(4)時の糸

 

<朝帰り>

 

~ユノ~

 

 

さっきまでは真っ赤な顔をして、眉根を寄せて死にそうな顔をしていたくせに、注射一本で快復しちゃって。

チャンミンは、待合室のベンチの間をジグザグに行ったり来たりしている。

髪の毛はボサボサで、シャツはしわくちゃ。

いつもは、ピシッと隙なくきちんとしている彼なのに。

もの思いにふけっているのかチャンミンは、戻ってきた俺に気づかない。

処方薬のプラスティックボトルの入った紙袋がカサカサ音を立てる。

弱ってるチャンミンが、されるがままのチャンミンを可愛らしいと思った。

普段は、無表情で何を考えているかわからない。

​職場が同じで部署は違うけど事務所は同じだから、毎日チャンミンとは顔を合わす。

彼の仕事ぶりは真面目で、手を抜かず黙々とこなす、といった感じだ。

俺とチャンミンは、ほぼ同時期に約1年前から公営の植物園に勤めている。

人類発展に伴い、繁茂する植物を封じ込めることが難しくなると、人類は都市とその周辺の木々や草花に至るまで、一掃してしまったのだ。

そのため、地面に雑草すら生えていない世の中になってしまった。

 

種の保存の理由から、代表的な植物を、調光と空調を管理したドーム型施設に一同に集め、栽培している。

チャンミンは標本樹の栽培、記録、種子の採取までを担当していて、俺は採取された種子の保管と、資料管理を行っている。

人見知りなチャンミンには、植物相手の仕事はぴったりだと思う。

休憩時間にスタッフたちと集まってお茶を飲んで、おしゃべりをしていても、彼はひとり離れたところにいたりする。

彼の性格を知っているから、スタッフの皆は敢えて声はかけずに、いい意味で放っておいている。

チャンミンは、人と目を合わせるのも苦手らしく、会話をしていても、話す相手の口元をみるのがやっとみたい。

業務連絡のやりとりで言葉は交わすが、それ以外だと、言葉数少なく、「あぁ」とか、「うん」とか、無言とか。

​​

でも、彼はただの人嫌いじゃないと、俺は思う。

こぶしを口元にあてて、微笑している時があるから。

休憩中の輪から離れたところにいても、たまには会話を聞いているみたいだ。

チャンミンはただ、積極的に人付き合いをしようとしないだけ。

根暗な奴だと嫌われそうだけど、そうはなっていないのは、チャンミンの端正な容姿のおかげかもしれない。

チャンミンは、俺より少しだけ年下で、体は大きいのにベビーフェイスなところが、ついついちょっかいを出したくなる。

仕事の合間、日光を透かして白く明るいドーム屋根を見上げるチャンミン。

考え事をしているの?

それとも、無心?

地味な作業着さえクールに着こなしてしまう、手足の長い彼の後姿を、何度も見かけたことがある。

さぁ、早くチャンミンのところへ戻らなくちゃ。​

 

 


 

 

白々と夜が明けようとしていた。

 

​まだ外は薄暗いけれど、空のすそはほのかに白い。

​ユノとチャンミンは、急患用出入口から外へ出ると、肩を並べて歩き出した。

きりっとした冷気が、まだ微熱のあるチャンミンの頬に気持ちよかった。

ユノはコートのポケットに両手を入れて歩きながら、隣のチャンミンに声をかけた。

「熱とだるさは、ただの風邪だってね」

​​

「うん」

チャンミンのあご先は「ゾクっとしたらいけないから」と再び巻かれたユノのマフラーに埋もれている。

「よかったね」

「うん」

「頭痛によく効く薬をもらえてよかったね」

「うん」​

さんざん検査を受けた結果、医師からの説明によると、あっさり異常なしとのことだった。

拍子抜けだったが、チャンミンのバッグの中には、3種類の錠剤が、プラスティックボトルの中で音を立てている。

昨夜の雨でまだ濡れているアスファルト。

シャッターの下ろされた店舗街。

 

