(6)会社員-情熱の残業-

 

 

ドンドンとドアを叩かれ、ドキッとした俺は書架棚の陰に隠れる。

 

「ユンホさん!」の声にホッとし、鍵をかけているんだから隠れる必要はないと思い至ったのだ。

 

「開けてください!!

大変です!!」

 

チャンミンの剣幕に慌てて開錠すると、勢いよく開いたドアが俺の額を直撃した。

 

「いってぇ!!」

 

額を押さえてうずくまる俺に、「す、すみません...」とチャンミンは駆け寄る。

 

頭を上げると、俺の肩を抱くチャンミンと間近で目が合った。

 

う...か、可愛い...。

 

整髪料でテカテカな頭を見なければ、チャンミンの真ん丸お目目はヤバイ。

 

チャンミンに見惚れていると、彼は眉をひそめてしまう。

 

「何ですか?

じろじろ見ないでください」

 

ぷいっと顔を背けてしまったチャンミンもやっぱり可愛くて、しつこくじぃっと見つめていたら...。

 

「ユンホさん!」

 

思いっきり俺の顎を押しのけて、チャンミンは怖い顔をして言う。

 

「こ、ここは職場ですよ!

見境なく、ぼ、ぼくに、キッ...キスをするなんて!」

 

「してねーよ!」

 

「しようとしてたじゃないですか!

エッチな顔して僕を見てたじゃないですか!」

 

チャンミンは俺に背を向けて立ち上がり、乱れてもない髪を撫でつけている。

 

「チャンミンが可愛くて、見惚れてただけだって!

キスだってさ...もうしたじゃん。

俺たちは“交際”してるんだろ?」

 

「ホントですか!?」

 

くるりと振り向いたチャンミンの弾ける笑顔。

 

「ホントですか、って。

さっき自分で言ってただろう?

俺たちは“お付き合い”してるんだろ?」

 

「え...えっと、あれは、ユンホさんの気持ちを知りたくて、カマをかけてみただけです」

 

「はあ?」

 

なあんだ、チャンミンも確信が持てずに、まわりくどい方法で俺の気持ちを探っていた訳だ。

 

ダサい見た目と、カチカチの融通がきかなさそうな仕事ぶりに、恋愛に関して初心なんだろうと判断していたが、そういう小手先も使えるのか...甘く見てはいけない人物だ。

 

「カマなんかかけなくてもさ、分かってるくせに」

 

つんつんとチャンミンの腕を突いたら、「じゃれつかないでください!」と振り払われた。

 

両耳を真っ赤にさせたチャンミンは、顔を手で仰ぎながら、つかつかと入り口まで引き返すと、ガチャリと鍵を下ろした。

 

鍵をかけるってことは...もしかして、チャンミン!

 

堅物のくせに、なかなかどうして情熱的な奴だ(『ユンホさん、二人っきりになれましたね。ここなら滅多に人は来ません』って、俺は床に押し倒されるのか!?...っておい!)

 

せっかくのこの機会。

 

今週末の『デート』ではっきりさせようと計画していたが、予定変更、繰り上げだ。

 

ずばりの言葉をチャンミンに伝えなくては...と、口を開きかけたら...。

 

「はい、そこまで!」

 

「へ?」

 

「ここは職場で、勤務時間中です。

浮ついた話は、職場から離れた時にしましょう」

 

切り替えるように大声を出すと、俺が床に広げた伝票の束にため息をつく。

 

「ユンホさん。

ぐちゃぐちゃにしちゃって...後で並べなおすとき、苦労するのはユンホさんですよ?」

 

「無意味に散らかしてるんじゃないって。

得意先別に仕分けしてるの」

 

胡坐をかいた俺にならって、チャンミンは両膝を折って正座をする(正座!?床の上だぞ?)

 

「さて、ユンホさん。

見つかりましたか?」

 

「見つかるも何も、送り状そのものがない」

 

「...やっぱり。

そうなんじゃないかって思ったんですよ」

 

「?」

 

「今回の件で、ユンホさんは2つのミスを問われます。

その1。

納品場所を誤って指示をした件」

 

「納品の度に、指示なんか出さないぞ。

いつものことだし。

それに南工場しか送ってないものを、今回だけ行先が北工場に変更になってたら、出荷係もおかしいと思うだろう?」

 

「思うでしょうね。

手口は単純です」

 

足がしびれたのか、くずした座り方がカマっぽくて、目を離せずにいたらぎろりと睨みつけられた。

 

「教えろよ」

 

「後でゆっくり説明してあげますよ」

 

つんと、顎を斜め上に向けたチャンミンは、得意げだ(いちいち勿体ぶる奴だ。面倒臭い奴だけど、チャンミンだから許す)

 

「その2。

先日に引き続いてのミス。

今度こそ責任が問われるでしょうね」

 

「だろうね。

件の伝票はここにはない。

ないものはない。

証拠隠滅だろうね、どうやって業務課から持ち出したのやら...

そんなことより。

大事件って何?」

 

「ああっ!

ユンホさんのせいですよ、もー!

