(2)ぴっかぴか

 

~チャンミン~

 

ますます好みだ...。

 

その男の顔を真正面から拝んで、僕は大いに満足した。

 

滅茶苦茶イイ男じゃないか。

 

すっかり氷が溶けてしまった彼のグラスの中身は少しも減っておりず、ミルク色のそれはカルーアミルクか何かか。

 

酒が強そうな見た目からのイメージに反して、飲み物はお子様なようだ。

 

ますます「いい!」と思った。

 

僕はギャップに弱いのだ。

 

グラスに添えた指も節が太く、この指で僕のあそこを埋められ、かき回されたいと思った。

 

腰の後ろがうずいてきて、獲物を前に早くも僕の身体は反応しているようだ。

 

「ごめんね。

突然、びっくりしたでしょ?」

 

目の前の男はこくり、とゆっくり頷いた。

 

きめの細かい肌に小さな顎、男のくせに唇は赤い。

 

こんなにいい男なのにフるなんて...彼女は余程酷いことを、彼にされたんだろうね。

 

浮気をしたか、キレると激高するとか性格面に問題があるのか...おかしな性癖があるのか...それとも彼女に気になる男ができたのか。

 

派手な髪色をしているわりに雰囲気はほわんとしていて、案外素朴な奴なのかもしれない。

 

目が充血しているのは、失恋で泣いてたのかな?

 

可愛いなぁ。

 

彼の頭の中はクエスチョンマークでいっぱいなんだろう、なんとも複雑な表情で僕を見ている。

 

「勧誘でも、ナンパでもないよ。

...ひとりで飲んでるのが寂しくなっちゃって...。

君もひとりだったから、ご一緒したくなって...」

 

「はあ...」

 

相変わらずぽかんとしている金髪君。

 

別れ話の顛末の様子を、こっそり観察していたことは伏せておこう。

 

「僕ね、失恋しちゃったの。

でね、悲しくて寂しくて...。

ひとりで飲んでたんだけど、この虚しい気持ち、誰かに聞いてもらいたくって...」

 

眉をひそめて、泣き出しそうな表情をつくる。

 

出てもいない涙を拭ってみせたら、彼はハッとしておしぼりを差し出してくれた。

 

「...泣くなよ...」

 

「だって...フラれちゃって...。

辛い...」

 

彼は立ち上がると、テーブル越しに僕の肩をさすってくれる。

 

「困ったな...」とつぶやいている。

 

金髪君は素直で単純、困っている人を放っておけない、騙されやすいタイプのようだ。

 

僕は内心「ちょろいな...」と、つぶやいた。

 

「ずっと好きだったのに、フラれちゃった。

あ...名前を聞いていなかったね。

僕はチャンミン。

君の名前は?」

 

「俺?

えっと...ユノ。

ユノ」

 

「はじめまして。

見ず知らずの人に、いきなり愚痴ったりしてごめんね。

びっくりするよね?」

 

「ま、あぁ...びっくりしたよ。

え~っと、チャンミンさん」

 

「呼び捨てでいいよ。

年は同じくらいでしょ?

いくつ?

...25?

偶然!

僕と同い年だね」

 

「え...じゃあ、チャ、チャンミン。

俺、あんたの気持ち、すげぇ分かるよ。

何の慰めにもならないかもしれないけど、俺も失恋したばかりなんだ」

 

「え!?」

 

まるで初耳のように、僕はがばっと顔を上げた。

 

今度はユノの方が泣き出しそうな顔を...いや、本当に泣き出した。

 

「...っく...うっ...。

俺...15分前にフラれたところなんだ」

 

「えっ!?