煌々と明るいコンビニエンスストア。

まだ暗いオフィスビルのエントランスホール。

ユノが黙ってしまったので、チャンミンは右、左と交互に蹴りだす自分のスニーカーに視線を落とす。

隣には、ユノの頑丈そうな黒い靴。

細身の黒いパンツ。

(スタイルがいいんだな)

視界の左にちらちらする、鮮やかな赤。

赤いダッフルコートはユノによく似合っていた。

(彼は赤が似合う)

マフラーのないむき出しの首は寒々しくて、ほくろがある。

(髪の長さは僕と同じくらいだ)

短い髪から覗く冷気で赤くなった耳朶に、ピアスが2つ。

(ピアスしてるんだ...)

白い肌と濃い黒髪。

(色白なんだな...)

 

赤く色づいたぽってりとした下唇。

 

(柔らかそうだな...)

知らず知らず、チャンミンはユノをじっと観察していた。

(今まで、気づいていなかった。

 

隣を歩くこの人が。

 

どんな服を着ているのか?

 

どんなバッグを持っていて。

 

​どんなヘアスタイルをしていて。

 

どんな横顔をしているのかなんて...)

 

 

 

 

ひょいっと横を向いたユノと、バチっと目が合ってしまった。

 

あからさまにビクッとするチャンミンの様子に笑うユノ。

「何だ何だ~?

じろじろと。

​ユノさんがあまりにカッコよくて、見惚れちゃった?」

と、ユノは冗談めかしてこう言った。

 

​すると、ユノと視線を合わせたままチャンミンは答える。

「うん」

「は?」

片足を踏み出したままのポーズで、ユノは一時停止してしまった。

チャンミンも立ち止まる。

黒づくめのファッションに、ふわふわしたマフラーを巻いているチャンミン。

乱れた前髪のひと房が、片目にかかっている。

チャンミンの瞳はしんと澄んでいて、まっすぐユノに視点を結んでいる。

笑いもせず、かといって無表情でもないチャンミンの今の顔。

(かあぁぁぁぁ...!)

自分の顔にみるみる血が上って、耳まで赤くなっていくのがユノには分かった。

「?」

チャンミンは口をぽかんと開けて固まっているユノを、不思議そうに見つめる。

「顔が真っ赤だよ。

ユノも風邪?」

 


 

 

~ユノ~

 

 

びっくりしたよ。

普通っぽくさらりと言うんだもの。

おそらくあの時のチャンミンには、照れも恥ずかしさもなかったのだろう。

思ったままを素直に口に出しただけだからね。

でも、なんか...感動したかも。

他人に興味をもたなくて、感情がわかりにくいチャンミンが、あんなこと言うなんて、ね。

俺のこと見てた、なんて。

ドキッとしちゃったじゃん。

これっぽっちで動揺する俺は、お子様か?

 

 

(つづく)

 

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(3)時の糸

 

<午前5時の待合室>

 

 

身体が重く、多少は和らいだとはいえ頭痛はひどく、綿がつまったかのようにぼんやりする。

 

チャンミンに続いて乗り込んだユノは、チャンミンの頭をぐいっと自分の肩に乗せる。

 

「!」

 

「チャンミン、俺にもたれていいよ。

苦しいんだな?

可哀そうに」

 

しばし、身体を硬直させていたチャンミンだったがふぅっと、力を抜いて、ユノに身を預けた。

 

「......」

 

チャンミンのまぶたは半分閉じられて、まなざしはうつろだ。

 

「チャンミン、お前んちはどこ?」

 

「......」

 

ユノはチャンミンに尋ねるが、チャンミンは何も言わない。

 

「えっ!?