変なことをするから...」

 

「何もしてねーだろ!?」

 

変なことも何も、チャンミンの顔をまじまじと見ていただけのこと。

 

それを変な意味で捉えたのはチャンミンの方じゃないか、と言いたかったが止めといた。

 

ごちゃごちゃと話が長くなりそうだったから。

 

ひとまず目の前のトラブルに集中することにする。

 

「大事件ってなんだよ?」

 

「転送は無理でした」

 

「えええーーー!!

どうしてそれを先に言わないんだ!?」

 

「だって、ユンホさんがキスしようとしたから...」

 

「してねーよ」と言いたかったが、同じことの繰り返しになるからぐっと堪えて、チャンミン発言を無視することにする。

 

「転送できないって、どういうことだ?」

 

まずいぞまずいぞ!

 

何事にも鷹揚な俺だが、こればっかりはピンチだ。

 

「北工場は僻地にあります。

配送業者は山を下りてしまいました。

もし転送して欲しければ、トラックをチャーターすることになります」

 

「う...」

 

「そこで僕は解決法を思いつきました!」

 

「?」

 

「今から北工場へ向かいましょう!」

 

「へ?」

 

「荷物をピックアップして南工場へ運びましょう」

 

この窮地を抜け出すには、この方法しかない...しかないが...。

 

「...遠いよ」

 

長距離運転だ...所要時間は往復10時間...。

 

「安心してください。

僕も一緒です」

 

「チャンミンが!?」

 

「はい。

交代で運転しましょう」

 

にこにこと楽しそうに言うから、がっくり来ている俺もヤル気が出てきた。

 

「僕とドライブデートですよ、うふふふ」

 

ピンチをイベントのひとつにしてしまうなんて、チャンミンは俺以上にポジティブシンキングの持ち主らしい。

 

「ユンホさんは車を借りてきてください。

商用バンが空いてるはずです。

あれなら全部積みこめるでしょう」

 

「日付が変わっちゃうぞ?

残業手当も深夜手当も出ないぞ?」

 

「ユンホさんと一緒なら、構いません。

このピンチを僕らで乗り越えましょう!」

 

チャンミンは俺の手を握って、ぶんぶんと上下に振った。

 

「お、おう!」

 

「軍手も持っていった方がいいですね。

途中で夜食を買いましょうね。

そうそう!

お泊りグッズも持っていかないと、ぐふふふ」

 

大きな独り言をつぶやき、忍び笑いをこぼすチャンミン。

 

「遊びに行くんじゃないんだぞ?」

 

すると、チャンミンはきょとんとして、

 

「分かってますよ。

仕事で行くんですよ。

いるものリストを挙げていただけです」としれっと言う。

 

「お!

雪がちらついてきました。

今すぐ向かいましょう」

 

チャンミンに引っ張られ、備品庫を出た。

 

チャンミンとロングドライブ、車内で2人きり、6時間越えの残業がこうして始まったのだ。

 

 

(つづく)

 

 

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(5)会社員-情熱の残業-

 

 

「あの...ユンホさん。

次のお休みは、何か予定はありますか?」

 

 

「んー。

溜まってる洗濯物を片付けたり...食料品の買い出しに行ったり...。

ジャージやスニーカーが欲しいから、探しに行こうかなぁ、とか」

 

 

俺は天井を見上げて、やることリストを挙げてみた。

 

 

媚薬の夜、チャンミンの鍛えた二の腕を目にして、俺も筋トレでも始めようかと決意したのだ。

 

 

「そのプランに、僕も加わっていいですか?」

 

「へ?」

 

チャンミンの言葉に、俺は勢いよく彼の方を振り向いた。

 

 

両腿の上に置いたこぶしをぎゅっと握って、チャンミンは俯いている。

 

 

チャンミンの照れがストレートに現れる耳が、真っ赤になっていた(か、可愛い)

 

 

「ユンホさん!」

 

 

俯いていた顔を勢いよく上げて、俺に真剣な眼差しをぶつけてくる。

 

 

「僕とっ!

デートしてください!!」

 

 

「チャンミン!

声がでかい!」

 

俺はとっさにチャンミンの口を塞いで、周囲を見回した。

 

 

案の定、何人かはこちらに注目している。

 

 

「でぇと?

俺、とか?」

 

「はい...嫌ですか?

僕はご承知の通り、面白げのない人間です。

僕と逢引きだなんて、つまらないかもしれませんが...」

 

 

語尾が消え入りそうで、再び俯いてしまったチャンミン。

 

 

俺はチャンミンの肩を叩いて、腿に視線を落としてしまったその顔を覗き込んだ。

 

 

チャンミン...面白げがないどころか、ツッコミどころ満載なお前は面白すぎる。

 

 

俺は始終、あたふたドキマギさせられて、退屈しないよ。

 

ご当人にしてみたら、全部ガチでやっているから、からかえないけどな(チャンミンを傷つけてしまう)

 

 

「よし!

俺とデートしよう」

 

「ホントですか!?」

 

「あでっ!」

 

 

勢いよく上げたチャンミンの額に、俺の額がまともに衝突してしまう。

 

 

「ああぁ!

