(43)時の糸

 

 

 

「ユノこそ、こんなところまで何だよ!」

 

「何って、あんたと話がしたくて待ってたんだよ。

いつまでも来ないからさ。

倒れてんじゃないか心配になってさ」

「僕を病人扱いするのはやめて欲しい。

それにここは、関係者以外立ち入り禁止だよ」

チャンミンは、サブリと立ち上がるとTシャツの裾をしぼった。

(あらあら)

 

濡れたTシャツが、チャンミンの肢体に張り付いて 正しい場所にきれいについた筋肉ひとつひとつが、くっきりと浮かび上がっている。

ユノは目の前のチャンミンから目が離せない。

「じろじろ見るなって」

チャンミンは、ユノの視線に気づいて言う。

 

「チャンミン...あんた...。

相変わらず、ええ身体してるなぁ」

「見るなって」

チャンミンの耳は真っ赤になる。

(いちいち照れるとは、可愛い奴だ)

「そんな恰好で寒くないわけ?」

「寒いに決まってるだろ」

「上着はどうしたの?」

「濡れたものを着たら、余計寒くなるからに決まってるだろ!」

チャンミンのもの言いに、ユノはいい加減、腹が立ってきた。

「チャンミン、いい加減にしろ!

何怒ってるんだよ!」

「怒ってなんか...」

「イライラしてるのは確かだろ?」

「......」

ユノに指摘されたチャンミンはハッとした後、険しかった表情を緩めた。

「どうした、チャンミン?」

「......」

「話きいてやるからさ、話してみんさい」

「......」

口をつぐんでしまったチャンミンの顔を、ユノは見た。

「な?」

チャンミンは、覗き込むユノと目を合わせられない。

(だから、それに弱いんだって)

ユノの視線から逃れるように顔をそむけ、チャンミンは唇を噛む。

「分からないんだ」

チャンミンの低くて囁くような声を ユノは初めて聞いた。

「このあたりが...」

チャンミンは、胸元をこぶしで叩く。

「ムカムカするんだ」

「え?

気持ち悪いのか?」

ユノはチャンミンの背中をさすった。

「違うって、比喩だよ比喩」

「なんだ、気持ちのことか」

「僕はちょっと、おかしいんだ。

無性にイライラ、ムカムカするんだ」

「チャンミン...」

もう一度胸をこぶしで叩くと、チャンミンはその手で目を覆ってしまう。

「ごめん、ユノ。

自分の気持ちをコントロールできない。

こんなことは今までなかったのに...」

チャンミンが手で遮ってしまったため、ユノは彼の表情を窺えなくなってしまった。

あたりは相変わらず、サーサーと水が流れ落ちる音が響いている。

壁に取り付けられた蛍光灯だけが、この部屋の唯一の照明だった。

「ごめん...大人気なかった」

その灯りが、色濃い影のコントラストでチャンミンの秀でた額と鼻筋を描いている。

ユノは、鳥肌のたったチャンミンの前腕をさすった。

(可哀そうに。

突然の喜怒哀楽を受け止めきれないんだな)

「嫌なことでもあったのか?」

「嫌なこと?」

チャンミンの頭に、街中で目撃したユノとカイの姿が鮮やかに浮かんだ。

(あの時の...)

昼間、ベンチで一緒にいた二人の光景も思い出した。

(こんなこと、ユノに恥ずかしくて言えるもんか!)

チャンミンは再び黙り込んでしまった。

 

 

(つづく)

 

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(44)時の糸

 

 

 

「チャンミン...」

 

ユノの身体も汗がひいて、冷えてきた。

 

ユノは暑くてコートを脱ぎ捨ててきたことを、後悔していた。

 

冷たい水に浸かったひざ下がじんじんと痛む。

 

ユノは視線を、俯くチャンミンから周囲の光景に移した。

 

(この状況は...あまりにもまずい)

 

「チャンミン!」

 

ユノはチャンミンを小突いた。

 

「まずはここを出よう」

 

「え?」

 

「水遊びするには、季節が悪い。

このままじゃ、二人とも凍死するぞ」

 