寝ちゃった?」

 

(よくある小説じゃあ、酔いつぶれた主人公がいて、それを主人公の片思いの人が、自分の部屋に連れていく。

で、翌朝、主人公は目覚めて、自分が居る場所に気づいてドキドキ。

っていうのがよくあるパターンだったっけ。

俺たちは単なる同僚同士で男同士。

そんなパターンにはなりようはない)

 

ユノはチャンミンの両こめかみに両手を添える。

 

チャンミンはユノの冷たい手が気持ちよくて、なすがままになっていた。

 

ユノの指先は、チャンミンのこめかみの下の血管が、ドクドクと脈打っているのを感じ取っていた。

 

ポーンと電子音がして、

『目的地を教えて下さい』

前座席の背もたれにあるモニターから、音声が流れる。

 

ユノは、ほんの少し逡巡したのち、

「M大学病院へ行ってください」

と、モニターに向かって指示をした。

 

ユノの声をチャンミンは、ユノの肩にもたれた状態で、聞いていた。

 

ユノの髪から、シトラスの香りがした。

 

 


~チャンミン~

​薄黄緑色の壁にかかったディスプレイをぼんやりと眺めながら、僕はベンチに腰かけていた。

風に吹かれて揺れる木々の葉陰からもれる日の光。

 

その光が反射して水面がきらきら光る風景を、ディスプレイは映している。

いまどき樹木や草花が茂る光景は、ほぼ目にすることは出来ない。

かつてそうだったかもしれない緑あふれる景色を、ディスプレイに映し出すことで、この場の陰鬱な空気を和らげようとしているのかもしれない。

どこもかしこも金属や樹脂やコンクリートに覆われていて、清潔に管理されている世の中だ。

唯一、仕事場では植物にたっぷりと触れ合える。

控えめに照明された無人の待合室のベンチに、僕は今座っている。

壁に設置されたデジタル時計は、時刻が5時なのを教えてくれる。

一体、僕はなぜここにいるんだろ?

僕は、一体、何してるんだろう?

昨日の夕方から今までの流れはおぼろげで、あれやこれやで病院のベンチにいることが信じられない気分だ。

ユノは会計だか、処方薬をとりに行っているのかで、ここにいない。

僕はユノを待っている。

なんとなく心細い心情になっている自分に気づく。

日頃、職場では僕にちょっかいを出してきたり、おしゃべりで声が大きいユノのことを、うるさく、うっとおしく感じることも多いのに。

僕は元来人見知りで、誰かと一緒に過ごすより、一人でいることの方を選択する人間だ。

いつごろか分からないけど、淡々と変化のない一日一日を繰り返すのが、僕の精神状態にはいいみたいだ。

感情が大きく起伏することもなければ、心の奥底から何かに対して喜んだり、悲しんだりすることもない。

 

変化は嫌いだ。

真正面から誰かと精神的に、物理的に接触することも避けてきた。

うーん。

変化を嫌って避けているのか、避けてるから変化がないのか...。

何で、こんなこと考えているんだ?

 

でも...、何だろう。

ちょっと前に、胸の奥がが小さくはねた覚えがある。

平坦だった僕の心にパルスが起きたみたいに。

独りベンチに残されて寂しい気持ち、ユノの顔を見てホッとしたい気持ち。

あぁ、もう...。

身体が弱っているせいかなぁ。

​いつだったけ?

タクシーに乗せられて病院に連れていかれて...。

思い出してみる。

ユノは、僕を無理やり病院に連れて行った。

僕が弱ってぐったりとしているのをいいことに、強引に車いすに乗せてしまった。

「大げさ過ぎるよ、ただの風邪なんだから」

と、抵抗してみたけど、

「だーめ!」

​と、ユノは聞く耳持たずで、てきぱきとどこかへ電話をかけ手続きを済ませて、ずんずんと僕の乗る車椅子を押していった。

​診察室で待っていたのは、40代くらいの男性医師だった。

 

