(39)時の糸

 

 

 

チャンミンは、始業から2時間遅れで出社した。

 

M大学病院で先日と同じ医師の診察を受け、薬を処方してもらったのだ。

渡された処方箋を見ると、薬の種類が変わっていた。

(まあ、いっか)

待ち時間や人ごみに疲れていたチャンミンは、薬のボトルを無造作にバッグに放り込み、職場へと急いだ。

 

 


 

スタッフたちは持ち場についており、事務所にいるのは課長だけだった。

​​

「おはようございます」

​​

ひとり早々と昼食をとっていた課長は、口の中の物を咀嚼しながら、

「やあ、チャンミン君...今朝は病院だったね」

「はい、ご迷惑をおかけしています」

「気にしなくていいんだよ、のんびりやればいい」

課長は頭を下げるチャンミを、まあまあと手で制し、

 

「ひどいのか?」

「はい?」

​​

PCを立ち上げて、業務計画表を確認していたチャンミンは手を止める。

​​

「薬があるので」

​​

「無理はしないように」

​​

「はい」

(注目されるのは苦手だ)

給水ポンプ室のメーターパネルの数値を確認しながら、チャンミンは思う。

​​

(自分の様子をうかがわれたり、心配されるのは、居心地が悪い)

​​

周囲から気遣いの言葉をかけられる対象になっている自分を、かっこ悪いと思っていた。

​​

(周りからどう見られてるなんて、気にもならなかったのに...。

僕のことは、放っておいて欲しい)

診察では、頭痛の原因については「ストレスでしょう」とのことだ。

​​​

「予防薬は欠かさず飲んでください」

​​

(ストレス、と言ったって、何のストレスだよ。

​僕はこんなにマイペースに生きているのに)

モーターの低くうなる音が普段より大きく感じたが、数値は正常だ。

​​​

イラついたチャンミンは、メーターボックスの蓋を荒々しく閉める。

​​​

​コンクリートの階段を上がった先の、重いスチール製ドアを引き、ポンプ室を出ていった。

 


 

 

「ユノさん」

 

「わっ!」

ベンチにごろりと横になっていたユノは、跳ね起きた。

「カイ君か!

びっくりした!」

生垣の陰からひょいと現れたカイは、起き上がったユノの隣にどかりと座る。

カイは半袖Tシャツ姿で、腰に脱いだジャケットの腕を結んでいる。

ドーム屋根からやわらかに降り注ぐ12月の日光が、色素の薄いカイの髪色は金色に透かしている。

「こんなところでさぼってたんですね」

「そんなとこかな」

ユノは作成途中だったタブレットをスリープモードにすると、バッグに押し込んだ。

今日はポカポカと天気が良く、ドームの中は上着が必要ないほど暖かい。

ユノもジャケットを脱いで、枕代わりにしていた。

「いいところですね」

鉄製のガーデンテーブルとベンチが置かれたそこは、ぐるりと生垣で覆われている。

この場所はユノのお気に入りの場所だ。

「わざわざこんな端っこに誰もこないからね」

地面はコンクリート製で、排水、給水、電気系統の点検のため出入りできる鉄製のハッチが並んでいる。

「髪の毛、はねてますよ」

腕を伸ばしてカイは、ユノのはねた髪を優しくなでつけた。

「あ、ありがと」

カイの流れるような動作は、ユノはドキリとする間もないほど自然だ。

ユノはカイが触れたばかりの髪をなでつけながら、

「カイ君さ、モテるでしょ?」

「ハハハっ!

ユノさん、そればっかですね」

カイはぷっと吹き出した。

「手がかかる姉がいるからですかね」

「かまってちゃん、ってこと?」

「そうじゃなくて、おっちょこちょい度が異常なんです。

​それの後始末をしているうちに、身についたというか...」

「ふうん」

ユノもカイも、組んだ腕に頭をあずけてドームの天井を見上げた。

「ユノさんは、付き合ってる人はいないんですか?」

「いたらいいなぁ、とは思うよ」

チャンミンの顔がちらり、とユノの脳裏に浮かぶ。

​(チャンミンと、付き合うことはあり得るのだろうか?)