すみません...」

 

 

チャンミンを強く意識し出した「おでこゴッチン事件」を、懐かしく思い出した。

 

 

「大丈夫だ」と、額をさすりながら俺は、にかっと笑ってみせた。

 

 

「...これが、『いいニュース』です」

 

 

これのどこが『いいニュース』なのかピンとこなくて、でも「?」な表情を見せたらいけないと思い、チャンミンの続きの言葉を待つことにした。

 

 

「さっきも申し上げた通り、『いいニュース』というのは、あくまでも僕にとっての『いいニュース』なのであります。

 

 

毎日僕のお弁当を食べてくれるユンホさんのことだから、デートのお誘いを承諾してくれると思ったのであります。

 

 

あの...僕の勘違いでなければいいのですが、僕らはその...交際しているわけでしょう?」

 

 

ス、ストレートに来た!

 

 

「僕らの初デートのお誘いですので、きっとユンホさんは喜んでくれるのでは...と。

そして、承諾の回答を得られた僕は、感謝カンゲキ雨あられになるのです。

ですから、僕にとって『いいニュース』なのであります」

 

チャンミン...お前の思考は先読みし過ぎて、複雑だな。

 

「すみません!

お手洗いで気持ちを確かめあった僕らです。

キッ...キッ...キ、キ、キスをしましたし...。

そろそろ、次のステップに進む時が来ているのでは...と?」

 

チャンミン...お前は凄いよ。

 

お茶をこぼして股間を濡らしてしまった状況下で、こんな発言ができるとは!

 

チャンミンは上目づかいで...まつ毛が長いな...か、可愛い...俺をじぃっと見つめた。

 

「間違っていますか...?」

 

「間違ってないよ。

その通りだ」

 

タイミングを見計らっていた俺は、チャンミンに先を越された。

 

「明後日でいいですか?

待ち合わせの時間や、何をするかは今夜決めましょう。

それでよろしいですか?」

 

「了解」

 

チャンミンとデート!

 

トイレで迫られたアレは、チャンミンの「本気」だったんだ!

 

やった...!

 

ぞくぞくと喜びが湧いてくる。

 

 

「では、お次の『悪いニュース』をお話したいと思います」

 

 

俺はコントのように、ガクッとしてしまった。

 

 

言いたいことを言ったら、その場の雰囲気は無視して、即話題を切り替えられる無神経さがある、と心のチャンミン録にメモ書きが加わった。

 

 

「聞きたくないなぁ...」

 

「いいえ!

そういう訳には行きません。

業務上の報告です」

 

 

どうせまた、俺がしでかしたミスの指摘かよ...と腐った気持ちで、テーブルに頬杖した。

 

 

「B社宛の納品分のことです」

 

「嫌な予感がするなぁ」

 

 

B社に関しては、大きな失敗をしたばかりだったため、緊張が高まる。

 

 

「南工場に納品するはずが、北工場に行ってしまった可能性が非常に高いのです」

 

 

「はあぁぁぁ?」

 

俺は叫んで、ガタガタっと派手な音をたてて立ち上がった。

 

 

「なんで先にこのことを教えてくれないんだよ!」

 

 

「ユンホさんが、選択したんでしょう?

『悪いニュース』は後から聞きたいって」

 

 

「そ、そうだけどさぁ」

 

 

「配送業者には転送ができないか、只今問い合わせ中です。

悪いニュースを先に言ったとしても、回答が来るまではどうにもできませんから、安心してください」

 

 

「う―...」

 

「ユンホさんの選択は、結果として正しかったわけです。

こんなトラブルを先に知ってしまったら、僕のデートのお誘いどころじゃなくなりますからね。

もうすぐ...」

 

チャンミンは腕時計を確認する(黒の革バンドのフェイスの大きいもの)

 

「返答が来るはずです」

 

「どうやって知ったんだ?

南工場から連絡があったのか?」

 

 

「はい。

僕が電話に出てよかったです。

あの時、課長もD先輩も事務所にいましたから。

バレずに済んでよかったです」

 

 

「え...。

もしかしてチャンミン、皆に知られずにうまいことやろうとしてた訳?」

 

 

「当然ですよ。

配送違いなんて、あってはならないことです。

あんなことがあったばかりです。

ユンホさんの立場は、僕が守らなければなりません!」

 

チャンミンは「任せろ」といった感じに、自身の胸を叩いた。

 

真面目にそう言っているようだった。

 

「今回の件が発生してしまった原因を、只今追求中です。

配送業者の管理画面と自社の出荷指示書を照らし合わせていたのです」

 

なるほど。

 

事務所内で俺に声をかけられるのを拒んだり、PCを指さしていたのはこのことか。

 

 

「さっき、俺のバッグを指していたのは、何だったわけ?」

 

 

「あれは、お弁当を食べましたか?の意味です」

 

 

「......」

 

 

「お!

ズボンも乾いたところです。

僕は事務所に戻ります」

 

 

「俺は...?」

 

 

「業務課へ行って、出荷伝票の現物を借りてきてください」

 

 

「わかった」

 

 

「くれぐれも、事務所で広げないように!