青いプラスティックの手袋をはめた手で僕の頭をはさんで、僕の下まぶたを引っ張ったり、ペンライトで照らしたりした。

大の男が、大きく口を開けて喉の奥を見せたりする姿は、間抜けすぎた。

事が大げさになってきていることに、腹がたった。

僕を無理やり病院に連れてきたユノに腹がたった。

気分が悪かったせいもあって、僕はひどく機嫌が悪かった。

医師は看護師にいくつかの指示をすると、デスク上のコンピュータに入力を始めた。

​​

今度は、毛深いごつい腕をした看護師に車椅子を押されて、血液検査、頭部には電極も付けられたし、頭を固定されて大きな機器の中をくぐらされたりした。

検査室から検査室へのはしごには、自分のバッグの他に、僕のバッグとコートも持っての大荷物のユノが付き添ってくれた。

「...ちょっと大げさだよ。

風邪気味で、ここまで検査するかなぁ?」

僕はユノに不満をもらした。

先ほどの医師に打ってもらった注射のおかげで、重だるさも消え、ひどかった頭痛はほぼ消えた。

「ごめん。

高熱で、意識もうろうで、頭が割れそうに痛むみたいですって、大げさに伝えたからかなぁ?」

片目をつむって、両手を合わせてごめんのポーズのユノ。

「でも、本当にそうだったでしょ?」

膝を折って、車いすの僕の目線までしゃがんだユノは、

「よしよし、いい子だぞ、僕ちゃんは。

俺、すごく心配したんだぞ。

これで何ともなかったら安心するから。

もうちょっと我慢してな?」

と、僕の頭をなでた。

「子供扱いするなよ」と、ユノの手を払いのけた。

真正面からユノの黒曜石の瞳にのぞきこまれて、僕の息が止まった。​

​意外に長いまつ毛や、弓形の眉や、すっと刷毛で描いたかのような切れ長のまぶたなどに、僕の視線はロックされたんだった。

 

​そうだ、あの時か?

違う、もうちょっと前だった。

​僕はじっとしていられなくて、立ち上がって待合室に並ぶベンチの間を歩き回った。

事務所で、僕はソファに倒れ込んで・・・。

冷たくて気持ちよかった。

ユノのひんやりとした手。

僕の目を覗き込んだ、暗がりに光る瞳...。

「チャンミーン!お待たせ」

ユノが戻ってきた。​

 

 

(つづく)

 

 

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(2)時の糸

 

<弱った僕>

 

 

深夜2時。

 

ぼそぼそと小声で電話で会話をしているらしい会話が聞こえたような気がして、チャンミンは目を覚ました。

きしむスプリング、ごわごわしたクッション。

コートを着たままだ。

常夜灯の黄色い灯りのみで、部屋は薄暗い。

暖房がきき過ぎていて、汗ばむほどだった。

​(ここは・・・どこだ?)

頭を上げると、ズキンと鋭い痛みがこめかみに走る。

「いてて...」と、思わずこめかみを手のひらで押さえていると、

「チャンミン、起きたの?」

部屋の向こう側から黒い影が近づいてきて、ようやくユノだとわかる。

さっき聞こえた声の主はユノだったらしい。

「......」

(思い出した!

僕は、風邪でふらふらで、雨が降っていて、帰るのを諦めて...)

ユノはソファに座るチャンミンの目線に合わせるようにしゃがむと、チャンミンの額にそっと手を当てた。

ユノの冷たい手が気持ちいい。

「うーん、まだ熱いなぁ。

どう?

​少しは楽になった?」

薄暗い中、ユノの濡れた瞳が光っている。

「......」

現状把握が未だできないチャンミンは、じっとユノと目を合わせるばかり。

黙り込んでいるチャンミンをよそに、ユノは

「起きられる?

歩ける?