しっとりと濡れた長めの前髪の下、すがるような眼をしたチャンミンは、はっとする。

 

「あんたの話はあとで聞いてやるから」

 

ユノは天井や壁、膝まで浸かった水を指さした。

 

「ここから出よう。

俺たちには手に負えない」

 

ユノがチャンミンの手を引いて、入口まで向かおうとした瞬間。

 

「うわぁ!」

「ひゃぁぁ!」

 

頭と肩を叩きつける衝撃が二人を襲った。

 

バスタブをひっくり返したかのような大量の水が、滝のように降り注いできた。

 

「!!!!」

「!!!!」

 

ついで、目の前を黒い物体がかすめたかと思うと、二人の膝近くに水しぶきを上げて落下した。

 

「......」

「......」

 

あまりに突然のことで、ユノとチャンミンは頭を抱えたまま、しばらく身じろぎできずにいた。

 

(おいおいおいおいおい)

 

そしてお互いの顔を無言のまま、見合わせる。

 

「なんなんだよ!」

 

ユノも全身ずぶ濡れで、頭にはりついた髪からぼたぼたと水がしたたり落ちていた。

 

天井と壁との境近くの穴から、今もどうどうと水が放水されている。

 

これまでより、早いペースで水かさが増している。

 

「?」

 

チャンミンは水中を手探りすると、指先に堅いものに触れた。

 

引き上げるとそれは、換気口の鉄製カバーだ。

 

「どこから、こんな大量の水が湧いてくるんだよ!」

 

チャンミンは濡れないよう給水ポンプの上に置いておいたタブレットを、操作し始めた。

 

「どうして早く気付かなかったんだろう」

 

「どうした?」

 

チャンミンは幾ページ分かスクロールした後、目当てのページを見つけた。

 

「ほら、これだよ」

 

チャンミンの長い指が指し示したのは、管理棟の平面図だった。

「それが、何?」

「昼間、Tさんから水圧が弱いって言われたんだ。

僕はてっきり上水のことだと思い込んでた。

でもさ、ドームで散水で使っている水は、上水だけじゃない」

「わかった!

雨水を溜めているやつ!」

「そう、雨水タンク!

管理棟の屋上に並んでいるやつ。

雨水タンクのパイプは、管理棟の壁面を沿って地下のポンプ室に引き込まれている」

チャンミンは画面を管理棟からポンプ室が位置するドーム端まで、画面を移動させた。

冷水のせいで、指先は真っ赤になっている。

「そのパイプは...なるほど!

換気ダクトの上を通っていて...。

調節バルブかパイプが破損してたりしたら...」

「タイムタイム!」

ユノはチャンミンの腕を引っ張る。

「のん気に原因究明なんか、あとにしよう。

あんたの話は、あったかいところで聞くからさ。

早く帰ろう、チャンミン!」

チャンミンは、真っ白な顔をして震えるユノにやっと気づいた。

「ごめん」

ユノとチャンミンは、ざぶざぶと水をかき分け、入口ドアまでのステップを上がる。

ステップも水中に沈んでいる。

「あれ?」

ドアのレバーを手前に引こうとした。

「ドアが開かない」

ユノは片足をドアにかけて、力いっぱい引っ張ろうとしたがびくともしない。

「水圧だ」

「どうすんだよ!

俺たちここから出られないのか?

​おぼれ死ぬのか、凍死するのか?」

ユノの脳裏には、チャンミンと死体となって水中を漂う光景が浮かぶ。

「助けを呼ぼう!」

ユノはリストバンドを操作しかけるが、

「繋がんないじゃん!」

「ここは圏外なんだよ」

「おい!どうすんだよ!」

相変わらず滝のように放水し続ける、換気ダクト口をチャンミンは見やる。

「おい、あんたは頭がいいだろ?