ついさっきじゃないか?」

 

「うん...っく...っう...。

そうだよ。

あんたが座ってる席に、さっきまで彼女がいたんだ」

 

見かねて手渡したおしぼりで、ユノはごしごし顔を拭いた。

 

その拭きっぷりが大胆で、おしぼりの角を揃えてたたんでるような男に虫唾が走る僕だったから、ユノの評価がぐんと上がった。

 

「そうだったんだ...。

無神経だったね、ごめんね。

ユノさんは凄いカッコいいのに、フラれるなんて...信じられない」

 

「俺のことも呼び捨てで呼んで。

同い年なんだし。

そういうチャンミンも、カッコいいよ」

 

何を互いに褒め合ってるんだと馬鹿馬鹿しくなったけど、ユノに関してはお世辞抜きにずば抜けたルックスの持ち主だ。

 

惜しい...女の子たちだけのものにしておくには、あまりにも惜しい。

 

この男が欲しい。

 

「そっか...チャンミンもフラれたんだ。

はあ...。

失恋って辛いよなぁ」

 

「うん...。

僕...立ち直れないかもしれない」

 

と、心底辛そうにがっくり肩を落としてみせると、ユノは「同感だよ」といった風に、僕の肩をぽんぽんと叩いた。

 

「俺だって立ち直れないよ、今さっきの話だからさ。

途方に暮れてたとこなんだ」

 

悲し気に片頬をゆがめたユノに、ぞくり、と色気を感じた。

 

この男に抱かれたい!

 

「失恋した者同士、飲み明かしましょうよ。

こ~んなジュースみたいなのを飲んでいないで...」

 

「...あ!」

 

ユノのグラスを取り上げ、一気に飲み干した(甘い!)

 

「もっと辛口なものを飲みましょう」

 

あっけにとられたユノに構わず、僕は店員を呼んでハイボールをオーダーした。

 

注文したものが届くまで、僕は頬杖をついてユノをじぃっと見つめる...とろんとした目付きで。

 

ノンケな奴でも、まぶたを半分落とした僕の目元に、ドキリとするものなのだ。

 

グラスワイン3杯で、僕の頬はほんのりピンクに染まっているハズ。

 

男相手に今、色気を感じたぞ、ごくり...ってな具合になるハズだ。

 

ところが、

「あんた...眠いのか?」ときた。

 

え...?

 

「いや...眠くないよ」

 

通じない。

 

ユノは女の子にフラれたばかり、いきなり男にぐらりと傾く...なんて無理な話か。

 

「眠いのなら早く帰った方がいいぞ?」

 

「帰りたくない。

...ひとりになりたくないんだ」

 

「だろうなぁ。

その気持ち、すげぇ分かるよ。

悶々として眠れなさそうだ」

 

「でしょ?

飲み明かしましょうよ。

僕が奢ってあげるから」

 

「いや、そういうわけにはいかないよ。

ここは割り勘で...。

言いにくいんだけど、あいにく俺はアルコールは得意じゃないんだ」

 

「弱いの?」

 

「そうとも言えるのかなぁ...。

人様に迷惑をかける酔い方をしてしまうから、控え目にしてるんだ」

 

「そうなんだ...」

 

ユノを深酔い状態にして、ホテルに引っ張っていこうかと...極めて、ありがちな手法が使えないと分かり、僕は別の作戦を練り直す。

 

時間をかけて接近をはかった方が、無理なく行為に持ち込めるのだけど、この日の僕はかなり切羽つまっていて、一刻も早く誰かに抱かれたかった。

 

(つづく)

 

[maxbutton id=”23″ ]

 

(1)ぴっかぴか

 

ぴっかぴか

 

 

~チャンミン~

 

ひと目見て「好み」だと思った。

 

僕がいるテーブルからは斜め後ろ姿しか確認できない。

 

そうであっても、頬のラインや頭の形だとかでなんとなくはわかるものだ。

 

抜群のスタイルの持ち主だってことは、金髪にブリーチした小さな頭や広い肩幅、細身のパンツに包まれた伸びやかな長い脚からすぐに分かる。

 

20代半ばかそれくらいだから、僕と同じくらいかな。

 

その男は女連れだった。

 

女の子の顔が険しいのは、喧嘩か別れ話か。

 

2週間以上ご無沙汰だった僕は、ひと肌寂しさとむらむらを抱えていて、イライラのピークだった。

 

いいカモが現れたと心中でニヤリ、とした。

 

僕という人間は、もし自分が女の子だったら、尻が軽いと言われる類の人間だ。

 

恋は暮らしを彩るスパイス。

 

...なんてことくらい知ってるよ...でも、狭い人間関係。

 

寝た男の『今彼』が僕の『元彼』だったりして、トラブルは御免だが避けられないのだ。

 