カイは、ちらりと隣のユノを盗み見る。

男性のものにしてきめ細かい肌や、うっとりと空を見上げる横顔をきれいだと思った。

「ユノさんは、今の髪型似合いますね」

「そう言ってくれると嬉しいわぁ」

「ユノさんの雰囲気に合ってます」

「ありがと。

​これな、自分で切ってんの」

「へぇ...ワイルドですね」

「美容院での会話が面倒なんだよな」

カイは横向きに座りなおす。

「あはは、ユノさんってそんな感じ。

​そうそう!

姉はサロンに勤めてるんですよ」

「お姉さん、美容師か何か?」

「いいえ、エステティシャンです。

​サロンに併設してるエステサロンです。

もしユノさんが、プロに髪を切ってもらいたくなったら、チケットあげますから、いつでも言ってくださいね」

「ありがと」

ユノも横向きに座りなおして、カイの方を向く。

「もっと、男らしくせんと、恋人なんてできんのかな」

カイは口角を上げて笑う。

(笑うとますます、お人形さんみたいやな)

「ユノさんはそのままでいいんです」

可憐で、同時に華やかな笑顔から目が離せないユノ。

「カイ君がそう言ってくれると、お世辞でも嬉しいよ」

カイはユノと目を合わせたまま、小首をかしげてさらに笑顔を深める。

(はぁ、カイ君よ。

その笑顔は反則だよ)

「僕も恋人が欲しいです」

軽くため息をついたカイは、肩をすくめる。

「はぁ?

何言っとんの!」

「女友達はいても、恋人はいないんですよ」

「贅沢な悩みやな!」

ユノはカイの肩を突くと、ケラケラ笑った。

カイは思う。

(ユノさん、今はまだ僕のことを眼中にない感じですね。

​僕は年下過ぎますか?)

「いい天気やなぁ」

「そうですね、眠くなってきますね」

ガタガタと金属音がする。

足元に並んだハッチのひとつがキィと開き、頭がぬっと現れた。

「わっ!」

ユノとカイは大声を出し、飛び上がる。

頭の持ち主は、チャンミンだった。

 

(つづく)

 

 

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(38)時の糸

 

 

 

(どうしよ)

 

Nと別れて、ユノは街をプラプラと歩いていた。

 

チャンミンと楽しく過ごして浮ついていた気持ちが、一気に現実に引き戻されたようだった。

 

「はぁ...」

 

(いつまでチャンミンの側にいられるだろう。

 

チャンミンがずっと、無表情で無感情でいてくれたら、ずっと彼の側にいられたのに。

 

彼と同じ職場にいられなくなることより、もっと怖いことがある。

 

いつかチャンミンが真実を知って、俺のことを嫌いになってしまうかもしれないことだ。

 

チャンミンは俺のことを信じられなくなるだろうな)

 

チャンミンに渡したお土産のことを思う。

 

(ごめんな、チャンミン。

 

俺は出張になんか行っていない。

 

俺はずっと、この街にいたんだよ。

 

あれは、ネット通販したものなんだ。

 

騙してごめんな、チャンミン)

 

チャンミンの真っすぐ澄んだ瞳が、ユノを苦しめる。

 

(よりによって、チャンミンを好きになっちゃうなんて。

面倒なことになるって、分かってたのに!)

 

知らず知らずのうち、ブツブツと独り言をつぶやいていたユノの肩が叩かれる。

 

「わっ!」

 

「ユノさん!」

 

振り向くと、カイのすがすがしい笑顔。

 

「何度も呼んだのに、ユノさん気づかないんだから」

 

「カイ君!」

 

「どんどん歩いていっちゃうから、僕、ずっと追いかけちゃいましたよ」

 

「ごめん、考え事してた」

 

「ユノさん、どっちに向かってます?」

 

「こっち」

 

ユノが方向を指すと、カイはにっこり笑う。

 

「僕と同じですね」

 

カイの笑顔は素直で底抜けに明るい。

 

カイはユノの腕に手を添えると、

 

「せっかくだから、途中まで一緒に歩きましょう」

 

「う、うん」

 

ユノはカイの勢いに断る間もなく、カイと並んで歩くことになった。

 