​計算してみな。

タンクの水が全部、この部屋に流れこんで来たら、俺たちの身長を超えるか?」

「うーん...」

「こらこら、考え込むな。

不安になるだろう!」

洋服は、水を吸った重みでずっしりしている。

「密閉された場所じゃないから安心して」

「なんて災難なんだよ。

凍え死ぬなんて、絶対に嫌だからな!」

「ごめん」

じっとしていると凍り付きそうになるため、ユノは水中で足踏みしていた。

「チャンミン!

排水ポンプみたいなのは、この部屋にはないのか?」

「あるよ。

使い物にならないのがね」

「なんで使えないの?」

「ホースがない」

「はぁ?」

「ホースがあったとしても、水を捨てる...」

 

チャンミンは、肩を揺らして大股で壁際まで行った。

「僕は大馬鹿だ!」

足先で、壁沿いの床を探り出した。

「どうした?」

「僕は大馬鹿だ!

とっくの前に気付いてていいはずだったのに!」

「ここから出る方法があるのか?」

「どこかに排水口があるはずなんだ」

チャンミンは、水に浸る前のポンプ室の様子を思い出そうとする。

​「地下室っていうのは、ちゃんと排水ができるようにできているはずなんだ」

水漏れ箇所を探そうと、ひざまずいた時の床はどうだったっけ?

「ユノ!

床と壁の境あたりに排水口があるかもしれないから、冷たくて悪いんだけど、探してくれる?」

「お、おう!」

二人は、あごまで水に浸かりながら、壁に沿って床を手探りしていった。

この間も換気ダクトからは、滝のように水が降り注いでいる。

「ない!」

ユノはかじかんで真っ赤になった手に、ふうふう息を吹きかけた。

体の芯まで冷えて、ぞくぞくと震えがのぼってくる。

はぁはぁと吐くチャンミンの息も白い。

「あ、あるとしたら、こ、ここか?」

ユノは、あごをしゃくって鉄の塊を指す。

震えのせいで、言葉がうまく出てこない。

「発電機だ」

「......」

三辺が各1メートル程の旧式タイプの発電機を、チャンミンはじっくり眺める。

​その7割方は水中に没している。

「停電したときの非常用だろうね」

チャンミンは、発電機のフレームを持って揺すってみるがびくともしない。

(排水口があるのに、役目を果たしていないってことは、これが塞いでるに違いない。

どうしてもっと早く気付かなかったんだろう)

発電機は、壁にぴったりと付けて置かれている。

「僕らでなんとか動かすしかないね。

ユノ、そっち持って」

「......」

「ユノ?」

 

唇まで真っ白にしたユノが、両腕で抱きしめてガタガタと震えていた。

 

「チャ...ミ...ン」

「ユノ!」

チャンミンは、水をかきわけユノの側に駆け寄る。

「さ...さささ...む...い」

歯の根が合わないユノ。

チャンミンは逡巡する間もなく、腕を伸ばした。

「ユノ、こっちにおいで」

 

(つづく)

 

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(42)時の糸

 

 

「参ったな...」

チャンミンは途方にくれていた。

足首まで水に浸かっていた。

サーサーいう音が、コンクリート作りの室内に反響している。

天井から水が落ちてきて、壁にも水が伝っている。

水位は徐々に上がってきており、スニーカーを履いたつま先が冷たさで凍えていた。

タブレット画面を幾ページもスクロールしてみたが、具体的な対処方法を見つけることができない。

(頼りにならないマニュアルだ)

昼間、Tに指摘されてドーム内を巡るパイプやバルブを1つ1つ確認してみたが、そのどれもが異常なしだった。

それならと、ポンプ室に向かったらこの有り様だった。

出勤した時点では、天井から水がしたたり落ちてもいなかったし、こんな風に床が水びたしにもなっていなかった。

チャンミンは、脚立に上って天井を走るパイプの1本1本を、タンクのバルブ1つ1つを丁寧に見たが、そのどれもが水源ではないことを確認できただけだった。

タンクの底に亀裂があるかもしれないと、床に這いつくばってもみた。

(そういえば、音がいつもよりうるさかったような気もする。

苛立ちの原因を追究するのに忙しかったから、気づかなかったのか?

給水パイプのどこかが詰まって、水を送り出す給水タンクに負荷がかかったせいだろうか?