付き合うとか付き合わないとか、そういうオンリーな関係に面倒さを感じていた僕。

 

後腐れのないその場限りの関係や、例え恋人がいたとしても、浅く広い浮気をしたりして。

 

半同棲みたいな恋人がいたのに、あっちこっちで関係を持っていた僕が悪いんだけどね。

 

思いっきり平手打ちされちゃったよ。

 

幸い口の中を切っただけで済んだけど、顔が傷つくのは困る。

 

お相手に不自由していないのも、自分がまあまあな顔をしているおかげだからね。

 

いろんな男と寝てきた。

 

いい思いもしてきたし、痛い目に遭ったことも沢山あった。

 

童顔な僕から従順だと勝手なイメージを持たれ、攻め一辺倒なセックスをする奴も多くて、うんざりだったのだ。

 

男相手だからって多少乱暴にしても大丈夫だなんて、勘違いして欲しくないんだよね。

 

行為に馴れてると余裕をみせる奴ほど要注意だ。

 

馴れた奴より新品に近い奴がいいなぁ、って思い始めていた。

 

ところが、『新品』を発見するのは難しいのだ。

 

大抵は女性が好きな質だから。

 

僕がこうして夜な夜な飲み屋をぶらついているのも、お相手を物色中するためなのだ。

 

そう悪くない顔かたちをしていて、どことなく寂し気な雰囲気を漂わせている奴を発見した時には、それとなく話しかけてみて探る。

 

見込みがなさそうな奴であったとしても、僕の好み...僕は面食いなのだ...に合致する奴とめぐり合わせた時は、少々強引な手もつかう。

 

僕とやれば大抵の者は、その気持ちよさに激しくイッてくれる。

 

そして、大抵は1発きり。

 

2発3発と関係を持ちたくなるけど、それは相当相性がよかった者に限られる。

 

そうであっても、できるだけ早い段階でフェードアウトさせる。

 

僕が欲しいのは身体の関係のみ。

 

心の繋がり合いについては...僕は自己完結型だから必要ないのだ。

 

だって、僕の身体が寂しがっているだけに過ぎないのだから。

 

 

 

 

勢いよくその女の子は立ち上がった。

 

騒がしい店内だったから、勢いよく立ち上がった拍子で椅子が立てた大きな音も、その男に吐いた捨て台詞も聞こえるはずがない。

 

あらら...とうとうフラれたね。

 

好都合だ。

 

険しい顔をした彼女が、僕の前をずんずんと通り過ぎていった。

 

ぽつんと一人残された、金髪頭。

 

座った姿勢じゃサイズが分からないけれど、筋肉質そうな身体付きとお尻の感じから、力強い腰振りが期待できる。

 

100%の確率で彼は、男の経験はない。

 

ぴっかぴかだ。

 

寂しい彼を僕が慰めてあげようではないか。

 

 


 

 

~ユノ~

 

 

初めて彼を見た時、きざったらしい男だと思った。

 

髪色はシルバーで、長く伸ばした前髪を耳にかけていた。

 

白シャツに黒パンツだなんてシンプル過ぎるファンション...スタイルに相当、自信がないと着こなせない。

 

その男はそれがまた、様になっていたのだ...悔しいくらいに。

 

男の俺が男に見惚れるなんて気持ち悪い。

 

彼に釘付けになってしまいそうなのをぐっと堪えて、彼の横を通り過ぎた。

 

視線の隅をかすめただけで、顔をよく見られなかった。

 

でも、真っ白レベルに脱色した髪色は相当目立つ。

 

じろじろ見るのも失礼だな、と思ったから、席へ案内する店員の背中に視線を戻した。

 

俺は今日、大事な用があってここに来たのだ。

 

客のひとり...やたら綺麗な男に心惹かれるために来たのではないのだ。

 

 

 

 

撃沈。

 

こうなるんじゃないかって予感はしていた。

 

デートの誘いもかわされる、既読スルー。

 

そんな1か月が過ぎた昨日、彼女から「話がある」とメッセージが届いた。

 

久しぶりのメッセージに、ふさぎ込んでいた気持ちが一気に浮上したが、すぐさま沈んだ。

 

