃん宅にいた。

 

ファミリーレストランの深夜バイトの後、ピザをおごるからと、一方的に押しかけてきたのだ。

 

ぐるぐる頭を、ユノ自身に代わってまるちゃんに整理してもらうのが目的だった。

 

(訪問時間として午前6時は、早いのか遅いのか...推しに狂うあまり体内時計が狂っているまるちゃんに、時間という概念はない)

 

キコキコキコキコ~ン。

 

これでもかとチャイムを鳴らしてようやく、ドアの向こうからまるちゃんが顔を覗かせた。

 

「サンキュ」と言って、ユノの手から持ち帰りピザの袋を引き取った。

 

まるちゃんは万年コタツの天板に大量の缶バッジを広げ、これらをOPP袋に収納する作業に没頭していたようだった。

(※推し缶バッジの傷防止、サビ防止のため。

ぴったりサイズのOPP袋を探すのも、れっきとした推し活の1つだったりする。収納ボックスにずらりと並んだ様を愛でる)

 

「朝めしの前に、こいつを片付けないといけないんだ」

 

「オッケ」

 

ユノも白手袋をはめ、大量のカードをクリアファイルに収納する作業を手伝った。

(※推しカードに指紋をつけたらいけない。OPP袋に入れた上で、専用ファイルに整然と収めてゆく)

 

「マッチングアプリは止めたんだ?」

 

「ああ、あれね」

 

リアル彼女を作りたいと、まるちゃんはマッチングアプリを利用すると意気込んでいたが、その後の報告がなかった。

 

「自分らしく生きることにした。

あの時は血迷っていたんだ」

 

「だよな~。

俺、びっくりしたもん」

 

「3次元はエロビだけで十分だ!」

 

「そうだそうだ!

周囲からキモいと思われても、好きなものは好きなんだ。

好きを貫け!」

 

とユノは、同性であるチャンミンを思い浮かべながら言った。

 

「ユノに相談してきた奴は、その後どうなんたんだ?

俺んとこに来たのは、その話がしたかったんだろ?」

 

ユノは、教師に片想いをしている人物から恋愛相談を受けているという相談を、まるちゃんにしていた。

(先生に片想いをしている人物とはユノ自身であることは、まるちゃんに内緒にしている)

 

「まあ...そんなとこだ。

俺じゃ手に負えなくて」

 

「連絡先を教えてもらえたのか?」

 

「それが...連絡先は未だ聞いていないみたいなんだ」

 

チャンミンの言動のいちいちに胸いっぱいになってしまい、「教えてください」のお願いまで達せずにいた。

 

つい数時間前、ラフな格好をしたチャンミンと彼の生活圏内でばったり遭遇したというのに、チャンスを逃してしまっていた。

 

「なんで?」

 

「だよなぁ」

 

「トロいなぁ。

ぼやぼやしてっと、先生とやらを盗られてしまうぞ~」

 

「それは困る」

 

女性教習生の何人かが、ハートになった目でチャンミンを追っていることを、ユノは知っていた。

 

「よし、と。

朝めしにしよう」

 

グッズたちは収まるべきところに収まり、ユノはコタツの上にピザとフライドポテトを広げ、まるちゃんは茶葉から丁寧に紅茶を淹れた。

 

朝食の用意が整い、二人は揃って「いただきます」と手を合わせた。

 

 

 

 

「実はそいつ...せんせの住所を知っているらしんだ」

 

「えっ!

それって、職員室か事務所なんかに忍び込んで住所を...って?」

 

「んなことするかよ、犯罪じゃん」

 

「じゃあ、尾行したとか?」

 

「す、するかよ!」

 

「だよな。

いくら好きだからって、尾行はNGだ」

 

まるちゃんはピザの咀嚼を止めると、平静を保つのに必死なユノを横目でチラ見した。

 

(ドキ)

 

「どうして先生の住所を知ってるんだ?」

 

「それが、本人はどうしても教えてくれないんだ」

 

「そりゃそうさ。

とてもとても、ユノには教えられない経緯だったんだよ」

 

「どんな?」と、ユノはずいっと身を乗り出した。

 

『尾行』ワードが図星だったユノは、その他のまるちゃん説に興味が湧いてきた。

 

「そいつは先生んちに連れ込まれたんだ。

『送っていくよ』って、下心満載の先生にさ。

そいつは先生のことが好きだから、スケベな手を振り払えない。

で~、いろいろやっちゃうわけ。

つまり〜、尻をね。

目覚めたら...朝!

...これも犯罪だね」

 

「ば、馬鹿野郎!

せんせがそんなことするわけないじゃん!」

 

ここまで言われてしまったらもう、とぼけていられない、全力で否定してしまった後でハッとした。

 

気色ばんだユノに、まるちゃんはあっけにとられていた。

 

「...へぇ。

ユノはその先生をよく知ってるんだなぁ?」

 

(どき...)