それなら、もっと早い段階で分かるはずだし...)

首をひねっているうちに、天井から滴る水がチャンミンの髪と肩を濡らしていく。

地下にあるポンプ室は、暖房機器もなく、普段からじめじめと冷気が満ちている場所だ。

足元は水に浸かり、雨のように降り注ぐ水でびしょ濡れで凍えそうだった。

チャンミンは、ポンプ室入口のコンクリート製の階段に腰かけた。

階段を2段登った上に、スチール製のドアがある。

(今夜はこのままにしておいて、あとは業者に任せようか)

水かさは、チャンミンのふくらはぎまで到達している。

部屋の片隅でほこりをかぶっていた排水ポンプ見つけて、一瞬、助かったと安堵したが、ポンプに取り付けるホースが見当たらなかった。

役立たずの排水ポンプを、苦々しい気持ちで睨みつける。

「はぁ」

チャンミンは濡れた前髪をかき上げて、濡れて重くなったジャケットを脱いだ。

壁にかかった、気温計を見やる。

薄いTシャツ姿は摂氏7℃にはふさわしくないが、着ている方がかえって冷えてしまう。

(このままじゃ、また風邪をひいてしまう)

「よいしょっと」

両ひざをてこに立ち上がろうとした時、

「!」

ガツンと後頭部を殴られたような衝撃が走る。

勢いで前のめりになったチャンミンは、冷たい水の中に四つん這いになってしまった。

不意打ちと痛みで両手で頭を抱えていると、背後から声がする。

「チャンミン!」

振り向くと、目を真ん丸にしたユノがいた。

 

 

 


 

ドーム内を、チャンミンを探して駆けずり回っていたユノ。

 

「あ!」

 

毎朝チャンミンが、点検のため降りるこのポンプ室のことを思い出した。

案の定、地下へ続くハッチが開いていた。

(やっぱり!)

穿たれた暗くて深い穴の中へと、シンプル極まりない梯子を1段1段下りていくのは、高所恐怖症のユノにとって、勇気のいる行為だった。

(ったく。

こんな穴倉でチャンミンは何やってんだ?)

足が最後の1段から、地面に下り立つと、ユノは緊張と恐怖でガチガチだった身体の力を抜くことができた。

「ふう...」

胸をなでおろす。

「チャンミーン!」

 

ポンプ室までの十数メートルの廊下は、無人だ。

(部屋ん中で、倒れてるんかな?)

四面がコンクリート製の廊下は、壁に設置された小さな電灯だけで薄暗い。

(なんの音だ?)

梯子を下りていく時も気付いていたが、サーサーと雨が本降りの時のような音がしている。

下へほど、その音は大きくなっていった。

「チャンミーン!」

チャンミンを呼ぶ声が、廊下に響く。

(不気味な場所だな)

ポンプ室のスチール製のドアは突き当りだ。

(叫んでも、中には聞こえんか)

錆と塗装のはげが目立つドアのレバーをつかんで、引っ張る。

(開かん!

鍵がかかってるのか!?)

焦ったユノは両手でレバーをつかんで、力いっぱい引っ張った。

(ドアを壊すものがいる!

​クワか?

スコップか?

​幸い、農道具はなんでも揃ってるから助かった!)

 

地上へ引き返そうとしたユノは、はたと気付いた。

(俺は、おバカさんか)

レバーをつかんで押と、重いスチールドアは抵抗もなく開いた。

ほっとしたユノは、ドアをもっと開けようとする。

「ん?」

ガツンと鈍い音がして、何かにつかえてこれ以上開かない。

開いた隙間から中をのぞく。

「チャンミン!」

Tシャツ姿のチャンミンの背中が見える。

頭を抱えながら振り返って、ユノの方を睨みつけていた。

「ごめんごめん!」

慌ててユノはチャンミンの元へ駆け寄るが、すぐに異変に気付いた。

「冷たっ!」

ステップから踏み出した足の冷たさに驚き、周囲を見回した。

(おいおいおいおいおい)