「いよいよか...」と覚悟した。

 

「もしかしたら...」と、淡い期待もあったりして...。

 

でも、現れた彼女の表情は固く、彼女の言葉を聞く前に「あ~あ、やっぱり」と、諦めた。

 

別れ話をメールで済ませず、直接会ってケジメをつけてくれた彼女を、「いい子じゃん」と感心する俺は能天気野郎なのだろうか。

 

「どうして別れたいの?」と、今後の参考までに質問する。

 

俺は引き際のよい男なのだ。

 

別れを決めた彼女に、みっともなくすがるなんて格好悪いから...じゃない。

 

彼女の為に、やれることは尽くしたのになぁ。

 

フラれた原因が俺にあることは、重々承知していたのだ。

 

彼女は俺とセックスがしたい。

 

一方、俺は彼女とは「まだ」したくなかった。

 

俺の中には妙な信念というか、貞操観念みたいなのがあって、「一生この子だ!」と信じられる子とじゃないとしたくないのだ。

 

裸になって、誰にも見せたことのないところを見せあって、そのナイーブなところを繋げるんだ。

 

セックスをするとは余程のことなのだ。

 

まずは心と心がばっちり繋がった上でじゃないと!

 

男女の関係が高校時代よりフリーダムになる大学生になった時、俺が珍しいタイプの人物だということを初めて知った。

 

俺の見た目はまあまあ...悪くはないはずだ(身長も高いし、周囲もカッコいいと言ってくれるし)

 

中学高校とまあまあモテた(ファーストキスは中学1年の時だ。早い?遅い?)

 

校内カーストではまあまあ上の方だった。

 

友人も多かったし、部活動では活躍していた、学園祭のミスター××高校に選ばれた。

 

ところが...。

 

恋愛に関して、実は旧式な考え...それも、まるで女の子が抱くような...の持ち主だったとは...!

 

交際3か月を超えても一向に手を出そうとしない俺に、彼女たちは痺れを切らす。

 

「セックスしない」イコール「好きじゃない」

 

今の彼女(もう前カノになるか!)で4人目ともなると、さすがに落ち込む。

 

彼女への愛情を証明するために、自身の信念なんて無視して、ヤッてしまえばいいんだけどなぁ。

 

それが出来ないのが俺なのだ。

 

だから25歳にもなって童貞なのだ。

 

「ん...?」

 

気配を感じて、俯いていた頭を持ち上げた。

 

「わ!」

 

白い髪、白いシャツ。

 

あの男が正面の席...さっきまで前カノが座っていた席...にいた。

 

見知らぬ男が断りもなく接近してきたら、警戒してしまうのは当然のこと。

 

俺が例えば女の子だったら、「ナンパか?」と真っ先に思うだろう。

 

ところが俺は男だから、怪しい空気ぷんぷんだ。

 

何かを売りつけようとしてるのか?

 

俺をフッた前カノの『今彼』だとか!?

 

それとも、「君、夜の仕事に興味ない?」と勧誘されるのかな?

 

などなど、俺の思考はフル回転だったのに、同時に

 

「へえぇ...カッコいい奴だなぁ」と、しみじみ思っていたりもした。

 

「こんばんは」

 

にっこり笑ったその顔が可愛いのだ。

 

ついつい警戒心がゆるんでしまって、「...こんばんは」と答えてしまった。

 

「ここに居て、いい?

迷惑?」

 

「...い、いえ」

 

俺は迷うことなく、首を左右に振っていた。

 

 

(つづく)

 

[maxbutton id=”23″ ]

保護中: ぴっかぴか

このコンテンツはパスワードで保護されています。閲覧するには以下にパスワードを入力してください。

(32)君と暮らした13カ月

 

 

~冬~

 

春だったか夏だったか秋だったか...冬じゃなかったのは確かだ。

 

ユノさんに引き取られたのが盛夏の頃だったから、初夏だった可能性が高いかもしれない。

 

記憶がおぼろげで、季節感が曖昧だった。

 

ある日突然、施設に預けられていた私を両親が迎えに来た。

 

病院に入院しているはずの母親の登場に、まず驚いた。

 

そして、何年も前に行方をくらましていた父親も一緒にいて、私は喜ぶよりも困惑した。

 