 

「そ、そりゃあ。

俺、先生の講義を取ってるからさ(だいたい本当のことだ)」

 

「ふ~ん」

 

(バレたかな...。

相談者などいない、相談者イコール俺なのだ)

 

ユノは固唾を飲んで、まるちゃんの視線にじっと耐えた。

(今日もまるちゃんはイケメンだった)

 

「まさかのまさかだけど、ひとつ確認しておくけど。

そいつ、先生の家に押し掛けたりはしていないだろうな?」

 

(どっき~ん)

 

3日に1度はチャンミン在住のマンション参りをしているとは、口が裂けてもまるちゃんに言えない。

 

「いいこと考えたぞ!」

 

突然、まるちゃんが手を叩いた音にユノは飛び上がった。

 

「何!?」

 

「そいつがウジウジしてるんなら、ユノが動けばいいじゃん」

 

「どういうこと?」

 

「2人は男同士なんだろ?」

 

「うん。

(チャンミンせんせは男、俺も男だ。世間的にレアケースだ)」

 

「ところで、どっちともゲイ?

好きになった奴がたまたま男だった、っていうパターン?

それとも、片方だけゲイ?」

 

「えっと...3つ目。

片方だけゲイ...噂によると」

 

ユノは答えた...男にフラれて泣きじゃくるチャンミンを思い出して。

 

(俺は女の子が好きだし、これまで付き合ってきた子も全員、女の子だ)

 

「先行き困難そうな恋だなぁ...」

 

「そ、そうなのか!?」

 

「ああ。

そいつがウジウジして、電話番号ひとつ訊けないでいるのも分からんでもない。

学生側がゲイだと、困難度はアップするね。

ストレートの先生に拒否られたらショックだろう?」

 

「...確かに」

 

「その逆パターンを考えてみよう。

ストレートの学生に告白されたりなんかしたら、ゲイの先生は二の足を踏むね」

 

「どうして?」

 

どこかでチャンミンに告白せねばと考えていたユノだったから、この言葉は無視できない。

 

「これまで先生は、ストレートの男を好きになった経験はいくつもあると思うんだ。

付き合ったこともあるかもしれない。

本気で好きだったのに、『やっぱり、女の方がいい』とか言って、フラれたこともあると思う。

ストレートの学生から告白されたら、二の足を踏むね。

いずれ、離れていくだろうって」

 

「心変わりなんてしないよ。

俺...じゃなくて、そいつは男に恋をするという発想が全くなかったんだ。

ひとめ惚れだったと話していた。

『なんだ、男じゃん。

でも、男同士でも恋ってできるじゃん』

って、男とも恋愛可能だということを知って、嬉しかったんだと思うよ」

 

「......」

 

まるちゃんはうつむいて語るユノをじぃっと見つめていた。

 

「それならば、先生に真っ直ぐな気持ちを伝えるしかないね。

大人である分、先生は沢山の辛い恋を経験しているだけに、ストレートから告られても疑心暗鬼になるばかりで、真に受けてくれないだろうね。

それは傷つきたくないから、慎重になるんだ。

それでも、気持ちを伝え続けるんだ。

...プロポーズする勢いでさ」

 

「さすがまるちゃん...凄いね」

 

ユノの黒目がちな眼が、キラキラと輝いた。

 

「俺を舐めんなよ。

俺がゲームの中で何人の女子を落としてきたか知らないだろう?

...隠れキャラで男子もいたりするんだ。

その男子は暗い過去を抱えてる設定で、一筋縄ではいかなかった...落とすのが大変だったなぁ」

 

「俺は、そいつの代わりに何をしてやれる?」

 

「ユノが代わりに連絡先を教えてもらうんだよ。

つまり、恋の仲立ちさ」

 

「いいねぇ!」

 

ユノは自分自身の恋のキューピッドになることになったのだった。

 

 

(つづく)

 

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(24)チャンミンせんせ!

 

 

 

マンション訪問を終えたユノは喉の渇きを覚え、コンビニエンスストアに寄ることにした。

 

煌々と明るい店内に目をしょぼつかせ、店内奥のショーケースから炭酸ジュースをとった。

 

ユノは昼間の応急救護教習を思い出していた。

 

チャンミンを前にすると心拍数が上がり、ユノのハートは非常事態に陥る。

 

結果、噴出した恋のマグマが、想いに正直になった行動を起こしてしまって、チャンミンを困らせてしまうのだ。

 

例えば、「キス」という際どいワードを、教習時間中にしかも大勢の前で口にしてチャンミンをからかってしまった。

 

(せんせ、真っ赤になってて可愛かったけど、すごい慌ててた。

ごめんなさい、せんせ)

 

チャンミンと密室空間で二人きりになれる機会は、有限だ。

 

ユノは焦り出してきた。

 

この間のうちに、チャンミンとプライベートで会えるところまで進展したいから、スムーズに卒業するわけにはいけない。

 

だからと言って、わざと下手くそに見せているつもりはないけれど、教習への真剣度を下げているのは事実だった。

 

教習簿の記録を見る限り、ユノの習得度は遅れ気味になっており、狙わなくても補修教習の可能性が高かった。

 

嬉しがる自分に、ユノは反省した。

 

(せんせは一生懸命なのに、せんせと一緒にいる時間を増やしたくて、ズルしてるっぽいです。

ちょっとだけズルしてるけど、俺なりに頑張ってます。

せんせに振り向いてもらえるまで、俺は教習生でい続けなければならないのです。

そのためには補習代を稼がないと!)

 

窓際の雑誌コーナーを通り過ぎる際、ほんの興味本位で反対側の棚を覗いてみた。

 

「......」

 

(男とエッチをするってことは...こういうものが要るんだよな。

そう簡単にはいかないと聞いたことがある)

 

ユノはボトルのひとつを手に取って、裏面の説明書きに目を通してみた。

 

(これってユニセックス?

アソコ専用のものがあるのかな?