資料室か、備品倉庫でやってくださいよ」

 

 

「おっけ」

 

 

大股で食堂を出ようとしたチャンミンの長身が、ぴたり、と止まった。

 

 

「ユンホさん。

僕はユンホさんのミスだとは、決して思ってはいませんから」

 

 

「ああ」

 

 

南を北と間違えるはずはない。

 

 

方向が真逆だし、そもそも北工場に納品したことは、過去に一度もないのだ。

 

 

異常なくらいミスが連発していることにもっと、疑問をもつべきだった。

 

 

犯人捜しは後回しだ。

 

 

今やるべきなのは、この事態を収拾させることだ。

 

 

堅物チャンミンがいるから、心強い。

 

 

大丈夫だ。

 

(つづく)

 

 

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(4)会社員-情熱の残業-

 

 

箸を上げ下げする動作に合わせて、チャンミンの頭が動く。

 

「......」

 

もぐもぐと咀嚼する俺の口を、チャンミンはじぃっと凝視している。

 

「......」

 

ちらりと隣を見ると、お祈りポーズをとるチャンミンと目が合う(何かに集中していると、口がぽかんと開いてしまうのが、チャンミンの癖らしい)。

 

「食べづらいんだけど...?」

 

やんわりとした苦情はチャンミンには通じない。

 

「それ...苦手ですか?

隅によけてますよね?」

 

「んー...苦手...じゃ...ないよ」

 

「嘘はいけませんよ。

明日からそれはナシにします」

 

「え!?

明日も作ってくれるの?」

 

俺たちは夫婦か!?と、心の中で突っ込みを入れてしまったが...。

 

「迷惑ですか...?」

 

チャンミンの表情が、一瞬で泣き出しそうなものになる。

 

「まさか!

感謝カンゲキ雨あられ、だよ」

 

(ウメコ、サンキュー。

 

媚薬の効果が未だ残っているなんて、俺はもう思わない。

 

チャンミンは元から、俺に対して淡い恋愛感情を持っててくれたんだ、そうに違いない!

 

そうじゃなきゃ、とっくに媚薬が消えた今になっても、愛情弁当の差し入れが続くわけない。

 

未だ面と向かって、気持ちの確かめ合いをしていないんだよなぁ。

 

明日当たり、飲みに誘おうかなぁ...おっと!

 

酔いに任せて、は嫌だ、素面じゃなきゃ意味がない。

 

飲み屋は駄目だ...とは言っても、夜はどの店も酒を出すしなぁ。

 

酒が好きそうなチャンミンのことだ、俺の意図など読めずにがぶがぶ飲みそうだ。

 

『ユンホさ~ん、僕、飲みすぎちゃった。てへ。歩けません。どこかで休憩していきませんか?」』とか...っておい!どうして思考がそっちへいってしまうんだ、俺は?

 

そっか!

 

仕事帰りにどこかへ行こうとするから駄目なんだ。

 

もっとプライベートな時間...休日だよ!

 

休みの日にチャンミン会うのはどうだ?

 

...なんて誘ったらいいかな...王道の映画か?

 

男2人並んで座って、ポップコーンを摘まみながら映画鑑賞か...変だよなぁ。

 

待てよ...チャンミンはどんなジャンルが好きなんだろう?

 

イメージ的に、社会派ノンフィクションものの重いやつかなぁ...ラブコメだったら、それはそれで面白いな。

 

『ユンホさん、僕とこんな恋をしてみませんか?』って、耳元で囁いて手を握ってさ...)

 

想像が膨らんでしまい、つい箸が止まってしまっていた。

 

「...ユンホさん?」

 

「あまりに美味くて、さ」

 

「好き嫌いは駄目、とは言いませんから。

僕らは大人です。

好きなものだけ美味しく食べましょう」

 

「そうだな」

 

「炒り卵...タラコを入れてみたんです...どうですか?」

 

「うん、美味い」

 

「鶏そぼろに隠し味が入っているんです。

何だと思います?」

 

「さあ...なんだろ...マヨネーズ?」

 

「違います!

もっとよく味わってみてください」

 

「んー...美味い、としか言えないなぁ。

...ん?」

 

口角が思いっきり下がり、眉間にしわがよってるから、どうやら俺のコメントがお気に召さなかったらしい。

 

つまり、具体的な褒め感想を待っているのか。

 

俺は目を閉じ深く頷きながら「美味い」と言った。

 

「冷めても美味いように、味付けもしっかりしてる。

箸休めのレンコンの甘酢漬けもシャキシャキとした歯触りがいいね。

枝豆の茹で加減もちょうどいい。

飯の間にごま油を塗った海苔が挟んであるのも、味の変化になって食べ飽きないな」

 

本気でコメントをしてみたら、チャンミンは揃えた指で口を覆い、目を真ん丸にしている。

 

「よかった...です」

 

俺こそ「よかった」だよ...脳みそ総動員の感想に、合格スタンプをもらえて。

 

「嬉しいです...。

明日も頑張ります」

 

チャンミンは両手で頬を挟んで、身をくねくねとよじる(か、可愛い)。

 

チャンミンに監視されながらの息詰まるランチタイムを終えた。

 

「俺に伝言って何?」と、チャンミンが食堂まで俺を追ってきた目的を尋ねた。

 

「はい。

僕はサボりたくてここにいるわけじゃありません」

 

チャンミンは、前髪の分け目を撫でつけ整える。

 

よく見るといい男なのになぁ...。

 

眉毛はきりっとしているし、鼻筋も通っている。

 

ヘアスタイルが全てをマイナスに転落させている。

 

その方がいいか...普通っぽくなったら、実はいい男だってことがバレてしまう。

 

ダサくしてろよ、チャンミン。

 

「いいニュースと、悪いニュースと二つあります。

どちらから聞きます?」

 

「いいニュース」と俺は即答した。

 

「ええぇっ!?