両親は私たち三人の住まいであるアパートへと、私を伴った。

 

長らく留守にしていたせいで、部屋の中はほこりとカビの匂いがした。

 

私たちが部屋に入るなり父親は、フライパンを叩きつけて、ドアノブを叩き落としてしまった。

 

換気のために窓を開けるどころか、窓々は木の板で塞がれていた。

 

私を迎えに行く前に、両親はこの部屋の用意を済ませていたようだ。

 

その理由が分からなかった。

 

彼らは何かを計画している。

 

そして父親はバッグの中から、白い錠剤が詰まった瓶を3本取り出した。

 

その中身を数回に分けて、水で流し込みながら飲んだ。

 

飲みなさいと、白い錠剤を手の平に山盛り握らされた。

 

父親は「ラムネだよ」と言っていたけど、それは嘘だ。

 

私は一旦は口に含んだそれを、彼らに背を向け部屋の隅に吐き出した。

 

初めて目にする両親の様子が気味悪かった。

 

飲み干した後、彼らはベッドへと私の手を引き、私を挟んで横になった。

 

「お父さんはお前たちを捨てたくて家を出たのではないよ」

 

「...手紙ひとつ寄こさずに?」

 

「手紙を出せない訳があったんだよ」

 

「借金取り?

それとも、牢屋に入っていたの?」

 

父親がいなくなったのは私が5歳か6歳の頃で、事情は全く分からなかった。

 

「お父さんはお前たちのことを忘れたことは、1秒もない」

 

「ねぇ、お母さん。

病気は治ったの?」

 

「治ったわ」と母親は答えた。

 

二人して、私の名を繰り返し呼んで髪を撫ぜた。

 

その回数はこの先、彼らから呼ばれるだろう一生分と、呼べずじまいだったこれまでの分を埋め合わせるに匹敵しただろう。

 

彼らにとりたてて可愛がられた記憶がないだけに、怖かった。

 

3人揃って暮らした記憶が遠すぎた。

 

私の両隣りでゆっくりと上下していた胸の動きも、やがて止まってしまった。

 

「お父さん、お母さん」と呼んだ声は、永遠に彼らに届かない。

 

家じゅうの窓に頑丈な板が打ちつけてあり、子供の力ではどうしようもなかった。

 

窓には新聞紙が貼られていて、それを透かして差し込む日光が唯一の照明だった。

 

彼らは白い骨になってしまうまで、誰も中に入れる気などないのだ。

 

食糧庫も冷蔵庫も当然、空っぽだった。

 

唯一、グミの袋が見つかった。

 

1粒1粒大切に噛みしめた。

 

蛇口をひねると、幸い水は出た。

 

母親が私を呼んだ。

 

後になって振り返ると、この時点での母親が声を出すことはあり得なかった。

 

既に彼女は溶けかけていたのだから。

 

耳をすましていないと聞き逃してしまう微かな声で、母親は私を呼んだ。

 

彼女の言葉を聞きとろうと、私は顔を近づけた。

 

私の名を呼ぶ彼女の最後の吐息が、私の鼻腔を刺激した。

 

生暖かいそれはぶわりと私の頬を撫ぜ、湿らせた。

 

鼻がもげそうな匂いに、私の顔は腐ってしまった。

 

両親の顔も身体も溶けてゆく。

 

鼻がもげそうな吐息で囁かれて、私の名前も腐ってしまった。

 

私は10日後に救出された。

 

刑期を終えた父親と余命間際の母親...子供だけ助かった。

 

いかにもな不幸なストーリーで、この一件はしばらくの間、巷を騒がす事件となった。

 

アパートの一室で起きたことを事細かに語る術を、私は無くしていた。

 

事件の真相など私にはどうでもいいことだった。

 

そもそも、事実を何倍にも膨らませ、こしらえられた作り話だったかもしれない。

 

新聞もラジオのニュースも噂話も全部、私の目と耳を素通りしていった。

 

さらに2週間後、遠い親戚筋にあたる者だとユノさんが名乗り出てきた。

 

正常な子供だったら、大きな傷を心に負い、トラウマとなって何年も苦しむ事案だと思う。

 