あとで調べてみよう)

 

ユノがそのボトルを棚に戻した時だ。

 

新しい客が入店してきて、その客とはチャンミンなわけでして...。

 

ユノを捕まえねばと走ってきたせいで、「はあはあはあ...」呼吸を乱している。

 

「?」

 

ユノは入店してきた客から、特別な気配を感じて入口の方を振り向いた。

 

(なんとーーー!?)

 

予想もしていなかったチャンミンの登場に、ユノの口はあんぐりと開いている。

 

チャンミンのTシャツ、ハーフパンツ、サンダルといったカジュアルファッションに、ユノはときめいた。

 

「...せんせ」

 

(俺は今、深夜過ぎのコンビニエンスストアで偶然、大好きな人とばったり鉢合わせている)

 

...と、ユノはワンテンポ遅れて、願ったりかなったりの状況であることを把握した。

 

「...ユノ、さん。

はあはあはあ」

 

チャンミンは額に浮かんだ汗を、手の甲で拭った。

 

汗で濡れた前髪に、ユノはさらにときめいた。

 

(せんせは男なのに、カッコいい姿にドキッとしちゃうなんて。

参りました)

 

「!!」

 

(はっ!)

 

ユノはここで、チャンミン宅の近くに居る説明が必要なことに気づく。

 

チャンミンのマンションを観測しに来たとは、絶対に口にできない。

 

いくら夢中になっているからと言っても、自宅を知られている状況がチャンミンを怯えさせてしまうこと位、ユノには分かっていた。

 

「せんせ。

ど、どうしたんすか?

こんな時間に?」

 

ユノは質問される前に、質問する作戦に出た。

 

「いや...それは、その」

 

チャンミンの方も、いい台詞を考えていたわけじゃないため、しどろもどろだった。

 

「お腹が空いて、夜食でも買おうと思って」

 

「せんせんちって、この辺ですか?(知ってるけど)

だって、恰好がラフなんで...」

 

「そう!

そう。

そうなんだよ、すぐそこ」

 

チャンミンはマンションの方を立てた親指で指した。

 

ユノを見かけて6階から駆け下りて、ここまで走って追いかけてきたとは言いづらい。

 

「俺は...友達んちが近くにあって、さっきまで遊んでたんです」

 

「そうなんだ」

 

ついさっきまで、ユノがマンションを見上げていたことに、チャンミンは触れなかった。

 

自身に好き好き光線を放ち続けたユノのことだ、何かしらの手段で知り得た可能性がある。

 

そうだとしても、悪い気は全然しなかったため、責める気はさらさらなかった。

 

ユノの嘘に騙されたふりをした。

 

チャンミンは適当に、ゼリー飲料とチョコレート菓子、雑誌をかごに入れた。

 

ビスケットを手に取ったチャンミンに、ユノは訊ねた。

 

「あれ?

せんせは犬を飼ってるんですか?」

 

「えっ!?」

 

適当に手に取った商品がペット用おやつであることに気づいた。

 

(パッケージが紛らわしいんだよ!)

 

チャンミンは教育する側だ、その威厳を保たないといけない。

 

ユノにカッコ悪い姿は見せられない。

 

商品棚に戻すわけにはいけない。

 

「えーっと、うん、そうなんだ」

 

「やっぱり?

せんせって、犬飼ってそう」

 

「そう?」

 

「そんなイメージあります。

日頃の疲れを可愛いワンコに癒してもらってる...そのワンコにせんせはデレデレなんです。

可愛い洋服とか着せて。

...みたいな?」

 

「そうかなぁ」

 

もし自分が犬を飼っていたら、きっとそうなんだろうな、とチャンミンは思った。

 

「お金払ってくるよ」

 

レジカウンターで会計をしようとした際、チャンミンは青ざめた。

 

(財布を忘れた!)

 

まさぐったポケットは、左右も後ろも空っぽだ。

 

ユノに追いつこうと、鍵だけを持って部屋を出てきたのだ。

 

自分一人だけだったら、「財布忘れました」で済むのだが、今は後ろにユノがいる。

 

「......」

 

固まってしまったチャンミンに、支払いを待つ店員はイライラを隠さない。

 

「会計、一緒にお願いします」

 

レジカウンターにペットボトルが2本、チャンミンの背後から現れた。

 

「せんぱ~い」

 

「へ...?」

 

「先輩に焼き肉を奢ってもらったんで、今日くらい俺が払いますって」

 

ユノはそう言って、二人分の会計を済ませてしまった。

 

店を出るとすぐ、チャンミンは頭を下げた。

 

「ありがとう。

助かったよ。

財布忘れてきて。

立て替えてくれた分、明日、必ず返すよ」

 

「返さなくていいです。

日頃のお礼ですから」

 

「いやっ、そういうわけにはいかないよ」

 

「あげたんですから、貰ってくださいよ」

 

「できません!」

 

「そんなに拒否されたら、俺...傷つきますよ」

 

しゅんと肩を落としたユノに、チャンミンは慌てた。

 

「ユノさんに奢ってもらうのが嫌なんじゃなくて、『教習生』から貰うわけにはいかないんです!」

 

自動車学校のルールでは、指導員と教習生間で金銭及び物品の授受は禁止されている。

 

「ふ~ん。

お金のやりとりは学校内でするわけにはいけませんね」

 

「え?」

 

「今夜みたいに、プライベートな時間ならいいでしょ?