悪いニュースから聞かないんですか?」

 

「お楽しみは後に残しとく派か、チャンミン?」

 

「...そ、そうかもしれません」

 

「俺はいいことは先に楽しみたい

いいニュースを教えてくれ」

 

「......」

 

「どうした、チャンミン?」

 

「一般的に言って『悪いニュース』を先にききたがるものでしょう?

ユンホさん、予定外の回答をしないでください」

 

「二択にしたのはチャンミンだろう?

いいニュースって、なに?」

 

「そうでした。

自分から言っておいて今さらですが。

いいニュースだと判断したのは、僕ですので、ユンホさんにとっていいニュースとは限らないわけです。ユンホさんにお弁当を褒めてもらって嬉しくてつい、調子にのってしまいました。あの...もしご迷惑でなければ、僕はいくらでもお弁当を作ります。面倒じゃないです。どうせ自分のものも詰めますので、そのついでです。あ、違います。ユンホさんのがついでという意味じゃなくて、僕の分はユンホさんのお弁当の残りを詰めているので。お弁当箱どうですか?苺柄が可愛くて昨日仕事帰りに買ったんです。お揃いでお弁当包みも買いました。明るい気分になってもらいたくて。苺柄にしたのには深い意味はありません。嘘です。深い意味はあったんです。でもそれは恥ずかしいので今は言えません。もし聞きたければ、教えてあげますけど、ユンホさんが引くかもしれないって、ちょっと不安です。お弁当の話じゃないですよね。いいニュースと悪いニュースの話でしたね。いいニュースとは僕にとってのいいニュースです。ユンホさんに伝えた時点ではよいニュースではないのですが、ユンホさんの返事次第ではいいニュースになるわけです。いいニュースの『いい』は僕視点のことですので、すみません...変なこと言ってすみません。ですから、さっきの僕の発言は忘れてもらいたいです...と言っても、ユンホさんのことだから、そういう訳にはいきませんよね。ここまで引っ張っておいて、今さら無しにはできないってことは承知しています。でも、急に恥ずかしくなってしまって、さっきの発言は忘れていただきたく...。

休憩中のユンホさんの貴重なお時間を割いてしまい、申し訳ありません。

でも、事務所では言いにくくて、ここまで追いかけてしまいました。

えっと...」

 

チャンミンは腿に握りしめた手を乗せ、床に視線を落として一気に、ぼそぼそと早口でしゃべっている。

 

「ごちゃごちゃ言ってないで、早く言えったら」

 

「勤務時間中に言うべきではない内容でした」

 

「余計に聞きたくなってくるじゃないか」

 

チャンミンの言う「いいニュース」の見当がつかない。

 

プライベート面での接触は未だない俺たちだから、仕事関係のことかな、と思った。

 

新提案する予定の商品企画が通ったのかなぁ...それとも、足を引っ張るだけだった後輩Z君が初めて注文をとってきたとかかな、それとも...といいニュースの候補を巡らせた。

 

「仕事の話じゃ...ないのです...」

 

「へ?」

 

 

(つづく)

 

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(3)会社員-情熱の残業-

 

 

いい線までいっていたのに、価格面で折り合いがつかず、ご破算になりそうな商談だった。

 

近頃、仕事がうまくいっていないだけに、小さな失敗が大きな挫折に思えてしまう。

 

「はあぁ...」

 

昼飯を食べる気にもならず、チャンミン製の弁当が入ったバッグが重い。

 

ピクニック弁当以来、サイズダウンを重ねた結果、4日目でやっとで適量の弁当を詰められるようになったチャンミン。

 

お前は俺のおかんか嫁さんか?

 

甲斐甲斐しいチャンミンにウケるし、同時に彼のことが可愛らしくて仕方がない(男相手にこんなことを言ったらどうかと思うが...すまん、チャンミン)。

 

オフィスのデスクで弁当でも食おうかと、午後3時だが早々と帰社することにした。

 

チャンミンにも会えるし...と、腐った気分も多少は晴れた。

 

やっぱり俺は、チャンミンに参ってる。

 

 

エレベーターに乗り込み、「閉」ボタンを押した直後、「待ってください!」の声に慌てて扉を押さえた。

 

「すみませんっ!」

 

息せき切って駆け込んできたのは同課のA子で、俺は心中で顔をしかめた。

 

俺はどうも、彼女が苦手なのだ。

 

「ユンホさん...今日は帰りが早いですねー?」

 

語尾を無意味に伸ばすのがA子の癖で、媚びるように俺を見上げている。

 

「仕上げたい書類仕事が待ってるんだ」

 