「なんだよ、これは!」

部屋中水浸しだった。

水が天井から落ち、壁を伝っている。

その中で、膝をついたチャンミンは腰まで水に浸かっている。

「なんで?」

「知るかよ!」

差し出したユノの手を、パチンと振り払ったチャンミンはゆらりと立ち上がった。

「ごめんな、痛かったよな?」

後頭部をさするチャンミンを見て、ユノは謝る。

「まさか、あんたがいるとは思わなくてさ」

「......」

(まずいな、まだ怒ってる)

むっつりと背を向けたチャンミンの背中を見て、ユノは不安な気持ちになる。

(喜怒哀楽の「怒」が前面に出ちゃってるなぁ。

​なにか腹が立つきっかけがあったのかなぁ?

​何だろ?)

 

一方チャンミンは、昼間ユノに会ったら謝ろうとした気持ちを忘れてしまっていた。

ユノの顔を見たら、苛立ちの気持ちが湧いてきてしまうのだった。

 

 

 

(つづく)

 

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(41)時の糸

 

 

 

「ありがとう」

チャンミンは、持参してきた水筒から熱いコーヒーをカップに注いでTに手渡す。

「用意がいいね」

「ここのコーヒーは、美味しくないので」

チャンミンは、先日ユノが淹れたいたずらコーヒーのことを思い出していた。

「言えてるね」

電源を入れていない電子タバコを、片手でもてあそびながら、Tは笑った。

「始終止めろって言われてるんだけどね」

Tは、チャンミンの視線の先に気付いて言う。

「知ってるかい?」

「はい?」

「この建物は古いだろ?

元は何に使われていたか、知ってるかい?」

「いえ」

チャンミンは仕事を円滑に進めるためにする調べものへの努力は惜しまないが、仕事場の来歴については興味の対象外だった。

「スポーツ試合やイベントがこの場所で開かれていたんだよ。

それを見るために、何万人もの人がこの場所に集まったんだそうだ」

Tは目を細めて、美味しそうにタバコを吸っている。

「そうなんですか」

チャンミンには、ひとつの大空間にびっしりと人が集まっている様子を想像できない。

「信じられないよな」

(100年前か...自分のことさえ曖昧なのに、100年なんて気が遠くなる)

チャンミンは冷めてしまったコーヒーを飲みながら、地面に投げ出したスニーカーのかかとで、砂利を転がしながら思う。

(僕には今しかない)

「体調はどう?」

「大丈夫です」

「大変だな」

「なんとかやってます」

(大人な人だ。

落ち着いている)

チャンミンは、隣に座るTの精悍で冷静沈着な横顔を、気づかれないよううかがっていた。

(僕も、こんな大人な男になれるだろうか。

無関心ゆえの冷静さではなく、達観したうえでの悠然さでいたい)

「来週、イベントがあるのを聞いてるかい?」

「いえ」

「毎年ここで、ちょっとしたパーティをスタッフでするんだ」

「パーティ?」

「今年は2か月遅れで開催するから...。

去年のパーティの時は...君はまだいなかったね」

チャンミンは、この植物園に勤めるようになった1年前を思い返す。

(どういうきっかけで、ここで働くようになったんだっけ?

​それまでは違うところにいたんだった。

​どうしてここに就職することにしたんだっけ?)

案の定、視界が揺れ始めたため、チャンミンは思考をストップさせた。

「大丈夫かい?」

下を向いて深呼吸をするチャンミンの肩を、Tは叩いた。

「すみません」

「得がたい経験ができるよ」

「そうなんですか?」

「ははは。

Mちゃんとカイ君が中心となって準備してくれるよ」

Tは立ちあがり、ズボンをはたく。

「そろそろ休憩終わりだな。

そうだチャンミン。

水の出が悪いそうだ」

「何か問題でも?」

「スタンドの方。

​あそこは高さがあるからな、水圧が弱いんだ」

「見てみます」

チャンミンも立ち上がり、バッグを背負うと管理棟へ向かって歩き出した。

 

 


 

 

「お疲れ~」

「お疲れ様」

終業後、ユノはエントランスのドアの前に立っていた。

次々と退社するスタッフたちに挨拶しながら、ユノには待っている人がいた。

(あいつ遅いな。

いつもなら真っ先に帰るやつなのに)

18時00分。

(遅い)

管理棟内は静まりかえり、外は真っ暗だ。

暖房のきいてないホールは冷え冷えとしていて、吐く息は白い。

(寒い...)