例えば、このコンビニとか...」

 

ユノにしてみたら、勇気をふり絞った大赤面ものの台詞だった。

 

「俺...財布を忘れるお茶目なせんせ...好きですよ」

 

「...ユノさん」

 

ユノの言葉に、チャンミンは静止した。

 

突然、ユノは腕時計を見ると、「大変だ!」と叫んで飛び上がった。

 

「どうした!?」

 

「遅刻しそうっす。

この後、バイトがあるんですよ!」

 

「ごめん!

引き留めてしまった!」

 

「いや、全然。

じゃあ、おやすみなさい!」

 

ユノは自転車にまたがると、満面の笑みを見せた。

 

「せんせに会えて、嬉しかったです」

 

よほど急いでいるのだろう、ユノの自転車は間もなく通りの先に消えていった。

 

「僕も会えてよかった」と、チャンミンは心の中でつぶやいた。

 

ユノが買ったペットボトルは、チャンミンが下げた買い物袋の中に入ったままだった。

 

 

ユノを見送ったチャンミンは、店頭に立ち尽くしたままだった。

 

ユノが陳列棚に戻した商品が気になったのだ。

 

(あの辺りは確か...)

 

そこには、絆創膏や熱さましシートなど衛生用品がまとめられ、アレにまつわるものも販売されている。

 

(...まさか、ねぇ。

もしそうなら、あの女子と使うつもり?

そうだったとしたら、すごくい、や、だ!)

 

ここでチャンミンは、ふと想像してみるのだ。

 

ユノに抱かれる自分を。

 

(ごくり...)

 

ユノはスタイルが抜群にいい。

 

そうだからと、チャンミンは身体目当てでユノに注目していたわけでは決してない。

 

確かに初期の頃は、ユノの股間につい視線がいってしまっていたが、それは男の性だもの、仕方がないことだ。

 

気になる人が現れたら、その人と裸で抱き合いたい。

 

チャンミンはユノに対して、そう願うようになったのだった。

 

想いを伝える前からにして。

 

先にすることがあるでしょうに。

 

 

(つづく)

 

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(23)チャンミンせんせ!

 

 

「緊急事態なんですよ!

照れは捨ててください!

そんなんじゃあ、聞こえません。

救急車も呼んでください!

ユノさん、急いで!」

 

「あの...せんせ。

さっきから俺ひとりでやってるっぽいんですけど?」

 

「僕とペアを組むとは、こういうことです」

 

「は、はあ」

 

(せんせ...俺だからスパルタ?

...悪くない...好きかも)

 

 

 

「では、本題の心臓マッサージを行います」

 

チャンミンとユノのマネキンの周りを、教習生たちは輪になって囲んでいる。

 

「音が鳴りますから、リズムに合わせて胸を押してください。

この辺り...です。

二人ペアの時は、このような流れで行います」

 

チャンミンはユノとバディを組むと、息を吹き込む側を自身が担当し、ユノに胸部圧迫を行わせた。

 

「役割を交代してみましょう。

ユノさんが呼吸担当です」

 

ここで、チャンミンは驚くのだ。

 

手こずる教習生が多い中、ユノは上手かった。

 

ユノがふぅ~と息を吹き込むと、気持ちがいいほどマネキンの胸が膨らんだ。

 

(うまい...上手すぎる!

ライフガードのバイトの経験でもあるのだろうか?)

 

ユノが息を吹き込み、チャンミンが胸を圧迫する。

 

とても初めて組んだとは思えない程、ユノとチャンミンは息ぴったり、相性がよかった。

 

「ユノさん...救急隊員になったらどうですか?」と、冗談交じりに言うと、

 

「へへへ。

俺、キスがうまいんですよ」

と、ユノも冗談で返した。

 

「えええっ!?」

 

「せんせ...。

俺がマネキンの代わりになっちゃおうっかなぁ...?」

 

「ぼ、僕をからかわないで下さいっ!」

 

チャンミンの顔は、ぽっぽと湯気を出しそうに真っ赤っかだった。

 

(ふふふ、チャンミンせんせ。

照れてますね...可愛い)

 

ユノの口元は、だらりと緩んだのだった。

 

 

 

 

21時のチャンミン宅。

 

茶色いタイルの10階建てマンションの6階。

 

湯上りの火照った身体に、開けた窓からそよぐ夜風が気持ちよかった。

 

チャンミンはだらしなくソファに寝転がっている。

 

いけないと思いつつも、つまみ無しでごくりごくりとビールを飲んでいた。

 

長身のせいで、ソファから骨ばった両脚がはみ出している。

 

(疲れた...)

 

チャンミンは昼間の応急救護教習を思い出していた。

 

ユノを意識するあまり挙動不審、大勢の教習生の前で失態を見せないよう、気を張らなければならなかった。

 

ところが、ユノの軽口に真正面から反応してしまい、動揺し大汗をかいてしまったのだ。

 

(ユノったら...もう...)

 

思い出すだけで、鼓動が早くなる。

 

(これ以上は飲み過ぎだ)

 

チャンミンは、4本目のビールを開けかけた指を止めた。

 

そして、頭を整理しようと、床に積み重なった洗濯物をまたいでベランダに出た。

 

「あ...」

 

くたりと頭を垂れた植物に気づき、慌てて水を与えたのだった。

 

(恋愛が絡むと僕はなんと弱いのだろう。

いろんなことが後回しになってしまう。

そりゃあ、仕事面でもパッとしなかったし、意欲も自信も無くしてたけどさ)

 

チャンミンは手すりにもたれかかり、通り向こうのマンションを眺めた。

 

部屋の半分に灯りが点いている。

 

(いい加減、男に振り回される生き方から卒業しないと!)