両親を亡くして悲しいことよりも、彼らによって酷い目に合わされた恨みの方が大きかった。

 

悲しくもなんともない、ひとりぼっちになって寂しいとも思わない。

 

この感情の処理は、13歳の私にはまだまだ手におえない難しい課題だ。

 

恐らく私の心はとても、ひねくれていて普通じゃないのだ。

 

「本当に」悲しくないのだ。

 

悲しくならない自分が悲しかった。

 

あの事件以来、初めてかもしれない...鮮明に当時のことが頭に蘇ったのは。

 

 

 

 

膝の上に乗せていたチャンミンを目の高さまで持ち上げ、彼の鼻と私の鼻とをこすりつけた。

 

チャンミンの鼻はふわふわに柔らかく、常に潤んでいて、ひんやりと冷たい。

 

「ねぇ、チャンミン。

私って心が冷たいのかなぁ?」

 

チャンミンは首を傾げた。

 

「悲しまないといけない、って誰が決めたのです?」

 

「...えっと...世の中の人みんな」

 

「その決まりごとに沿えなかったから、あなたは冷たい人間なんですか?」

 

チャンミンは私から目を反らさない。

 

「...冷たい人間なんだと思う。

二人がいなくなっても...私、平気なんだもの」

 

「悲しい気持ちにお手本があるのなら、反対に嬉しい気持ちだったらどうです?」

 

「嬉しい気持ち...?」

 

チャンミンは長い舌で、私の鼻先をちょんちょんとつついた。

 

「宝くじに当たったとします。

賞金がすごいのです。

大抵の人は大喜びです。

でも中には、無感動の人もいるでしょうし、絶望する人もひょっとしたらいるかもしれません」

 

「そんな人っているかな?

私だったら嬉しいな」

 

「ほらね。

絶望する人を想像できないでしょう?

でも、そういう人もちゃんと存在するし、喜べないからといって責められないでしょう」

 

「そうだね」

 

「宝くじとご両親の死を比較するのは乱暴でしたね。

あなたの場合は、悲しむべきものがご両親の死であるから、余計に縛られてしまっているのです」

 

チャンミンの言うことは難しすぎたし、実は一度聞いたことがある話だった。

 

「僕が見るところ、あなたは繊細なようで、鈍感でタフなところがあるようですね」

 

「繊細で鈍感?」

 

「はい。

両方あるから、心とは複雑で面白いのです。

あなたはあなたのままでいてよろしいのです」

 

「チャンミンったら、ユノさんと全くおんなじことを言うのね」

 

以前は理解できなかったユノさんの話が、今は分かったような分からないような...でも、ニュアンスは理解できたような気がする。

 

「凄いねぇ。

チャンミンは私の先生みたいだね」

 

チャンミンは得意げに、つんと顎を上げていた。

 

 

(つづく)

 

[maxbutton id=”23″ ]

(31)君と暮らした13カ月

 

 

~冬~

 

あいつだった。

 

1年前、ユノさんにこの家から追い出された、あの男だった。

 

男はポーチの影から現れた私に気付き、驚いてみせた後、笑顔になった。

 

「あいつにいたずらされていないか?」

 

男はひとりじゃなく、連れがいた。

 

「声が出せないんじゃあ...可哀そうに。

お前じゃあ、あいつの好みじゃないから、それはないか?」

 

ぎゅっと唇を噛みしめた。

 

1年近くの間、この男に懐いていた自分が馬鹿みたいだった。

 

私の後ろでチャンミンが「くるるる」と喉を鳴らす音が聞える。

 

「噛みついてあげましょうか?」

 

「我慢して。

騒ぎになっちゃうから」

 

「なんだその不細工な犬は?」

 

私の中で何かがぷつん、と切れて、気付いたらスコップを振りかざしていた。

 

振り下ろそうとした間際で、私のジャンパーが後ろに引っ張られ、その勢いで私は尻もちをついた。

 

私の手から投げ出されたスコップは、傍らの雪の山に刺さった。

 

「あなたが手を出したら、騒ぎになりますよ」

 

私を止めたのはチャンミンだった。

 

今は不細工であっても、チャンミンは進化の途中なのだ。

 