 

 

 

​「カイ君は買い物中?」

ユノは冷たくなった両手を、コートのポケットに滑り込ませながら、カイの隣を歩く。

(相変わらず、カイ君はお洒落さんだ)

ユノはちらりと、自分の歩調に合わせて歩くカイをちらりと盗み見た。

パーマなのかくせ毛なのか、カールした栗色の髪は柔らかそうで、色白のカイによく似合っている。

 

(ロゴ入りニットなんぞ、普通の人が着たらセンスを疑うけど、カイ君は着こなしてる。

 

やっぱ、スタイルがいいからかなぁ。

 

雰囲気からして、お洒落さんだよなぁ)

「ユノさん!」

腕をつつかれて、ユノは考え事をしていた自分に気づく。

「あー、ごめんごめん。

何だった?」

「ユノさんの質問に答えたんですよ、僕は」

「ごめんな、カイ君!

​買い物でもしてたんかな?」

カイは、一重まぶたの目を細めて笑うと、

「あれぇ?ユノさん、​僕に見惚れちゃってたんですか~?」

「こらこら、カイ君。

お兄さんをからかっちゃいかんよ」

ユノは吹き出すと、カイの腕を小突いた。

(ちょっと前に、同じような会話をチャンミンとしたよな)

「ま、そうかもね。

あんたは、カッコいいシティボーイだ」

「ユノさーん、頼みますよ。

“シティボーイ″だなんて言葉、いつの時代ですかぁ?」

「ははは。

俺はねぇ、古典文学をわりと読んでるんだ」

 

「意外ですね」

 

「だろ?」

「僕はですね、駅に用事があったんです」

「そうなんだ」

「姉がこっちに越してくることになって、そのお迎えなんです」

​「カイ君、お姉さんがいたんだ!」

 

「はい。

ずっと南方に住んでたんです。

向こうに飽きちゃったみたいで、こっちに勤め先見つけたからって、急に」

「へぇ、どんなお姉さん?

似てる?」

「そうですねぇ...。

似てる...方かなぁ」

カイは人差し指をあごに当て、宙を見つめながら言う。

​(お人形さんみたいに、整った顔やな)

「カイ君に似てるなら、美人さんやね。

...っと!」

「おっと、危ないです!」

カイは、ユノの腕を引き寄せる。

ユノの脇すれすれを、電動自転車が走り過ぎた。

「ありがとね」

「どういたしまして」

 

カイは車道側に回り込むと、ユノと並んで再び歩き出した。

休日のため人通りが多く、カイはユノの腕に手を添えて、通り過ぎる人と接触しないようさりげなく誘導している。

ユノはカイのとっさに自然と出る、スマートな気遣いに感心した。

 

(俺も男なんだけどなぁ)

「カイ君。

あんた、モテるでしょ?」

「はい?」

ユノの唐突な質問に虚をつかれたカイだったが、

「モテますね」

と、きっぱり答える。

(おー、ストレートに認めちゃうんだ)

カイは肩をすくめた。

「いくらモテても、本命から好かれなくちゃ、意味ありません」

「そりゃそうだ」

ひゅうっと、冷たい風が吹きすさぶ。

「ひゃあ!

寒いな。

そろそろ雪が降るんでないの?」

「ユノさん、温かいものでも飲みませんか?

買ってきますよ」

(カフェでは、アイスコーヒー飲んじゃったからなぁ)

「うん、ありがとうな」

ユノは一瞬迷ったが、カイの好意に甘えることにした。

 

前方のスタンドまで小走りに駆けていくカイの後ろ姿を、眺めながらユノは思う。

(チャンミンは馬鹿でかいが、カイ君もデカい男やな)

「あちち。

はいどうぞ」

熱い飲み物から伝わる紙コップの温かさに、ほっとする。

「勝手にココアにしちゃったんですけど、よかったですか?」

「大好きだよ、ありがとな」

(気の利く男やな。

モテるのも無理はない)

 

温かい飲み物を飲みながら、ユノは感心していた。

コーヒースタンドの脇に二人並んで立っていた。

「姉と会うのは久しぶりなんで、直接迎えに行くんですよ」

​「お姉さん思いな弟だね、あんたは」

「ははは。

​これから一緒に住むことになるんで、うるさく思うかもしれませんね」

「一人暮らしよりは、賑やかでいいんじゃないの?」

「一人暮らしは、寂しいですね、やっぱり。

​そうだ。

ユノさんこそデートの帰りですか?」

ユノはポケットから出した手を振る。

「まっさか!