 

マンションが建つこの通りは店舗が少ないおかげで、夜間は騒がしくない点が気に入っていた。

 

前回の失恋の際は彼氏との思い出から逃れたくて、このマンションに引っ越してきたのだ。

 

今回の失恋では、ヤケを起こして引き払ったりしないでよかったとつくづく思う。

 

(偉いぞ、チャンミン。

男に依存しない生き方へ一歩、前進したかな?)

 

チャンミンは、マンション前の街路樹に視線を転じた。

 

葉が芽吹く初春から葉を落す初冬まで、この木々を眺めていれば季節の変化を感じることができる。

 

この点も、チャンミンがこの住まいを気に入っている理由でもある。

 

(...なんて言っていて、早速男に振り回されてるじゃないか...ユノという大学生に)

 

チャンミンは視線をさらに下へと転じた。

 

街灯がちょうどマンションの真ん前にあるおかげで、歩道は明るい。

 

チャンミンは目をつむり、ユノとの出逢いを思い出してみた。

 

(僕はいつの間に、ユノに心惹かれたんだろう)

 

初めての学科教習、チャンミンの真正面に陣取っていたユノ。

 

たじろぐほどの視線攻撃に「ずいぶんと熱心に見るんだな」と印象が焼き付いた。

 

恐らくその時に恋の種が蒔かれたのだろう。

 

失恋したばかりで心が塞いでいるはずなのに、無意識下で種が蒔かれていたのだ。

 

ノンケにフラれることには慣れていたし、ノンケに懐かれて嫌な気はしない。

 

憧れの混じった視線を浴びて、好き好き光線を浴び続ければ、次第とその気になるものらしい。

 

ただし怖いのは、その気になった矢先に梯子を外されることだ...。

 

チャンミンは無自覚であっても、初対面の時からハートは鷲掴みにされていたのだ。

 

(例の真夜中の尾行なんて、正気の沙汰じゃないぞ、チャンミン。

ユノへの想いを無視し続けるのは、いよいよ無理だ。

単純な話、ユノが早く卒業してしまえばいいんだ。

指導員と教習生...ってのが邪魔なんだ。

年齢差は無理でも、同じ土俵に立つ必要がある。

今は会社員と学生だけど、あと2年もすればユノもどこかに就職するんだし。

あ...!

僕ったら、付き合う前提で考えてるなぁ)

 

通行人はぽつりぽつり、周囲のマンションの住人たちだろう。

 

さらに、エントランスの照明が歩道を照らしているため、表情まではっきり見える。

 

「!!!!」

 

チャンミンは飛び上がった。

 

こちらを見上げる人物...若い男...シルエット。

 

6階の高さからは、自転車の色が赤色だとしか分からないのに、それにまたがる人物がユノだとチャンミンにははっきりと判別できたのである。

 

恋愛中のチャンミンは身体能力が各段にアップするのだ。

 

(ユノ!!)

 

チャンミンは身をのり出して、真下を見下ろした。

 

(どうして!?

ユノがここに!!

なぜ!?)

 

ユノとおぼしき人物は自転車を降り、エントランスの方へと移動してしまった。

 

(まさかまさかの僕の家を知ってる!?)

 

指導員が直に教えない限り、教習生が連絡先を知り得ない...当校では連絡先の交換は厳しく禁じられている。

 

(どうやって!?)

 

現状を理解しきれないチャンミンは、バルコニーをぐるぐる回っては、手すりの向こうを見下ろした。

 

(こうしていられない!)

 

チャンミンはベランダサンダルを脱ぎ捨て、室内を通り過ぎ、サンダルをつっかけて部屋を飛び出した。

 

(やばっ!)

 

ドアが閉まる直前に、シューズBOXの上の鍵を掴んだ(全室オートロックのマンションなのだ)

 

よれよれのTシャツとハーフパンツ姿だったが、構わない。

 

エレベーターを待っていらず、階段を駆け下りた。

 

一体チャンミンは、ユノを追いかけてどうするつもりだったのだろう。

 

ユノに追いついたところで、何を話せばいいのだろう?

 

追いかけずにはいられなかっただけだ。

 

(そんなこと、その時考えればいい)

 

エントランスの向こうは無人だった。

 

(いない!)

 

チャンミンが6階分の階段を駆け下りる間に、ユノはここを立ち去ってしまったようだ。

 

(捕まえないと!)

 

自動ドアが開くのももどかしくて突進したものだから、ガツンと肩にドアがぶち当たった。

 

それに構わずチャンミンは、マンションの外へと飛び出すと、通りの左右を見渡した。

 

ユノは自転車だから、間に合うはずはない。

 

「もう行っちゃったか...」と諦めかけたその時...。

 

ここからビル4棟先にコンビニエンスストアがあり、そこにユノのものとおぼしき自転車が停めてあった。

 

フレームが赤色だ。

 

「よかったぁ」

 

チャンミンは迷うことなく、コンビニエンスストアまで駆けて行ったのだった。

 

 

(つづく)

 

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(22)チャンミンせんせ!