家まで送ったげるから、帰ろうか?」

と、優しい声で言った。

 

「うん...」

 

チャンミンはやっとで口がきけて、こっくりうなずいた。

「電気つけるね」

ユノが壁のスイッチを入れると、たちまち部屋のすみずみまで明るくなり、チャンミンはまぶしくてちかちかする目をこする。

事務所の白い天井に、ライトの白い光で目がくらむ。

チャンミンは、急に現実の世界に引きずり戻されたような感覚に襲われた。

「ほら行こう。

ずっとここに居る訳にはいかないからね」

差し伸べられたユノの手を握って、チャンミンはよろめきながら立ち上がる。

「ほら、俺にもたれていいから」

よろめいたチャンミンはユノに支えられ立ち上がった。

バサバサとチャンミンの身体の上にかけられていたものが床に落ちた。

小さな毛布や、ジャンパー、作業着やコート、マフラーやらいろいろ。

「あぁ、それね。

寒かろうと思ってさ。

​もうね、俺、必死だったんだ。

手あたり次第だったわけ」

舌を出してユノは苦笑した。

チャンミンも、クスリと笑ってしまう。

「ちょっとは元気が出てきたみたいだね。

良かった良かった!」

ユノは床に落ちたコートを拾い上げると、素早く羽織り、マフラーをチャンミンの首にぐるりと巻いた。

「えっ?

これ...?」

「俺の。

冷えるといけないから貸したげる」

「うん...」

まだまだ身体がだるく、頭痛も治まっていなかったが、ずいぶん楽になっていた。

「夜中の2時だよぉ。

早く帰ろうか?」

「...うん...」

「俺が送ってってやるからね」

「うん・・・」

ユノは、チャンミンの腕に手を添えて支える。

ユノはチャンミンの脇の下に自身の肩をねじ込んで、腕を首に回して手首をつかんだ。

(全く、世話のやける奴だな)

チャンミンは身体が弱っていたのもあって、いつも以上に無言で、元気な同僚に素直に従っていた。

普段も大抵、ユノがしゃべって、チャンミンは無口で聞き役だ。

パチンとスイッチを切ると、事務所は真っ暗になった。

廊下に、ふらつく長身の男と、それを支える長身の男の影が伸びる。

エントランスのドアを開けると、街頭に照らされ光る濡れたアスファルト。

「雨、あがったみたいだ...。

良かった良かった」

ユノはエントランスのドアを施錠する。

よいしょっとチャンミンを抱えなおしたユノは、雨に濡れた階段へ足を踏み出した。

ユノのブーツに遅れて、チャンミンのスニーカー。

チャンミンは、隣のユノに視線を向けた。

表情は真剣で吐く息は白く、一生懸命な同僚。

そんなユノをどこか新鮮な思いで、まじまじと見つめてしまうチャンミンだった。

はた目には、二人は酔っ払いと、介抱する者に見えるだろう。

時刻は深夜で、通りにはひと一人歩いていない。

二人の足音だけが、周囲に響く。

チャンミンはユノに負担がかからないよう、身体を真っすぐに立て直そうとした。

「まあまあ、無理せんと。

ここは俺に頼りなさい。

さぁ、チャンミン、お前の家はどこ?」

「いや、悪いよ。

タクシーで帰れるから...」

と言いかけたが、

(あ!お金がないんだった!)

と、思い出した。

「えぇっと...悪いんだけど。

タクシー代を貸してくれないかな?」

チャンミンはよろめく足元をこらえながら、ユノの肩から腕を抜いた。

ユノは目を細めて、

「馬鹿者!

病人をほっとけないよ。

よし!