​友達とお茶してただけ」

 

「ふ~ん、そうですか」

​カイはユノを見つめる。

​ふうふう息をふきかけながら、熱いココアを飲むユノの、サラサラと風に揺れる黒髪を見つめながら、カイは思う。

(ユノさん、気づいてますか?

気づいてないですよね。

 

​僕は、ユノさんのことが気になってるんですよ)

 

(つづく)

 

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(37)時の糸

 

 

 

~チャンミン~

 

僕は6時に起床する。

仕事がある日もない日も、それは変わらない。

​乱れた布団を整えたら、家じゅうのブラインドを開ける(寝室とリビングの2部屋だけど)

シャワーを浴びて、着替えたら朝食だ。

僕にとって食事とは、栄養補給に過ぎない。

カロリーも栄養も一度に摂取できる、オールインワン・ドリンクに頼っているが、今朝は違う。

​昨夜、ユノが出張土産でくれた「天むす」とかいう食べ物を食べる。

ブラックコーヒーと、醤油だれ味がイマイチ合わない気がしないでもないが、あっという間に6個平らげてしまう。

汚れたお皿とマグカップを入れようと、ディッシュウォッシャー機の扉を開けた時、洗浄後の食器が並ぶ様を見て、昨夜のユノと過ごした時を思い出す。

(楽しかったな...)

思わず笑みがもれる。

キッチンカウンターに置かれた真っ白な炊飯器も、大型のオーブンも昨夜のために新調したものだ。

​(本当に楽しかった)

カウンターにもたれて、リビングの窓の外に延々広がる、薄グレーのビル群を見るともなしに眺める。

昨夜のユノとのやりとりを時間を追って思い出しているうち、急に身体が熱くなってきた。

(そうだった...!

​僕は...思わず...ユノに...!)

ユノの感触を思い出しながら、僕は自分の唇を指でなぞる。

(何ことをしでかしてしまったんだ!)

気持ちを切り替えるためには、身体を動かさないと。

クローゼットから専用バッグをとり、髪を整える間もなく、僕はでかけることにしたのだった。

 

 

 

 

休日の午前中はスポーツ・ジムへ出かけることにしている。

​昼食はたいてい、ジムに併設されたカフェテリアでとる。

ジムの後は、食材の買い物しがてら街中を散歩して、帰宅したら気になる書籍をいくつかDLして読書をする。

それから、簡単な夕食をとって、ネット・ニュースをチェックしたり、通販をしたりした後、ベッドに入ってさっさと寝てしまう。

僕はルーティンに忠実に生きてきた。

​他人と比べたこともないし、身近に比べられる誰かもいないけど。

 

おそらく僕はとても退屈で、無趣味で、いつも一人で...。

(そうだ...。

僕は...独りだ)

今朝ほど自分が「独りぼっち」だと、実感したことはないかもしれない。

ユノと過ごした時間と、独りでいる自分を比較するようになったせいだと思う。

 

 

 

ジムでたっぷり汗をかいて、心地よい疲労を感じながらの帰り道。

信号待ちをしていると、彼を見かけた。

片側4車線の大通りの、向こう側にユノがいた。

赤いコートと小さな頭、黒い髪と細くて長い脚...あのシルエットは間違いない、ユノだ。

僕の心拍数は、早くなる。

声をかけたかったが、ユノは通り向こうの遠くにいる。

じりじりと信号が変わるのを待っている間、ユノの姿を見失わないよう目で追っている時、はっとした。

​(隣にいるのは誰だ?)

ユノには連れがいる。

(男だ)

僕の心拍数は、もっと早くなる。

細身の背の高い、若い男。

目をこらして、彼を観察していてようやく気付いた。

​(カイ君!?)