 

 

昼食時間、チャンミンは教習ルートの地図を眺めていた。

 

独りになりたくて、場内コースの監視塔に上がっていた。

 

卒業検定は、教習で走行したコースを使用されるのだが、検定の直前までどのコースが選ばれるのかは知らされない。

 

矢印信号が複雑な交差点、片側4車線、勾配がある通り、小学校の側、一時停止の先は交通量の多い幹線道路、下町風商店街...コースによって難度に差が出てきてしまい、運悪くこれらのコースに当たってしまった受検者たちは気の毒としか言いようがない。

 

指導員にはどうこうできる権限はない。

(当日、公安委員会からコース決定の連絡がやってくる)

 

ユノの教習課程も後半戦に突入していた。

 

そろそろ、卒業検定を見据えた指導が必要なのだ。

 

相変わらずひやひや冷や汗無しで、ユノの隣に乗車することはできない。

(この日は幅寄せし過ぎたせいで、駐車中の高級外車と接触しそうになった。チャンミンの寿命が9年縮んだ)

 

「チャンミン!」

 

呼ばれて頭を上げると、両手に菓子パンを抱えた同僚Kだった。

 

「びっくりした!」

 

「休憩時間くらい仕事のことは忘れろよ。

最近、頬がこけてるぞ。

ほら、パンでも食べなさい。

俺からのおごりだ」

 

「ありがとう」

 

チャンミンの胃袋は時折キリキリと痛み、恋の病と合わさって食欲が減少していた。

 

チャンミンがルート地図とにらめっこしているワケは、ユノの為。

 

どのルートが当たってもいいように、それごとの最難関箇所をピックアップしていたのだ。

 

これまで、担当教習生ごとに差をつけないモットーでいたのに、ユノを前にしていつやら壊れていた。

 

Kはもそもそとカレーパンを齧るチャンミンを、しばらくの間眺めていた。

 

(前の男とは別れたらしいな。

ユノとかいう大学生にのぼせてしまって...隠しているつもりだろうが、俺からはバレバレなんだよ。

上の奴らは気づいていなさそうなのが救いだ)

 

「今週あたり、飲みにいくか?」

 

「ん?」

 

Kからの誘いにきょとん、とするチャンミン。

 

でもそのすぐ後に、Kの友情を感じとってじわりと胸が温かくなった。

 

(僕の様子がおかしいことに心配してくれるんだな。

隠してたつもりだけど、だだ洩れだったのか)

 

「ぜひ」

 

「うちに来るか?

チャンミンが来ると知ったら、嫁さん、張り切って御馳走を作ってくれるよ。

飲み過ぎたらうちで泊まればいいし」

 

Kからの誘いにチャンミンは、「そうだなぁ」と曖昧な返事だったため、Kはもうひとつの案を提案した。

 

「子供らも騒がしいから、落ち着かないか。

じゃあ、いつものとこで飲もうか?

俺の悩みも聞いてくれ」

 

「うん」

 

強風が吹くと監視塔は揺れ、二人の咀嚼音は、その風音でかき消されてしまっている。

 

(チャンミンが思い煩うのも仕方ない。

こいつはゲイで少数派だ。

ユノはチャンミンに気がありまくりで、俺が見るところ恋愛感情込みだ。

だから、チャンミンに可能性はあるんだが、彼が行動に動くかどうかの可能性は低い。

頭が固い奴だし、ユノはストレートに決まってるし...ハードルがいくつもある恋だ。

だからと言って、仕事をおろそかにしたらいけない。

最近のチャンミンは、ユノにばかりかかりきりになっている...)

 

この自動車学校は土日祝日営業のため、二人はシフトを確認し合い、二人飲みは週末土曜日夜に決定した。

 

チャンミンがカレーパンを食べ終えた頃合いを見計らい、Kはベンチから立ち上がった。

 

「最近練習をサボっているだろう?」

 

話題が変わったことにより、チャンミンの表情は硬くなった。

 

「講習日は迫っているんだ。

俺が見てやるから、今日こそ練習をするから。

分かったか?」

 

「...分かったよ」とチャンミンは渋々ながら答えた。

 

「あ、待って!」

 

チャンミンは、「先に戻っとくよ」と監視塔を出て行こうとしたKを引き止めた。

 

ふり返ったKに、チャンミンは「ありがとう!」と礼を言った。

 

「店は俺が予約しておくよ。

それじゃあ、午後も頑張りますか」

 

「ああ」

 

チャンミンとKは監視塔を出ると、急な階段を慎重に下りていった。

 

「わっ」

 

地面に着いたと思い込んでいたら、もう一段あったのだ。

 

夢想にふけるチャンミンは、あやうくすっ転ぶところだった。

 

 

 

3時間にわたる応急処置教習というのがある。

 

今回の担当はチャンミンだった。

 

チャンミンは密かに学校一のイケメンだと、女子教習生たちから囁かれていたのだ。

 

当然ユノは、面白くない。

 

(俺のせんせに近づくな)

 

応急処置教習に使われるこの部屋はカーペット敷のため、全員靴を脱いでいる。

 

「!!」

 

チャンミンの靴下のくるぶしに、ワンポイントにバンビが刺繍されている。

 

(せんせっ...か、可愛い~。

自分で買ったのかなぁ(注:正解))

 

ユノは口を覆った上で、顔面崩壊しかけた顔を背けた。

 

和室には、10体の心肺蘇生用の練習マネキンがずらり並べられていた。

 

「2人1組になってください。

僕が見本をやってみせますから、一緒にやってみましょう」

 

チャンミンの指示に、ペア探しに教習生たちはざわめいた。

 

ユノは素早く教習生の人数をカウントした。

 

(よっしゃ...!