ヤル気が削がれて、早々に仕事を切り上げてきたと言えなかったのは、男のプライドが邪魔をしたから。

 

苦手であってもA子は女、見栄を張りたいのだ。

 

「私、ユンホさんとB社に謝りに行ったじゃないですかー」

 

「そうだったね。

あの時は助かったよ」

 

俺がしでかした最近のトラブルというのが、こうだ。

 

仕様変更の伝達なら半年前に済ませてあると、前任者から引き継いだ得意先だった。

 

ところが、先方は「聞いていない」の一点張りで、確かに送付してあるはずの控えがなかった。

 

チャンミンが半日かけて、1年前まで遡って発行済書類のpdfを、サーバー内中検索してくれたが、ないものはなかった。

 

つまり、仕様変更の告知を「していなかった」のだ。

 

前任者のポカとは言え、引き継いだのは俺、念をおしていなかった俺に非がある。

 

頭数は多い方がよいとの判断で、俺と営業部長、それからA子と3人連れだって謝罪に出向いたのだ。

 

頭を下げに下げ、向こう3か月分のリベートを多く支払うことで許してもらったのだ。

 

「あの時、3人でランチ食べたじゃないですかー。

仕事中ですよって私―、言ったのにー、部長ったらビール飲みましたよねー」

 

「しー!」

 

途中の階で乗り込んできた者の耳が気になって、A子の腕をつかんで制した。

 

「キャッ」と大袈裟に悲鳴をあげるA子に、勘弁してくれと嫌になる。

 

「悪い」

 

なんでもかんでも、無神経にデカい声でしゃべるA子にヒヤヒヤしていたんだ。

 

目的階に到着し、密室から解放された俺はどっと疲れが出た。

 

オフィスの空気が、清々しく新鮮に感じてしまうくらい、A子の香りはきつかった。

 

「ユンホさん!」

 

後を追うA子を無視して、早歩きでオフィスへ向かう。

 

PCディスプレイの上から、丸い頭がぴょこんと出ている。

 

チャンミンだ。

 

気配に気付いてチャンミンが事務椅子から腰を浮かせ、ぱっと顔を輝かせた。

 

ところが、俺の背後にA子を認めて、瞬時にその顔を曇らせた。

 

表情豊かになったことも、目に見えた変化のひとつだ。

 

デスクで弁当を広げようかと思ったが、A子を始めとする女性社員の目が気になった。

 

食堂で食べよう...デスクに置いたバッグを再び抱えて、立ち上がった。

 

「ん?」

 

もの言いたげにチャンミンが、俺に視線を送っている。

 

眉を上げたり下げたり、俺のバッグを指さしたり、PCに顎をしゃくったり、口をパクパクさせている。

 

言いたいことがあれば、こっちまで来ればいいのに...チャンミンが来ないのなら、と近づこうとすると、「あっち行け」とばりに手を振る。

 

意味不明なチャンミンは放っておくことにした。

 

昼休憩どきを過ぎた食堂は閑散としていて、テレビの真正面の特等席につく。

 

「おっと...」

 

バッグから弁当を出しかけて、危なかった...イチゴ柄プリントの弁当包みは、かなり恥ずかしい。

 

バッグの中で包みをほどいたものを、テーブルに置く。

 

チャンミン...お前という奴は...。

 

俺のために新調した弁当箱なのだろうか、真新しいそれはイチゴ柄で、古びた食堂テーブルの上ではピカピカと目立っている。

 

なぜイチゴ攻めなのか理解に苦しむ。

 

お手拭きが添えられていて、神経が行き届いている。

 

チャンミンよ、お前はいい嫁さんになれるよ。

 

(『いやん、ユンホさんったらぁ、僕、男だからお嫁さんにはなれません』って、案外喜んだりして...って、おい!)

 

「わっ!」

 

蓋を開けた途端、俺はそれを閉じた。

 

キョロキョロと周りを見渡して、皆思い思いにテレビやスマホに集中しているのを確認して、ホッとした。

 

「ユンホさん」

 

「わっ!」

 

耳元から当人の声が降ってきて、俺は再び飛び上がる羽目になった。

 

けたたましい音をたてて、プラスチック製の湯飲みが床に転がった。

 

俺のために茶を汲んだチャンミンが、背後に立って俺を呼んだだけのこと。

 

チャンミンが手にした湯飲み茶わんに、俺のひじが当っただけのこと。

 

チャンミン弁当に驚いてたところに、ご当人の登場にビックリ仰天してしまったのだ。

 

「びっくりした!

チャンミン、何?」

 

「びっくりしたのは僕の方です!」

 

チャンミンはテーブルの下に転がった茶碗を拾いあげると、ふんと鼻をならした。

 

「チャンミン...今すぐ事務所に戻るのはよした方がいい」

 

「どうしてですか?

僕はここでサボるために来たのではありません。

ユンホさんに伝言があったのと、手洗いに立っただけです」

 

「まあまあ、いいからしばらくここで休んでいけ」

 

「何でですか?」

 

「そのまま帰ったら、セクハラととられかねないぞ?」

 

「セクハラ!?