今は例え不格好であっても、大人になれば...もしかしたら...美しい生き物に変化するのだ...きっと。

 

男は私に近づくと、私のあごを片手でつかんだ。

 

指が頬に食い込んで痛かった。

 

「相変わらず綺麗な顔をしている」

 

私は即座に顔を背けた。

 

顔を見られるのは...嫌いだ。

 

チャンミンの喉を鳴らす音がより大きくなったので、私は手を振って襲ったりしないよう彼を制止した。

 

男に負けるものか、と私は彼に向き直って、眼力を込めて睨みつけた。

 

男は私から手を離すと、私の狂暴な眼に怯んだ自身を隠すかのように、その場に唾を吐き捨てた。

 

もし私が大人の女の人だったら、ユノさんを「放っておかない」...大人の男の人だったとしても同様だと思った。

 

ユノさんを好きになる人は、いい人であって欲しいと思った。

 

車に乗り込んだ二人が雪原の彼方に消えたのを見届けた時。

 

チャンミンは見事なジャンプ力で貼り紙に飛びついた。

 

地面に着地すると、むしり取ったそれをむしゃむしゃ食べてしまった。

 

私は男が唾を吐いたあたりの雪をすくい、前庭の外へと投げ捨てた。

 

ユノさんを守った満足感でいっぱいだった。

 

チャンミンと顔を見合わせ、頷き合った。

 

ユノさんに守られているばかりでいられない。

 

私も強くならないと。

 

 

誕生日を翌々日に控え、私はその準備に勤しんでいた。

 

輪っかにした折り紙を繋いだもので、壁を飾り付けた。

 

ギンガムチェックのテーブルクロスにアイロンをかけた。

 

花はユノさんが仕事帰りに買ってきてくれる予定になっている。

 

去年まではここまでのことはしなかった。

 

ユノさんの為に編んだセーターも3日前には完成し、包装紙に包まれ私の部屋に隠してある。

 

チャンミンとタミーへのプレゼントも、ちゃんと用意してある。

 

今日やるべき用意は済んだので、私は読書の続きに戻ることにした。

 

主人公の娘が父親くらい年の離れた男性に恋をする物語に、私は胸をときめかしていた。

 

ページをめくるたび、チャンミンにポップコーンを放ってやる。

 

チャンミンは私の指先の動きに注視しており、ポップコーンを摘まむと同時に口を開ける。

 

5回に1回は意地悪をして、そのポップコーンは私の口に入ってしまう。

 

チャンミンはじつに恨めしそうな眼で、私をじぃっと見上げていた。

 

「あっ!」

 

チャンミンは私の靴下を引っ張り脱がすと、それを咥えて行ってしまう。

 

「こら!」

 

台所のシンクの下で、私の靴下をしゃぶるチャンミンを抱き上げた。

 

これまで何度、頬ずりしただろう。

 

チャンミンのお腹に頬を埋めた。

 

いつまでこうしていられるだろう。

 

裸足の足裏に、台所のタイル床は氷のように冷たかった。

 

 

チャンミンを抱っこしたまま窓辺に近づいた。

 

窓ガラスが白く凍りつき、外の景色を見渡せない。

 

ガラスを透かして雪灯が注ぎ込み、室内を薄明るく照らしていた。

 

人里離れたこの地の日中、動物たちはじっと身を潜めているか、もしくは冬眠してしまっている。

 

雪は音を吸い込んでしまうし、風が揺らすはずの草木の葉は秋のうちに落ちてしまった。

 

静かな午後。

 

静寂過ぎて、別荘地の川のせせらぎ音がここまで聞こえてきそうだった。

 

白々とした明るさに満ち、静まり返った室内にいると、思い出すことがある。

 

雪灯りにチャンミンの琥珀色の瞳は、ハチミツ色に透けていた。

 

「ん?」というように、チャンミンは私を見上げる。

 

白いまつ毛に縁どられた大きな大きな眼。

 

視力があるのか疑ってしまうくらい美しい瞳だ。

 

チャンミンに見つめられて、瞳の中に溶けてしまいそうだった。

 

鮮明に思い出しても、今の私なら平気だ。

 

2年前に起こったことを。

 

 

(つづく)

 

[maxbutton id=”23″ ]