明るい茶色の髪、カラフルな洋服、すらりとしたスタイル...間違いない。

ユノとカイ君は、互いに顔を見合わせて、会話を楽しんでいるように見える。

ユノは...笑顔だ。

胃のあたりが、ギュッと縮んだのが分かった。

(危ない!)

電動自転車が、ユノのすぐ側をかすめるように走り抜ける。

息をのむのと同時に、カイ君がユノの腕を引いて、間一髪接触してしまうのは避けられた。

(よかった...)

ユノはカイ君にお礼を言っているようだ。

ブラウン系でまとめた中に、グリーンのトップスが鮮やかで、カイ君の雰囲気によく似合っている。

反面、僕の黒づくめの地味な装いときたら...。

僕は初めて人の身なりを、自分のと比較していた。

ファッションに無頓着な僕でも、カイ君が洗練されていることが分かる。

今から追いかけても、追いつけないほど、二人は遠ざかってしまった。

信号が青になり、信号待ちの人々は、立ち尽くす僕を邪魔そうに避けながら、ぞろぞろと通り向こうへ歩き出していた。

じっとりと、手のひらに汗をかいていたことに気づく。

僕の顔は固く、強張っていただろう。

昨夜の電話越しに、ユノが会う約束をしていたのは、カイ君だったんだ。

​ユノとカイ君が休日に会うほど親密だったなんて、僕は知らなかった。

 

 

(つづく)

 

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(36)時の糸

 

 

(どうしよ)

 

Nと別れて、ユノは街をプラプラと歩いていた。

 

チャンミンと楽しく過ごして浮ついていた気持ちが、一気に現実に引き戻されたようだった。

 

「はぁ...」

 

(いつまでチャンミンの側にいられるだろう。

チャンミンがずっと、無表情で無感情でいてくれたら、ずっと彼の側にいられたのに。

彼と同じ職場にいられなくなることより、もっと怖いことがある。

いつかチャンミンが真実を知って、俺のことを嫌いになってしまうかもしれないことだ。

チャンミンは俺のことを信じられなくなるだろうな)

 

チャンミンに渡したお土産のことを思う。

 

(ごめんな、チャンミン。

俺は出張になんか行っていない。

俺はずっと、この街にいたんだよ。

あれは、ネット通販したものなんだ。

騙してごめんな、チャンミン)

 

チャンミンの真っすぐ澄んだ瞳が、ユノを苦しめる。

 

(よりによって、チャンミンを好きになっちゃうなんて。

面倒なことになるって、分かってたのに!)

 

知らず知らずのうち、ブツブツと独り言をつぶやいていたユノの肩が叩かれる。

 

「わっ!」

 

「ユノさん!」

 

振り向くと、カイのすがすがしい笑顔。

 

「何度も呼んだのに、ユノさん気づかないんだから」

 

「カイ君!」

 

「どんどん歩いていっちゃうから、僕、ずっと追いかけちゃいましたよ」

 

「ごめん、考え事してた」

 

「ユノさん、どっちに向かってます?」

 

「こっち」

 

ユノが方向を指すと、カイはにっこり笑う。

 

「僕と同じですね」

 

カイの笑顔は素直で底抜けに明るい。

 

カイはユノの腕に手を添えると、

 

「せっかくだから、途中まで一緒に歩きましょう」

 

「う、うん」

 

ユノはカイの勢いに断る間もなく、カイと並んで歩くことになった。

 

 

 

 

​「カイ君は買い物中?」

ユノは冷たくなった両手を、コートのポケットに滑り込ませながら、カイの隣を歩く。

(相変わらず、カイ君はお洒落さんだ)

ユノはちらりと、自分の歩調に合わせて歩くカイをちらりと盗み見た。

パーマなのかくせ毛なのか、カールした栗色の髪は柔らかそうで、色白のカイによく似合っている。

(ロゴ入りニットなんぞ、普通の人が着たらセンスを疑うけど、カイ君は着こなしてる。

やっぱ、スタイルがいいからかなぁ。

雰囲気からして、お洒落さんだよなぁ)

「ユノさん!」

腕をつつかれて、ユノは考え事をしていた自分に気づく。

「あー、ごめんごめん。

何だった?」

「ユノさんの質問に答えたんですよ、僕は」

「ごめんな、カイ君!