僕が!?」

 

「だからぁ、座ってろ!」

 

椅子を倒す勢いで立ち上がったチャンミンの手を引いて、座らせる。

 

「お漏らししたんだと勘違いされるぞ?」

 

「あー!!」

 

ぶちまけたお茶が、チャンミンの股間から腿にかけて染みを作っていた。

 

「腹を壊して便所に籠っていたことにすればいい。

俺が食う間、ここにいな。

そのうち乾くだろう」

 

「あの...ユンホさん」

 

「?」

 

「手を...放してください...」

 

「悪い!」

 

チャンミンを座らせようとつかんだ手が、そのままだった。

 

「お昼を食べる間もないくらい、忙しかったんですね。

お疲れ様です」

 

チャンミンはぽりぽりと鼻の頭をかいている(か、可愛い)。

 

「今日はイマイチでね。

飯どころじゃなかったわけ」

 

開けかけた蓋をまた閉めてしまった理由は、新婚さんも真っ青なLOVE弁当だったから。

 

「チャンミンの愛情弁当でも食って、元気をだそうかなぁ...って?」

 

『愛情』という言葉を忍ばせて、さりげなくチャンミンの気持ちを探ってみた。

 

あり?

 

ゴシゴシとスラックスを拭くのに必死なチャンミンは、聞いていなかったらしい。

 

タイミング悪いなぁ、と俺だけが恥ずかしくなって、チャンミン弁当に取り掛かることにした。

 

いり卵をぎっしり敷き詰めた上に、ハート型のそぼろひき肉(ご丁寧に、枝豆で縁取りがしてある)。

 

まったく。

 

新婚さんも真っ青だよ。

 

ウキウキ鼻歌を歌いながら、弁当を詰めるチャンミンを想像すると、ぞくぞくと喜びが湧いてくる。

 

チャンミンの気持ちを未だ確かめていないと、ウメコにはボヤいていたが、チャンミン弁当を見れば、彼の想いが十分伝わってきた。

 

俺たちは、素面で「好き」が言い出せずに、モジモジしている30男。

 

チャンミンにあらためて、「好きだ」と伝えないとな。

 

 

(つづく)

 

 

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(2)会社員 -情熱の残業-

 

結論として、俺とチャンミンとの関係は急激に変わってはいない。

 

強いて言えば、チャンミンが人懐っこくなった。

 

ただし、俺限定。

 

他の課員に対してはいつものごとく、無駄口はたたかず、真面目一徹、七三分けのヘアスタイルと就職活動中の学生みたいなスーツに身を包んでいる。

 

人目がある時はいつも通りだが、俺と2人きりになる時になると、少しだけ固い雰囲気が柔らかくなる...ような気がする。

 

「ユンホさん、凄いです!

3日連続でミス無しでしたね」

 

「まあな」と、チャンミンに褒められて得意げになっていると、

 

「ユンホさんも学習するんですね」と、失礼なことを言う。

 

俺を褒めることなんて...媚薬の夜以外ではあり得なかったから、チャンミンにも変化はあったと見なしていいだろう(ポジティブシンキング)。

 

チャンミンに見積書の作成を依頼し、帰社した時には仕上がっているのはいつもの通り。

 

ところが、書類と一緒に「お疲れ様です」の付箋とチョコレートが添えられてあったりして、「お前は女子か!」と突っ込みながらも、ほっこりするのだ。

 

惚れるしかないだろ(もう惚れてるけど)。

 

もの凄い勢いでキーボードを叩くチャンミンの後ろ姿を振り返ると、その両耳が真っ赤になっていて、すげえ可愛い。

 

「はっきりしないって、どういうことよ?

まさかあの後、そのまんまチャンミン君を放置、ってことないでしょうね?」

 

「放置って?」

 

「お互い告白し合ったんでしょう?

ユノが『好きだ』と告白したのは惚れ薬によるものだって、チャンミン君は思い込んでいるのよ。

『惚れ薬のせいじゃない、俺の“好きだ”はホンモノだ!』って、念をおさなきゃ」

 

ウメコとは長い付き合いだ、カッコつけても仕方がない。

 

「恥ずかしい...」

 

「ユノったらぁ。

火がついたら押せ押せのユノはどこいっちゃったの?

ベッドに連れ込むまでのスピードは、仲間内ではナンバーワンなのに」

 

「アホか!

相手の気持ちをちゃんと確かめてからヤッてるよ!」

 

「そうなのよねぇ。

相手の気持ちを確かめるまでに時間がかかるのよね、あなたは」

 

「まあな」

 

「まさかユノ!