顎までうずめたマフラーから漂う爽やかな香りから、チャンミンを感じる。

(今日のチャンミンは変だった。

​一昨日の夜の電話といい、今朝の仏頂面といいイラついている。

​ランチの時も、廊下ですれ違った時も、無視しやがって!)

すれ違いになるのを恐れてエントランスで待っていたが、すっかり身体が冷え切ってしまった。

ユノは暖房のきいた事務所で待つことにした。

「チャンミンよ、ちょっと失礼するよ」

チャンミンのロッカーの扉を開けてみると、彼のパックはある。

(帰ってない...。

どこにいるんだ、あいつ。

残業なんかする奴じゃないし...。

熱を出したチャンミンは、ここに寝てたんだったな)

ユノは10日前の夜を思い出しながら、事務所の隅に置かれたソファに横になった。

(お散歩でもしてるんかな。

​昼間さんざん歩きまわってるのに、わざわざ散歩なんかしないか...。

...ん?)

​ひじ掛けにのせてぷらぷらと揺らしていたブーツの動きを止める。

(まさか!)

ユノはがばっと飛び起きる。

(まさか...!?

チャンミン...!)

チャンミンがハウスの中で、うつぶせで倒れている姿がユノの脳裏に浮かぶ。

(大変だ!)

ユノは事務所を飛び出し、ドームに向かって廊下を駆ける。

「チャンミーン!」

(大変だ!)

「チャンミーン!」

彼の名前を大声で呼びながら、回廊を走る。

「チャンミーン!」

白目をむいて血を流すチャンミンを想像する。

(頼む!

チャンミン!

生きていてくれ!)

 

フィールドを突っ切りながら、ハウスを1棟1棟中をのぞいて確認していく。

「いないじゃんか!」

 

ユノは、最後のハウスの扉を叩きつけるように閉める。

 

「チャンミーン!

かくれんぼしてんじゃねーぞ!」

(あいつの担当してるところは、他にどこだっけ?)

「暑い!」

ユノの額からは汗が流れ、駆けまわったせいで着ているコートが暑い。

 

(思いつくところは......あそこだ!)

 

肩に食い込むほど重いバッグを放り出し、コートを脱ぎ捨てると、ユノは再び走りだした。

「チャンミーン!」

(ユノさんに心配かけさせやがって!)

 

(つづく)

 

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(40)時の糸

 

 

ハッチの下から梯子を登って地上に出たチャンミン。

 

目の前にいる二人に、最初は目を丸くして驚いていたが、その二人がユノとカイだと認識すると、一気に仏頂面になる。

「チャ、チャンミン。

...そうか、点検か!」

 

地下にある給水関係の設備へのアクセスは、ハッチから梯子を下りるしかない。

 

ドームでの給水、排水設備管理を担当しているチャンミンは、毎朝ここを出入りしていた。

今日は通院のため遅刻してきたため、点検時間が昼近くになっていた。

「びっくりした」

チャンミンは胸をなでおろすユノを、睨みつけている。

 

「そうだよ。

知ってるだろ?」

「チャンミンさん、おはようございます。

...って時間じゃないか」

チャンミンはカイに挨拶されてちらりと見るだけで、挨拶には応えない。

(お!

無視ですか、チャンミンさん)

今日のカイのファッションは、黒地に蛍光オレンジの転写プリントTシャツとグレーのパンツだ。

 

ユノは相変わらずモノトーンでまとめているが、彼のブーツから赤いソックスがのぞいている。

 

チャンミンは、無地の白Tシャツと、色あせたデニムパンツ、黒一色のスニーカーといった身なりが気になりだした。

 

(自分はなんて、かっこ悪いんだ)

 

ユノとカイが一緒にいるところに居合わせた苛立ちと、野暮ったい恰好をした自分を恥かしく思った。

 

「ユノ!