​買い物でもしてたんかな?」

カイは、一重まぶたの目を細めて笑うと、

「あれぇ?ユノさん、​僕に見惚れちゃってたんですか~?」

「こらこら、カイ君。

お兄さんをからかっちゃいかんよ」

ユノは吹き出すと、カイの腕を小突いた。

(ちょっと前に、同じような会話をチャンミンとしたよな)

「ま、そうかもね。

あんたは、カッコいいシティボーイだ」

「ユノさーん、頼みますよ。

“シティボーイ″だなんて言葉、いつの時代ですかぁ?」

「ははは。

俺はねぇ、古典文学をわりと読んでるんだ」

 

「意外ですね」

 

「だろ?」

「僕はですね、駅に用事があったんです」

「そうなんだ」

「姉がこっちに越してくることになって、そのお迎えなんです」

​「カイ君、お姉さんがいたんだ!」

 

「はい。

ずっと南方に住んでたんです。

向こうに飽きちゃったみたいで、こっちに勤め先見つけたからって、急に」

「へぇ、どんなお姉さん?

似てる?」

「そうですねぇ...。

似てる...方かなぁ」

カイは人差し指をあごに当て、宙を見つめながら言う。

​(お人形さんみたいに、整った顔やな)

「カイ君に似てるなら、美人さんやね。

...っと!」

「おっと、危ないです!」

カイは、ユノの腕を引き寄せる。

ユノの脇すれすれを、電動自転車が走り過ぎた。

「ありがとね」

「どういたしまして」

 

カイは車道側に回り込むと、ユノと並んで再び歩き出した。

休日のため人通りが多く、カイはユノの腕に手を添えて、通り過ぎる人と接触しないようさりげなく誘導している。

ユノはカイのとっさに自然と出る、スマートな気遣いに感心した。

 

(俺も男なんだけどなぁ)

「カイ君。

あんた、モテるでしょ?」

「はい?」

ユノの唐突な質問に虚をつかれたカイだったが、

「モテますね」

と、きっぱり答える。

(おー、ストレートに認めちゃうんだ)

カイは肩をすくめた。

「いくらモテても、本命から好かれなくちゃ、意味ありません」

「そりゃそうだ」

ひゅうっと、冷たい風が吹きすさぶ。

「ひゃあ!

寒いな。

そろそろ雪が降るんでないの?」

「ユノさん、温かいものでも飲みませんか?

買ってきますよ」

(カフェでは、アイスコーヒー飲んじゃったからなぁ)

「うん、ありがとうな」

ユノは一瞬迷ったが、カイの好意に甘えることにした。

 

前方のスタンドまで小走りに駆けていくカイの後ろ姿を、眺めながらユノは思う。

(チャンミンは馬鹿でかいが、カイ君もデカい男やな)

「あちち。

はいどうぞ」

熱い飲み物から伝わる紙コップの温かさに、ほっとする。

「勝手にココアにしちゃったんですけど、よかったですか?」

「大好きだよ、ありがとな」

(気の利く男やな。

モテるのも無理はない)

 

温かい飲み物を飲みながら、ユノは感心していた。

コーヒースタンドの脇に二人並んで立っていた。

「姉と会うのは久しぶりなんで、直接迎えに行くんですよ」

​「お姉さん思いな弟だね、あんたは」

「ははは。

​これから一緒に住むことになるんで、うるさく思うかもしれませんね」

「一人暮らしよりは、賑やかでいいんじゃないの?」

「一人暮らしは、寂しいですね、やっぱり。

​そうだ。

ユノさんこそデートの帰りですか?」

ユノはポケットから出した手を振る。

「まっさか!

​友達とお茶してただけ」

 

「ふ~ん、そうですか」

​カイはユノを見つめる。

​ふうふう息をふきかけながら、熱いココアを飲むユノの、サラサラと風に揺れる黒髪を見つめながら、カイは思う。

(ユノさん、気づいてますか?