一緒にタクシー乗ろう。​

で、チャンミンちで降ろしたげるからさ」

再びユノは、チャンミンの腕を首にまわし、リストバンドの画面を操作し、タクシーを呼んだ。

タクシーを待つ間、チャンミンはユノに支えられたまま。

ユノは首にまわしたチャンミンの手首をつかんだまま。

二人は無言で立っていた。

冷え冷えとした11月の夜気がユノの頬を赤くさせ、熱にほてるチャンミンは、むしろ心地よいと感じた。

ユノから借りたマフラーのおかげで、首まわりは暖かい。

「えぇっと...。

夜遅くまで...ごめん」

ユノはびっくりした声で、

「気にすんな。

困ってる同僚はほっとけないだろ?」

すーっとタクシーが二人の前に止まった。

「ほら、乗った乗った」

チャンミンは後部座席の背もたれに、ぐったりと身体を預けた。

 

 

(つづく)

 

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(1)時の糸

 

<prologue>

 

 

エントランスのガラス窓越しに、彼は空を見上げる。

 

雨の勢いは、弱まる気配はなかった。

 

​11月の日没は早く、彼はコートの襟元をかき合わせた。

 

吐く息が白い。

「参ったな...」

天気予報をチェックするのを忘れた結果がこれだ。

彼の名前はチャンミン。

 

29歳の青年で、ここで働き始めて1年になる。

植物の世話をする、という静かで寡黙な仕事内容だ。

​おとなしい性格の彼にとって、今の仕事は性に合っていた。

 

​5時には仕事をさっさと切り上げ、夕飯を買い、真っすぐ独り暮らしをしているマンションの部屋に帰る。

夕飯を済ませ、シャワーを浴び、Webニュースをざっと閲覧して、後はベッドに入る。

そんなシンプルなルーティンを繰り返す毎日だった。

しかし、単調な生活も、チャンミンは気に入っていた。

昨日から、風邪をひいたのか、熱っぽく、寒気がした。

 

今日は一日中、ぼんやりとしがちで、同僚に何度も注意され、午後からは頭痛が始まった。

 

あまりにぼんやりとしていて、スマホもタブレットも自宅に忘れてきてしまい、タクシーも呼べない状況だった。

こんな冷たい雨に濡れたら、もっと具合が悪くなりそうだ。

回れ右してオフィスで、雨が止むまで待とうか。

 

熱い珈琲でも飲みながら、オフィスのソファで横になろうか。

 

中には同僚が未だ残っているはずだ。

 

おしゃべりな同僚の話し相手をするには、身体がしんどすぎる。

それとも、雨の中飛び出して、徒歩10分のマンションまで走る。

 

ずぶぬれになるだろうけど、熱いシャワーを浴びて、解熱剤をのんで、毛布にくるまって寝る。

この選択が一番、現実的だ。

ズキズキと頭が痛む。

頭痛持ちのチャンミンにとって、頭痛はいつものことだが、熱のせいかふらふらするのが、不快だった。

(どうしようかなぁ...)

迷った末、チャンミンは、こめかみをもみながら、薄暗い廊下の先に煌々と明るい事務所に向かって歩き出した。

 

 


 

 

暖房が十分すぎるほどきいた事務所に入ると、ふっと身体の緊張がほどけるのが分かる。

 

部屋の端に、ひじ掛けが擦り切れた古びてるけど、大きなソファが置かれている。

目隠し用に3鉢並べたゴムの木の陰から、にゅうっと黒いブーツを履いたままの足が覗いている。

同僚のユノだ。

気配で気づいたのか、細身のパンツを履いたユノは飛び置き、

「あれ~?チャンミンじゃん」

と、驚いた様子。

「もう帰ったんじゃなかったっけ?

忘れ物かい?」

チャンミンは左右に首を振る。

ユノは手にしていたタブレットをサイドテーブルに置くと、チャンミンの目の前に立つ。

ユノは目を細めながら、チャンミンの顔をまじまじと見つめる。

「お前、ほっぺが真っ赤だよ。

大丈夫なのか?」

「いや・・・」

「風邪?」

「多分...」

「いつもの頭痛?」

「それもある」

「そっかぁ、辛そうだね」

そうだ!

風邪薬があったはずだよ」

この間、チャンミンは、無言でぼ~っと立っていただけで、ユノだけがバタバタしていた。

「ほら、ソファに寝ろ」

ユノはチャンミンの手を取りソファに無理やり座らせ、さらに肩に手をかけて横にならせる。

チャンミンの手は熱く、熱がかなり高いのが分かる。

「俺のひざ掛け貸してあげるから」

「コーヒーを淹れようか?