チャンミン君の反応を待ってるだけじゃないでしょうね?」

 

「うーん...そうなのかなぁ」

 

これまで何人かの女性と恋愛関係になった経験はある。

 

モテなかったと謙遜するつもりはない。

 

密かに俺に片想いしていた子がいたかどうかは分からない。

 

「好きです」と告白されて初めて、彼女たちの恋心に気付いたことが多々ある。

 

はっきり言ってくれなきゃ、それに気付けずにいる鈍感さが俺にはある。

 

確かに、チャンミンからストレートに「好きだ」と言われはしたが、それはあくまでも『媚薬』によって突き動かされたもの。

 

淡い憧れに過ぎなかったものが、『媚薬』で増幅されたに過ぎないのだ。

 

素面になったチャンミンの、現在の本心を確かめられずにいる俺は臆病者なのだ。

 

「でもさ、今の俺はそれどころじゃないわけ。

うまくいっていないんだよなぁ...」

 

「また仕事?」

 

「そう。

失敗続きなんだよ。

うまく立ち回っているつもりが、抜けが多くって。

はぁ...」

 

チャンミンの鉄壁のチェック体制をすり抜けた細かなミスが、毎日のように湧いてきて、その後処理に奔走していた。

 

チャンミンに抜けがあったとは全く考えていない。

 

多分、チャンミンに恋煩いの俺は、どこか上の空で適当な仕事をしているのだろう。

 

ミスが多すぎて、チャンミンでもカバーできないのだ。

 

営業成績がよいのも、縁の下の力持ちなチャンミンの支えがあってこそのものだったんだろうな、きっと。

 

カウンターに片頬をくっつけて、俺は目をつむる。

 

疲労が溜まっていた。

 

「あの時の媚薬...もう一回飲む?」

 

「はあ?

とっくにチャンミンが好きな俺が飲んだって、意味ないじゃん」

 

「1リットルくらい飲むのよ」

 

「俺を殺す気か!?」

 

熱にうかされた目でかっかと身体を熱くさせて、服を脱ぎだしたチャンミンの姿が頭に浮かぶ。

 

ショットグラス1杯であんな風になるんだから、1リットルも飲み干したら俺は死んでしまう!

 

「チャミ愛が暴発してさ、オフィスの中なのに押し倒しちゃってさ。

ズボンを引きずり下ろして、いきなりヤッちゃうの。

『チャンミンが好きだ好きだ好きだ好きだ好きだ!!』って」

 

「それじゃあ、強姦じゃないかよ!」

 

「チャンミン君なんて、

『いやん、ユンホさん!

僕、初めてなんです!

いやん、激しい!』

ってな感じに」

 

「おい!

チャンミン相手に淫らなことを想像するなって!」

 

俺は耳を塞いで、楽しそうなウメコを睨みつけた。

 

「チャンミン君も『その時』を待ち望んでいるかもよぉ?」

 

「お前の思考はすぐにエロい方に走るんだから。

俺はね、もう薬に頼るのは止めたの。

自力でなんとかする」

 

「ふうん、頑張って」

 

「まずは、仕事の方をなんとかしてからの話だ」

 

「急がなきゃね。

...そうだ!」

 

ウメコは大声と共に手を叩くと、カウンター下から何やら取り出した。

 

角がすりきれて丸くなり、ページが反りかえった薄汚いボロボロの大学ノート。

 

嫌な予感がぷんぷんとする。

 

「ユノにまじないをかけてあげるわね」

 

「やなこった!」

 

学生時代、バイト疲れで試験勉強どころじゃなくて、ウメコに泣きついた俺。

 

『眠くならない呪文』の力を借りたところ、真逆に呪文が効いてしまい3日間眠り込んでしまったという、痛い思いをしたのだ(落第するところだった、全くもう)。

 

「まあまあ、そう言いなさんな。

ユノの恋路を応援してあげる」

 

『恋』のワードに敏感に反応してしまう。

 

「惚れ薬とか、そういうのは御免だからな!」

 

「今回のはそんなんじゃないの。

お疲れユノを元気にしてあげる」

 

「まじないでか?」

 

「長期的な効果は期待できないけど、瞬発的にパワーが出るの。

ここぞというときに、唱えると実力以上のことを成し遂げられるのよ」

 

「実力以上...それって、嘘の姿じゃないか」

 

「言い方が悪かったわ。

ユノの潜在能力を引き出すの」

 

「潜在能力...」

 

「失敗続きの仕事の方も、うまくいっちゃうかもよ」

 

「ホントにそれだけか?

仕事面に役立つだけだよな?」

 

「......」

 

「何黙ってるんだよ?」

 

「...一歩前進したくないの?」

 

「しつこいなぁ。

チャンミンに関しては、自力でなんとかする!」

 

「はいはい、分かりました」

 

ウメコは大学ノートの端を破り取って、その一片を俺の手に握らせた。

 

「あーもーだめだー!って時に、唱えてね」

 

「変なことにならないだろうな?」

 

「栄養ドリンクみたいなものだって思ってくれて結構よ」

 

いくらポジティブな俺でも、現状の仕事っぷりには自信をなくしそうだったから、ウメコを信じてみようと心が動いた。

 

恋愛がらみのシロモノじゃないのなら、許せる。

 

「帰るよ」

 

「もう?」

 

「帰って寝る。

そうだ!

呪文の効き目はどれくらいなんだ?」

 

「6時間くらい」

 

「それっぽっちか?」

 

「それ以上効かせたら、あなた抜け殻になるわよ?」

 

「それは困る」

 

「バイバーイ。

チャンミン君に、また遊びにおいで、って伝えてねぇ」

 

店の外まで見送りに出るなんて、いつにない行動で、俺はすこし嫌な予感がした。

 

 

(つづく)

 

 

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