​気づいてないですよね。

​僕は、ユノさんのことが気になってるんですよ)

 

(つづく)

 

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(35)時の糸

 

 

待ち合わせのカフェには、既にNは来ていた。

正面の席に座って、オーダーを済ませる。

「白状しなさい」

単刀直入さは、いかにもNらしい。

Nは30代後半のスレンダー美人で、縁なし眼鏡の下の眼は鋭い。​

「ここだけの話にしてあげるから、正直に言いなさい」

昨夜の電話相手は、Nだ。

Nは鋭い。

​「報告書に書いてないことが、本当はあるんでしょう?」

「うーん...」

「ユノ!」

​テーブルに伏していたユノは、顔を上げる。

「わかったわかった!」

Nににらまれたら、逃げられない。

渋々ユノは、話し出した。

 

 

「彼は...そろそろだと思う」

「予定より、早かったわね。

​頭痛が始まって...半年ほどだっけ?」

ユノは頷く。

「徐々に酷くなっていったでしょう、もたないかと心配してたわ」

​「ふらついてるとこも見かけたし、連れ出さないといけないかと...」

「医療記録を見せてもらったわよ。異常なしだったから安心した。

あなた、どんな口実作って彼を連れて行ったわけ?」

「彼、風邪で熱出してさ、倒れちゃったから、やむを得なく」

ユノは、手首のリストバンドをくるくる回しながら答える。

「薬は飲んでる?」

「彼は...よっぽど頭痛が辛かったみたいだぞ。

​昨日確認したけど、きっちり飲んでた」

「ほら、やっぱりー!

あなた、ゆうべ彼の家にいたでしょう?」

​ユノは慌てて口をおさえる。

「1年の間、きちんきちんと事細かに報告してきたあなたが、急に曖昧な内容を提出するようになったから、おかしいと思ってたのよ」

「...彼の、変わりように驚いただけだよ」

「ふふふ、あれが本来の彼の姿だからね。

どう、彼は?」

ユノは空になったグラスの中の氷を、ストローでかき回す。

「なかなか興味深い人格だと思うよ」

「そんなこと聞きたいんじゃないわよ」

Nは眼鏡を押し上げ、ユノを上目遣いで見る。

「いつの間に、彼の家を出入りするような関係になっちゃったの?」

「そんなんじゃないって!

彼から食事を誘われて...」

「まぁ!

彼ったら、そんなことまでするようになったんだ!」

「早いだろ?」

「確かに、平均より少し早いわね。

条件がいいからかしら」

「そうかもね」

「...あなた、彼のことを好きになっちゃったでしょ?」

「ちょっ!」

一気に赤くなったユノの顔を見て、Nはピュゥっと口笛を吹くと、不敵な笑いを浮かべた。

「好きになっちゃう人って多いのよ、ほら、ギャップが大きいでしょ。

​そういうのに萌えちゃうんだなー、大抵」

「そういうもん?」

「あなたが担当するのは、彼で3人目でしょ?

経験なかっただけのことよ」

「そういうもん?」

「被験者と恋愛するのは自由だけど...いろいろと面倒よ」

「そんなことわかってるよー」

ユノは再びテーブルに伏せる。

「どこかで恨まれることになるんだろ?」

「揺るがない愛に育てればいいことじゃないの」

「Nはどうなのよ?」

「フフフ。

今の夫がそうだもの」

​「えええー!?

そうだったんか!

知らんかった!」

「ユノに初めてカミングアウトしたんだから。

知らなくて当然よ」

「どううまいことやったのさ?」

「おいおいレクチャーしてあげるわよ。

彼がそこまで進んでるのなら、あなたの任務ももう少しね」

​Nの言葉に、ユノはシュンとなる。

「そうなるよねー」

(チャンミンの変化は嬉しい。

でも、彼の感情が豊かになることはイコール、彼の側にいられる時間が短くなることを意味する)

「上にはありのままに報告するのよ!

隠していたって、いつかはバレるんだから」

 

「チャ、チャンミンには?」

「許可が出るまでは、黙ってなさい!」

Nはユノの手の甲をポンポンと叩いた。

「いずれ、彼も知ることになるんだから。

今、教えたりなんかしたら、混乱させて余計に苦しめることになるわよ」

「...そっか。

そうだよなぁ...」

 

 

(つづく)

 

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