奇数数だ!)

 

ユノはすっと手を挙げた。

 

「せんせー!

俺、1人です!」

 

「ユノ!?」

 

ユノの宣言に、彼とペアになるものと決めつけていたQは目を剥いた。

 

「私がいるじゃない」

 

「いやいや、Qは先生と組むのなんて嫌だろ?」

 

ユノはそう言いきって、Qの背をぐいぐい押した。

 

「えっ!?

やだ、ユノ、何々!?」

 

そして、Qの抗議を無視して、ペアが組めずに困っているフリーター風の若者に、彼女を押し付けたのだった。

(この若者は、可愛い部類にはいるQとペアを組めて、顔を輝かせた)

 

「せんせは俺とペアですね」

 

「ユノさん...」

 

教習生たちの前で、あからさまに嫌がる表情はよろしくない。

 

(困る。

意識してしまうから困る。

平静を保てるか自信がない)

 

教習時間に余裕はない。

 

チャンミンは「ユノさんは僕とペアで」と素っ気なく言うと、ビニール袋入りのマウスピースを教習生たちに配布した。

 

「人形にマウスピースを付けて...」と、チャンミンはマネキンの脇に膝をついた。

 

「まずは安全な場所へけが人を運びます。

ユノさん!

足を持って!」

 

「はい!」

 

「合図に合わせて...持ち上げますよ~。

はい、1、2、3!

次にけが人の肩を揺すります。

こんな風に『もしもし、大丈夫ですか?』と、大きな声で呼びかけます。

ユノさん!

やってみせて」

 

「はい!

『大丈夫ですか?

もしもーし、大丈夫ですか?』」

 

 

「声が小さい!」

 

 

「!!!!!」

 

日頃物静かだったチャンミンの大声に、教習生たちはビクッとする。

 

「はい!

すんません!!」

 

(ひー!

いつものせんせと違う!)

 

「次!

周囲に助けを呼んでください!

『誰か!

誰か!

助けて下さい!』

手を大きく振って...。

はい、ユノさん、やってみせて!」

「はい!

『誰か!

誰か!

助けて下さい!』」

 

「声が小さい!!!」

 

「すんません!」

 

(せんせが...せんせが...怖い...。

ギャップ萌えだぁ。

...悪くない...悪くないぞ)

 

「ムフフ」と、ユノはにやついたのだった。

 

 

(つづく)

 

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(21)チャンミンせんせ!

 

 

路上教習では、駐停車を練習する課目がある。

 

教習ルートは複数あり、そのルートごとに駐停車可能スポットがあり、そのうちのひとつがチャンミンのマンションの前だった。

 

この日、チャンミンがこのルートを選択したのは偶然で、他の教習車とかぶらないようにするためだった。

 

ユノはこのルートを走るのが初めてで、チャンミンの指示通りに右左折をするのがやっとだったため、まさかチャンミンが住むマンションに向かっているとは、全く気付けなかったのだ。

 

教習車の斜め左前方に、見覚えのある茶色のタイルのマンションが建っている。

 

見覚えがあるどころか、3日に1回は訪れている場所なのだ。

 

(なるほど!

そういうわけか!

ここなのか!

俺がせんせと再会できた運命の場所だ!)

 

「ここって、せんせ...」

 

と言いかけて、ユノは口を押さえた。

 

(やっべ~!

俺がせんせんちを知っていることは内緒だったんだ。

知ってたら、せんせを怯えさせてしまう。

『ユノさん、どうして僕の家を知っているのですか?』

『尾行したからです』って。

...怖すぎだろう?)

 

(※チャンミンの方も、ユノの友人の自宅を知っている)

 

幸いチャンミンはユノの動揺に気づかなかったようで、脇に建つ道路標識を指さし、一時停車と一時駐車の違いを説明し始めた。

 

(なるほどね。

以前、おばあさんにもこうやって説明をしていたなぁ)

 

チャンミンはラミネート加工したお手製の図解を取り出した。

 

「この道路は片側一車線の道路で、センターラインは白です」

 

(チャンミンの細い指に指毛が生えていることなんて、「こういう抜け感がせんせの魅力なんだよね」と、もっと早い段階でユノは知っている)

 

熱心に話を聞いているふりをして、ユノの意識はチャンミン側のサイドウィンドウ越し...茶色いタイルの10階建てマンション...にある。

 

「ユノさん?」

 

チャンミンは、上の空なユノを覗き込んだ。

 

(ヤバっ)

 

自分でやっておきながら、教習生相手に対して産毛が見える距離は近過ぎた。

 

チャンミンの視線は、ユノの毛穴レスな肌やぽってりとした下唇に釘付けだった。

 

「......」

 

一方、ユノの視線は、チャンミンの髭の剃り跡や一文字に引き結ばれた大きめの口に釘付けになった。

 

意識せずとも自動的に、二人の顔は1ミリずつ接近してゆく。

 

「......」

 

(せんせ...顔が近いです。

このままじゃあ、唇が衝突してしまいますよ)

 

(今は教習中教習中教習中教習中教習中教習中。

邪念よ、去れ。

でも...ちょっとくらいだったら...事故で済むかも...)