温まるよ」

無理をしても帰宅してしまえばよかったかな、と若干後悔していたが、甲斐甲斐しく世話をするユノに身を任せているチャンミンだった。

「......」

ふらふらするし、もっと熱が上がっているらしい。

「どれどれ」

目をつむっていたチャンミンのひたいに、ひやりと冷たい感触が。

(ああ、気持ちいいなぁ・・・)

素直にチャンミンは、そう思う。

「お前さ、めっちゃ熱いよ。

こりゃあ、39度くらいあるんでないか?」

「......」

「体温計なんてないしなぁ...」

デスクの引き出しをかき回す音がして、ユノはチャンミンの元へ駆け寄った。

「ほら、これ飲んで。

風邪薬」

チャンミンはぐらぐらする頭をこらえて口元に差し出された錠剤を、水なしでゴクリと飲み込む。

​​

目を閉じてひざ掛けにくるまるチャンミンを、ユノはじっと眺める。

チャンミンは肩と背中を丸めて、眉間にしわを寄せている。

「苦しそうだね」

​ひざ掛けが小さいせいか、彼が大きすぎるせいか、チャンミンの腰から下がむき出しで寒々しい。

(これじゃあ、寒いよな...)

(映画なんかじゃ、彼女だか彼だかが毛布にもぐりこんで裸になったりして、体温で温めるってのがパターンだけど。

こいつは男、俺も男。

できるはずがない)

「さて、どうしたものか・・・」

つぶやいて、事務所内をぐるりと見まわす。

「そうだ!」

ユノはラックにかかっていた、作業用のジャンパーを数着外して、チャンミンの上にかけていく。

「課長のやつは、ちょっとおやじ臭いけど、我慢しろよ」

「......」

自分のアイデアに満足したユノ。

給湯室の水切りラックから、チャンミンのマグカップを取り出し、インスタントコーヒーを適当に入れた。

白いマグカップの底に、油性ペンで『チャンミン』とある。

持ち主が分かるよう、本人に無断で書いたからだ。

(これに気づいたチャンミンは、むぅっとした顔をしてたな、そういえば...)

思い出し笑いをしつつ、ユノは電気ポットからお湯を注いで湯気のたつカップをチャンミンの元へ運んだ。

(...寝ちゃってる)

コーヒーのやり場に困って、そのままユノが飲むことにした。

サイドテーブルに置いたままだったタブレットを取り上げ、チャンミンの側に引き寄せたスツールに腰かける。

(チャンミンとまともに話すのって初めてかも...。

ってか、俺一人でしゃべってるんだけど)

ユノがチャンミンと同じ職場で働くようになって約1年だった。

ユノは同僚として毎日チャンミンを見てきたが、半年前ほどから頭痛に悩まされている彼が心配だった。

頭痛に風邪が加わってWパンチだもの。

可哀そうに。

(報告書でも作成するかな)

ユノはアプリを立ち上げ、熱いコーヒーをすすりながら、入力操作を始める。

薬が効いてきたのか、チャンミンは眠り込んでいた。

ひととおり作業を終えて、ユノはリストバンドで時間を確認する。

(はっ!もう9時か!帰らねば!)

すーすーと寝息が聞こえる。

ぐっと集中しててすっかり忘れていた。

ソファにチャンミンを寝かしておいたんだった。

チャンミンの様子を見に行く。

「おーい、チャンミン、寝ちゃった?」

ユノはチャンミンの肩を、軽く揺する。

​「...よね?」

(叩き起こすのも可哀そうだし、

こんなでかいやつ抱えて帰れんしなぁ)

「困ったなぁ、こいつどうしよ」

​ユノは腕組みをして本気で困ってしまったのだった。

 

 

(つづく)

 

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保護中: 虹色病棟

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