サボってないで仕事したら?」

 

それだけ言うと、チャンミンはすたすたとフィールドを突っ切っていった。

 

「なんだ、あいつ」

 

カイはあっけにとられた風のユノと、遠ざかるチャンミンを交互に見る。

 

(なるほどね)

 

「チャンミンさんって、あんな人でしたっけ?」

 

可笑しそうに言う。

 

「チャンミンさん、最近おかしいんですよ」

 

「どんな風に?」

 

ユノはバッグをかき回していた手を止めて、カイの方を振り向いた。

 

「ため息ついたり、僕にジュースおごってくれたり」

「そいつは珍しいね」

 

(周りも気付いてきたか...)

「イライラしてるチャンミンさん、初めて見たかも」

「そうかもね」

答えながらユノは一昨日の夜の、チャンミンがかけてきた電話を思い出す。

 

(チャンミンのやつ、機嫌悪かったよな)

 

「カイ君、あげる」

 

「嬉しいっす」

 

ユノからもらったミント・キャンディを、口に放り込んだカイは顔をくしゃくしゃにさせた。

 

「腹減った。

飴程度じゃ、腹はふくれんな」

 

カイはユノのバッグを見て、くすりと笑う。

「でかいバッグですね」

「そうなんだよー。

何から何までいっぱい詰まってるんだ」

 

「よいしょ」っとユノは、バッグを肩にかける。

「ユノさん、もうすぐ昼ごはんですよ」

「やったね」

 

カイはユノと並んで管理棟へ向かいながら思う。

 

(僕らを見た時の、ムッとした態度。

 

​僕のことをまるで無視していた。

チャンミンさんの眼付、あの目の色...。

先週、「恋わずらいっすか?」ときいた時の反応...。

チャンミンさん、分かりやすい人ですね)

 

「カイ君さ、いやらしいこと考えてんのか?」

カイのニヤニヤ顔に気付いて、ユノはふざける。

「そんなとこです」

 

「やれやれ、若者は盛(さか)ってるなぁ」

 

ユノは思う。

 

(チャンミンのやつ、本性出してきたな。

 

混乱してるだろうなぁ。

 

感情を持て余してイライラしてるんだろうなぁ。

週末あたりから、えらい怒ってるみたいだし。

なんでだろ。

可哀そうに、フォローしてやらんとな)

 

 


 

 

チャンミンは、季節を夏冬反転させているハウスの中にいた。

泥に足をとられながら、水稲の長さを測りながら思う。

 

(僕の中にあるものは、『怒り』だ)

 

水稲はまだ背丈が低く、背の高い彼は深く腰をかがめないといけない。

 

(ユノに怒りをぶつけてしまった)

だるくなった腰を叩く。

(大人げなかった)

リストバンドを見ると、既に昼休憩の時間になっていた。

 

(あとで謝ろう)

 

チャンミンはハウスを出ると、管理棟からバッグを取り、再びハウスまで戻る。

 

回廊のベンチで、Mと昼食をとっていたユノが、「おーい」と手を振っていたが、チャンミンは無視してしまった。

ユノの隣がMだったことに、ほっとしているチャンミンだった。

いつものようにドームの壁にもたれて食事をとろうと、ハウスの裏にまわりこむ。

 

「!」

(誰かいる)

「やあ」

 

Tがバツが悪そうに口にくわえていたものを、振って見せた。

 

「どうも」

 

「ここで吸っていたことは内緒にしてくれよ」

 

チャンミンは、Tの手の中の電子タバコを認めると、うなずいた。

 

どうやらTは、全館禁煙のドーム内でこっそりとタバコを吸っていたらしい。

 

「一緒に昼めし、いいかな?

​一人の方がいいなら、遠慮するけど?」

 

「構いません」

 

うなずいたチャンミンを確認すると、Tはチャンミンの隣にどっかと座ったのだった。

 

 

(つづく)

 

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