 

チャンミンの心の中にある、恋の暴走取り締まりセンサーが、黄点滅信号から警戒ゾーンに達したと、赤色点滅して知らせた。

 

「......」

 

二人の喉仏が、こくりと上下に震えた。

 

じわりじわりとユノの唇はチャンミンの方へと近づき、あともう少しで...。

 

(駄目だ!!)

 

...ふっ、とチャンミンの顔がユノの目の前から消えた。

 

「!?」

 

「それじゃあ、実際に目で見てみましょうか」

 

チャンミンは車を降りてしまったのだ。

 

(あっぶね~)

 

チャンミンは、図解シートを扇いで、ぽっぽと熱い首筋を冷却した。

 

車を降りたのはユノを避けるためではなく、興奮のクールダウンの為だった。

 

「ユノさんも、早く降りてください。

いつまでもここにいられないのです!」

 

ぽ~っと余韻に浸っていたところを、チャンミンの鋭い呼び声にユノの意識はこちらに戻ってきた。

 

(今のって...今のって。

俺の勘違いでなければ、キス...。

キスしそうだったと捉えてよろしいでしょうか、せんせ?)

 

そして、遅れて恥ずかしさがユノを襲った。

 

「キスしちゃうのかも...」と、ぽわんとバカ面で待ち構えていたのは自分だけだったのではと、穴があったら入りたい気持ちだった。

 

(ひとり勝手に勘違いして盛り上がって、バカみたいだ!)

 

「ユノさん!

ここ。

ここをよく見てください」

 

チャンミンは持参してきたメジャーで、路側帯と教習車のタイヤとの距離を測ってみせた。

 

「はい」

 

ユノはチャンミンの隣にしゃがむと、駐停車する際に路肩とのスペースの取り方についての説明を受けた。

 

頭には全く入ってこなかったが、「分かりました」と頷いてみせた。

 

次に、チャンミンは立ち上がると、消火栓のところまで走ってゆき、駐停車してはいけない場所について解説をした。

 

ユノは熱心に話すチャンミンを、ぼ~っとした表情で眺めていた。

 

「せんせが好き!」と熱々なハートに、切なさの風が吹いてきて、すうすうと寒くなってきたのだ。

 

つまり、キスの予感だと錯覚させるほどのムードだったのに、一瞬で離脱し、仕事の顔に戻ってしまった大人なチャンミンが、見上げなければならない存在だと思い知ったからだ。

 

「ユノさん!

僕の顔じゃなくて、こっちを見てください!」

 

「ごめんなさーい」

 

ユノにとって、これまでの教習時間はすべて楽しいに満ちていたけれど、この時間はチャンミンにとっては勤務時間であり、ユノに熱心になってくれるのは、それが仕事だからだと、あらためて気づかされた。

 

(せんせと一緒にいられるのは、教習車の中だけなんだ。

教習車を降りたせんせは知らない(住んでいるところと行きつけのレンタルDVD店、彼氏と別れたばかりだってことは知っているけどさ)

せんせとは、プライベートの繋がりが無い。

それってつまり、俺が卒業してしまったら、せんせとは縁が無くなってしまうってことだ!)

 

ユノのすうすうする感情を説明すると、上記のような内容になる。

 

(どうしよう。

俺...せんせのことが、マヂで好きだ)

 

それでは、チャンミンはどうなのか?

 

年の功で本心を巧妙に隠し通せていたと思っていた。

 

ところが、本気になり出してきて、センサーは常に黄色と赤色を行き来している。

 

(お願いだからそんな表情で僕を見ないで。

もう本気になりかけてるけど、正真正銘の本気になってしまうよ?

ユノの好意を受け止めようと、決心しかけているんだよ?

これまでの言動が僕をからかうものだとしたら、若いからってユノを許さないからね)

 

 

その後、ユノの路上教習はおおむね順調だった。

 

チャンミンに尾行されていた夜から10日間、キスしそうになった教習から一週間が経過していた。

 

その間、ユノは連絡先を尋ねられずにいた。

 

雑談はできる。

 

教習を終えて、教習簿を返してもらい、教習車を降りる...この間のどこかで、「連絡先を教えて下さい」と尋ねられない。

 

それから、「もしかしてキスするの?」と誤解するほど顔同士が接近してしまったことについても、

「ドキドキしちゃったじゃないですかぁ?

せんせはどうでした?」などと、チャンミンをからかう真似もできなかった。

 

チャンミンといえば、ユノのよそよそしさを感じ取っていた。

 

思い当たるのはやはり、1週間前の教習中に起こった出来事だろう。

 

ユノのシフトレバーとクラッチ操作は格段に上達し、ユノの手を合法的(?)に触れられる機会もゼロになってしまった。

 

他の教習生と比較して、ユノの習得度は遅れ気味で、その点は担当指導員として心配だった。

 

手がかかる生徒ほど可愛い...確かにその通りだ。

 

でも...指導員の立場でいる現実に、窮屈さを感じていた。

 

(あの時...僕はユノとキスがしたかった。

不純な想いを抱えて、教習車の助手席に乗り続けるのは辛い)

 

深夜のレンタルDVD店で偶然見かけた、リラックスしたユノを思い出すと、いいなぁと思った。

 

気軽に誘えない立場が悔しかった。

 

(...ユノはノンケだ。

僕の本性を知ったら、引いてしまうだろう)

 

 

(つづく)

 

 

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